不健康で非文化的な最低限度の幸福

syatyo

不健康で非文化的な最低限度の幸福

 私は我が物顔で道を往来する若者に辟易しながら、ポケットの中で盗みたてのおにぎりを転がす。手のひらに感じる柔らかな不安を他者への苛立ちに変えて、私は今日も自宅——路地裏に作った段ボールハウス——に帰る。

 盗みを働いたコンビニから徒歩で十分。一人で歩くと短いようで長い帰路の途中で、私はふと視界の端に映った病院に足を止める。

 五年前のことだった。世界的な人工知能ブームは科学者たちの熱の入り方に比例するように加速し、ついには自動執刀AIなるものが医学界に足を踏み入れた。もし実用化することになれば、それまでの一歩や二歩をすっ飛ばした大きな進歩であったに違いない。

 そんな期待の星とも言えるAIは偶然にも私が外科医として勤めていた大学病院に持ち込まれた。「マネキンでの実験は何度も成功し、安全性は確保されています。しかし、実用化にはやはり生身の人間での実験が必要なのです。ぜひここで実験をしていただけないでしょうか」と、そのようなことを担当責任者と理事長が話していたのを記憶している。

 かくして実験の第一段階として、私たち医師の手助けのもとで秘密裏に冠動脈バイパス手術が始まった。当時、AIの手術現場にいたのは補助役の私とAIの担当責任者と理事長だった。なぜその現場に私が選ばれたのか、その理由を推し量る術はもうないが、おそらく『運命』という言葉で片付けるほかないのだろう。

 いよいよ執刀に入るという場面で、私は理事長と目が合った。失敗は許さない、もし何かあれば直ちに対処しろ、そんな圧を込めた視線を送られた。しかし、そもそもの話ではあるが、私はこのAIでの手術というものには反対だった。手術とはやはりその場の人間が適切な判断を下すことが重要であり、その判断とは論理的や機械的とはかけ離れたものだったからだ。だが、何の権力も持たない私には理事長の方針に従うという選択肢しかなかった。

 そうやって気の乗らない実験に付き合わされていた私の姿は、理事長の目には患者に集中していないように映ったことだろう。そしてそんな中、最悪の事態が起こったのだ。AIが制御を失い、患者の心臓——それも大動脈弁——にメスを突き立てた。勢いよく飛び出す血の噴流が私の面貌を赤色に染めたことは今でも忘れられない。あまりにひどい失敗に、私と助手は出来うる限りのことをしようとAIの機械を退けようとしたが、もちろんAIが失敗するなどとは露程も考えていなかった担当責任者はひどく慌てて、患者の処置を急ぐ私たちを押しのけて、AIの調整をしていた。

 結局、大動脈弁付近に一センチ強の穴が空いた人間が死を免れられるはずもなく、AIの実験は大失敗に終わった。その場に居合わせたのは私と理事長と担当責任者。さらにその場をカメラで監視していたのが、同じくAIを作った企業の社員だった。ここまで役者が揃っていれば、馬鹿な私でも未来を想像するのは容易かった。

 理事長の謀略により、私は医療過誤をなすりつけられ、遺族に謝罪した。もともと患者の体力のなさを考えるとそれほど成功率の高くない手術であったため、患者の死に対する遺族の紛糾はなかった。それでも私の扱いは『一人の人間を殺した医師』だったため、医師を辞めざるを得なかった。

 それから今の状況に至るまでそう時間はかからなかった。職がなければ金がない。金がなければ食べ物がない——ならば盗みを働くしかない。そういう単純な思考回路でここまでたどり着いたわけだ。

 私は未だに鮮明に覚えている当時を思い出して、再び歩みを進める。安定という言葉が似合っていた医師の頃とは比べ物にならないほど不安定で不健康な生活を強いられている自分と、きっかけとなったAIに苛立ちを感じ、私は今日は早々に眠りに就こうと決意を固める。

