その男の夢

司田由楽

その男の夢

 遠い記憶に一つだけ、幼い喜びがあったことを覚えていた。頭を撫でる大きな手、優しく笑う若い父。夢を語るその声は、強く、明るく、希望に満ちて――今だからこそ分かることだが――少しだけ、虚勢を張っていた。それでも子供だった俺はその強がりを見抜くことなどできず、ただ憧れと誇らしさだけを胸にその大きな背中を見上げていた。

 思えば、あれが最初の火だったのだ。今、この胸に燃える炎――人々を、平和を、守らねば。そう体を突き動かすその炎。それがあるのはきっとあのとき父がいたからで……でも、今は、その人はもういない。


 目を覚ましても視界が黒一色だったのには流石に困惑した。何があったんだっけ、と記憶を遡り、一瞬で血の気が引く。敵の襲撃にあった基地の救援任務に行き、交戦中になんか、亜空間っぽい黒いのに飲まれた。意識が途切れる前に「サン!」と切羽詰まった呼び声が聞こえたから、とりあえず危険には気づいてもらえている。助けは来るかもしれないが……完全に不意を打たれた。なんで死んでないのか分からないが、とにかく己の油断に歯噛みする。まずは状況判断……と言いたいところだが、何も見えないし分からない。武装が解かれてることに気付いて更に警戒を深める。

「どうしたの?」

 突然聞こえた、幼い声。どうしてこんなところに子供が、と振り向いて、ひゅうと喉が鳴った。驚きとも恐怖ともつかない感情に、背筋が冷える。

「大丈夫?」

 驚きに目を見開く。小さい手も、ぴょんとはねたくせ毛も、つぶらな目も見おぼえがある。ああ、父さんと母さんと一緒に、子供の俺が無邪気に笑っていた写真、武装の隠しポケットの中に入れたままだ。その時の俺が心配そうに、俺を見上げている。

「流石に、尋常じゃないことだけは分かる」

 口の中で呟いた言葉は目の前の小さな俺には聞こえていなかったようで、きょとんと首を傾げるばかりだ。この異常事態に異常事態を重ねたようなシチュエーション。確実に、罠だ。でも、今すぐ襲ってくるわけでもない以上、とりあえず、様子を見るしかない。

「君、ここはどこだか分かるか? 俺、実は迷子なんだ」

 まいご、と繰り返す子供に、苦笑交じりに頷く。目を丸くしていた子供が、歯を見せて笑った。

「そうだね、いつも迷ってるもんね」

 ざくり、と切り込まれた。そんな錯覚さえした。冷静に立て直してみようと思ったって、結局俺は混乱しっぱなしなのだ。攻撃が体に向けられるだけなんて無意識にでも思うんじゃなかった。目の前の俺は――いや、これは、確実に精神を揺さぶりに来てる。

「進路を決めた時だってそう。最初の任務で怪我した時だってそう」

 にい、と邪悪に笑みを深めたそれの言葉を聞いてしまう。聞くべきじゃないと分かっているのに、言われたそれらは確かに俺の後悔で、どうしても目を逸らせない。

「そんなことで、誰を救えるってのさ。自分一人でいっぱいいっぱいのくせに」

 悪意に満ちた子供を睨む、その視線が弱いのが自分でも分かる。

「迷っても、俺が手を伸ばさなきゃ駄目なんだ」

「どうしてよ」

「…………」

「最初の男の子供だから?」

 ゆっくりと、胸に刃が滑り込んでくるみたいだ。触られてさえいないのに、そう思ってしまった。

 コードネーム、サン。陽という名前から付けられた、安直なものだ。別に名前なんか分かればいいと思っていたので気にしちゃいなかったのだが、何度も何度も呼ばれて、間抜けなことについ最近気づいた。本当に呼ばれているのはsunではなくson、だ。太陽ではなく息子。全く英語圏の人に怒られそうなダブルミーニングだ。馬鹿げてる。

「最初の男の子供。たったそれだけでどれだけの重圧を受けてきただろう」

 不意に大人びた口調でそれが言う。最初の男。俺の父さん。敵の脅威にさらされた人間社会を守るため、最初に武装をまとって戦った男。もう何年も前に死んで、でもその名前を聞かずに過ごすことの方が少ない。それほど、偉大な人だったのだ。

