第3話 来訪者

いつの間にか、ボトルの外に、水が零れていた。

赤い、血のような水は、テーブルを汚していく。

七尾は慌ててボトルを持ち上げた。

どこから水が零れているのか、ぼたぼたと、滴り落ちる。

濡れた掌が、血で染まったように赤いことに気が付いて、七尾はぎょっと身をすくませた。


びたん。


七尾の呼吸が止まる。


びた。


恐る恐る、音を振り返る。

カーテンの隙間から覗く窓の向こうは、雨に閉ざされて、黒と言うよりは灰色の闇。


びたん。ずるり。


何かが、窓の硝子を、叩いている。

湿った、柔らかな何か。


「厭だ」


七尾はボトルを片手で胸に掻き抱き、もう片手で耳をふさいだ。


びた。


怖くて、カーテンに閉ざされた窓を、確認することなどできない。


びたん。


窓に、鍵は、かけただろうか。

記憶を探って、七尾は取り乱した。どうしても、思い出せない。


ぎ。


窓が軋む音がして、ふうっと風が滑り込む。

カーテンが、風を孕んで、わずかに膨らむ。


びたん。ずるり。


湿った音が、窓のすぐ下の床に、落ちた。


「嘘だ」


何かが入ってこられるほどの隙間が、開いたようには思えなかった。

ほんのわずか、風の通り道が出来ただけだ。


ずるり。


落ちてくるのは、一つではない。


べたん。

ずるり。


窓の下に凝っていた影が、這いずるように、動いた。


ずるり。

びちん。


床にべったり貼りつくように、黒くて、長いものが、床を這ってくる。

七尾は両手でボトルを抱いて、引きつった喉で悲鳴を上げた。

声は喉に渇いて貼りつき、細い空気が漏れたばかりで、音にならない。


びた。


這いずっていた影から、細い棒のようなものが、伸ばされる。

それが腕だと気が付いて、七尾は足から力が抜ける。

逃げ出したいのに、一歩も、動くことができない。

細い両手と長い枝のような指が、床を掻いて、かちかちと音を立てる。

芋虫のごとく、黒い影はのたくりながら、少しずつ、進んでくる。

黒い影の後ろに、てらてらとした粘液のような跡が付いているのを見て、七尾は弾かれたようにドアから外に飛び出した。


外は雨だった。

細かな霧雨が、まとわりつくように肌に降りかかる。

七尾は一息に階段を駆け下りて路上に飛び出すと、後ろを振り返りながら不格好に走った。

ボトルの中で、水がじゃぽん、と大きくうねる。


少しでも揺れを抑えようとボトルを胸に押し付けて、七尾は角を曲がって暗い公園へと駆け込んだ。明かりのある場所よりは、少しは見つかりにくいはずだ。

それにもう、心臓が痛いくらいに胸を叩き、息もままならなかった。

公園を青白く照らす街灯に背中を押し付け、肩で何度も息を吸った。鼓動がどくどくと鳴って、こめかみと耳を突き破りそうだ。


「うわ…」


見下ろした自分の胸元に、思わずボトルを取り落としそうになる。

べったりと、シャツの胸のあたりと両手が、真っ赤に染まっている。

赤い水はねばついて、どくどくと、鼓動するかのように溢れて零れる。


「どこから出てくるんだよ!」


震える声で叫んで、七尾はボトルを気味悪げに身体から放した。


びた。


ずるん。