 それから数分後、今や当たり前となった空中ディスプレイ型の携帯が行き交う雑踏をかき分け、私は我が家に着いた。二年前に突如として思いついた段ボールによる両開きの扉を開け、ゴミ捨て場から拾ってきたLEDライトをつける。煌々とした白色の光が暗闇に包まれていた部屋中を照らして——部屋の隅で体育座りをする一人の少女の姿を浮かび上がらせた。

「…………」

 沈黙が流れる。私は少女を見つめ、少女は私を見つめているにもかかわらず、そこに会話は発生しなかった。それもそのはずで、私は不法侵入者を見つけた家主で少女は他の誰でもない不法侵入者その人だ。全ての家屋の玄関が手のひらに埋め込まれたマイクロチップで開閉される現代では考えられない状況に、私は鼻で笑うことしかできなかった。

「何をしている?」

 私は淡々と問う。無論、このような場所に迷い込んだ少女なのだから、何かしらの複雑な事情を抱えていることは察するに容易い。しかし、私を見つめる少女の表情が無そのものだったから、私は無粋にもそんな質問をしてしまったのだ。

 すると少女は端的に言う。

「ここは今日からみーちゃんとおじさんのお家なのです」

 勢いよく立ち上がり腕を突き上げたかと思うと、そのままの勢いでフラフラと地面に倒れこんだ。

「おい」

 私はまたも冷淡な口調で呼びかける。元来から何事にも感情を動かすのは得意ではなかった。特に心配や感謝といったものは苦手中の苦手だったと言えるだろう。しかし、眼前の少女の衰弱ぶりに心を痛めないほど、私の心は腐ってはいなかった。

 そうして何をすればいいのか、ただ呼びかけることしかできない私の前で少女はグルグルと腹を鳴らした。飯を食べていなかったのかと納得する私に向かって、少女は力ない笑みを向けてくる。私は突如として存在を主張し始めたポケットの中のおにぎりを取り出した。それは少女にとっては宝石も同然で、少女の視線の全てが私の手に握られたおにぎりに注がれていた。

 余談ではあるが、私は食べ物の好き嫌いが激しい。特におにぎりの具となれば顕著である。例えば、おかかや梅といった王道は好かない。むしろ具の入っていない塩おにぎりなどが好きで、海苔も巻いていない方を好む。そして、そんな私のためかと思えるのだが、コンビニとは得てして王道のものが売れ、他のものは売れ残る。かくして私は好みのおにぎりを盗むことができるのだが——、

「みーちゃんはおかかが好きなのです」

 おにぎりのパッケージに書かれた『おかか』の文字を指差して、少女は羨望の目を向ける。

 今、私の手に握られたものは人生を賭して得た戦利品である。人生を天秤にかけなければその日の食事さえままならない私が誰かを助ける余裕などあるものか、と心の中にいるもう一人の自分が糾弾する。しかし、そもそもの話ではあるが、私はおかかというものが好きではない。今日は偶然にもおかか以外のおにぎりが売り切れていただけで、盗むはずのない具材だ。

 私は葛藤する。腹が減ることの苦しみは嫌というほど理解できる。ならばと、おにぎりを差し出しかけるが、元を正せば少女は紛れもない不法侵入者である。本来ならば警察に突き出すべき人物であり、しかし、生活の困窮を極める私にも良心というものはやはり残っていた。

「私に感謝しろ」

「ありがとうございますなのです」

 少女は了承を得たと見るや否や私の手からおにぎりを奪い取り、休む間もなく一息に口に放り込む。五回噛んで、咀嚼。再びパリッと海苔のちぎれる音を響かせて、五回噛んで、咀嚼。そんな調子で少女はたったの二口でおにぎりを食べ切ってしまった。しかし目測齢十三の少女の空腹がおにぎり一つで満たされるはずもなく、

「まだないのですか?」

 などと捨てられた子犬のような目をして催促をしてくるが、残念ながら今日の私の戦果はおにぎり一つだ。これ以上となれば、いくら手先が器用で盗みに慣れている私でさえ現行犯逮捕は免れない。ならば、空腹を紛らす方法など一つしかない。

