勝手知ったる気でどうぞ

有給休暇

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 彼が生まれた時に母はいたが、その母親の傍に父はいなかった。生まれた時には生きることに必死で、彼にとって母親はただの栄養補給機としか見えなかったが、生きるということにも慣れてきて、生きるという本能以外のことを思う余裕が出来てからは愛情というものを知ることが出来た。その時にはそれが愛情と名前とつくものだとは知らなくて、なんとなく良いものという感覚しかなかった。いまだにそれを愛情という言葉で表現されていても、違和感に首をかしげてその言葉を噛み砕く。噛み砕いた先はただの言葉の群れだとしても、彼にとって噛み砕くことしか出来なかった。その中に己を納得させる何かがないかと血眼になって、言葉の海の中で掬ってみても望むそれは水を泳ぐ魚と同じでするすると逃げていくからどうしたものかと頭を悩ませる。愛情とは美しい、美しいと皆が言うけども、やはりそこには疑惑があるように思えるのは僕だけだろうか。外から見ればもちろん美しい、では内側は?

 数十年の年月が経った。暖房の風でそよぐ干された白いシャツの下では、脱ぎ捨てられ裏返しになった縞々の靴下とその前を横切る黒いコンセントのケーブルがあった。黒い線は彼が足を入れている炬燵にまで続いていて、彼は天板に突っ伏しながら誘っては消えていく夢の世界に無気力に精神を晒していた。家の外では冬の風が闊歩しており、歩く人々の首元を襟に沈ませる。一人の高校生が寒さに尻を叩かれながら去っていた道の途中に彼の家はあった。築五年のアパートで二年前に住んでいた家賃がひどく安い築数十年レベルのボロアパートからここに引っ越してきた。彼が越してきた理由の一つに、前のアパートは冬になると部屋が異常に寒くて人間が過ごせる環境ではなくなるというのがあった。家賃はひどく安かったのが引っ越しの足を引き止めたが、社会人になって十五年も経過した現在、いつまでもボロアパートに居を構えているのも変かと心機一転。転居してみれば雪降る日に毛布にくるまってテレビを見ていた生活が嘘のような変化ぶりに彼は驚きを隠せなかった。後々になって彼が人づてに聞いた話では、住んでいた真横の部屋が事故物件だったらしく、今ではあの寒さはそれが関連しているのではないかと考えていた。

 彼はいまだに夢の通路を迷いながら進み、なにかに呼ばれた気がして後ろを振り返るが、それでも彼は後ろに足を向ける事はしなかった。着実と夢の通路を奥に進むごとに、膜越しのくぐもった音が離れていく。彼はそれに気づくほどに頭は清明ではなかった。突然に通路を消えて、彼は夢の中に入り込んでいた。

 まず目に入ったのは大きな女性の後姿。肩まで伸びた髪は黒く艷やかで歩くたびに落英の美しさを感じさせた。その後ろにつく彼のもとには、花の滝のように振りまかれたバラの香りが常にしていた。女性は昔の母親だった。夢の中は何でもありだと無意識にわかっているためか、自身の姿が幼い子どもだったとしても彼は何も不思議には感じなかった。母親ももう見ることは出来ない若い姿だということにも疑問は抱かない。母親は彼を振り返ることはない。夢だからだろうか、彼にとって歩いている母親の顔が見えないにもかかわらず無表情だということがわかっていた。周りを見渡せば、住宅に挟まれた車が一台通れるか程度の細い道路の丁度真ん中にいた。時折庭がある裕福そうな家があるが、殆どの家は駐車場もないような狭狭しいところ。それ以外は特徴がない道だけれども、母親の後ろを歩く彼にとってはそこはとても見覚えのある道だった。その道は、彼が保育園に通っていた頃に母親とよく通っていた道だったからだ。住宅に囲まれたその道は昼間だと言うのに薄暗さがあるところで、じめっとした静けさが常にあった。とある家の庭に生えている一本の樹頭の中を春風が駆け抜ける。先の道では木の葉漏れが蒼黒いアスファルトの上を舞台に踊っていた。その先を抜ければ、木の葉から漏れた温い光線がさっと皮膚を温めて後ろにへと去っていった。自分の体を再度見てみれば、彼の身体はいつの間にか幼稚園の服に変わっていた。先程までは、彼の幼い身体は格安洋服店に売られていそうな子供服に包まれていたという事実は彼の中ではもうなくなっている。

 母親は彼を見ない。彼を見る目は、今は向かっている幼稚園へと向かっていた。幼稚園に近づくにつれて、母親が彼を見る回数も増えていき、幼稚園に着けば母親が彼を見て優しく微笑む。彼はその微笑みの仮面に精一杯の願いを込めて微笑み返す。できるだけ、綺麗で美しくを心がけていたからか、彼の笑みは子供の笑みとしては満点の出来だった。とりわけ、子供の可愛さを愛してる人からはとても受けの良い笑顔で、実際に母親のママ友からは人気があった。子どもたちや一部の幼稚園の職員からはあまり人気はなかった笑みでもあり、彼の笑みへの印象は二極化していた。

