第4話 帰り道
甘い芳香に、しとどに濡れた灰色の塊が、ふわりと緩んで、白く白く光り出す。
酔ったようにふらりふわりと、霧雨に打たれて揺れる。
「アナタも」
振り仰いだ七尾の顔に、芳醇な香りの水滴がかかった。
「酒?」
「そうですよ。こいつを取ってくるのに手間取ってね」
濡れた端から、赤く染まっていたはずの両手が清められていく。
立ち昇る香りと共に、うっすらと、黄金に光が昇る。
「神の酒を被れるなんて、アナタも大概運がいい」
「運が…いい…?」
つい零れた七尾のぼやきに、男が喉の奥で心地よい笑い声を立てた。
「ついでと言っては何ですがね、何か希望はありますか。せめてものお詫びに。まあ、俺なんかにできることで、ですけど」
掌で光る魚の形をした神にも、男は黄金に煌めく酒を注ぎ、七尾の方を向いた。
手の中で、ひらりと透明な羽が揺らめき、あたりが蒼と金色の柔らかな光に満たされる。
「この眼が…」
こんな眼などなければ、もっと平穏に暮らせるのに。
光り輝く鱗を煌めかせて、魚は空に泳ぎ立つ。
七尾は吸い寄せられるように、それを目で追う。美しく、また恐ろしくもある、眩い姿。
「人に見えないものが、見えるんだ」
幽玄の光に目を細めて、七尾は空で舞う魚に見惚れる。
「ああ、わかりました」
ひらり、薄く儚い羽を翻した魚から、鱗が一枚、剥がれて落ちた。
男はそれを掌で受けると、七尾を手招く。
ふらりと、七尾は男の傍に近づいた。
ついと、男の指先が、七尾の顎を持ち上げる。
唇の隙間に、紺碧の鱗が差し込まれて、七尾はそれを飲み込んだ。
ゆっくりと目を閉じて、そろりと瞼を開く。
「それでは、これにて」
男は笠の端を少し摘まんで、片手で神を捕まえると、くるりと背を向けた。
「さあ、帰りますよ。道を」
掌を白く揺れるモノたちに差し向けると、白い塊はぱしゃん、と溶け落ち、光り輝く水となる。
男の脚が、ひたりと輝く水に踏み込む。
幾本もの腕が、白い光の中からずるりと伸びて、男の身体を捕まえる。
こんな不思議な光景も、もう、見ることはないのだろう。七尾はそっとまぶたに触れて、眩しそうに目を細めた。
「それでは、また」
「え?ちょ…またって?」
「え?」
「だって、俺、さっき神様の鱗を」
「ええ、鱗を飲んだでしょ」
「え?見えなくなるんじゃ?」
「は?」
「ちょっと、待って」
男は小首を傾げて虚空を眺め、手の中の神を見て、七尾に向き直って、笑った。七尾はぽかんと口を開ける。
「勘違いしてました。もっとはっきり見えるようになりたいのかと」
「ちょ、そんな、勘弁してよ」
「だって、見惚れていたでしょう、神の泳ぐ姿に」
「見惚れた、見惚れたけれども。それは最後だと思ったからで」
「まあ、大丈夫。またお会いしますよ」
「や、お会いしないです」
「お会いせざるを得ない。だって、神の鱗を飲んだんだから」
ひらりと掌を振って笑う男に、七尾は情けない顔をした。
「わざと、だろ」
「そんな、そんな。勘違いですって」
だって、と男が掌を開く。
蒼い光が、ちかりと、強く瞬く。
「神様が、気に入ったそうなんです、アナタを」
はあ、っと七尾は力なくうなだれてぶつぶつと何かを呟いた。恨めし気な視線で男を見やり、それから大きく息を吐く。考え込むような眼差しでまぶたを撫でると前を向き、背筋を伸ばして、笑った。
その視線の向こう側で、蒼く美しく、魚が弧を描いて跳ねる。
「諦めがつきました?」
「俺の目だ、しょうがない。別に、今までと変わらないし」
「それはよかった。ねえ」
綺麗に笑って、男は鱗を煌めかせて空を泳ぐ神に同意を求める。
「それでは、これにて、ごきげんよう」
男は神を手の中に包み込むと、もう片手にぶら下げた一升瓶をぐびりと煽った。
たぷんと、瓶の中で音がする。
「そうだね…じゃあ、また」
苦笑いで七尾が振った手に笑みを返して、男の姿は何本もの白い腕に飲まれて、光る水の中に沈んで消えた。
地面に残った輝く水も、後を追うように吸い込まれていく。
肩をすくめて踵を返した視界の端に、わずかに残った水からにゅっと伸びた、細い針金のような白い指が、ひらひらと揺れてさよならを言った。
七尾は肩越しに手を振り返し、雨を零す空を見て、微笑んだ。
白い手が地べたに吸われて、とぷん、と消えた。
あとは、夜の中に降り注ぐ、静かな霧雨ばかり。
神隠し 中村ハル @halnakamura
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