「寝ろ。そうすれば空腹など忘れる」

「……薄情なのですね」

「薄情ではない。現実主義と言え」

 私は少女の言葉に言い訳をぶつけた後、黒のトレンチコートを脱ぎ捨て、使い古された毛布に体を包む。もちろん納得していない少女は手持ち無沙汰に私を見つめているが、私は意識的に視線を無視する。もし私が幸せで満ち満ちた医師人生を送っている最中であれば、この少女も少しの躊躇いもなく助けてやったのだろう。しかし、私は不幸で満ち溢れた非文化的な生活を送っていて、他人に手を差し伸べる暇などないのだ。先ほどの必要最低限の良心の呵責によるおにぎりが私の精一杯だった。

 私は未だ感じる少女の視線に心を揉まれながら、部屋の電気を消した。少女の視線の気配は私が眠りに就くその時までいなくなることはなかった。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 カラスとはどうして決まって早朝に鳴くのだろう。そんな他愛ない感想と目覚まし時計代わりのカラスの鳴き声で私は目を覚ました。無論、路地裏で浮浪者として生活している私に遅刻はない。つまり、早朝に起きることは何も気分のいいものではなかった。それでもゴミ箱を漁り文字通り汚れながら生を繋ぐカラスの生き様は私と似たところがあり、私はそんな彼らに無理やり起こされることに不快感を覚えることはなかった——ただし、すぐ隣で寝息を立てる少女の存在を抜きにすれば、ではあるが。

「おい、起きろ」

「うんー……」

 少女は両目を閉じたまま返事をして、大きく寝返りを打つ。そして勢いよく立ち上がったと思えば、あぐらをかく私の懐に座り込んだ。

「あったかいのです」

「何をしている。目が覚めたら家へ帰れ」

 私は至極当然なことを口にする。何も私は眼前の少女を養子のように家族に迎え入れたわけではない。ただ成り行きで夕飯を譲り、寝床を貸しただけの関係だ。断じて仲睦まじく朝の気だるい空気を過ごす関係ではない——のだが。

「みーちゃんのお家はここなのです。だからもう帰ってきているのです」

 私の胸をさも背もたれのように扱い、「天国なのですー」などとほざく。ここまで傍若無人とあれば苛立たざるを得ない。

「よし、出てけ。早く家に帰ってご両親を安心させたほうがいい」

 少女を抱きかかえて、私は無理やり玄関の外に追いやる。しかし、少女の次の一言が私に衝撃を与えた。

「みーちゃんのお父さん、いりょーかごでもういないのです。お母さんもお父さんのところに行ったからいないのです」

 少女は昨日の朝ごはんの内容を話すかのように、そんなことを口にした。私の解釈が正しければ、父親は医療過誤で亡くなり母親もそれを追って自殺した、ということだ。眼前の少女の溌剌とした雰囲気からは想像し得ない真実を、私は確かめないことはできなかった。

「それは……もう亡くなってしまったということか?」

 その質問がどれだけ無粋なものだったかは他人の気持ちを慮ることが苦手な私でも容易に分かることだった。しかし、少女はまたも平然と答える。

「そういうことなのです。だから、今日からみーちゃんのお家はここなのです」

 少女は段ボールでできたボロ小屋とも呼べない粗末な家を指差して、うっすらとはにかむ。そんな少女の力ない笑みに私の良心が揺さぶられ、それよりも私の後悔がひどく掘り返された。

「医療過誤……」

 五年前のAIのミス——もとい私の過ち——を象徴する言葉を、私は無意識のうちに口からこぼす。あの事件と少女に関係性がないことなどわかりきっている。医療過誤というものはどこの病院でも必ず起こっているもので、件数は少ないにしても決して珍しいことではない。そもそも少女が無関係であることは、当時の遺族の中に子どもの姿が見当たらなかった時点で確定している。

