液晶画面にご用心

こむらさき

疑惑と誤解とすれ違い

「はぁ……やっぱり来ないか」


 携帯端末を見ても相変わらずなんの通知もない。

 最後に連絡が来たのはいつだっけ?先週?なんてことを考えながらうんともすんとも言わない携帯端末をポンとクッションの上に放り投げて溜息を吐いた。


――浮気でもしてるんじゃない?


 昨日のランチで明美から言われたことが脳裏を過る。

 そんなことない。自分に言い聞かせるように呟いて首を左右に振った。


 そういえば、彼の香水が変わった気がする。

 そういえば、彼のSNSで見慣れない店に行くのをよく見る。

 そういえば、彼の服の系統が変わった気がする。


 ううん、疑っていても仕方ない。こういうのは疑い始めたらどんなものでも怪しく見えちゃうって知ってるもん。

 付き合ってもう4年……良くも悪くも慣れてしまった間柄なのかもしれない。でも、彼が浮気をするなんてことは考えられ……いや、結構考えられるかもしれない。


 最後に会った日……多分一か月くらい前。

 久しぶりのデートだった。

 出会った時より垢ぬけてカッコよくなった彼の隣に立っても恥ずかしくないようにと、この日のために買った膝下丈のギンガムチェックスカートを、白のブラウスと合わせて精一杯可愛く大人っぽく見えるように張り切ってた。

 待ち合わせ場所にちょっと早めに着いて、彼はまだ来てないのかなーなんて姿を探していたとき、知らない女の人と親し気に話す彼を見て心臓が止まりそうになった。

 女友達に決まってる。たまたまあっただけだよね?まさかデートのはしごなんてしないよね?と過去にベーシストの彼と付き合っていた時にされたことが脳裏を過って憂鬱になる。


 ちょっと遠回りをして時間を潰して、待ち合わせ時間から少し遅れて再び待ち合わせ場所に来た時、もう彼の隣にいた女はいなくなっていた。

 

結衣ゆいー!久しぶり。飯行こ。俺めっちゃ腹減ってる」


 周りより頭一つ飛びぬけて背が高い彼は、今度は私をすぐに見つけたのか手を振りながらいつもと変わらない笑顔を向けてきた。きっと気のせいだ。あの女の人は友達か何かなんだろうって自分に言い聞かせて私も笑顔を作って彼の隣へと駆けていく。

 そのまま人気のハンバーガーショップに行って、SNSで話題のインド映画をみて、喫茶店にでも行って、私の家にお泊りをして……とデートは終わるはずだった。

 一緒にいた女の人のことも忘れそうになっていたのに……。

 人を疑うと、すべてが疑わしく思えてしまう。


「トイレ」


「ん」


 短く返事をしただけでこっちを見ることもなく携帯端末に何かを打ち込んでいる彼が気になって、つい彼の隣を通り過ぎるときに見てしまったのだ。

 見なければよかった。でも、見なければ私はずっと騙されて都合のいい女のなっていたかもしれない。

 いや、何も問い詰めていないなら結局は騙されている都合のいい女なのかもしれないけど。


 見てしまった彼の携帯端末の画面では「彼女どんな人?」「んー気が強いけどすぐ泣く」「めんどくさくない?」「まぁ」みたいなやりとりがされていた。気がする。幻覚だったのかもしれないけど。幻覚だったらいいのになー。

 彼が追加で何を打ち込んでいるのかを見る余裕はなくて、バクバクする心臓を抑えながら用を足してトイレの中でぐるぐるとアレは浮気?まさか?昼間の女の人かな?っていうかギャル……ギャルと浮気かーって気持ち悪くなってくる。


「ごめん……急に具合悪くなったから帰って」


「ん。ってえ?いや、俺休みだし看病するよ」


「帰って」


 トイレから出るなり半ば無理矢理彼を部屋から追い出した。

 今思うと、アレそのまま浮気相手の家に行ったりしたよなー。浮気してるって決まったわけじゃないけど……でもアレは黒だと思う。

 そっかー私めんどくさいかーって彼が帰ってから落ち込んで、極力彼の前では泣かないようにしようと決めてみたけど、そのまま彼の前で泣かないを実践する機会もないまま一か月が経過してしまった。

