高校ぐらい出ないとダメだよ

ものほし晴@藤のよう

前編

 二学期の始業式が終わり、教室に戻る途中、私は列を外れてうわばきを履いたまま学校を出た。

 

 朝の気配が残った住宅街は制服に優しくない。

 マンションの自宅玄関前に着くと、共用部分にある電気メーターとかよくわからない管とかが隠されている大きな扉を開けた。扉の裏の下の方にガムテープが張ってある。それを剥がして鍵を取り出す。もしもの時にと言われてあった。

 自室で着替えたあと、適当なトートバックに財布と……何冊か文庫本を入れた。お父さんの部屋にある、生活費の入った封筒も突っ込む。スニーカーを履いて外に出るとさっきより日差しが強くなっていた。玄関の鍵をしめて、鍵を元通りガムテープで貼りつける。

 駅まで歩いて、上りの終点、池袋まで切符を買った。

 池袋は人間がたくさんいるのに、誰もこちらを見なかった。改札を出て一番最初に目についた派手な看板の漫画喫茶に入ってみる。そこで身分証を求められたので焦ったけど、財布に保険証が入っていて、無事に会員登録ができた。利用時間を聞かれ、一番長く居られる十時間パックと答えると、十六歳未満の方は午後八時以降ご利用できません、と言われてしまい、五時間パックにされた。

 漫画を読もうとしたら、壁にみっちり詰まった背表紙にくらくらして、タイトルもぜんぜん頭に入ってこなかったので、備え付けのパソコンでボーっと動画を眺めた。席に着くまえ紙カップに入れた食べ放題のソフトクリームも食べる気がしなくて、カップの中で溶けてしまった。

 五時間が過ぎても出たくなかったので、延長して八時までそこにいた。会計の時思ったより高額になってまた焦った。

 この街は変な匂いがする。道路はどこもてらてら濡れていて、水たまりが眩しい。たくさんの足が私の両脇を通り過ぎて、ムカデみたいに途切れなかった。

 大きな手のひらが視界に飛び込んできて立ち止まる。背中が固くなった。お父さんかと思ったからだ。


 私の家出はここで終わった。大きな手のひらの持ち主は警官だった。いつの間にか11時を過ぎていて、私は同じ道を何度も行ったり来たりしていたらしく、それを不審に思った警官に呼び止められたのだ。連れていかれた交番にお父さんが呼ばれ、脳天に拳骨が落ちた。お父さんは警官に頭を下げ、私の頭も掴んで下げさせた。私は何も言わなかった。

 もう最寄り駅まで行く電車は終わっていて、行ける駅まで行ったあとは、タクシーに詰め込まれた。お父さんは運転手に行き先を告げると、しばらく黙って、

「おまえのことがわからん」

 と言った。

 胃をぎゅうっと掴まれたような感覚がして、お父さんの顔を見た。その時、今日はじめて何かを「見た」と思った。視界がはっきりした。タクシーの中は暗かったけど、通り過ぎていく街灯がときどきお父さんの顔を照らした。広がった毛穴の凹凸までよく見えた。でも、表情を読み取ることはできなかった。


 私だって、私だって私の事がわからないよ。なんにもわかんない。


 玄関に、履いて帰らなかったはずのローファーと通学カバンが揃えて置いてある。誰かが届けに来てくれたのか、お父さんが持って帰ってきたのか、たぶん、後者だろう。私が朝に消えたから、お父さんは仕事先から学校に呼び出されたのかもしれない。どんなやりとりがあったのか、想像しないようにした。

 お父さんはリビングのソファーに腰かけると、腕を組んで黙り込んだ。私はトートバックから生活費の封筒を取り出してテーブルに置く。

「ごめんなさい。ちょっと使った」

 お父さんは黙ったままだった。私も黙って立っていた。これじゃ怒鳴られるのを待っているみたいだ。

「やる。それで行けばいい」

 やる。言葉の意味がわからなかった。

「……どういう事」

「その金で行きたい所に行ってこい」

「出てけって意味?」

「馬鹿か、帰って来るんだ」

 

 疲れていたけど寝付けなくて、仕方なくパソコンを立ち上げる。起動するまでの間、はからずも私のものになった封筒を覗いてみた。五万三千円と小銭が少し入っている。お父さんはこれで行きたい所に行けと言う。行きたい所なんか、わからない。

 いつから行けばいいんだろう。どこに行けばいいんだろう。考えがあってうわばきのまま家出したんじゃない。本当に何も考えないまま、足が私を学校から追い出したのだ。私の知っているどの場所にも居たくなかった。

 ブラウザを立ち上げて検索ボックスに「島」と入力した。海を越えなきゃいけないような気がして。

 旅行会社の「日本の島たび特集」というサイトが引っかかった。なんだか浮かれている。こういうテンションじゃないはずなんだけど……旅行が楽しみな人みたいじゃん。

 行って帰って来なくちゃいけないから、沖縄とかは無理だった。なんとなく近そうな伊豆諸島に目星をつける。ここからは旅行会社のサイトに頼らない事にした。ツアーとか、パックとか、恥ずかしかった。家出もどきをさせてもらうのにそれにこだわるのも、相当恥ずかしいけど。