 それでも、私はどうしても黒瞳を潤ませる少女をあの事件と切り離すことはできなかった。つまり私は少女をここで養うことこそがあの事件に対する償いだと、そう感じたのだ。

「……まだ腹は空いてるか?」

 私は今しがた自らの脳内に浮かんだ案がどれだけ道徳に反しているかを省みながら、少女を家の中へ招き入れる。私の言葉の真意が知り合ったばかりの少女に伝わるはずもなく、ただ額面通りに受け取って、少女は満面の笑みで私の前で正座した。

「空いてるのです!」

「そうか、私も同じだ。ここで質問だが、こういう時に私は何をしていると思う?」

 私の要領の得ない質問に少女は首をかしげる。それもそのはずで、一般的な良識のある人間ならば私のしていることなど思いつきすらしない非道な行為でしかない。しかし私の家に住むと主張する以上、『万引き』という犯罪行為は避けては通れないのだ——そしてその事実に自ら気づくことも。

 だが、まだ幼い少女に邪な考えなどあるはずもなかった。

「昨日みたいに寝るのですか?」

「そんなわけあるか。寝るのはその場しのぎだ」

「それならどうするのですか?」

 少女の無垢な質問に私は言葉を詰まらせる。一度は万引きという非人道的な行為を享受しようとした私ではあったが、純粋そのものとも言える少女を汚す気が起きなかったのだ。

「……私が——買ってくる」

「わかったのです。みーちゃんはお留守番してるのです!」

 仕方なくはぐらかした私に向かって、少女は顔をしかめて敬礼をする。この家は必ず守るとでも言わんばかりの気迫を感じさせる姿は、私の知らない感情を呼び起こす。目の前の人間を哀しませてはいけないという責任感と、どうにかして喜ばせてあげたいという使命感——今日だけは失敗してはいけないと、そう心に誓う。

「それでは行ってくる」

「いってらっしゃいなのです!」

 私はトレンチコートを羽織り、路地裏から抜け出す。ふと振り返れば少女が手を振っていて、それはまだ騒がしさを潜める雑踏に私が溶け込むまで続いた。十数年振りの見送りを受け、私は柄にもなく震える両手をポケットに突っ込む。今日は大事をとっていつもとは違うコンビニにしようと群衆に逆らうように歩みを進める。

 ふと見上げた空には入道雲が私を見下ろすように低くまで下りてきていて、果てしなく続く空は灰色を極めていた。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 私は疲労を滲ませた顔で道を往来するサラリーマンに同情しながら、ポケットの中で拳を握る。目的のコンビニはもう目の前。今日に限ってはそのコンビニを決戦の地と言って申し分ない。人二人分の朝食——あわよくば夕食まで——を盗むにはそれなりの技術と運が必要であるからだ。

 いつになく感じる妙な緊張感と、万引きという行為にはそぐわない責任感と使命感に苛まれながら、私はベルの音とともに自動ドアをくぐる。バイトとして雇われたばかりであろう青年の「いらっしゃいませ」という声に背を向け、私は雑誌コーナーに置いてある週刊誌を手に取る。特に世情に興味があるわけではないが、こうして何か目的があって来店したということを店員に示さなければ、万引きという行為はあまりにリスクが高い。

 そうして私はいつものルーティンをこなして、レジにほど近いおにぎりコーナーに足を運ぶ。横目で店員を確認すると、レジの下で携帯か何かをいじっているようだった。私は千載一遇のチャンスだと、塩おにぎりを二つ手に取り、片方を袖の中へ入れてもう片方を棚に戻し、ポケットに手を突っ込むのと同時に袖からポケットへおにぎりを移動させる。いつもと変わらぬ手際の良さ、そしていつもと変わらぬ具だ。ふと不安になり店員を横目で伺えば、未だ携帯をいじるのに勤しんでいるようだった。

 私はタイミングの良さに感謝しながら、次は飲料コーナーへ急ぎ足で向かう。私の分の緑茶と、少女の分のオレンジジュースをおにぎりと同じ手法で盗んだところで、少女に渡す分のおにぎりを手に入れていないことに気づいた。あまり長居するのも怪しまれると思い、私は気早におにぎりコーナーへとんぼ返りした——のだが。

