美しい河

わたなべ りえ

河の流れと集う人々

 長い時間、本当に長い時間が過ぎました。

 その大地に流れていた雨水は、初めは小さな川に過ぎませんでした。岩盤で出来た大地の上を、ちょろちょろ流れていただけなのです。

 しかし、千年・二千年と時間をかけて、川は大河になりました。

 大地を侵食し、深い谷を形成し、緑の水をたたえてゆったりと流れる河です。水と大地の激しい攻防のすえ、生まれえた自然の造形です。


 本当に美しい河でした。

 

 しかし、水の流れは、同時に豊かな土壌も剥ぎ取って流れていました。景観に恵まれた大地は、貧しくすさんだ人々の住まう地でもあったのです。

 豊かさを求める人々は、河を去っていきました。美しい景色だけでは、人は生きてはいけないのです。でも、逆もいえました。豊かなだけでは、人はやっぱり生きてはいけないのでしょう。この河を訪れる観光客は、年々増えていきました。



 リーロイは薬草とりの少女でした。

 毎朝、大きな籠を背負って河へ出かけます。大河が削った岩壁に自生する薬草をとりに、何キロも何キロも歩きます。

 道は所々、綱を使って渡ります。もちろん危険な仕事でした。

 薬草は白い花をつけました。可憐な小さな花です。

 この時期、河は一番美しい風景を見せます。豊かな水量、そびえたつ奇岩、漆黒の岩壁、そして岩肌にヴェールを掛けるように、小さな白い花が咲き乱れるのです。

 ポッポッポッと、音を立てて、観光船がやってきました。甲板に立つ観光客の感動に満ちた声が、リーロイにも届きます。

 しかし、リーロイは観光客が嫌いでした。薬草は白い花をつけてしまうと、価値が半減してしまいます。白い花も嫌いでした。

 リーロイの両親は、痩せた畑を持っています。いくら耕しても生活は楽にならない畑でした。それでも、三人どうにか暮らせました。

 ある日、一人の観光客が母の麦わら帽子を法外な値段で買ってくれました。

 農作業用の何気ない帽子が、畑から得られる収入の十倍にもなりました。その日以来、父は畑に行かなくなりました。働くのがばかばかしくなってしまったのです。

 母は麦わら帽子をたくさん作り、毎日観光船の船着場へ出かけていきました。どうにか覚えた外国語で、帽子を売ろうと懸命でした。

 船着場は、そんな農民で溢れかえっていました。帽子はめったに売れません。畑はすっかり荒れてしまい、生活はますます苦しくなりました。

 今やリーロイの薬草が家族を支えていたのです。

 蒸気船の音が小さくなって、リーロイはそっと河を見下ろしました。観光蒸気船の間を縫って、小さなイカダが見えました。


 チェンサは鵜飼の少年でした。

 最近、一人前になったばかりで、河川工事にかりだされる父に代わって魚をとります。魚をとったら、母が隣町の市まで売りにいきます。

 蒸気船の作り出す波が、チェンサのイカダを揺らしました。やいのやいのと観光客が声をかけます。チェンサはいつも無視します。

 チェンサの小さな弟は、観光船に愛嬌をふってチョコレートをもらうことを覚えました。最初はそれを喜んでいたチェンサでしたが、ある日突然、事件は起きました。

 家族全員が仕事から帰ってくると、豚の世話をしていたはずの弟の姿がありません。手分けして探しても見つかりません。やがて、父が川辺に落ちていた破れたサンダルを持って帰ってきました。

 村の人が弟を最後に見た姿、それは観光船を追って川辺を走っていた姿でした。母は泣きました。

 三日後、下流の村で見つかった弟を、チェンサは迎えに行きました。変わり果てた弟をイカダに乗せて家に帰る途中、観光船とすれ違いました。

 黄色い髪をした青い目の若者たちが、楽しそうに手をふっていました。なにやらふざけていました。食べていたお菓子をチェンサめがけて投げました。ありがたい気持ちにはまったくなれません。

 蒸気船に置いていかれて、チェンサは空を見上げました。

 

 チェンサとリーロイは、いつもお互いが見えるほどの近くで、仕事をしていました。けれど、二人は出会ったことがありません。

 リーロイはイカダの少年をよく見かけますが、河の一部としか思いません。チェンサも少女を見かけますが、岸壁の風景としか思いません。

 二人にとって、この河は生活の場であり、美しくもなんでもありませんでした。むしろ、この河に繋がれて生きていくのがいやでした。夢も希望もありませんでした。



 その日は風の強い寒い日でした。薬草シーズンは終わりに近いのです。

 風のある岸壁は、さらに危険な場所でした。小さな白い花も、風にふかれて震えました。黒々とした奇岩の間を風が渡って、ビュルル……と鳴きました。水も濁って白波が立っています。