 あのまま2人で家に居たら、彼の携帯端末の中身を見てしまいそうだったし、そんなことに手を染めるくらいなら浮気相手のところに行っても構わないから自分が悪の道に足を踏み入れるのを止めたかった。

 あの時はそう思ったけど、今ではあの時に携帯端末チェックしてればこんなモヤモヤしなかったのかなーって思い始めてる。ダメだ。不健康だ。 


 どうしよう。

 私は頭を抱えたまま折角の週末の夜を項垂れたまま過ごそうとしてる。


――ピロン


 通知音が鳴って私は慌てて放り投げた携帯端末を手に取る。

 端末上には『タカノリ』と見慣れた文字が浮かび上がってる。 

 指紋認証でロックを開き、私は急いで愛しの彼からの連絡を読もうと通知をタッチしてメッセージアプリを立ち上げた。


「なんじゃこりゃああああ!?」


 腹の底から出た怒りの声。

 自分でもこんな声が出るのかと驚いた。

 彼からのメッセージは一枚の画像のみ。

 女性の手だけが写された謎の写真。場所は……どこだろう?お店?

 こんな場所行った記憶はないし、この女は一体誰?浮気?やっぱり浮気確定?

 絶叫したはいいけど、いきなり突き付けられた現実に手が震えてうまく文字が打てない。

 浮気かもしれないってぐるぐる彼の行動の怪しさが思い浮かんでくる中手汗がすごいと文字って打てないんだ……なんて関係ないことまで頭に浮かんでくる。


――ピロン


 再び通知音が鳴り、30㎝くらいある文章を打つ手を止めて私は画面上部に新しく現れた彼からのメッセージに目を向けた。


「なぁんだ……ってそんなわけあるかあああ!」


 携帯端末は部屋の反対側にある壁にぶつかり、バキッと嫌な音を立てて液晶画面側を下にして床に落ちた。

 反射的に投げてしまった携帯端末を拾いに行く気にはならず、私はその場にへたりこんだまま近くにある彼が昔UFOキャッチャーで取ってくれた大きな犬のぬいぐるみを抱きしめる。


「まちがえたごめんってなんなの……どんな間違いだよ……」


 彼と同じ香水をつけて「貴教がいないときはこの子を代わりにしておくね」なんて言ってたけど、彼と同じだった香水が今ではなんだか痛む胸の傷に塗りこまれる塩みたいに沁みてくる気がして私は犬のぬいぐるみをポイと少し遠くへ放った。

 問い詰めてやろうとはりきって30㎝くらいの長文も書いたけど、「まちがえたごめん」という短い下手な言い訳にすらなってない言い訳でその気力も萎えてしまった。

 そうだ……これは夢なんだ。きっと寝て目を覚ましたら彼が隣にいて、前みたいに微笑んでデートをしてギャルとも浮気をしてなくて……。

 ろくに力の入らない体を引きずってベッドまで来るとそのまま枕に頭を埋める。




 彼との出会いはバーだった。

 そう書くとかっこよく聞こえるけど、全然そんなことはなくてアットホームなスナックのようなバーにたまたま通っていた私の隣にずぶ濡れのまま座ったのが貴教との初対面だった。


