第6話 七回裏、逆転のチャンス
「こんなに明るい時間にハルと帰るなんて、なんか変な気分だね」
大きく橙色ににじむ空を背に、少女の短い髪の毛が秋風に揺れている。
「バスケ部にも休みの日があるんだな」
「公式戦の後だからね。休息も大事な練習ですから」
胸を張ってみせる彼女の姿は、どことなくわざとらしい。
あれから1ヶ月が経った。
全治2ヶ月の不完全骨折。あのとき腕の骨に入っていたヒビは治りつつある。ギプスも外れて、生活には日常が戻り始めていた。
「顧問、変わったんだってね。野球部」
「ああ」
香織がこちらの様子を伺うようにして顔を向ける。
「ごめん、部活の話は嫌だった?」
「別に。引きずってるわけじゃないし」
「そっか」
真意を図りかねているような目がこちらに向けられている。
あの日、僕が部活を辞めようとしていたことを知っているのは、今でも新井だけだった。直後にあのような出来事が起きてしまったから、やっとのことで固めたその意志も、今ではうやむやになってしまっている。
しかし考えてみれば今の状態は、僕の望んだものになっているようにも思えた。
右腕に痛みが走ったとき、僕は新井に対して確かな敵意を持った。ただそれはほんの一瞬のことで、清田先生が倉庫に入ってきたときや、その直後に香織の声が響いたとき、僕の中にそうした感情は全くなくなっていた。腕の痛みなんてどうでもよかった。ただ僕はその場所から、一刻も早く逃げ出してしまいたかった。それはひた隠しにしながらも、僕が心のうちにずっと抱えていた気持ちでもあったのかもしれなかった。
「誰になったんだっけ、顧問」
「落合先生。なんで野球部のハルが知らないのよ」
「今は野球部であって野球部じゃないからな」
「なにそれ」
グラウンドにはずいぶんと顔を出していなかった。とはいえ退部したわけでもない。
新井がそのことを誰かに告げていれば別だが、新井と周りの人間の関係を考えれば、まずそれはないだろうと思えた。
「清田先生は顧問はずれるって。学校やめるかもって話も、聞いた」
香織はあの後、一人で職員室に駆け込んだ。泣きじゃくりながらも
「とりあえずあれは事故って扱いだったけど、それ以外も含めて、清田先生が責任を取る形になるみたい。…私のせいだよね」
「いや、むしろ俺は助かったんだから。野球部にとっても、これで良かったのかもしれない」
「…そうかな」
「たぶん、な」
思えばあれ以来、その時の話をちゃんとしたのはこれが初めてだった。1ヶ月の間、香織が背負い続けてきたものをあらためて感じつつ、それが少しだけ軽くなっていくのを、彼女の肩に見ていた。
「でも落合かあ。俺、苦手なんだよなあ」
「だよね、そう思った」
片手でくしゃくしゃと頭をかくと、髪の毛が伸びていることに気づいた。それを見て、香織が笑った。
「なんか、柔らかくなったよね」
「わりと伸びたからなあ」
「髪の毛のことじゃないよ。なんていうか、ハルの感じが。そんな顔、ずいぶんしてなかったから」
顔に手を当ててみる。言われてみれば、顔のこわばりがなくなったような気もする。そもそもそういうものがあったことにすら気づいていなかったのだけれど。心なしか、身のこなしも軽い。この空白の
「…戻るんだよね? 野球部」
「戻るも何も、辞めたわけじゃねえよ」
「だけどさ」
「なんだよ。辞めろって言ったり、戻れって言ったり」
「そんなこと言ってないよ」
香織の声がこわばった。
「今の野球部だって、問題がなくなったなんて思ってない。でも、もしこのままハルが部活に出なくなったらって思ったら…」
「やめろよ」
僕はムキになっていた。香織が口にしようとしたことが図星だからだった。
部活から離れている今の日常を、悪くないと思い始めていた。
辞めようとしていたタイミングで起きたケガ。見えない誰かに「そうしろ」と後押しされているようでもあった。
彼女が言おうとした通り、部活だけでなく、野球自体に対する気持ちも薄らいでいっているような気がしていた。部活からフェードアウトしていくと同時に、野球自体からも距離が離れていく。そんな危機感のようなものを、僕自身も持っていた。だからこそ、そういう言い方になってしまった。
