最終話 九回裏のバッターボックス
それはケガをしてからのことだった。
放課後、グラウンドの横を通り過ぎるとき、部活の音がやけにやかましく聞こえるようになったのは。
生徒たちの掛け声、蹴り上げられる土の音、ボールがぶつかる鈍い音、バットに跳ね返る金属音。そのすべてが嫌になるほどやかましいはずなのに、一枚のネットを隔てたその距離よりも、ずっと遠くに感じてしまう奇妙な感覚。聞きたくないのに、聞こえなくなるのも寂しい。
そんな音を、今、教室の中から聞いている。
落合先生は出て行ってしまった。職員会議だから、今日は部活にも出られないとぼやいていた。
先生がいなくなった教室でしばらくぼーっとしていると、窓の向こうからいつもの音が、少しずつ聞こえ始めていた。
彼らの姿をしっかりと見たのは久しぶりだった。バットやグローブを、各々が手にしてグラウンドにやってくる。用意のできた生徒からそれぞれ自由に体を動かし始め、そのうち全員がそろうと、一斉に一列になった。
グラウンドに一礼する。どの部活よりも先に、その声を轟かせたのは野球部だった。土田先輩の声を皮切りにして、グラウンドの中を二列に並んで駆けていく。
掛け声に合わせて、リズムよく進む。一匹の芋虫のようになって、それはゆっくりと、しかしキビキビとした動きでグラウンドを巡っていた。
その中に新井はいた。
列の最後尾に、確かに彼はいた。
僕はそこから目が離せなくなっていた。
涼しげな風が頬を撫でると、僕は我に返った。はっとして、窓際にもたれていた体を起こすと、外はすっかり薄暗くなっていた。
「何やってんだ、おれは」
眠っていたわけではなかった。むしろ意識ははっきりとしていて、しっかりと彼らの姿を目で追い続けていたはずだった。彼らがグラウンドを去ってからもそうしているのを止めなかったのは、誰もいないその場所に、自分の心の空白を重ね合わせていたからかもしれない。
廊下を抜けて下駄箱までやってくると、人の気配はすっかりなくなっていた。そこから少し離れた職員室でわずかに灯っている蛍光灯が分かるくらいには、校舎の中は明かりが落とされている。
昼間はびっしりと埋まっていた自転車置き場も、がらんどうになっていた。明かりの当たらない端のほうが闇に紛れて、どこまでも続いているように感じる。
自分が引く自転車のタイヤの回る音が、一番大きい。
その音が一瞬止んだ。
僕は立ち止まっていた。
暗がりの中に何を見たわけでも、静けさの中で何が聞こえたわけでもなかった。ただ何かを感じて、歩みを止めていた。
立ち止まった足はすぐに進みだした。正門まで一直線にアスファルトが張り巡らされた道からそれると、ザクっとした感触を靴底に感じた。
僕はそこで、ただ黙って自転車を止めた。真っ暗闇のグラウンドに、力強く
グラウンドの真ん中が、時折光る。グラウンド脇の通路を照らす明かりが、その中で動く金属バットに反射していた。
静寂に包まれる暗闇の中、規則正しく繰り返される光と音を、僕は立ち尽くしたまま眺めていた。
いつの間にかバットの音は止んでいた。それに気づくと僕は、彼がいたはずの暗闇の中に目を凝らした。
カランカラン
足もとで金属音がした。闇の中から銀色の金属バットが転がってきて、つま先に当たって止まった。
倉庫での出来事があったあの日、新井にだけは、僕が部活を辞めようとしていることを伝えた。自分がなぜそうしたのかは、今でも分からない。
「だったら、その体を俺によこせよ」
と新井が言ったのは、僕が片腕を抱えながら倉庫を去っていくときだった。
お世辞にも新井は野球がうまいとはいえなかった。しかし野球に掛けているであろう思いは、並のものではなかった。
だからこそ、練習にも試合にも出られるような恵まれた人間が、部活を去ろうとしていくことを良く思わなかったのだろう。
新井は人に敵意を向けることが多々ある。しかし彼自身の感情をむき出しにしたところを見たのは、あの時が初めてだった。
グラウンドは、駐輪場や正門まで続く道よりもはるかに暗かった。ようやく暗さに目が慣れてくると、新井の姿が闇の中に浮かび上がってきた。
不思議と僕の頬は緩んだ。なんだかとても懐かしい気分になった。
「俺が後攻だ」
新井は言った。
僕は足元にあるバットを黙って持ち上げる。久しぶりに握った金属の棒は、思っていたよりずしりと重たい。試しにスイングしてみたが、フォームがちぐはぐになってうまくいかなかった。
「早く構えろ」
「ちょっと待てよ」
何度かバットを振り直す。デリケートな楽器を調整する調律師のように、細部に意識を集中させながらスイングを繰り返す。
「お」
何回目だったか、そのスイングだけは他とは全く違っていた。頭の後ろに構えたところから、振り切って背中に至るところまで気持ちよく流れるように、バットの先端がきれいな弧を描いた。
「おい」
僕はバットを見つめて、しばらくそこでぼんやりとしていた。
「あ、すまん」
新井のほうを向いてバットを構える。
どうしてこいつの前ではいつもこうして翻弄されてしまうのだろう。あれほど避けていたグラウンドや、ボールやバットがある中へ、知らぬ間に僕の体が放り込まれてしまっていた。
思えば少し前まではこうして、暗くなったグラウンドで新井と何度も勝負をしていた。