 さらに恥ずかしい事に、翌日いてもたってもいられなくなり、リュックに適当に服を詰めて、お父さんが起きる前に家を出てしまった。昨晩調べた乗る船は、二十三時に出航する。



 船着き場で切符を買うときに、中学生が一人で平日に船に乗るのを窓口のおばさんに咎められるかと思ったけど、そんなことは無かった。案外世の中って簡単だ。その時はじめて自分の行動力に驚いた。船の乗り方を調べて、切符を買って、出航の時間が来れば、私は海を渡って知らない島に行けるんだ。頭ではわかっていたけど、ようやく実感した。そういえば一人で池袋から乗り換えたのも初めてだった。すごい。お金があれば、行こうと思えば、どこにでも行けるんだ。

 出航時刻までは時間がありすぎた。売店に売っていた文庫本を買って読み切ってもまだまだ時間は十分あった。船着き場の周りを散歩したり、モノレールに乗って(実はあとでモノレールじゃない事が発覚した)テレビ局があると聞いたことのある駅にも行ってみた。地元や池袋ともまた違って、低い建物が全くない。高層ビルのガラスに反射した空がきれいでずっと見ていたかった。急に昨日まで感じなかった食欲が湧いてきて、レストランに入るのは金銭的にも精神的にも勇気が出ずにコンビニのおにぎりを齧る。日が傾いてきたのを感じて船着き場に戻ると、すでに待合室は人間でごった返していた。

 一番安かったフェリーの二等和室は、だだっ広い空間の床をテープで仕切って、割り当てられたタタミ一畳くらいのスペースで寝る、というものだった。作法がわからずに、指定のスペースに荷物を置いて辺りの様子を窺うと、皆それぞれ荷物を広げて寝床づくりをしたり、酒盛りを始めているおじさんたちまでいる。貸出毛布を配っている人がいて、百円で借りた。受け取ると硬くてずしっと重かった。

 和室内はそこそこスペースが埋まっていたけど、わたしの左隣は壁で、右隣には人がいなくてほっとした。フェリーを探検してみたかったけど、消灯になり気が引けて、やむなく眠ることにした。

 

 背中に熱を感じて目が覚めた。今私の目の前は壁で、背中、つまりさっき確認した右隣には誰もいないはずだった。やっぱり誰かのスペースだったのかな?消灯後に戻ってきたんだろうか?それにしても熱い。というかこれ、ほぼ、密着されている、のかもしれない。触られてる訳じゃないけど異様に近い気がする。確認するのが怖い。すごく寝相の悪い人がここまで転がってきちゃったのかもしれない。起こそうか?起こしてもいいのかな?声を出したら周りも起きちゃわないかな?私にくっついてる人間がどんな人かはわからない。男か女かもわからない。悪い人間じゃないと思う。だってこんなに人間がたくさんいるんだもん。船から逃げる事だってできない。悪い事なんかできるわけない。そう思っても、心臓が激しく脈打って、体がこわばった。もしかして今私、動けないかもしれない。後ろの誰かが動かない事を祈って、朝になるまで我慢しよう……何かあれば、声を上げればいい。大丈夫。

「おねえちゃんトイレ」

 急に肩を揺さぶられて変な声が出た。ちびるかと思った。ちょっと出たかも。

「おかあさんがおねえちゃんについて行ってもらえって」

 子供、子供の声だ。男の子。こわばったままの体を無理やり起こして私の肩を掴んだ男の子を見る。暗くて顔がよくわからない。眼鏡をかけているのはわかった。

 その時私にくっついていたであろう人間が寝返りをする風に離れていった。薄暗いオレンジ色の照明に、だんだん目が慣れてくる。男だ。うつぶせになって顔も年齢もわからないけど、成人に見える。なんとなくぞっとした。

 男の子はこの暗闇で家族と私を間違えたのだろう。「間違えてるよ」と言おうとして、頬をつねられた。

「痛っ」

「おねえちゃん、連れてって」

 甘えた調子で言うのに、よく見ると顔は真剣だった。

 眼鏡の奥でまっすぐ、鋭くこちらを見ている。まるで命令するみたいに。


 私は最下層の二等和室から二階上の自販機コーナーまで引っ張られるがままだった。男の子は自販機の前の椅子に座って背負っていたメッセンジャーバッグを抱え込む。トイレに行くだけにしては大荷物のような気がする。