 がくりと世界が縦に大きく揺れ、大きな地震が来たと小さな彼が怯えるやいなやその世界は波打ち際に描かれた砂絵のように更地になる。その更地が徐々に立体を持ち、やがて彼の見覚えのあるテレビ台が目の前に大きくそびえ立っていた。彼はそこで自分が眠りの最中で天板から崩れ落ちたことを悟った。その衝撃で彼は夢の内容をどこかに落としてしまったみたいだ。思い出そうとしても彼はなんとなく不快な気持ちしか胸に残っていないことに気付き諦めた。不快な気持ちを突き詰めてもどこまでいっても不快だということは彼にはわかりきっているからだ。彼はそれに時間を取られるぐらいだったら、酒を飲んで眠りふける。彼の身体は刹那的な幸せと逃避によってだらしなく出来上がっていった。入浴前の脱衣所で裸体が鏡に映れば、その姿に思わず笑いがこみ上げてくるほどだ。どの角度から見ても醜さは変わらず、突き出た腹は服越しにでもはっきりその姿を主張する。しかし、突き出た腹の皮膚にはゆるさはなく、言うなれば小さい袋にものを詰め込んだような張りのある形をしている。針で刺せば破裂しそうな印象を受けさせる腹部のふくらみは、欲望に弱いと自負している彼の象徴にもなっている。破裂した腹部から出てくるものは限りのない欲望たちだろう。

 彼が崩れ落ちた炬燵の天板には数多の空き缶が乱立していて、色彩豊かにメタリックな輝きを放つと同時に、揮発したアルコールの香りも放っていた。身体を立て直して、もう一度天板に頬をつけて眼の前の空き缶の群れを所在なく眺めた。彼自身くだらない生活を送っているとは理解しているため、無性に心が締め付けられて逃げたくなる時がある。何もかもを投げ出したいと思うが、そこにはいつも仕事があり、自分の生活をがんじがらめに縛りつけてくる。いやになっても何も出来ない自分の無気力さが部屋の汚さに現れていた。天板の上にある空き缶以外にも、脱ぎ捨てた服が炬燵の周りを囲んでいる。その汚さが彼を落ち着かせているというのもまた一つの憎々しい現実だった。彼はここでは飾る必要もない、彼はこの部屋の中では王様だった。装飾もつけぬ王様、無人の王国ほど天国に近いものはない。

 先程まで見ていた夢の影響だろうか。物が雑多に散らばる部屋の中で緩みきっていた頭の中を、ひとつの虚しさが通り過ぎていったのを知った。昔はさんざん母親に言われていた彼女を作れだとか、嫁さんを見つけろとかいう言葉は最近はめっきり聞かなくなっていた。母親の胸に抱かれていたあのときの思いは、しっかりとした形としては残っていなかったが、あやふやな空気となってしっかりとした形たちを包んでいる。彼にとって友人と呼べる人間や同じ年齢の同僚もみな結婚していたからか、彼もその世間の流れと周りの目線に苛まれて彼女を作ろうと苦心した時期もあったのだが、愛情というのにいささか懐疑的だった彼は恋まではいっても愛までは到達することが出来なかった。どこまでも一人が好きと見える彼にとって自分中心の恋は味わうことは出来ても、他人を基にした愛まではわかることができなかった。世間はそんな人間をどこか冷めた目で見るところがあると彼は固く信じていた。友人たちですら、若いときは彼の愛情不信に笑っていたというのに、年を取れば笑いは変わらずともその奥に潜む彼の異様さに痙攣した恐怖が見え隠れしているように思えた。そんな友人たちは彼に家族自慢をすることなく、家庭の愚痴を漏らすことを会話の種としていた。気兼ねしていたのもあるのだろう、愚痴を話してすっきりしたかったのもあるだろう。彼はそれを聞いてより一層愛情や結婚から身を引いたが、彼自身その家庭の愚痴を聞きたがっていたことを知っていたのは、話すたびに表情の変化の少ない彼が僅かに口元を歪ませているのを向かい合って話していた友人たちだった。

 彼はそれを知らない。知らないままに生きている。彼の友人たちは彼のいない場所で笑っている。

「あいつってなんであんなに片意地張って結婚とかしたがらないんだろうね」

「さぁね、ここまで来ると不気味さ通り越して滑稽さもあるけどな」

「人間としては良いやつなんだけどね。あの年齢で結婚してないとなると先が大変になりそうだけど」

「あいつ自身はそれでもいいと思ってそう」

「恋愛に不器用とかいう類なんかね、臆病と言ってもいいか。だけど、今の御時世結婚しないとか恋愛感情持てない人間なんてごまんといるからな」

「そうなんだよ。でもあいつはそれを珍しいと勘違いしてるところがあるからな。」

 そういう友人は、彼が愛情がわからない、信じられないと真面目くさった顔で言うたびに笑って反応しながらも、心の奥では身が捩れるほどに嘲笑っている。また、変人を気取ろうとしてやがるとどこまでも馬鹿にして、友人は彼が笑うのを良しとしてるのをいいことに、幾分か馬鹿にした気持ちを混ぜながら顔面に表していた。その笑いの化粧はとても上手で、目を優しげにすれば、口元からは心の奥底から出た嘲笑いが、不快ない笑いの印象になることを友人は知っていた。彼が少しでも自分を際立たせようとして、人生を消費して変人になろうとしていることのを友人はどこまでも馬鹿にしていた。他人からの評価のために、人生を使って薄っぺらい張りぼての印象を抱かせようとしている彼のことを。

 友人は知らなかった。彼が心の底から愛情を信じられないことを。周りが結婚しない己を奇怪なものとして見ていると固く信じているために、理由を見つけて喜んでいることも。

 がしゃんと天板に乗った缶ビールが音を立てて崩れた。彼はそれを見ながら、できることならばこのまま家の中で人生を全うしたいと荒唐無稽な気持ちで時間を過ごしていた。どうせ、この世の中、みんな他人を馬鹿にして生きてるんだから、誰にも会わなければ幸せだろうと彼はそれを固く信じていた。先程まで寂しさが頭の中を通り過ぎた人間とは思えない発言だった。そういう彼は世の中を知っていた。

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