「どうかされました?」

 店員の呼びかけに私は微かに肩を震わせる。何か勘付かれたのか、決定的瞬間を見られたのか。幾多の可能性が脳内を駆け巡る。しかし、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた私の懐にはいくつもの回避策があった。

「……お気に入りのおにぎりがありましてそれを探していたんですが、どうも今日は売り切れみたいで」

 一息に言い切って店員の反応を伺う。少々強引な言い分ではあるものの、わざわざポケットの中身を見せてくださいなどという展開にはならないはずだ。だが、そんな風に高を括る私を困惑させる言葉が店員の口から飛び出した。

「それなら俺が予約しておきましょうか? と言っても、あそこに並べないで裏に置いておくだけなんですけど。種類は何ですか?」

 店員は笑いながら私の顔を覗き込んでくる。なんとも若者らしい強引さで善意を押し付けてきた店員に苦笑して——私はその真意は他の場所にあるのではないかと疑う。私が嘘をついていることを見抜いて、カマをかけているのではないか。もしくはポケットに商品を入れた瞬間を目にしていて、からかっているのではないか。数秒思案して、店員の表情を伺うがこれと言って変化はない。

 結局、疑念が杞憂にも確信にも変わることはなく、私は昨夜の少女の無垢な双眸を思い出した。

「……おかかなんですが」

「ああ、確かに王道の具ですからね。午前中にはなくなっちゃうんですよ。一応、補充はしてるんですけど。——それではまた明日」

 店員は何が面白いのかまたもケラケラと笑って、再び携帯をいじり始めた。私は話が一段落したのだと胸を撫で下ろして、急ぎ足でコンビニから脱出する。そのまま騒がしさを取り戻しつつある雑踏に身を投じて、改めて危機一髪だったのだと数秒前の自分が置かれていた状況を思い出す。押し付けがましい善意のせいで妙な約束をしてしまったが、明日は大人しくした方が身のためだろう。

 そう考えるとポケットの中の一つのおにぎりと二本の飲み物が急に重みを増したように感じて、不意に少女の笑顔が脳裏に浮かんだ。どうやらひもじい思いをするのは私一人だけかもしれないと、ため息をついて——昨日の私と今の私の変わりように口角が吊り上がる。

 良心のために、と理由をつけて少女にあれこれしてやっていた昨日の私は何処へやら。今は良心では説明ができないほど、少女のことを優先している自分がいる。しかし、断じて情が移ったわけではない。五年前の事件の罪滅ぼしのために少女を優先しているだけなのだ。

 そんな風に言い訳がましい理由づけをしている私を怒声が貫く。

「おいっ!」

 まさか万引きがバレたのかと肩をすくめて声の方を振り返れば、どうやら若者同士で喧嘩をしているだけのようだった。

「ふぅ……」

 私は万引きが失敗したわけではないことに安堵する。今、捕まるわけにはいかないのだ——何故?

「…………」

 五年間、私は誰にも発見されないように万引きを続けてきたが、何も逮捕されることを恐れていたわけではない。捕まったならばそれはそれで受け入れなければいけない現実で、何より五年前の罪滅ぼしの意味も多少含まれるだろうと思っていた。それなのに私は今、捕まることを恐れていた。

 数秒立ち止まり思案するが結局答えが出ることはなく、私は再び足を進める。

 気付けば、空を埋め尽くしていた灰色は気配を消していた。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




「ただいま」

 何年振りに言ったかわからない挨拶を口にしながら、私は自宅の扉を開けた。しかし、鬱陶しさすら感じさせるほど元気な声は聞こえてこない。不審に思って家中を見回すが、少女の姿はなかった。

 だが、その代わりに不自然に膨らんだ毛布が部屋の隅に鎮座していた。

「…………」

 言葉も出ないとはまさにこのことだった。どうやら私から隠れているようだが、まるで成功していない。頭隠して尻隠して形隠さず、と言ったところか。私が人生最大の修羅場を乗り越えた舞台裏では、幼い少女の幼稚ないたずらが計画されていたわけだ。