「狙ってた。あいつ」

 さっきまでの甘えた口調が嘘のような口ぶりだった。

 いくつくらいだろう。小学校高学年くらいだろうか。

「なに?誰?トイレは大丈夫なの?」

「寝ぼけてるの?あそこにいたら危なかったって言ってるの」

 男の子が上目遣いで睨んでくる。

 危なかった。そう聞いた途端、膝がががくがくしだして、立っていられなくなってしまって、男の子の隣に腰掛ける。

「こわかった…」

 自分の肩を抱きながら、無意識に言っていた。そうだ。わからないつもりでいたけど、やっぱりそうだった。この男の子は私を助けてくれたんだ。男の子のため息が聞こえた。

「荷物持ってきてあげるから待ってて。船の人に言ったら席変えてもらえるかもしれない」

「ごめんっ 今ちょっと一人は嫌かも」

 男の子があまりに軽やかに階段を降りて行こうとするから、咄嗟に呼び止めてしまった。私の方が年上なのに、情けない。

「じゃあ、少ししたら一緒に降りよう」

 男の子はまた私の隣に腰掛けた。一挙一動が跳ねるようだ。エネルギーがありあまっているのかもしれない。 

「あ、ありがと」「ごめんね、家族心配するよね」

 私はやっとそれに思い当たる。

「いや、僕は大丈夫。 君は」男の子はそこで一度周りを見渡して「一人なの?」

「うん。 ありがとう、助けてくれて」

「……消灯前に君にくっついて歩いてる男がいて、知り合いじゃなさそうな雰囲気だったから違和感があってさ、ちょっと様子を見てたんだ」

 くっついて歩いてる男!?そんなの気が付かなかった。

「そいつが自分のスペースに戻ったから杞憂かと思ったんだけど、消灯後しばらくして君の隣に移動したから焦って……。早く連れ出そうと思ったら通報の機会を失っちゃった。証拠がないからきっともう捕まえられない」

「捕まえるって……触られてもないし、犯罪とも言い切れないよ」

「は?認識が甘すぎる。あらかじめ狙いをつけてたんだ。触られてないのだって触らなければ言い出しにくいのを見越しての事でしょ!?悪質だ」

 語気を強めてしまった事にハッとした様子で、男の子はこちらから目線を外した。

「子供が一人でいるのは思ったより危ないんだ。警戒しないといけない」「僕だって隣があの男じゃなければきっと気付けなかった」



「私、式根島まで行くんだけど、君は?」

「呆れる……簡単に行き先を喋るなって親に言われなかったの?」 

 心底呆れた様子だった。その後で名前を訊こうとしていたけど、この流れで言えば個人情報は交換しない方がいいのであろう。黙っておくことにする。この子、もしかしなくても私よりしっかりしているのではないか。

「一緒。 式根島で降りる」

 男の子はそう言って俯いてしまった。もう私と話す気もないって事かもしれない。

 目の前がちょうどお菓子の自動販売機だった。財布はポケットに入れてある。助けてくれたお礼に何かお菓子でもおごってあげよう。好みを聞くくらいは許されるだろう……そう思って男の子の顔を覗き込むと、眼鏡がずり落ちそうになっている。寝ていた。

 私もいつの間にか寝てしまって、明け方、大島で下船する人間たちのざわめきで二人とも目が覚めた。

 男の子が顔面蒼白で「ごめん、荷物!」と叫んだので、財布がここにあるからいいよと言って好きなお菓子を聞いてみた。

「のんきすぎる。君」

 希望されたあんぱんを模したチョコ菓子とお茶を買って、二人で二等和室に降りた。

 私のスペースの近くに昨晩の男はいないようだった。それでもやっぱり二等和室に居る気にはなれなかったから、荷物を回収して、式根島に着くまでフェリーを探検することにした。昨日ハッキリとは言われなかったけど、男の子も一人旅のような気がした。探検しようか、と誘うと、「君が足滑らせて落ちたら周りに知らせるくらいはできるよ」などと言うのでさすがに「バカにすんな!」と笑ってしまった。


 フェリーの上から観測する海の質量には少し恐怖を覚えた。海岸ではまだ浅瀬もあるんだろうけど、今この船の下はきっとものすごく深いのだ。落ちたら生きていられる気がしない。高所恐怖症ぎみなのも相まって、あまり手すりに近づかないようにした。

 男の子は怖いもの知らずに海を覗き込んでいる。周りに知らせる役目になるのは私なんじゃないのか。

 はじめて目にした温かい食べ物が出てくる自販機で焼きおにぎりを買ってデッキで朝ごはんにした。男の子もパンを買って食べていた。風が強くてものを食べるのに全く適してなくて、訳もなくおかしくてしょうがなかった。男の子も私につられて笑った。誰かとこんなに笑ったのは両親が離婚してからは一度だってなかった。

 午前八時ごろ、私たちは無事式根島へ上陸を果たした。

「ありがとね、おかげさまで安心できたし、楽しかったよ」

 男の子にお礼を言う。迎えの車で駐車場はあふれていて、男の子の家族もその中にいるのかもしれなかった。もう会う事はないのかもしれないなと思ったら寂しかったけど、旅ってそういうものなのかもしれない。

 男の子は、それまでの穏やかな表情から次第に笑ってるような泣いているような顔になって、

「僕、家出してきたんだ」

 と言った。


 東京湾とは違う匂いの潮風が、彼の背中を押すようにした。

 その後ろで、フェリーは神津島へ向かって離岸したところだった。

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