ピッチャーとバッターでそれぞれ3打席。より多くヒット性の当たりを打てた方が勝ち。当然ながら一度も負けたことはなかった。
久しぶりのバットを握る手に、力が入る。
しまった、と思った。ボールが後方にあるネットにあたって跳ね返り、足元にころころと転がって戻ってきた。僕のバットは新井のボールに出会うことなく、
そんな様子を意に介することなく、次のボールを投げようとしている新井に気づき、慌ててバットを構える。額のあたりに汗がにじんだ。もう一度、さっきと同じ乾いた音がむなしく耳に届いた。
次のボールは何とかバットに当たった。けれど弱々しく転がったボールは、やっとのことで新井の足元にたどり着いて、止まった。
「ちょっと待ってくれ」
「待たねえ」
新井はすでに次のボールを手にし、投げる動作に入っている。
「勝負はとっくに始まってる」
新井との勝負で、一度もヒットを打つことができなかったのは、おそらくそれが初めてだった。
ピッチャーマウンドからゆっくりとこちらへ向かってくる新井の姿を、僕はその場に立ち尽くしたまま、眺めている。
「なにしてんだ」
「ああ、わるい」
もう一打席やらせてくれ、とは言えない。しかし、ともすれば口に出してしまいそうなくらいに悔しかった。
渋々バットを手渡すと、新井は持っていたグローブをこちらへ放るようにしてよこした。僕はそれをのけぞりながら受け止めると、トボトボとマウンドへと向かっていく。
ボールがぎっしり詰め込まれたアルミ缶の中から、一つだけ取り出してみる。ボールの糸の縫い目に沿って、いろいろな握り方をしてみるのだが、なかなかしっくりこない。けれどそうして何度も握りなおしている時間は、どれだけ長く続いてもいいような気がしていた。
片手にはめたグローブに、そのボールを投げつけてみる。パンッ、という気持ちのいい音が、校舎の向こう側まで響くように感じた。
「早くしろよ」
新井の振るバットの音が、こちらまで聞こえてくる。
僕はそんな新井の姿をじっと見据えていた。
「お前は本当に野球が好きなんだな」
「何の話だ」
ピッチャーとバッターは離れた位置になるから、お互いに少しだけ声が大きくなる。それでも新井はバッターの構えを崩さない。
「いや、ただ好きなんだなあと、思ってさ」
「だから野球部なんだろうが」
それはいつだったか聞いた覚えのある言葉だった。思い返してみれば、そのときの相手も新井だったような気がする。おそらく僕は、彼ほどに野球を好きな人間に会ったことがないのだろう。そしてそれは、自分も含めてということでもあったのかもしれない。
「おい、いい加減にしろ」
さっきまでよりも大きな声が響く。
「まだ勝負は終わってねえ」
後にも先にも新井のバッティングで、このときほどのいい当たりは見たことがなかった。僕が投げたボールは、輝くような金属音とともにはるか頭上を越えて、暗闇の中へと消えていった。その打球音だけが、僕の頭の中にしばらく残り続けていた。
思えば、そもそもケガをして部活を離れていたのは、新井のせいではなかったか。
そんなことを思い返しながら、ネクストバッターサークルで僕は一人ニヤついている。
前のバッターが打ったボールはピッチャーの前に転がり、そのまま一塁に投げられてアウトになった。うつむきがちにベンチへと帰ってくるメンバーに目配せをしながら、バッターボックスへと向かっていく。
僕の名前が大々的にコールされると、ピッチャーよりもずっと向こうにある大きなスクリーンへ、仰々しい音楽とともに僕がプレイする映像が映された。応援スタンドの演奏が激しさを増す。楽器の音に加えて、一層大きくなっていく歓声に包まれながら、僕はバットを一振りした。
(あいつだったら何て言うだろう)
新井の姿がありありと浮かんでくると、不思議と笑ってしまう。
こうして歓声をもらえているのも、あのとき新井に負けたおかげかもしれない。
あの後、僕は部活に戻った。負けっぱなしで終われなかったというのもあったのかもしれないが、何よりあの夜の野球の感触を忘れてしまうことができなかった。離れている時間が長かった分だけ、グローブやバットが自分にどれだけ必要なのかを思い知らされたのだった。
そして今、僕はあのときよりも少しだけきれいに整備されたグラウンドに立っている。応援してくれるたくさんの人がいて、心強い仲間達がいて、活躍すればちょっとだけお金ももらえたりする。
でも結局僕は、あの頃からやっていることがまるで変わっていないのだった。
「俺は野球をしに来たんだ」
ふと、新井の声が聞こえたような気がした。
「俺もだよ」
相手チームのキャッチャーが怪訝そうな目でこちらを見ている。
ふっ、と僕は笑ってピッチャーのほうへ向いた。
青黒く広大な空のもとに、このスタジアムが煌々と輝いていることが、ここからでもよく分かる。きっとあの勝負をしていたときよりも遅い時間だろう。
そんなことを思いながら、僕は手にした木のバットを、この上なく力強くスイングしていた。
おはようデッドボール 大黒 歴史 @ogurorekishi
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