コップの中の漣
善吉_B
目の前に座る男が吐いた溜め息で、クリームソーダの上のヨットが微かに前進した。
白と群青の二層に塗られた小さな船体が、風を受けてすいと水面を滑る。溶けかけたアイスの氷山を器用に避けて進路を取る様子が面白くて、思わずひっそりと息を呑んだ。
隣に座る
金曜日のカフェテリアは人で溢れ返っていた。
広大なキャンパス内に数か所あるコーヒーショップやフードコートではなく、比較的割高で小洒落たこのエリアに、
留学生としてこの大学に来てすぐの頃、寮が同じフロアの先輩に歓迎会と称して連れて来られたが、その後ここに来たのは一度だけだった気がする。確かそれも人に誘われて、だったような気がするのだが、果たして誰と、どういう
こういうことを三船に言えば、お前が自分の興味に当てはまらない奴等に無関心すぎると、また呆れたように溜め息を吐かれてしまうのだ。
溜め息。
その言葉で浮上していた花田の思考は現在地点へと戻ってきた。
そう、目の前の男が溜め息を吐いて、三船のクリームソーダに浮かぶヨットが前進したのだ。
目の前の男――― ハタノというらしい男には、三船のヨットは見えていない。
更にいえば、このカフェテリアの中の誰にも見えていない。
三船のクリームソーダの上に浮かぶヨットも、花田のコーヒーカップで見えない船員が舵を取る海賊船も、ハタノの注文したアイスティーの底に沈む潜水艦も、三船と花田以外の誰にも見えていないのだ。
そして更に付け加えて言うならば、脳の処理情報をも取り込む最新の視覚共有デバイスの恩恵なしには、花田にもこの小さな船たちを見ることは出来ない。
デバイスで共有されているのは、三船の視界だ。
三船という名前のせいか、それともただの偶然か。日本を遠く離れたこの地で知り合った留学生仲間の一人には、興味深い、霊能力のようなものがあった。
常に人の持て余している心の一部が、ミニチュアの船のようにその人の飲み物の中にみえるのだという。
それは決して悲しみや憤りだけではなく、例えば恋に浮かれる奴の飲むカクテルには風吹けば飛びそうな葦舟がフラフラと漂うし、映画が楽しくて仕方が無かった子供のレモネードには、夏の冒険にぴったりな小さないかだが水面に輪を広げて進んでいくそうだ。
それとは逆に、小さな戦艦と烏龍茶ごと怒りをぐっと飲み込み、何事も無かったかのように振る舞う人もいるらしい。悲しみの小舟に付いていたオールをカップスープの底に残し、溜め息をついて去っていく人もいる。
俺のは? 秘密を知ったばかりの花田が聞けば、チラリとコーヒーの上に目線をやった後、
「お前のはいつも海賊船。何かオカルト的なことはないか、面白いものはないかって、ギラギラしているせいだろうな」
片側の口角だけを上げてそう言われた。
まぁ実際それはその通りなのだ。かく言う三船の船を見る目も、花田にとって面白いものをあちこち探し回る中で、彼曰く「不幸にも」見付けられてしまった能力の一つだった。
となればあれは思い返せば、それ以降やたらと花田の厄介事に巻き込まれることが増えた三船なりの、嫌味や恨みの一つや二つも含まれていたのかもしれない。まぁ、今更気付いたところでどうなる訳でもないので、先程から針のようにチクチクと刺さる視線同様、気にせず過ごすことにする。
今日も今日とて、ことの発端は花田だった。
新品の視覚共有デバイス片手に、これなら三船の見ているものを自分も見ることが出来るだろうから試してみたいと駄々をこね、渋られればその後の講義で適当に目をつけた浮かぬ顔をした日本人らしき顔立ちの学生をこれまた適当に捕まえ、相談に乗るのが上手い奴がいるからと言いくるめて無理矢理三船と引き合わせる約束を取り付けた。
そして面倒くさそうな顔を隠しもせずに、急ぎでもない課題を引き合いに逃れようとする三船を、あの手この手で買収して今に至る。