「どうしたんだよそんなずぶ濡れで……傘ないなら貸すけど?」


「俺の心も雨模様っすよぉ」


 マスターの問いにも碌に答えずに泣きそうな顔でロックグラスの中身を飲み干した彼は、大柄な体を折り曲げるとそのまま机に突っ伏した。

 なんだかその様子が愛らしくて私は思わず声を掛けてしまったのだ。


「えーっとよくわからないけど、元気出してください。

 マスター、この大きな彼に私から今飲んでるのと同じものを」


「お姉さん……優しいっすね……弱った心にしみます……好きになっちゃいそうです」


 はいはいと受け流してマスターにお金を払うと、彼の前に茶色いお酒で満たされた新しいロックグラスが置かれた。

 貴教は当時二十歳。私の4つ下だった。

 彼女に振られたその足でバーに来た彼は、元々ここの常連だったらしい。


「こいつ、顔はいいんだけどなーすぐ振られるんだよな」


 ずぶ濡れのままお酒を流し込むように飲んでいる大型犬みたいな生き物としか認識していなかったから顔を意識していなかった。

 マスターの言葉で彼の顔を覗き込むようにして見つめてみる。

 スッと通った鼻筋、アーモンド形の大きな優しそうな瞳、薄い唇……整ったパーツがしっかりとした美しい曲線を描く輪郭の中にバランスよく収まっている。

 ハーフか何かかと思うくらいはっきりした顔立ちの彼に、去年恋人と別れて自由を楽しんでいた私は少し胸がときめいた。


「マスター全然優しくない!このお姉さんを見習ってくださいよ!

 あ、すみません。お姉さんの名前聞いてもいいっすか?」


 人懐っこい笑顔でそう言いながら携帯端末を差し出してきた彼に……私はその時恋に落ちた。


「結衣。宮川結衣だよ」


「結衣さん……名前までめっちゃかわいいっすね。

 あ!俺、貴教っていいます」


 こうして連絡先を交換した私たちは毎日のようにメッセージのやりとりをした。

 彼は漫画が好きだとか、音楽が好きだとか、私が映画が好きなこと、犬を実家で飼っていることなんてとりとめもないことをあの頃は話してた。

 彼の実家で飼っているハスキーは本当に彼そっくりだと笑ったら、「結衣さんの実家のポメだって結衣さんそっくりですよ」と言われたのが懐かしい。


「好き……です。あの時、ずぶ濡れの情けない俺に優しくしてくれた時からいいなって思ってて……」


 しばらく連絡が取れなくて心配していたと思ったら、急に最近人気のあるレストランに呼び出されて驚いたのを覚えてる。


「結衣さんさえよければ、彼氏になりたいです」


「私でいいの?君、顔もいいしモテそうじゃん……年上のおばさんで大丈夫?」


 夜景の見える個室で、新品の黒いスーツに身を包んだ彼が耳まで顔を真っ赤にしながらされた告白は今までのされたどんな告白よりも素敵で、言われた私のほうまで照れて顔が赤くなりそうだった。


「結衣さんがいいんですよ!」


「私も貴教のこと好きだし、いいよ」


「よっしゃー!」


 真面目な顔で好意を伝えてくれる彼に私も真剣な表情で返すと、彼は目じりを下げて顔をくしゃっとさせてはしゃいだ。

 ガサゴソとスーツに似合わない大きなリュックから取り出した可愛らしい紫の箱に入っていた蝶があしらわれたネックレスは今でも宝物にしているくらいなのに……。


 いつからだろう……。彼が遠くなった気がするのは。

 私が悪かったのかな。仕事が忙しいってデートをすっぽかすことが多かった。

 彼が落ち込んでいるときにちゃんと話を聞けていなかった気がする。

 喧嘩になったとき、いつも折れて謝ってくれるのは彼だった。もっと私も素直に謝れていたら……。

 後悔が次から次へと浮かんでくる。

 顔も性格もいい24歳……職場でも遊び場でも女の子が放っておくはずないんだよなー。

 彼の周りにいくらでも可愛くて若い女の子はいるのに、なぜ私は恋人の座に胡坐をかいてしまったんだろう。

 最近なんだか服の趣味が変わった時に何か言うべきだった?

 ムスク系のセクシーな香水から、柑橘系の爽やかな香水に変わったときに浮気していた?

 デートに行くとき、ファミレスからやけに洒落たイタリアンが増えたのは新しい彼女と行ったから?