 観光船も、今日は甲板に誰もいません。観光客は、窓から見える景色を見ながら、贅沢な料理を食べていました。おそらく、リーロイとチェンサの何日分かの食事をしながらも、天気の悪さに、運の悪さを嘆くのでしょう。


 岩陰に申し訳なさそうに生えている薬草に、リーロイは手を伸ばしました。その手は凍えていました。突然、岩場が滑り、リーロイの身体は宙に浮きました。命綱は、とりあえずリーロイを支えましたが、岩に擦れて切れかかっていました。元々、古い綱だったのです。手はかじかみ風も強く、なかなか岩場に戻れません。

 そのうちにリーロイは、ある想いに囚われました。

 辛い想いをして岩場に戻る必要があるだろうか? そう思ったとたん、手元で綱は切れました。リーロイは、まっさかさまに河の渦に落ちていきました。


 偶然にもチェンサは、リーロイが落ちるのを見ていました。急いで少女を助けようと、水に飛び込みました。

 ゆったりと見える河の流れですが、意外に水は早く流れます。リーロイを捕まえて浮き上がろうとするチェンサを、流れが何度も邪魔しました。悪魔のような河でした。

 おぼれかけた人間は、必死になって絡みつきます。リーロイの着ていた綿入れも、たっぷり水を吸って重くなっていました。

 チェンサはイカダと自分を括りつけていました。どうにかイカダにたどり着きましたが、あまりの重さに乗ることは出来ません。やっとの思いで、イカダを岸辺に寄せました。


 二人はこうして出会いました。

 でも、だから何だというのでしょう? 暖をとるための焚き火を挟んで、二人は口も開きませんでした。

 商売のための魚を、少女のためにチェンサはあぶり、ぶっきらぼうに差出すだけでした。

 リーロイも、濡れた綿入れの替りに借りた蓑を羽織って、震えるだけでした。ほくほくに焼かれた魚の串を、ほらほらとばかり振る少年から受けたったのは、かなり躊躇した後でした。

 居心地の悪い空気のように、二人の横で河は流れていくばかりです。



 薬草のシーズンは終わりました。

 あの日以来、リーロイは母の帽子作りを手伝い、そして今日は売りに行くのです。

 でも、どうしてでしょう? 船着場に向うはずの足は、自然と岩場に向いました。

 日が燦燦と照り、白い花が一斉に咲いています。リーロイは帽子を籠代わりにして、一銭にもならない花を摘みました。なぜか歌など口ずさんでいました。

 あの日以来、チェンサは岩場にリーロイを探すようになっていました。どうしてかはわかりません。

 岩場が気になって仕方がなかったのです。しかし、少女の姿はなく、やがてチェンサは岩場を見ることを止めました。さみしい気持ちになりたくはなかったからです。


 その時、緑の水面に白い花が咲きました。

 それも一輪ではありません。ひらりひらりと舞い降りて、河の流れに乗りました。

 チェンサは驚いて岸壁を見上げました。

 リーロイが、この間のお礼とばかりに花を降らせていたのです。荒れた岩のようなリーロイの心に、小さな花が咲いていました。

 二人ははじめてお互いを見ました。漆黒の岸壁にいる少女と、深緑の水面に浮かぶ少年でした。

 おそらく二人、笑顔でした。お互いのいる場所がとても美しいところだと、生まれてはじめて知ったのです。




 白い小さな花たちは、大河を下流まで流れていきました。

 緑の水流に、翻弄され惑わされてさまようように、または楽しく輪になって踊るように、花は群れて流されました。それは、観光船に乗っている人の目にも入りました。


「おや? あんなに花が……。どうしたんだろうね?」


 異国の老人が、横にいる妻に話しかけました。


「本当……。きれい……」


 老婦人は溜息を漏らしました。

 老夫婦は、深緑の河も、漆黒の岸壁も、流れゆく白い花も、さらに通り越した風景を見ていました。


「ねぇ、あなた。私たち、今までいろいろ辛いこともありましたが、本当にここまでこれてよかったですねぇ」


 小さな一滴からはじまった悠久の流れ……。その壮大さ。神の造形。

 それに比べたら、老夫婦の人生は、流れゆく白い小花のように、小さなことかもしれません。

 それでも目尻に皺を寄せて、夫に身を寄せ、老婦人はつぶやきました。


「……美しい河……。私たち、生きてこの景色の中にいることができて、本当に幸せ」

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美しい河 わたなべ りえ @riehime

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