「最初の男も、その息子のお前も、結局は人柱なのだ。何も知らずにのうのうと過ごす、愚かな奴らの犠牲になる運命なのだ」

「それは、」

 違う、と続けようとした喉が引きつる。脇腹を貫く痛みに、怪我の記憶が蘇る。三か月前、市民を庇って受けた衝撃が、また体を苛み始めた。そのうち全身に痛みが広がっていく。腕も、脚も、痛む箇所には全部覚えがあった。武装を纏うようになってから――誰かを守ろうと立ち上がってから、受けた傷。

「手放してしまえ。有象無象の賞賛だけで立っていられるほど強くあることなどできるものか。そいつらは、お前がしくじれば掌返して責めたてる。その痛みだって本当は知っているのだろう」

 地面に額をこすりつけるような姿勢で、胸の底に隠していた傷口を自分で広げる。お前のせいで、となじる声は一つ一つ増えていき、頭の中でわんわんと鳴り響く。お前がいなければ、もっと早く来てくれれば、矛盾した叫びが脳を揺らす。

 心も体も痛かった。呼吸はひどく乱れ、頬を熱いものが伝う。今自分を打ちのめしているのは、目の前の子供ではなく現実であると、理解できてしまうのが辛かった。

「終わりにしたっていいんだ。お前を責めるやつらは黙らせてしまえばいい。それだけの力を持っているんだから」

 穏やかな声は痛む頭に染みわたるように広がっていく。

 ひどい痛みに苛まれながら、ぱくぱくと口を開く。なんだい、と耳を口元に寄せた子供に向けて、どうにか声を絞り出す。

「ごめん」

 ようやく出た声が、自分が思っていたよりずっと力強くて驚いた。それは謝罪と拒絶を一緒にした一言で、酷く疲れていたけれど、掠れても、震えてもいなかった。まだ、立てる。心を侵す毒のように甘い言葉に、まだ抗える。それだけのことに大層勇気づけられて、深呼吸を一つ。そして再び口を開く。

「それでも、俺は夢を捨てられない」

 子供の頃ほど無邪気には信じることはできないけれど。誰もが理不尽にさらされず、笑って暮らせる未来を、諦めることなどできやしない。だって、それは。

「だって、それは、あなたが俺に聞かせた夢だったからだ。……『父さん』」

 子供が、陽炎のように揺らめいた。


「……何故、分かった」

 小さな疑問と共に、どろりと子供が溶ける。闇から現れたのは顔を隠した長身の男。遠い記憶と重なって、先ほどとはまた違う痛みが胸に走る。

「分からないよ。でも、多分、憶えていたんだ。あなたの声を」

 怒りと悲しみ、諦観に濡れて――それでも、遠い記憶の優しい声と同じもの。どうにかその疑問に答えた。痛みは一切引かないが、拳を握って顔を上げる。

「あなたが誰にとっても最初の男だったように、俺にとっての最初もあなたの言葉だった。あなたの語る夢だった」

 今の俺の原点にして、基礎の基礎。普段は仕舞いこんでいる夢は、こういうくじけそうな時に立ち上がれるようにあったとさえ思えた。

「今の俺があるのはその夢があったからだ。その夢は失われてないから……俺は、まだ立てる」

「『だれもが笑って暮らせる世界』、か。机上の空論以下の、愚かな夢物語だ」

 吐き捨てるような言葉に、また涙がこぼれた。手の甲で滴を拭い、叫ぶ。

「必ず叶う夢じゃない、そんなことは分かってる! けど! 少しでも近づけるように、歩みを止めないことならできる!」

 膝を叩いて喝を入れ、歯を食いしばって立ち上がる。足の震えはゆっくりと収まって、深く息を吐いた。大声を出したせいかくらくらするけれど、もう倒れることはないだろう。

「……俺は、まだ戦うよ。確かに、怪我も多いしひどいことを言われることだってある。でも、俺はまだ夢を捨てられないから」

 しっかりと立ってそう言えば、男は「愚かな」と呟いた。

「最初の男の夢、など……最初の男は負けたのだ。闇に屈し、誰も彼も裏切った……最愛の人さえも。そのような、無責任な男の理想論を追ってどうする」

「最初の男が負けたって、俺が負けたわけじゃない。とっくの昔から、それはあなただけの夢じゃない。俺以外にも、あなたの夢を追いかける人はいる」

「いずれ、誰もが気付く。そんなものは幻想だとな。その時お前はどうする」

「どうって……どうもしない。それがなんだよ。考え方が変わっただけの話だ」

 拍子抜けしたような声が出た。喉のこわばりも取れて、舌は滑らかに回る。

「この業界、挫折した人なんかいくらでもいる。怪我して普通の生活を送れなくなった人だっている。それを恐れて、そうなる前に辞める人だっていた。あなただってそれと同じだ。」