振り向いた先に、黒い何かが、見える。

街灯の仄白い明かりに照らされているのに、黒い影はただ影のままで、ぶるぶると震えながら立っている。

その後ろから、もう一つ。地面を這っていた影が、激しく振動しながら伸びあがり、立ち上がる。背丈は、七尾と並ぶほどもあるだろうか。

2体の真っ黒なモノは、不規則に、痙攣しながら、ずるりずるりと進んでくる。

ぬらぬらと、光を弾く粘液を引きずりながら、近づいてくる。

逃げ出そうにも、腰から下は感覚もないほどに震えている。


「厭だ」


だから、こんな眼なんて欲しくなかった。


「来るな」


今までは、見えるだけで、平穏無事だったはずなのに。


「お願いだから」


どうして、こんなことになってしまったのか。

ひかひかと、赤い水の中で、蒼い光が瞬いている。

ごぼり、と濁った音がして、赤い水が溢れた。

黒い魚は水の中で暴れて、その度に、鱗がひらりと剥がれて落ちる。


ぶるる、と黒い何かが、激しく震えた。

震えて輪郭は滲み、黒い姿が二重写しになる。それでも影はぶるぶると、狂ったように揺れて蠢き、七尾はくらりと眩暈を覚えた。


「もう、厭だ」


泣き出しそうな声で膝を折り、最後の祈りのように、ボトルを強く胸に抱く。


「もうやめてくれ」


丸まった額の下で、しゃぷんと水の跳ねる音がする。


べたん。


ひくひくと、七尾は唇を引きつらせながら目を上げる。

すぐ鼻先に、真っ黒な、闇。

激しく振動している黒いモノは、滲んで歪み、七尾の目の前で、二つに割れた。

ぎりぎりと首を捻じ曲げ周りを見ると、いつの間にか、囲まれている。

黒く蠕動する何かに、びっしりと、囲まれている。

足元がてらりと光るのは、雨のせいか、粘り気のある粘液の道筋のせいか。

汗と雨で、髪が首筋に張り付いているのが、やけに気になる。それどころではないのに、七尾は片手で必死に首を擦って、髪を払い除けた。

滑り気のある手触りが、首筋にまとわりつく。きっと、手についた赤い水のせいだ。


しゃぷん。


小さな水音がして、魚がボトルの中で飛び跳ねる。

震えていた黒いモノたちは、ぴたり、と動くのを止めた。


「え」


驚いて固まる七尾の目の前で、黒い壁から一対の針金に似た腕が伸びた。

柔らかな身体とは異質の、鋼の色の手指が、こちらに向けて差し出される。

一瞬、ボトルを奪いに来たのかと思い、七尾は身体を捩った。


ひやり。

震えがくるほど凍てついた指先が、頬に触れる。

指は顔の輪郭をたどり、首筋に絡みつく。

長い指がぐるりと首を一周して、そこにもう片手が巻き付いた。


「え?」


七尾の小さな驚きの声が、瞬時に呻きに変わった。

感じたことのない冷たさが、皮膚を犯し、喉を締め上げてくる。驚きのあまり、目を見開いて、空しく口を開閉するばかりで成す術もない。

目の前が昏く歪んでようやく、七尾はボトルを取り落とし、必死に両手で鋼の腕にしがみついた。今さらどうとも出来もせず、無闇にもがいた目じりから、涙がぼろりと零れて落ちた。

地べたに転がるボトルの中で、魚は激しく明滅を繰り返し、ばしゃりばしゃりと音がする。そんな音が聞こえるはずがないのに、と七尾は遠ざかる意識の向こうで、ぼんやりと考えた。


