第2話 魚
潰さぬように片手の平にそっと羽虫を包み、もう片手でクリアボトルの蓋をどうにか開けると、七尾は中の水を捨ててそっと手の中の虫を入れた。
一人暮らしのこざっぱりとした部屋で、他に蓋のついた適当な大きさの入れ物が思い浮かばなかったのだ。
底の方に残った、出し切れなかった水滴が心配だった。
水に濡れたら、死んでしまうのではないだろうか。
シンクに置いたボトルを横から眺めて、七尾は眉をひそめた。
羽虫は底の水滴の上に止まって、細かに翅を震わせている。
「あ、れ…?」
慌ててシンクの明かりをつけると、虫は驚いたのか、ボトルの中を飛び回り、せわしなく蒼く明滅した。
「ちょっと、なんだ、これ」
ボトルを掴んで、七尾はテーブルに移動する。より明るいライトの下で、羽虫はボトルの壁にぶつかり、底に当たり、また飛び回っている。
動きが速すぎて、目で追いきれない。
追いきれないが、それでも、違和感が拭いきれない。
虫にしては、フォルムが、やけに滑らかなのだ。それに、水のせいばかりではない。2センチに満たない身体は、濡れたように煌めいている。
「虫っていうより」
まるで、小さな小さな、魚だった。
トビウオのように長い胸びれを、トンボの翅のように羽ばたかせている。
「嘘だろ」
今まで不可思議な生き物が見えたことはあれど、触れたことなど、一度もなかった。触ろうとしても、うまく距離感が掴めなかったり、触れる寸前に霧散してしまったりしていたのだ。
それが、今や目の前で、あたかもそこに存在しているように、ボトルに捕獲できている。
それに、掌に包んだ時に、確かに脆く薄い羽の当たる、しゃらりとした感触まであったのだ。
「本物の、虫?」
いや、そんなはずがない。こんな、魚のような虫など、聞いたこともない。
思い浮かぶとすれば、スカイフィッシュくらいだが、形状は遥かに目の前のモノの方が、美しい。
明るさにも慣れたのか、再びボトルの底に止まって、蒼く淡く光っている。
濡れたような黒い身体は、よく見れば深い紺碧と緑が混じっている。鱗のようにも見えるのだが、如何せん、小さすぎてよくわからない。
薄紙のように儚く透明の羽の他は、魚に似た尾びれがあるばかりで、肢はない。身体のわりに大きな目は、貴石のごとく煌めいている。
「なんだよ、これ」
身を引いた七尾を、じっと、翼ある魚が見返していた。
どこかで、水の音がしていた。
はっと我に返り、七瀬は窓を振り返る。
いつの間にか、雨が降りしきり、窓の向こうの景色を煙らせている。
立ち上がり、また座って、立ち上がる。
うろうろと、テーブルの周りを、七尾はうろついた。
何度目かに、ボトルに目を向けると意を決してそれを掴み、窓を開け放つ。
雨が細かに顔に当たった。
ひんやりと、熱くなっていた頬を醒ます。
ボトルの蓋を開けて窓の外に差し出し、軽く振ったが、蒼い光は底に留まったまま、ぴくりとも動かなかった。
首を傾げてボトルを見やる。
「ん?」
蒼い光が、ふつっと消えた。
「あれ」
飛んで行ったはずはない。
ボトルを目の高さまで掲げて、覗き込んだ七瀬の肩が、びくりと揺れた。
透明なボトルの底にくったりと、魚は羽を落としていた。
さっきまでは、儚くとも細かに震わせていたはずの羽が、今は水に濡れて底に張り付いている。濡れて光っていた身体が少し乾いたように、白く粉を吹いている。
「どうしよ」
とっさにシンクに戻って、七尾は水道を捻った。
一瞬ためらったものの水量を細く絞り直し、ボトルにそっと水を注ぎこんでいく。
小さな身体が、水の中でふわりと浮き上がる。羽も身身体も、力なく漂うばかり。
半分ほど水を注ぎ、七尾はテーブルにボトルを置いた。
細かな気泡がボトルの内側と、魚を飾っている。
ゆらゆらと、黒い身体が揺れる。
尾びれの気泡が弾けて、魚がぴくりと跳ねた。
ゆったりと、羽が水の中で、はばたく。
ゆっくりと、七尾は深い溜息を吐きだした。
魚は、ゆらりと水の中を泳ぎだす。
そうして、七尾を見つめるように、ボトルの中で向きを変えた。
その身体から、ひらり、と蒼い鱗が剥がれた。
「おい、ちょっと」
慌てた七尾の目の前で、緑の鱗が剥がれて落ちる。
魚が大きく身を震わせると、剥がれた鱗の痕から、紅い筋が水の中に広がった。
呆然とする七尾の目の前で、水が、赤く、染まっていった。
夜中に何度も、七尾はテーブルの上のボトルを確認しに行った。
赤く汚れた水を変え、明るすぎるライトを消すと、魚は再び静かに蒼く明滅を始めた。
暗い闇の中で、サファイヤのように、蒼い光が広がる。
いつも恐ろしいモノばかり見ていた七尾の中で、こんなにも美しい「何か」を見るのは初めてだった。
ボトルをそっと掌で包む。宝石のような煌めきが、自分の手の中にある。
七尾の口元に、満足げな微笑みが浮かぶ。
初めて、自分の「何かを見てしまう」目を、嬉しく思った。
魚はゆらりと、七尾の顔に向き直る。
まるで、自分を見ているようだ。
七尾は指先で、魚の顔のあたりのボトルの表にそっと触れる。
蒼い光が、指先に、内側から触れる。
そのままボトルの光に顔を寄せて、七尾は深い眠りについた。
闇の中で、ひかひかと、美しく光る蒼い魚。
七尾は夜の間中、ボトルを眺めてばかりいた。
熱帯魚のエサを買って入れてみたが、食べる気配は一向にない。
何も食べなくても、平気なのか。そもそも、生き物なのかどうかも判然としない。
水だけは毎日、カルキ抜きをした水で取り替えた。
そうして過ごして数日、魚が時々、水の泡をぽかりと吐き出すことに気が付いた。
透明で、硝子のように光る泡は、水面に浮いて割れることもない。
水の面に溜まる硝子の粒は、ダイヤモンドのように煌めいた。
七尾はそれを集めて、小さな薬の空き瓶に入れた。
いつものように、明かりを消した闇の中で、蒼の光がぼうと灯る。
硝子の泡を集めた小瓶をボトルの横に置いて、七尾は魚の影を目で追った。
ひらり。
魚の身が翻ると、透明の羽が水の中で広がる。
ひらり。
小さな黒い影が、水の中に舞う。
身をくねらせる度、はらりはらりと、鱗は水底に降り積もる。
ぽかりと輝く泡が、魚の口から立ち昇り、水面に浮かんだ。
ぼんやりと、七尾はそれを見ている。
はらはらと、沈んでいくモノの数と速度が、増えていく。
蒼い光は、細かに震えて明滅を繰り返す。
びくりと大きく尾が跳ねて、魚の影が、ぐずりと崩れた。
七尾は漸く、身体を跳ね上げ、叩きつけるように明かりのスイッチを入れた。
目が眩む光の下で、ボトルの中が、赤く紅く、染まっている。
大きくひれを動かすたびに、一枚、また一枚と鱗が落ちる。
ぼろぼろと、その身が崩れるように、鱗が剥がれて水に沈む。
水の中はもう真っ赤で、蒼い光は曇っていった。
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