 ただ、周囲の期待が大きすぎただけだ。先駆者であったがために、考えを変えることを許されないというのは……それは、個人にはきっと重すぎる。

「俺はあなたを責めないし、他の人のことも責めやしない」

 そりゃ、あなたの肩書によって損したことが得したことの二十倍はあったし、母さんを一人にしたのは許せない。でも、俺も父さんも人間だから……何もかも放り出したくなることがあるのは、分かってしまうのだ。

「俺だって、何もかも嫌になることが将来あるかもしれない。その可能性を棚に上げてあなたを責めようとは思わないよ」

 父さんは、黙って俺を見つめていた。

「お前は、まだ戦うのか。傷つき倒れたとしても」

「まだ、じゃない。これから戦うんだ。名前も知らない誰かの為に、何度だって立ち上がる」

 緩やかに呼吸を整えて、指先でそっと力を手繰り寄せる。妨害されてるのか普段より力の巡りが悪いが、焦らずにそれを引き寄せる。どうか、この闇を照らしてくれ。俺と共に戦ってくれ、と。

「その、武装は」

 小さな声には聞こえないふりをした。父親の形見を改良したものだ、何か思うところがあるのだろう。だけど――今は、俺の力だ。

「だから――俺を止めないでくれ、父さん」

 鎧を纏う拳を突き付け、静かに言い放つ。相手は動じず、ただそこに立っている。

「断る、と言ったら?」

「それこそ、言うまでもない」

 腰を落とし、身構える。織り上げられた武装が、俺の背中を支えてくれる。

「戦って、退ける」

「倒すでもなく、殺すでもなく、か」

 笑い方がひどく意地悪い。死んだと思っていた父親が生きていて、でも敵としてそこにいるという事実だけでいっぱいいっぱいなのに。奥歯を強く噛みしめて、どいてくれ、と低い声で言った。

「……空元気だけは、一人前と見える」

 ふっと吐き出された吐息。いつでも飛び出せるよう踵を浮かせていたはずが、突然ずるりとバランスを崩した。闇が、足元からせりあがってくる。

「な、あ――!」

「今回は、俺が作戦を誤った。そういうことにしておこう」

 わずかに笑みの混じった言葉。どろりとした闇が視界を包むのに、どうにか抗おうとする。

「くそ……とう、さん!」

「また、会おう。……陽」

 名前を呼ばれるなんて思ってなかった。はっと息を呑んだ隙に、体をがんじがらめにされる。畜生、と叫ぶことすらできず、俺は意識を失った。


「サン……おい、陽! 大丈夫か!」

 耳元で叫ばれ、つい顔をしかめる。

「目ぇ覚めたか? よかった……」

 いかつい武装とほっとしたような声のギャップに目を瞬く。目を眇めて、口を酸っぱくして言い続けている言葉を最初に投げつけた。

「武装してるときは、本名で呼ぶな……」

「しょうがねえだろ起きねえんだから」

 むっとしたような声で言う同僚の手を借りて体を起こすと、するりと武装がほどけた。光となって収束する武装に、俺ではなく同僚の方が慌てている。

「バッテリー切れ? ウソだろ、いなくなってた間に何があった?」

 答えようと口を開きかけて、ぐらりと視界が揺れた。ひどい目眩に額を抑えると、背中を支えられる。体に力が入らない。

「おい、大丈夫か? 本当に何があったんだよ」

「えっと……」

 なんと説明したものか、そもそもあれは本当のことだったのか。父さんが生きていて、しかも今は敵対しているだなんて。口ごもる俺を見て弱ってると勘違いしたのか、同僚が表情を引き締めた。

「……いや、消耗してるみたいだし話を聞くのはまた後だな。とにかく撤収するぞ」

 ぐいと引き上げられ、どうにか立ち上がる。肩を貸してくれる同僚に、のろのろと頭を下げる。

「悪い」

「そこはありがとう、だろ? よし、行くぞ!」

 明るく朗らかで屈託のない声。俺は力なく頷いて、ゆっくりと歩き出す。

 父さんの言う通り、この仕事は楽じゃない。俺だって他人の賞賛だけでこんなきついことやってられるほど強くない。けれど、この胸に夢がある限り、支えてくれる仲間がいる限り……まだ、俺にもできることはある。そう信じることができた。

 信じることは、できるけど。

「……武装の棘が食い込んでいてえ」

「マジで? それはごめん」

 今日の教訓。生身のやつに肩を貸すときは武装を解こう。ああ、全く……理想からは程遠い、締まらない我が身がもどかしい!

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