「やあ、どうも、いけませんね」


真っ暗に塞がれた視界の向こうで、やけに暢気な声がした。

ふっと、七尾は目を開ける。

相も変わらず呼吸はできず、酸欠の魚のように喘いで、声を探した。


「おいたが過ぎますよ、まったく。それじゃあ死んでしまう」


本当にそれな、と七尾は混濁した意識の中で同意する。


「おそくなって、すみません。いろいろ手間取りましてね」


横目に泳いだ視線の先で、黒い壁を突き破って青く光る何かが見えた。


「ほら、いい加減にしてください」


その隣から、ぐいっと腕が現れて、黒い壁が押し開かれる。


「生きてます…や、危ないね」


ひょこっと覗いたのは、青い一升瓶をぶら下げて、笠を被った和装の男だ。

七尾の薄く開いた唇から、わずかに吐息が漏れた。


「すいませんね、こいつら見境がなくて」


懐から男は一枚の小さな紙を取り出して、七尾の首を締め上げる鋼の指に張り付けた。そうして、一升瓶の栓を抜き、掌に中身を零すと、濡れた指先で白い紙の面をなぞる。

甘く饐えた匂いが、鼻腔を突く。

七尾の首に食い込んでいた指が、ついっと緩み、離れた。


激しく咳き込み背を丸めた七尾を抱くように、男が傍らに膝を着く。

顔は目深に被った笠の影になって、伺えない。

幾度か七尾の背を擦り、呼吸を確かめると、男は音もなく立ち上がり、ぐるりを囲む黒い壁に、一枚一枚白い紙を張り付けた。

喉が破れるほどに咳き込みながら、七尾は男の動きを追って視線を巡らせる。

白い紙を張り付けられ、見えない何かを指先で書きつけられると、黒い壁はゆらりと揺れて、溶けるように地面に落ちた。

そして、ゆらり、ふらりと立ち上がった時には、黒が抜けて、淡く灰色の影になっている。


「もう襲ってこないので、安心してください」


身をこわばらせた七尾の肩を叩いて、男は口元を笑みの形にした。


「大体、お前たち、何しに来たんだ」


男は腕組をして、ぐるりを見回す。

灰色の影たちが、しゅっと身を細くするところを見ると、たぶん、睨まれたのだろう。


「肝心の神様を、転がしっぱなしにして、まったく」


言いながら、何かのついでのように、男は砂にまみれたボトルを拾い上げて袖で拭った。


「神様?」


掠れて潰れた声に、男が七尾を振り返る。


「そう。雨の神。まだ幼くてね」


ボトルの蓋を捻って赤く染まった水を掌に空ける。受け止めた男の手の中で、蒼く淡く、魚の光が灯った。


「雨がないと、まだ泳げないんです。雨に乗ってここに来たものの、途中で止んで迷っていたところを、アナタが助けてくれたんでしょう」

「俺、珍しい虫か何かだと」

「アナタが水に入れてくれなければ、崩れて消えていたはずです。渇いて、ずいぶん鱗も剥がれてしまっている。だからお礼を言わなくてはいけないのに、それをお前たちは」


再び灰色の壁を見やった男にすっかり怯えて、いつの間にか灰色の何かは一塊になってじっと小さくなっていた。


「すみませんね。神の御守りたちなんですが、人間と遭う機会がなくて、加減が効かない。それに、神を見失ったことで、すっかり泡を喰ってしまって」


それを頼りに追ってきたんです、と男は七尾の手を指した。真っ赤に染まった、両手の平。


「こんなに血が出て、大丈夫なのか?」


はっとした七尾に、男は肩をすくめた。


「こんなに小さな身体から、こんなに血が出るわけないでしょう。赤い水は緊急事態に出す、道標みたいなものです。鳴き声もあげたみたいですけど」


男は懐から、小瓶を取り出して振って見せる。

硝子の粒の入った、薬の小瓶。


「それ…」

「雨の神の鳴き声は美しいですからね、集めたくなる気持ちもわかります。瓶に閉ざされたので、こいつらにまで届かなくて。ああ、全然、責めてるわけじゃないんです」


にこやかに笑う口元が、少しばかり怖い。


「まあ、結局のところ、アナタも散々な目に遭ったということで、痛み分けかと」

「痛み分け…」


その割には、相当命がけだったんですけど、という言葉を寸でのところで飲み込んで、七尾はこくこくと頷いた。


「それじゃあ、神様も回収したことだし。帰りますかね」


男は縮こまっている灰色のモノたちの頭上から、一升瓶の中身を降りかけた。

濃厚な、噎せ返るほどの香りが七尾を包む。

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