 私はしたり顔をしているだろう毛布の中の少女の姿を想像して、今までの人生ではおおよそ意識すらしなかった悪戯心が働いた。まずは、おそらく隙間から私の様子を覗いているであろう少女に見せびらかすようにジュースとおにぎりを取り出す。直後、「あ……」と小さな声が毛布から漏れる。だが私は気づかないふりをして、おにぎりの封を開ける。

「だめなのですー! みーちゃんも一緒に食べるのです!」

「ん、いたのか」

 私は本当に気づいていなかったというように振舞って、トレンチコートを脱ぎ捨てる。

「ほら、お前の分だ」

 あえて無愛想におにぎりを少女に投げつけて、私は少女に代わって毛布にくるまる。今日の食事がない以上、無為に脳を活動させてエネルギーを消費するわけにはいかない。明日こそはいつもの二倍の量の飲食物を持ち帰らなければいけないのだ。空腹で倒れている場合ではない——のだが。

「寝るのですか?」

「あぁ、眠いんだ。ほっといてくれ」

「……ご飯、半分あげるのです」

「……何?」

 少女の予想外の発言に私は疑問符を浮かべるしかなかった。昨日までは人から奪ってでも食べたい、という勢いで食欲を解放させていた少女が、私に半分くれるのだと言うのだから。

 私は身体を起こして、少女と向き合う。

「子どもだからってバカにしないで欲しいのです。おじさんにお金がないってことも、たぶんこれは盗んできたってことも、今わかったのです。今日はこれしかご飯がないこともわかるのです。そしておじさんが我慢しようとしてくれてるのもわかるのです」

 少しだけ顔をしかめて話す少女を見て、私はまだ医師として働いていた時に出会った少女と同じくらいの年齢の少年を思い出した。

 確か母親が末期の肝臓ガンに身体を蝕まれ、余命残りわずかという頃に話したことがあった。両親の意向で少年には母親が命を落とすその時まで、ガンだということは伝えないという約束をしていた。しかし少年は私に会うや否や、「もうすぐお母さんが死んじゃうのはわかってる。だから、お母さんのこと、絶対に助けて」と、そんなことを言われたのだ。

 その少年然り、私の現状を言い当てた少女然り、子どもというのは妙に察しのいい時がある。

「みーちゃんも一日ぐらいご飯がなくても我慢できるのです。……だから、おじさんだけが我慢するのはやめて欲しいのです」

 少女は揺るぎない視線を私に向けてくる。生まれて十数年しか経っていないとはとても考えられないほど、覚悟に満ち満ちた視線を。

 しかし、私にはどうしてかわからなかった。つまり少女がどうして私と共に暮らすことに固執し、まして苦痛を分かち合おうとする理由がわからなかったのだ。私は少女に出会ってから三度目となる無粋な質問を投げかけることにした。

「どうして、そこまで私に執着する? 今の時代のことだ、私のような生活をしている人間は他にも沢山いたはずだ。それなのにどうして私を? 私は金もないし、自分一人で生きていくので精一杯だ。他の人の元へ行けばいいだろう?」

 私にそこまでの魅力があるとは思えなかった。医者である頃の私ならまだしも、今の私は反社会的であり、とても尊敬できるような人間ではない。だが、少女の答えは予想を裏切ってきた。

「……おじさん、私のお母さんがいなくなる時と似てたのです。なんだか何かを見てるようで見てないのです。お父さんもお母さんもいなくなって街を歩いてる時にそんなおじさんを見つけたのです。だからみーちゃんはおじさんの家で待ってたのです」

「……つまり、お前の母親と私の姿を重ねたと?」

「違うのです。今言ったのはあくまできっかけなのです。みーちゃんがおじさんの家に住もうと思ったのはもっと別の理由なのです」

 少女は大げさに手を振って、言葉を続ける。

「おじさん、見ず知らずのみーちゃんにおにぎりをくれたのです。おじさんに会うまで何人かに声かけても、誰も何もくれなかったのです。みーちゃんのお母さんとお父さんも、お金がないからってご飯くれなかったのです。でも、おじさんはお金がなくてもご飯をくれたのです。だから、おじさん優しいと思ったのです。だから、今度はみーちゃんが我慢する番なのです。だから、おじさんと一緒に暮らしたいのです」

