リメンバ、リメンバ、リメンバ

鯖みそ

リメンバ、リメンバ、リメンバ

雨がざぁざぁと降っていた。窓の外を眺めながら、動かずにいる少年。

「今日寒いから、かぜひくよ、かぜ」

ぺたっとした鼻と、血色のいい肌。シャツ越しにも、少年の腹はでっぷりとしているのが分かった。わんぱくそうな少年は、見るからに肥えていた。

「ひかないよ」

「こっちへ来なさい、こっちに」

「やだね」

窓に漲った結露を太い指で、強くなぞる。少年の指はみるみる赤くなっていく。活発で、健康な、暖かな血の巡りが感じられる。

「お兄ちゃんは寒いからね」

かちかちとリモコンを操作する音が聴こえて、まもなくあたたかい風が吹きはじめた。

わんぱくな小僧とは裏腹に、皮と骨ばかりの腕と、まっ白で雪よりも冷たそうな肌を晒している青年が、力なくベッドに横たわっていた。このアパートに一つしかない、青年にとってだけのベッドに。

薄く汚れたタンクトップの隙から、背骨の関節がぼっこりと突出しているのが分かった。

「誰かまた遊びに来るの」

沈黙。少年は何も答えない。ただいたずらに、落書きをしている。

「お兄ちゃん具合悪いからね」

それだけ告げて、青年は布団に潜り込んだ。

ほんのしばらくすると、かすかに息が漏れる声が聴こえた。

「うるさいんだよ、さっさと死ね」

少年はそう言うと、自分の言葉を少し噛みしめながら、自身がさっき発したこの言葉を何度も反芻しはじめた。

雨はまだ降っていたし、雲はどんよりとしてきた。ただ鈍色の光を放ちながらも。


青年が余命宣告を受けたのは、ほんの少し前の出来事だった。青年は、すこやかな魂だった。

ただ酷く、自己犠牲的な優しさを持ち合わせていたので、「外」の空気に曝されながら、真綿で首を絞めるように、しだいにその精神を摩耗させていった。だから誰も、彼が死んでしまう原因を明確に説明することはできないし、食い止めることもできなかった。しかし少年は、図太い神経の持ち主だった。自身が遊び半分で招いた過失でさえも、平気で他人になすりつけられるようなそんな気性だった。以前、少年は好きだった女の子に無理やりキスをしようとしたが、その子があまりにも抵抗するものだから、平手で思いっきり頬を打ちすえたことがあったのだ。そんな時に、少年は、一番よくつるんでいた友達の男子に「自分がやった」と自供するように、何度か暴力に訴えつづけた事があったのだ。その友達は、ついに彼の権力に抗えずに、全員が揃って座っている教室の中で、孤独と恐怖に苛まれながら、手を挙げて自らの罪を申告したのであった。


二人は同じ血を分け合ったとはいえ、その魂は決定的に別れていた。青年は父を愛し、母を愛した。少年は父を憎悪し、母を憎悪した。少年自身もなぜ、こんなに肉親が憎くて、憎くてたまらないのか、理解することが出来ないようだった。少年は幼少の頃、蟻を握り潰したことによろこびを覚えたように笑い、次の瞬間には涙を流して

いた。


「兄貴、何か食べろよ。死ぬぞ」

返事は無かった。青年は、ただ寒そうに、唇をわななかせていた。

「何か食わせてやるからさ」

「寒いんだ」

「なに?」

「すごく、さむい」

「暖房、つけてるだろ」

「さむいさむいさむい」

「なんだよ、おい」

「どうして誰もあいしてくれないの」

「は?」

「ねぇどうして」

「気持ち悪いな」

「やだ」

「いいからさ、少し黙れよ」

「とおさん、かあさん」

「寝言なら、寝て言えよ」

「どこにいるの?」

「いねぇよ」

青年は、熱病に侵されたように、ぶつぶつと何かを呟きながら、わずかに涙を零す。汗にまみれた肌に下着がぴっちりと張り付いていた。

「お粥つくってくるから、ねてろよ」

「さむい」

少年は逃げるように、室内を出る。まるで亡霊が彼にまとわりついてくるのを、ひどく嫌がったとでもいうように。

あり合せの食材など無かった。ただ、米に水をおおく吸い込ませるだけ。ただその時間を、台所で過ごすことに意味があった。そこで二時間、冷たい床に寝そべりながら、無為に過ごした。


雑把に、容器に粥をのせる。それで、彼は隣の部屋の扉を開けた。

「兄貴、もってきたぞ」

お互いに沈黙することが、二人の会話が主だった特徴だった。布団の中で丸くなっているであろう青年。その隣にある小さな机に、粥をのせた。

「さっさと食えよ」

返事はない。そればかりか、既に、この部屋には少年一人しかいないことが、彼には手に取るように理解できてしまっていた。

「何か食えよ、おい」

「なぁ起きろって」

「はやくしろよ」

柔らかな雨の音だけが、聴こえていた。


お粥はついに冷めてしまった。

気づくと彼は携帯を手に取って、ダイヤルを入力していた。

「もしもし。俺だ」

「ずっと謝りたいと思っていたんだ。今日家に来てくれないか?」

電話を切る。

気づくと少年は、血管が浮き出るような興奮と熱を覚えていた。

雨はしだいに激しさを増していった。

水滴が窓に絡みついては、ゆっくりと下に流れていった。

少年は、ベッドの布団をはぎ取った。

死体が静かに横たわっている。

それを尻目に、シーツが清潔に保たれているのを確認すると、ゆっくりとその足首を持って、その死体を風呂場まで、引き摺っていった。




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