 ダメだってわかってるのに次から次へと後悔と疑いが頭の中に積みあがっていって膨らみ始める。


 起きたらメッセージも返さないと。っていうか多分携帯端末の画面バキバキだよね……返事するにはバキバキ画面の端末取りに行かなきゃ……でもなーやだなー。あのメッセージなんかの気のせいじゃないかな。

 タカノリって名前で別の人を入れてるとか私の勘違いとか……ダメダメ。現実逃避をしても他の女の手の画像が送られてきた事実は変わらない。


「もぉ~うわきはぜったいにしないとおもってたのにぃ……」


 堰を切ったように涙が出てくる。拭く気力もないので枕に頭を埋めたままにして枕に涙やらなにやらを全部吸わせてしまおう。

 彼が泊まった時用に置いてあるもう一つの枕が煩わしく感じて力任せに腕を振ると手ごたえがして、そのままポスンと枕が床に落ちたであろう音がする。

 視線を挙げるのも億劫で確認はしたくない。


 彼と初めてデートした時のこと……一緒に服を探したこと、初めてのクリスマス、初めて一緒に行った初詣。

 高校生みたいに一年の行事に一喜一憂して、毎日笑い合って、たまに喧嘩をして彼が先に謝って私もそれで謝って……いつからそれがなくなってしまったのか本当に思い出せない。

 いつからか彼からの連絡を返さなくなって、彼からも連絡がなかなか帰ってこなくなって……。


 もう嫌だ。本当に全部夢だったらいいのに。



※※※



 目を覚ます。

 エアコンをつけていたにも関わらず汗をかいたのか体がベタベタするし、瞼はなんだか重たい。

 枕にたくさん落ちたはずの涙はとっくに乾いているのに泣いたことはなかったことにはならないみたい。

 部屋の奥には相変わらず液晶画面を下にした携帯端末が落ちてる。


「連休なんか取るんじゃなかったなぁ」


 誰に聞かせるわけでもない独り言を言いながら立ち上がる。

 寝る前のことはどうやら夢にはなってくれなかったみたい。

 不快な汗と記憶を流すためにシャワーでも浴びよう。そしたら多分バキバキに画面が割れているであろう携帯端末を拾って、ちゃんと考えよう。

 

 なんとなく痛む頭を押さえながら、新しいタオルと下着を手に取ると浴室へ向かう。

 薄暗く散らかった部屋はなんだか自分の心模様みたいで嫌になる。

 掃除もしちゃおうかな……と時計を見てみると、深夜の三時だった。掃除はやめたほうがいいみたい。

 ガスの運転ボタンを押して、服を脱ぐ前にシャワーを少し流して水からお湯になるのを待って、服を脱ぐために脱衣所へ戻った。


――ピンポン


 無視をする。深夜の来訪者なんてロクなものではない。


――ピンポン

 

