あなたにキスを

たまごかけまんま

藍-君にキスを

「じゃあ私、そろそろ寝るね」


 重なり合った唇をそっと離し、彼女は静かにそう告げた。

 まもなく深夜十二時。五分もすれば二人が愛を育んだ白い家にも一日の終わりが訪れる。

 そんな当たり前の事が今はただ苦しい。


ゆき……さん」

「どうかした? 正志まさし

「雪さんは、怖くないんですか」


 ——全て忘れてしまうのが。

 最後の一言を言わずして唇は震えだし、声はあっという間に枯れてしまう。

 そんな情けない正志を慰めるよう、雪は頭をそっと撫でた。

 見上げた彼女の横顔は、月明かりに照らされ酷く美しかった。


「そうだね……私は淋しい、かな。一晩たったら全部忘れて、私空っぽになっちゃうからね。自分の名前も居場所も、友人も家族も、それに君のことも」


 病名、前向性健忘症。一度寝ると記憶はリセットされる。


 嬉しかったことも、楽しかった時間も、キスの味も。

 血も涙もない神は、君を愛する気持ちさえ覚えておく事を許さない。

 だからこそ、どんな顔をして「おやすみ」と言えばいいのか分からない。


「朝起きても記憶が残っていて、おはようって君の胸に飛び込めたらな、なんて想像しちゃう。まあ所詮は夢だけどね。うん、やっぱり淋しいや」

「それなら……」

「でもね、怖くない」


 雪は正志を真っ直ぐ見据えていた。


「何一つ、なかったことにはならないから」


 雪は笑顔だった。


「一緒に過ごした時間を確かに私は忘れてしまう。でもなかったことにはならない。君のために作ったパンケーキを真っ黒にしちゃったことも、君が私の似顔絵を描いてプレゼントしてくれたことも、一緒にテレビを観て馬鹿笑いしたことも、全部確かにあった日々。君がその愛おしさを一晩中覚えていて、目が覚めたら私に全部教えてくれる。だから怖くない」


 教える確証などない。


「教えざるを得ないね。だって君、私のこと好きすぎるでしょ? おはようって言う前に好きって言っちゃう。間違いない」


 受け入れてくれるとは限らない。


「絶対好きになる。記憶をなくしたって私は私。だから君の奥手な所も、思いやり屋さんな所も、また好きになる」


 どうしてそこまで信用できる。


「君だから。私が大好きな君だから」


 目をそらさず、言い切った雪。恥ずかしい言葉の数々を、すぐに忘れてしまうからといって言葉にできる彼女が羨ましかった。


 正志には言えない。まだ言えない。

 だから黙って彼女にキスをした。

 初めて彼女の髪に指を絡め、初めて頬に触れ、忘れられない味を刻んだ。


 あと六時間もすれば再び日は昇る。彼女の記憶はリセットされる。

 どうすれば彼女が再び自分を愛してくれるか。それは分からない。

 過去の自分に問いたくても問えない。


 ただ、すべき事は決まった。

 飾らない自分を見せること。

 たくさん好きだと伝えること。

 雪を信じる。自分が愛した雪を信じる。

 そして全てを忘れてしまう前に、この愛おしさを再び雪に託す。


「おやすみ、雪」

「ありがとう、正志」


 じれったかった長針も、ようやく短針に追いついた。

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