もちろん、揃いの眼鏡にしか見えないデバイスで、三船の視界を共有して、だ。
別に構わないだろうと花田は力説した。だってお前、実際に舟から判断して困っている人に世話焼いたりとか、よくやっているだろう。その延長だと思えばいいんだよ。
まぁ、そのせいで俺にばれてもいる訳だけど。
デバイスを渡しながら付け加えた余計な一言のお陰で、あの一瞬だけ三船の目線は針から釘ぐらいには鋭く太くなっていたような気がする。失言の分は後日の奢りで手を打ってもらった。何だかんだで寛大な友人だ。
その寛大なる友三船の視線の先は、今は花田ではなくハタノと名乗っていた学生のアイスティーの底に向けられていた。氷がたっぷりと浮かぶグラスの底の方には、先程から黄色い潜水艦が沈められている。
浮かない顔をしているとは思っていたが、まさか持て余す心まで浮かばず沈み込んでいるとは思わなかった。
風呂場で子供の頃に遊んだ玩具のような造形の潜水艦は、その見た目と色から連想するあの古い陽気な海の唄とはずいぶんと違うものを抱えているらしい。可愛らしい丸みを帯びたフォルムには、どこか重苦しい雰囲気が漂っていることが、初めて心の舟というものを目にする花田にも見て分かった。
沈み込んだ潜水艦は、ほんの少しずつだが浮き上がっているようだった。夏の陽気で溶けた氷の山が形を変える、かろんという音で目を向ける度に、潜水艦とアイスティーのグラスの底との距離は、目を離す前よりも広がっている。
そしてよくよく見ていれば、その度に三船の視線が向く方角は花田よりも、黄色い潜水艦とハタノの方に向くことが多くなっていた。
その割合の変化に合わせるように、面倒くさそうだった三船の目も、徐々に真剣な様子を帯びていく。
クリームソーダの上のヨットは、いつの間にか巡視船らしき船に変わっていた。
ほらやっぱりなと、顔の前で組んだ両手で口元を隠して花田はこっそり笑った。何だかんだで面倒見が良いというか、困っている相手を放っておけないお人好しなのだ。
一体全体、どういう育ち方をしたらこうなるのやら。
いや、待てよ。そこまで考えてから、ふいと不謹慎にも思い直した。
―――― ひょっとすると、そういう子に育って欲しいという親の願いが込められた設定のせい、とか。
両手を組んだまま、気付かれぬように隣の三船を覗き見る。
真剣な眼は心からのものに見えるし、花田と違ってしっかりとハタノの話を聞いている様子からは、人工的なものは何も感じられない。ついでに言えば、花田のことを鬱陶しそうに見る時の視線も。だがこれは気にしては負けなので、カウントしないことにする。
だからいつもは忘れがちなのだが、時折ふとした時に思い出しては、心の舟とは別の理由で、花田にとって興味深い人の一人になるのだ。
三船は、全身が義体――――世にいう『
これは決して花田が嗅ぎまわって知った訳ではなく、本人が話の流れである時ふと教えてくれたことだ。幼い頃に病気で余命二年と診断され、両親の判断で施術が行われたらしい。
一般的な義足や義肢とは異なり、神経や皮膚、腸内細菌の割合までその人物を構成する全てを完璧なまでに最新の技術で再現し、持ち主の脳とほんの少しの情報をデータとして移植させる、人工身体代替者。
過去に花田が読んだ本では、なるべく機械を使わず人工的に培養された細胞を使用しているため、その後は他の生来の体で過ごすのと変わらず生活し、将来子供を成すことも出来るのだという。
脳の成長の都合で12歳までの子供でなければ再現率が下がるが、これにより不幸にも幼いうちに亡くなってしまう子供が「生き直す」ことが出来るようになった。
今ではそこそこ広まっている技術だが、当然導入当時はリスクや反対論もあったという。
そのうちの一つが、「果たして心まで再現できているのか」というものだ。
だが、と反対論を述べる人は主張する。
その人物に我々と同じような心があると、どうして外から見て言い切ることが出来るのか。