 少女の話は年齢相応に言いたいことがまとまっていなかった。それでも、何を私に伝えたかったのはそれとなく理解できたような気がした。言葉の通り意味を取れば、私は飯をくれる都合のいい人間だったから一緒にいることを決めた——のではないのだろう。

 少女の話の背景にあるのはおそらくネグレクトだ。父親の看病や治療費のために母親は疲労困憊だったのだろう。そしてその矛先が娘に向いてしまうのは不思議なことではない。つまり、少女にとっては私の欠片ほどしか残っていなかった良心がはじめての優しさだったのだ。

「そう、か……」

 しかし、私は素直に一緒に暮らしていこうとは言えなかった。少女は私のことを優しい人間だと見て、今話したことが全てなのだろう。それに対して私はどうだろう。私は今、少女を罪滅ぼしのために養おうとしているのだ。いわば償いのための道具として扱っているわけだ。

 邪なことばかり考える私は純粋な少女の気持ちに答えることはどうしてもできなかった。ただ両親が亡くなったばかりで感傷的になっただけ。久しぶりに五年前の事件のことを思い出して感傷的になっただけ。そうやってお互いに人肌が恋しくなっただけなのかもしれない。この先、少女が興味をなくして出て行くこともあれば、私が少女を疎ましく扱うこともあるだろう。それでも家に帰れば「おかえり」があり、家を出るときは「いってらっしゃい」がある——と、私は不意に自分で自分が可笑しくなった。

「そうか。そうだったのか」

「どうしたのですか?」

 少女はくりっとした目で不思議そうに私の顔を見つめる。

 どうやら私は五年間路地裏で一人寂しく暮らしてきただけで、随分と人が変わったらしい。医者であった頃は一人であっても金と時間さえあれば幸福であるなどと、医者仲間に流布していた気がするが、どうにも今の私はそう思っていないらしい。さりげない一言が今の私にとっては幸福だったのだ。そして、それを言ってくれる人がいることが何にも代えがたい幸福であるのだ。

「なんでもない。——さて、お前は私と暮らしたいと言ったが、お金のない私と暮らすということは何をしなければいけないかはわかるな?」

「……盗む、なのですか?」

「そうだ。今日の飯はこれで最後。明日も当然のごとく盗みを働かなければいけない——が。明日に限っては入居祝いだ。『買った』ものを食おう」

「でも、おじさんはお金持ってないのですよね?」

 意味がわからないというように首をかしげる少女を横目に、私は家の隅っこ——段ボールの隙間に挟めていた千円札を取り出す。

「どうしてもお金を使わなければいけない時のために使わないで取っておいた千円だが、私はこれをどうしても明日使いたい。それならば、一日だけ贅沢をするのもありだろう?」

「……いいのですか? みーちゃんが食いしん坊だから無理言ってるのですか?」

「あぁ、そうだな。確かにそれもあるが……」

 私は少女のありったけの心配を受け止めて、千円札を握りしめて毛布にくるまる。

「お前と暮らせるのが嬉しいんだ、私は」

「——それならいいのです」

 少女は私の言葉にそう答えて、無理やりに毛布の中に割り込んできた。もともと一人用の毛布だ。狭いことこの上ない。窮屈で妙な生暖かさが心地悪く——それはこの五年間で私が感じたことのないものだった。

 私は奇妙な充足感を得ながら、ゆっくりと目を瞑る。そして眠気が押し寄せてきた頃、不意に少女が「あ」と声を出した。

「おやすみなさいなのです」

「あぁ、おやすみ」

 挨拶を交わし、やがて少女の寝息が聞こえるようになった。昨日も聞いていたはずで、全く違うように聞こえる寝息を聞きながら、私はひしひしと感じるのである。五年前の私なら不幸だと罵っていたはずのものを——不健康で非文化的な最低限度の幸福を。

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