 また鳴った。どうしよう。彼なのはわかってる。


――ピンポンピンポンピンポン


「もう!夜中にそんな何回もチャイムを鳴らさないでよ」


 声を顰めながらもそう言わずにはいられない。

 文句を言いながらチェーンをしたままドアを開くと、雨の香りと共に再びチャイムを押そうと手を伸ばしている貴教の顔が目に飛び込んでくる。

 彼は私の顔を見ると、気まずそうに頭を少し下げた。


 無言で睨んでみるけれど、目を伏せただけで彼は帰る気配を見せない。

 とっくに電車はないはず。車の免許はないから……タクシーででも来たのかな。

 見慣れない新しい趣味の服と新しい香水の香りに身を包んだ彼を、仕方なく招き入れた。


 最初に出会った時みたいに少し雨の香りがする彼は部屋に入るといつものように上着を脱いでハンガーにかける。

 彼専用のハンガーにうっすら埃が積もっていたのに私だけ気が付いて長い間彼が私の部屋に来ていなかった事実に胸を痛めた。


「……あ。これ」


 床に落ちている携帯端末に気が付いた彼は、それを拾って私に手渡す。

 バキバキに割れた画面を見て眉間に深く皺を寄せる彼の顔を見ない振りして私はそれを受け取った。


「結衣から返事ないからさ、心配になって」


「返事がないのはお互いにいつものことでしょ」


 強い語気に気圧されてか、貴教は無言で頭をかいてテーブルの前に腰を下ろしたので向き合うような位置に私も座った。

 無言の時間が続く。


「浮気してるのはもうわかったから」


「だから違うって」


「あんな画像送られて間違えたなんて信じられるわけないでしょ!?馬鹿じゃないの?」


「浮気なんてするわけね―じゃん」


「だって……見ちゃったもん。

 この前、家に来た時……携帯端末でのやりとり見えちゃって」


「……あー。

 違うって。もう……」


 涙がポロポロと耐えようと思っても耐えられずに落ちてくる。

 めんどくさいことはしたくないって……泣かないって決めたのに……と悪あがきのように袖で必死に涙を拭う。年上の余裕なんて全くなかった。


「すぐ泣く……めんどくさい女でごめんね……」


「結衣さんってば!」


 出会ったころのように呼ばれて顔をあげると、いつの間にか隣にいた彼は私のことを抱きしめた。

 すっかり別れ話か浮気の告白をされるんだと思っていた私は呆気にとられる。


「抱きしめて丸め込もうとしてる?」


 思わずそう言った後、こういうところがめんどくさいし、嫌われるんだぞっと自戒する。

 ほら、貴教も呆れた顔をしてる。


「結衣、見て」


 貴教が差し出してきたのは、ロックを解除した彼の携帯端末だった。

 恐る恐る開かれたメッセージアプリをタップするけれど、そういえば誰とのやりとりなのかわからなくて指を止めると、彼の長い指がスッと一人のギャルっぽい女の子のアイコンをタップしてスクロールをしていく。