なるほど確かに
だがそれは、AIがデータ上のキャラクターを再現するように、単に移植されたデータから言動を再現しているだけではないのか。
現に――― 例えば視覚情報などのように、再現のために生身の人間とは異なるルートを通す部位もあるではないか。
そして、仮に再現できたとして、その際に親が自分の都合のいいように性格を変えてデータを作成する恐れはないのか、云々。
幼い子供が死なずに生き続けることができる技術だとして、花田が生まれる数年前には、そういった諸々の反対論にも関わらず、じわじわと利用者が増えつつあったという。
それでも尚その考えから、今でも差別や偏見も多少は残っているらしい。
花田としては、別に生身の人間だって、心が実在するのかというところは結構怪しいのではないかと勝手に思っている。
結局人間なんて、何を考えているのかは自分にしか分からない。人間の脳や身体がどの記憶や感情に関わっているか、再現できるまでに解明された今だって、結局心がどこにあるのかも、こうして考えている自分とは何なのかも、いつまでも不確かなままなのだ。
だが、
花田にとって、三船の存在が興味深い理由はそこにあった。
心があるか否か、疑いの目で見る人がいる
この能力を持っていながら、心が無いということは考えにくいだろう。
それに、もし三船自身の心を証明できなかったとしても、その目で他の
それこそが、今回花田が散々迷惑そうな顔をされてまで視覚共有をしたがった、最大の理由だった。
今、三船のクリームソーダの上には、巡視船へと姿を変えた船が、ずいぶんと小さくなったアイスクリームが広げた白い水面を静かに進んでいる。
これこそが三船に心があるという、最大の証拠だ。
眼鏡によく似た姿のデバイスを装着し、三船の視る世界が眼の前に広がった瞬間、花田は確信したのだ。
無数のグラスやカップの上で、思い思いの姿で進む舟たちの姿が、すぐに目に入って来たからだ。
そしてその中には、三船のクリームソーダの上で狭そうに細い水路を進む、白と群青の小さなヨットの姿もあった。
証明はとうに終了した。
後はハタノの相談事を終え、デバイスの電源を切るまでの短い間、自分では見ることのできないこの景色をじっくりと目に焼き付けておくだけだ。
花田は尚も組まれた両手の下で、こっそり口だけでまた笑った。
こちらが話も聞かず舟ばかりを見ている間に、相談事はひと段落したらしい。
それじゃあ僕はこれで、と相変わらず暗いものの少しは調子の上がったらしい声でハタノが椅子を引く音で、花田はようやく現実に引き戻された。
「少しは元気になったみたいで良かったよ、また講義でな」
当たり障りのない言葉と共に手を振りながら、カフェテリアを後にするハタノを見送る。そういえば、何で悩んでいたのかすらも聞き逃してしまっていた。
ヘラヘラ笑って手を振る花田の横から、再び冷ややかな目線が突き刺さった。おお、久々の感覚。
「お前、話そっちのけで舟ばっかみていただろ」
「ばれましたか」
「当たり前だ。終わったからもう良いだろ、いい加減この装置外すぞ」
そう言うが早いが、ええもったいないあと五分と花田が粘ろうとするよりも前にさっさと三船は己の眼鏡型デバイスを外した。続けて眼鏡の後ろについていたコードも外され、共有先が解除された花田の眼鏡にはノイズ混じりの風景のみが映される。
「もうちょっと色々な船を見てみたかったんだけどなぁ」
ぼやきつつも、外されてしまっては仕方がないので、花田も自分のかけていた眼鏡を外す。
「しかしこの装置凄いな。さすがは最新式、よく見えたわ」
「あ、そう」
はしゃぐ花田とは対照的に、色々と言いたそうな三船がじとりとこちらを見る。
「で、どうなの彼は。元気になりそう?」
「どうだろうな。話を聞いた分、少しはマシになったみたいだけど」
「おお、さすが」
