神隠し

中村ハル

第1話 蒼い虫

灰色の濃淡が付いた雲の中に、朧に月が見えている。

満月に近い月の、ぼんやりと光る明かりに立ち止まり、七尾はぐるりを見回した。

辺りは人もない夜の道である。


まだ、真夜中というには少し早い。それでも、駅から離れたこの場所は、すっかりしんと静まり返っている。

商店が軒を連ねる通りは、すでにシャッターが下りており、少しばかり心許ない柔らかな光の街灯があたりを照らしていた。

先ほどまで降っていた雨のせいで、路面は黒く濡れている。

全てがぼうと、滲んだような夜だ。


己の輪郭まで溶け出すようで、七尾はきゅっと、手を握る。

背後から、車の明かりが迫った気がしたが、振り返っても何の気配もない。

眉をひそめて、七尾はじっと遠くを見透かした。


「厭だな」


そっと声に出してみる。


「来ないでくれよ」


夜の街に念を押す。

七尾は静かに暮らしたいのだ。

平凡に、大衆に紛れて、ひっそりと。その他大勢でいたいのだ。

それなのに。


七尾はなぜだかいつも、少しばかり目立つ。

職場で女性陣が入れ代わり立ち代わり揶揄いに来るのは、程よく整った癖のない顔立ちと、30手前にしてはどことなく幼いはにかんだ笑顔のせいだとは、本人は露とも思っていない。またその謙虚さが、さらに女性たちを色めき立たせる。

そして、ちらちらと浴びる視線の先で、七尾は時々、不可解な動きをする。

何もないところで、突然立ち止まったり、驚いたように振り返ったり。時には何かを避けるように身をひるがえしたり。

その度に、くすくすと、好意的な忍び笑いが背後で聞こえる。心の狭い男性の同僚の中には、聞こえよがしに舌打ちをしたり、厭な顔をする者もいるが、そうすることで、女性たちから冷たい視線を浴びせられているのを、七尾は申し訳なく思う。

七尾とて、目立ちたくてそんな動きをしているわけではないのだ。


幼い頃から「見えて」しまうのだ。

見なくてもよいモノ、見たくないモノ、見えるはずのないモノ。

名を何と呼ぶのかは知らない。

幽霊とか、妖怪とか、そんなものに近いのかもしれない。

見えるだけで、どうともしない。

それでも、まざまざと形が現れるので、七尾としては、驚き、恐れ、避けるしかないのだ。触れるわけでも、あちらから触られるわけでもない。

誰に話しても鼻で笑われ、もしくは過剰に心配されるか嫌悪されて、自分以外の誰にも見えていないことを悟ってからは、あえて口にはしなくなったが、それでも怖いものは怖いのだ。

慣れることもなく、長じてからも、それが消えることもない。

ただ、視界に突然映り込むものとして、七尾はそれらを理解することにした。

そのせいで、こじんまりとささやかに暮らしたい七尾の思惑から外れて、少しばかり目立っているのは致し方がないのだが、時に憂鬱にもなる。


そんな時、七尾はこうして、帰宅してから夜の街をぶらりと歩くのだ。

幸いなことに、七尾が暮らすこの商店街は夜の8時を過ぎれば、人通りはほとんど絶える。


誰の視線も感じずに、のびのびと、七尾は大きく両手を広げた。いつも猫背気味の背中が、ぐうっと伸びる。

知らず、口元がほころぶ。

だがそれも、すぐにへの字に結ばれて、七尾はまた背後を見た。


「やっぱり、雨の日はダメかな」


どうも空気の湿った日には、いろいろなモノがよく見える。

視界の隅に、やけに大きな猫がうずくまっていたように見えたのだ。こんなにぬれた路面で、猫がくつろぐわけがない。

右手に持ったクリアボトルから水を一口飲み込んで、わさわさと前髪をかき乱す。

帰ろうか、もう少し、気晴らしをしようか。つま先を回して戻りかけた七尾の足が、ぴたりと止まった。


黒く路面が濡れた通りの真ん中に、ひかひかと蒼い光が浮いている。

淡く、弱く、明滅する蒼い光。


目に何か入ったのかと、七尾は瞼をこすったが、やはり、そこに浮いている。

そろり、と七尾が踏み出したのは、その光が妙に現実感を伴っていたからだ。

いつもの、どこか輪郭が不明瞭な、何かではない。

そこに、しっかりと存在している。

怖いというよりはどこか胸が高鳴るのは、それが薄い羽根を持った、虫のように見えたからだ。


「なんだろう」


声に出さずに唇だけで呟いて、そっと、音をたてぬように近づく。

不安定に、上下に振れながら、細かく羽を震わせて、それは同じ場所で羽ばたいている。

羽音も聞こえぬほどの小さな虫。

翅はトンボくらいあるのに、身体は妙に小さい。

どこから光を発しているのか、全体が、ぼんやりと今日の月のように発光している。

蒼い光のせいなのか、細かに震える羽のせいなのか、本体がよくわからない。


七尾は持っていたクリアボトルを小脇に挟むと、そっと両手を伸ばして、掌の中に虫を捕らえる。

両掌の間に、光はすうっと包まれて消える。

慌てて隙間から覗くと、青い光は蛍のように、弱く強く、瞬いている。

虫はしばらく両手のくぼみで浮いていたが、すうっと掌に降り立った。

羽ばたいていた羽も、次第に速度を落として、ぶるっと一度震えると動きを止める。それと同時に光も消えて、肝心の虫がよく見えない。

そのまま踵を返して、濡れた道路を小走りに、アパートの部屋に戻った。

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