「え……わ……これ」


 私が見たやり取りの後にはこう続いていた。


「でも、そこも含めて彼女の全部が好きなんだよ」


 彼が書かれている文章を声に出して読んだので思わず顔をあげると、そこには照れくさそうに笑っている見慣れた顔があった。

 安心したのと、恥ずかしくなった私は思わず彼の胸に飛び込む。

 厚い胸板に顔を埋めると、彼は私の頭を撫でながらそのまま後ろに倒れこんだので私が彼の上に乗ったような形になる。

 首を持ち上げて私の鼻先に口付けをした彼は、もう一度自分の携帯端末を私に見せてきた。


「これ」


 彼が見せてきたのは、指輪をはめている女の人の手の写真だった。

 私に送られてきたものと少し違っていて、ぶれてもいない。

 彼の指が画面をスワイプすると、似たような画僧がいくつも表示されて切り替わっていく。

 よく見ると、手の横には数字が書いてある紙が置かれていることに気が付いた。8・9・10……もしかしてこれって……。

 そう思っているうちに写真はいつのまにか指輪だけが移ったものに切り替わる。


「指輪のサイズわからなかったけど、驚かせたくて……こっそり調べようとしてさ店員さんの手撮ってたんだ」


 口元を両手で抑える私の頬をそっと撫でながら彼は言葉を続ける。


「予定聞こうと思ったら手が滑ってさ……全然連絡付かなくなるし、途中から既読もつかなくなるし……絶対やばいって思ってタクシー飛ばしてきた」


「疑ってごめん……」


 ホッとしたような顔で微笑む彼の顔を見て、浮気を疑っていた自分が恥ずかしくなる。

 彼はこんなに私のことを考えてくれて、指輪を探してくれていたんだ。年上なことで勝手に焦って心配をして怒ったりして……。


「俺こそ……。心配かけてごめん」


 叱られた子供みたいな顔をして頭を下げた彼の首に手を回して体を押し付けた。

 悪いのは私なのにいつでも彼は自分も悪かったと言ってくれる。

 本当に私には勿体ないくらい……。


「ホッとしたら喉乾いてきた」


「そうだね」


 彼の頭を抱えるようにして泣いていた私は、彼の言葉に笑う。

 一度彼から離れてキッチンに向かう。

 冷蔵庫の中には幸い買いだめしてあるビールがある。アラサーの女子の嗜みだ。

 缶ビールとグラスを二つ持って行って彼の隣に座ると、彼はさっそくビールを手に取る。

 プシュッと景気の良い音が響いて、トクトクと心地の良い音と共にグラスが黄金色の液体で満たされていく。


 「どうぞ」という優しい声と共に自分の前にビールで満たされたグラスが置かれる。

 乾杯と小さく言ってグラスを合わせた後、水滴をタオルで拭きながらグラスに口をつけると、苦みと麦の香りが鼻に抜けていく。

 やけ酒じゃないビールはなんて美味しいんだろう……。

 グビグビと一気にグラスの中身を飲み干した私のグラスに、新たにビールを注ぐ貴教の空っぽのグラスに私も同じようにビールを注いだ。


「他の女には興味ないよ」


 少し照れくさそうに視線を逸らしながらそう言った彼の顔は、薄暗い部屋にもかかわらず耳まで真っ赤なのがわかって、私も照れくさくてつい笑ってしまう。


「ありがとう。不安になってたけどすごく安心した」


 彼の肩に頭を預けてそう言うと、彼も私の頭に自分の頭を乗せてぐりぐりと横に動かした。こういうところがすごく大型犬っぽくて愛らしいなと思うし、こんなにかっこいいのにたまに高校生みたいにこっちが照れくさくなるくらいストレートな言葉をぶつけてきてくれるところが本当に好きなんだなって改めて思う。


「この先も一緒に笑ったり泣いたりしながら、結衣と死ぬまで過ごしたい」


「え?それってプロポーズ?」


「指輪は後になっちゃうけどさ、そのつもりだよ。

 結衣、結婚しよう」


 ああ。指輪……。そっか。指輪……。

 なんとなくそうかもと考えていたけど、違ったら恥ずかしいってどこかで思ってた。

 あの指輪、やけに高いと思ってたけどそういうことなんだって気が付いて私の顔も彼と同じかそれ以上に赤くなるのが自分でもわかる。 


 さっきまで浮気されてるかもなんて悩んでたのがバカみたい。今は幸せ過ぎて頭が沸騰しそう。

 大きなアーモンド形の彼の瞳に移る自分の顔のあまりのにやけっぷりに恥ずかしくなって私は火照る顔を両手で覆った。


 散らかった部屋、バキバキの携帯端末の液晶、気の抜けた部屋着、汗でべたべたする体……ロマンティックには程遠い場所でのプロポーズ……でもそれはなんだか私たちらしい気がする。

 顔を両手で覆ったまま涙ぐんでいる私を、がっしりとした腕で彼が私を抱きしめた。


※※※


「はぁ……やっぱり来ないか」


 携帯端末を見ても相変わらずなんの通知もない。

 最後に連絡が来たのは先週?なんてことを考えながらうんともすんとも言わない携帯端末をポンとクッションの上に放り投げた私は溜息を吐いた。


 あのプロポーズから数か月。両親に挨拶に行ったら派遣の彼は見事に父親から「許さん!」と言われて大目玉を喰らい、正社員になるために日々忙しい日々を過ごしていた。


 私がある程度稼いでるし、彼には好きなことをしていてもらいたいと楽観的に思っていたけど、世間はそうもいかないらしく、彼も同じ考えだったみたいで正社員になったら結婚をしても言いなんて条件を付けてしまったのだ。

 彼のご両親にも挨拶へ行ったけれど、我が家とは打って変って歓迎ムードで、義母さんも義父さんもすごく喜んでくれてお土産に彼の実家の地元名物のメロンまで持たせてくれた。


 はー。怒涛の挨拶ラッシュが終わったはいいけどさー。こうも連絡がないと寂しくなるなー。

 ぬいぐるみの犬を抱きしめながらゴロゴロと転がる。

 柑橘系の香りの香水が吹きかけられた犬のぬいぐるみの少し間抜けな顔をつまみながら私は連絡の来ない携帯端末を握りしめて時計を見上げた。


――今度こそ浮気じゃない?