お疲れ様ですーとおどけた調子で続けかけてから、散々巻き込んでおいてこの発言は怒られるかもしれないなと今更ながら口を噤む。
だが、危惧していたような文句も怒りの言葉も、隣の席からは飛んでこなかった。
どうしたことやらと横を振り向けば、何やら難しい顔つきでじっとこちらを見ている三船と目が合った。への字に曲げた口のまま、すっかりアイスクリームと混ざった部分のソーダをストローで吸う彼は、相変わらず何やら言いたそうな顔つきだ。
一通りソーダの水位を下げてから、三船は少しためらいながらも口を開いた。
「お前さ、その視覚共有デバイスで、何か変なところはなかったんだよな?」
「いや、全然。むしろ舟とかよく見えたけど。俺の海賊船、あんな形していたんだなぁ」
「視界がぶれたり、とか」
「うーん、眼鏡がずれた時位かなぁ」
「途中で気持ち悪くなったりとかは」
「3D酔いってこと? 視覚共有でもそんなことってあるのかねぇ」
あれこれと聞いてくる三船の真意が分からないまま、首を傾げつつも思った通りのことを答える。
一通り尋ね終わった三船は、クリームソーダのグラスの方に目を落として考え込み始めた。デバイスを外してしまった今では分からないが、きっと先程よりも浅くなったソーダの上で、今もまだ巡視船かヨットか、あるいは何か新しい形の舟が浮かんでいるのだろう。
「なぁ、何か変なことでもあったのか」
共有される側のデバイスの不具合かと尋ねれば、違うとすぐに首を振られた。
そのまましばらく押し黙っていたが、しびれを切らした花田がまた駄々を捏ねてでも言わせようと思い始めたところで、ようやく三船がこちらへ顔を上げた。
「お前はこれ以上黙っていても。教えるまで騒いでうるさそうだからな。言おうかどうしようか迷っていたけど、言っておくことにするわ」
見事に見透かされている。
だが、そう言って話し始めた三船自身はというと、どうにも奥歯にホウレンソウでも詰まったみたいに言いづらそうな様子だった。
「ああいう視覚を共有するようなやつ、前にも使ったことがあるんだよ。その時使っていた奴が俺の視界を共有したらさ、よく見えない上に、気分が悪くなったって言っていたんだ」
デバイスで共有してから二分も立たないうちに、耐えられずに装置を外してしまったらしい。
その時は故障か何かだろうと、大して気にせずに三船も装置を外して終わったのだという。
「後でいつも通っている医者に聞いてみたら、
―――― 脳と眼の感覚器をつなぐ部分だとか、そういったところで、生身の人間とは違う方法を使って
「同じ行き先に、違う道から行くのと同じようなものなんだと」
珍しく黙っている花田に説明しながら、三船は自分の右目の縁を、軽く指で叩いてみせた。
「お前、脳も繋げていたのに全く問題が無かったんだよな。前に違うって言っていたけど、もしかしたら親が黙っていただけかもしれないし、一度確認してみた方が良いんじゃないか」
知らないままでいいなら、別にいいけどさ。
半ば独り言のように静かに付け加えてから、次講義あるから移動するわと三船は席を立った。グラスを返却トレーに載せる前に、ストローで氷とアイスと混ざったソーダの名残を飲み干している姿をぼんやりと見つめる。
一人賑わうカフェテリアに残された花田は、今は何も浮かんでいないように見えるコーヒーに目を落とした。
――――― 何というか、これはかなり驚きの展開だ。
まさかデバイスで視覚共有したことで、自分が
すっかり冷めてしまったコーヒーカップを口元に運びながら、やっぱりもう少しだけデバイスを付けておくべきだったと花田は一人悔やんだ。
この驚いた自分の心の舟が、どんな形をしていたのか。
それが確認できないじゃないか。
コップの中の漣 善吉_B @zenkichi_b
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