第10話 信頼できない語り手ならぬ、自分自身

「確かに見ました。本当です。あれは絶対に見間違いや幻覚なんかじゃありません」

 ミステリなどの小説でしばしば目にするセリフである。人によって受け止め方は違うと思うが、私はこういった類のセリフを聞くと、ちょっと白けてしまう。 

 話の都合上、証言者に断言させているのだろうが、実際の人物がそんな風にはっきりと言い切るものだろうか。かくいう私などは、注意力に欠ける上に変な思い込みをしてしまうタイプの人間なので「絶対に見間違いはない」なんて言うのには抵抗がある。もちろん、人によっては記憶力に優れていて、一度見たものは忘れないなんて人もいるだろうが。


 どうして、私がこだわるのかというと、過去に幻聴を体験したことがあるからだ。驚くべきことに、幻聴というのは本当にリアルに聞こえるのである。ある意味では、現実の音よりもはっきりと聞こえたともいえるかもしれない。

 前置きが長くなったが、今回は幻聴を聞いた体験がメインの話である。

 

 大学生の頃、友人達と数人で春山登山に出かけた。

 麓はすっかり春めいていて、薄着で登っていても汗ばむくらいである。このペースなら楽に登れそうだと思っていると、途中から登山道に雪が残っていた。好天が続いていたので雪が残っているのは予想外だったが、用意しておいたアイゼンを装着して先に進むことにした。

 麓は春の陽気だったが、山頂近くはまだ冬の冷気が残っていた。地面は固まった雪で覆われて、周囲の木々も白く凍りついている。一行は、足元に注意しつつ宿泊予定地までをゆっくりと進むことにした。

 一行は、思いのほか残っていた雪に苦戦して、だんだんとペースが落ちていった。そのうち日が傾き始めたので、リーダーの発案でテントを張ることにした。

 予定していた場所ではなかったが、道の脇にちょうどよい広場があったので、皆で手分けしてテントを設営する。雪の上なので作業には苦労したが、完成してから周囲を眺めてみると完全な銀世界で、そんな中に私達のテントがぽつんとあるというのは、なかなか良い雰囲気だった。


 食事をして後片付けを済ますと、もう何もすることはない。寝袋に入ったまましばらく雑談をしていたが、みんな疲れていたのかすぐに静かになった。かくいう私も、かなり疲れていた。慣れない雪道は、体力と精神力の両方を奪うのである。

 風がでてきたのかテントが揺れ、木々の間を風が吹き抜ける音が聞こえてきた。テントの中は真っ暗だが、おそらく外も同様だろう。明かりになるようなものがない山奥であることに加えて、夕方から雲がでてきたから星明かりも望めない。

 眠ろうと思って目を閉じたが、なかなか眠りに落ちることができない。身体は疲れているのだが、精神が高ぶっているのだろう。深い山の中で、ぽつんと数人の人間がテントで寝ているという状況は、なかなか奇妙なものである。完全な暗闇の中で風の音を聞いていると、自分がまるで浮いているかのような思いにとらわれる。


 不意に何か音が聞こえたような気がした。

 足音に似ているな、そう思うと足音にしか感じられなくなった。

 さくさく、と落ち葉を踏みしめるような足音が、徐々にこちらのテントに近づいてくる。


 登山者だろうか、と思ったが、すぐにそんなはずはないと打ち消す。周囲は完全な闇である。険しい山ではないものの、雪も残っており夜間に行動するのは危険である。それに足音は、ずいぶんと近くまできたようだがテントは真っ暗なままだ。普通なら、登山者の持つ明かりが見えてもおかしくはないはずである。

 さくさく、という枯れ葉を踏むようような音はすぐそばから聞こえてくる。どうやら、私達が寝ているテントの周囲を回っているようだ。

 ここに至って私は気づいた、これは幻聴だと。


 テントの周りは完全な銀世界だったはずである。地面も雪に覆われていたから、落ち葉を踏みしめるような音が聞こえるのはおかしい。だが、聞こえてくる音は、ここに登ってくる途中に散々聞いた雪を踏みしめる音とは違っている。

 幻聴だとわかっても、音は消えなかった。さくさく、と本当にリアルに聞こえる。これが幻聴か、と感心していたが、いつの間にか眠ってしまった。


 翌朝、テントの周囲を確認してみたが、私達以外の足跡はなかった。やはり、幻聴だったようである。友人たちに確認してみたが、別に何も聞いていないとのことであった。

 人間は、疲労している場合や刺激の少ない環境に置かれると、幻覚や幻聴を体験しやすいと聞いたことがある。今回、私は自分の身をもってこのことを知ったわけだが、なかなかに興味深い体験だった。なにしろ、幻聴だとわかっていても本物のように聞こえるのである。


 こういう体験があって「絶対に幻覚や幻聴ではない」というセリフを見ると、本当にそう言い切れるのか、と懐疑的になってしまうのである。ただ、私自身が自分を絶対的に信用していないだけであって、しっかりしている人はいるのかもしれない。

 いずれにしても、人間の感覚というものは意外といい加減なものだ、というのが今回のテーマである。

 

 実は、テントを張った場所に雪に埋もれた慰霊碑があった、という話ではない。多分。

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世の中は、大抵がミステリィ 野島製粉 @kkym20180616

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