 ランチの時、最近連絡がまた減ったと愚痴ったら、悪戯っぽい笑顔を浮かべた明美がまたそんなことを言い出した。

 そんなわけはない……とこの間二人で撮った写真を待ち受けにしている携帯端末の画面を見た。

 浮気騒動の時に投げて画面をバキバキにしてしまった携帯端末はさすがに怪我が怖かったので翌日彼と二人でショップに行ったときに最新機種に買い換えてしまった。

 彼が「俺のせいみたいなもんだし出すよ」と言ってくれたのを気持ちだけもらって二人でお揃いの犬のストラップを買ってもらって2人で写真を撮ってそれを待ち受けにした。


 あれから、彼は私の系統に近い香水を買って付けていたって教えてもらった。

 あれから、デートがマンネリ化していたから友達と行った店に私を連れて行ってくれたことがわかった。

 あれから、彼の服の系統が変わったのは私の服装に合わせて大人っぽくしたかったって教えてもらった。


 疑っていても仕方ない。こういうのは疑い始めたらどんなものでも怪しく見えてしまうって知ってるもん。

 それに、彼が家に来て言ってくれたプロポーズの言葉は、どんな人の言葉も、どんな行動も怪しく見えないくらい信じられる気がした。

 付き合って4年……良くも悪くも慣れてしまった間柄で、なんとなく付き合って、時期が来たら別れるんだと思ってた。

 若い彼には、私よりも若くてかわいい女の子がいっぱいいるから……そう思ってた。

 でも、彼は私の顔を見て「死ぬまで一緒に過ごそう」ってストレートすぎる言葉を言ってくれた。だから少し連絡がこなくてもまた何か私を驚かそうとしてくれてるって不安にならなくて済む。

 寂しいことには変わりないから、本当はもう少し連絡くらいはしてほしいけど。


 最後に会った日……多分一か月くらい前。

 久しぶりのデートは家で待ち合わせで、夜遅くに家に来た彼はやけにオシャレでかわいい袋を持ってきた。


「これさ、後輩から聞いて結衣に食べさせたかったんだよ」


 携帯端末の画面を私に見せた彼は、ギャルっぽい女の子のアイコンをタップしてメッセージアプリを起動させた。

 前にやりとりしていたギャルっぽい女の子は大学の後輩らしいってことも聞いた。

 画面には「彼女さん、ポメ好きならこのケーキ絶対好きですよマジ推しです」という文章と共に犬が喜んでいるスタンプが添えられている。


「誕生日おめでとう」


 携帯端末を閉じて彼が開いてくれた箱の中には、ポメラニアンの顔を模したチョコレートクリームの小さなケーキが入っている。

 ポメラニアンの顔の下の部分に当たるところにはクッキーで出来たプレートで私の名前も書いてあった。

 本当に幸せな誕生日で、後輩の女の子にも「この前は浮気を疑ってごめん」と心の中で謝った。



――ピロン


  寂しい気持ちを幸せな思い出に浸ることでなんとか誤魔化そうとしていると、真新しい携帯端末が通知音と共にブルブルと振動したので目を向けると、予想通り、端末上には『タカノリ』と見慣れた文字が浮かび上がってる。 

 指紋認証でロックを開き、私は急いで愛しの彼からの連絡を読もうと通知をタップしてメッセージアプリを立ち上げた。


「なにこれええええ!?」


 思わず大声をあげて携帯端末を落としそうになる。

 自分でもこんな声が出るのかと驚いた。

 彼からのメッセージは一枚の画像のみ。


 指輪をした男性の手……今まで何度も見た貴教の手だ。


――ピロン


 続いて送られてきたのは画面いっぱいのバラの花束だった。

 混乱と期待が入り混じる。

 動揺で手が震えてうまく文字が打てない。

 手汗がすごいと文字って打てないんだ……なんて関係ないことまで頭に浮かんでくる。


――ピロン


 通知音と共に画面上部に表示された文字を見て私は立ち上がって玄関へと向かう。

 ドアを開くと、そこには大きな薔薇の花束を持って髪の毛をセットした死ぬほどかっこいい彼が佇んでいた。

 彼は私に薔薇の花束を渡した後、胸元から小さな紺色の箱を取り出してこちらに差し出してくる。


「今日、正社員の内定貰った。

 だからさ、改めて言うよ。哀しい時も嬉しい時も全部含めて結衣と死ぬまで一緒に過ごしたい」


 真新しい携帯端末は私の手から滑り落ちてバキッと豪快な音を立てて液晶画面側を下にして足元に落ちた。


 ―fin―

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液晶画面にご用心 こむらさき @violetsnake206

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