長い長い夏休み
山彦八里
48日目
寝転がって傾けた視界の端で扇風機がくるくると回り、開け放った窓から海風が吹き込んで隣の彼女の髪を揺らす。
彼女は何事か書きつけているノートから目線を上げることなく、ただヘッドホンにかかった髪を無造作に払った。
「なに聞いてるんだ?」
「現世の悲鳴」
「……趣味悪くないか?」
ヘッドホンの中にはどんな阿鼻叫喚が広がっているのだろうか。
彼女はちらりとこちらを見て、メガネの奥の目を猫のように細めた。
「冗談」
笑えない冗談である。
「東京は暑いらしいよ。40度近いってさ。これは本当」
「マジかよ現世。帰る気なくなるな」
「……帰らないの?」
「帰るよ。年に1度だしな」
そう、と素っ気ない態度の彼女に苦笑して、ペットボトルの蓋を開ける。
寝転がったまま炭酸飲料を飲むのは工夫がいる。具体的にはゲップを堪える気合だ。
「行儀悪い」
「そのおみ足はお行儀いいんですかね、お嬢さん?」
本棚に引っかけるように伸ばされているのは程よい肉付きの生足だ。運動もしないくせにすらりと伸びている。
しかし、運動か。考えてみれば最近は俺もご無沙汰だったな。
「なあ、お前さんは海行かないのか?」
「そっくりそのまま返す」
まったくだ。俺も窓から見るばかりで行ったことはなかった。そもそも内陸出身の俺たちは海を見るのも初めてだったのだ。
しかし、この部屋で過ごすようになってからはあまりに穏やかな日々で、チャレンジ精神をすっかり忘れていた。
そんなことではいかん。猛ろ若人。夏だ。海だ。具体的には水着だ。
「つかぬことをお訊きますが、お嬢さんは水着お持ちですかねえ」
「あると思ってるの?」
にべもない返答。愚問だった。この部屋で暮らし始めてから彼女が買ったものと言えば、本と書籍とブック、あとはノートと筆記用具くらいのものである。
「じゃあまずは買い物だな」
「それ、私も行かないといけないよね?」
「サイズ教えてくれれば適当に見繕ってくるぞ」
「…………」
絶対零度の視線だった。おかしい。出不精な彼女への一切邪念のない助け船だったのに。
「ちょっと待ってて。これ仕上げちゃうから」
「急がなくていいよ。俺もこの本キリのいいところまで読みたいから」
「うん」
素直に頷く彼女の横顔をひとしきり眺める。ガン見する。恥ずかしそうに睨まれる段になって、名残惜しくも手元の本へと視線を戻す。
それからしばらくは、カリカリとペンが進む音と、ペラリとページを繰る音ばかりが二人の間に流れる。
「……海、楽しみだね」
「ああ」
「地平線に陽が沈むところも見たいね。大きな火の玉が海に溶けて、赤く染まるんだって。みんなその話をするんだって」
「そいつはなんとも、楽しみだな」
「でしょ?」
そう言って彼女は小さく微笑んで、するりとヘッドホンを外した。
さあ、終わらない夏を終わらせに行こう。
長い長い夏休み 山彦八里 @yamabiko8ri
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