「自分のことは、自分で決めるよ」
「うん」と、彼女に似合わない、しかし踏みしめる落ち葉の色にはどこか合っている、控えめな返事が聞こえた。
「もう春だなあ」
カラカラと心地よい音を鳴らしながら、四角い窓がアルミのレールの上を滑っていく。
落合先生の傍らにあった薄緑色のカーテンがふわっと
「腕の調子はどうだ」
終業式の後、ホームルームが終わって廊下へ出たところを落合先生に呼び止められた。
「月瀬、ちょっと時間あるか」
大きな体に広い顔。年齢を感じさせない太く猛々しい剛毛な髪に、彫刻刀で刻まれたような濃厚な顔面。それが廊下の真ん中に仁王立ちになって待っていた。
そんな原始人のような男の
「腕は、もうなんともないです」
「そうか。ならよかった」
風が優しく草木を揺らす音が、窓の隙間から静かな教室へと入ってくる。
「野球は…」
その言葉への反応を伺うようにしてこちらに目をやりながら、先生は言葉をつなげた。
「野球は、やってるのか」
「いえ」
「そうか」
窓の外から男子生徒たちの野太い笑い声が聞こえた。
「私は、野球は素人なんだ」
打てども響かぬ僕の様子を見てか、宙に視線を向けながら、先生は一人で話を始めた。
「あいつらにとっては飾りみたいなもんだろう。できるのは最初と最後の挨拶程度。準備と片付けを全員でしているのを見届けるくらいさ」
僕は何も言わずに、伏せていた目をすっと上げた。
「そんな私でも、あいつらが上手いということは分かるよ。それだけのものを積み上げてきたということなんだろう。本当に頭が下がる」
先生は窓の外に向かって、遠い目をした。
「ただそんな奴らでも全く
自転車の車輪のカタカタと回る音が、数知れず聞こえ始めた。窓の外が、とぎれとぎれに賑やかになる。
「軒並みなことを言うようだが」
先生が僕の方を向いた。
「みんなそいつを待っている」
そういう伝え方も含めて、僕はこの先生が苦手だった。そうやって投げかけられた言葉も、素直に受け取ることができなかった。ここでは誰も悪くなどないはずなのに、ただ無意味な反抗心だけで、反射的に答えを返してしまう。
「迎えにいってやればいいじゃないですか」
下手な作り笑いで返した言葉は、思っていたよりも苦々しかった。心の中では精一杯、反抗しているつもりだった。
「できるわけがないんだ。自分たちで追い出したようなもんだからな」
一瞬、息が詰まった。
「追い出したってことは…」
僕に
「実際にはそうじゃなくても、そう思っている。責任を感じ、謝りたいと思っているやつもいる」
落合先生の大きな影がゆっくりと動く。
こちらへ近づくと、目の前まで来て止まった。
「私もその一人だ」
熊のような大きな体が、僕に向かって頭を下げていた。大の大人にそんなことをされたことがなかったからか、驚きのあまり勢いよく立ち上がってしまった。
「学校を代表して謝ります。本当に申し訳なかった」
「なんで先生が」
「君が受けてきたことは体育会の中ではよくあることかもしれない。だが、それを静めるのはこちらの仕事だ。私達はそれを怠った。それだけでなく、その責任からも逃げようとしている」
あの備品倉庫での出来事があった後、初めて香織と話したときに聞いた。あの日のことは事故として処理されたのだということ。そしてそのすぐ後に、清田先生は学校を辞めた。
「それから」
低く下げていた頭をゆっくりと戻す。しかしその目にはまだ謝罪の念が込められているように見えた。
「新井を野球部に戻したのは、私だ」
窓から吹き込む風に大きく流されたカーテンが、その勢いでレールの中を滑っていく。
底の知れない深い黒を潜めた瞳が、急に目の前に現れたかのように錯覚すると、体が固まってしまった。鋭すぎる視線はいつも通りに真っ直ぐで、それに捕まると金縛りにあったかのようになった。
僕の記憶から消し去られようとしていた彼の姿が、存在感を急激に強めていく。
ふと自分の腕を見た。新井のバットが飛んできたあたりだ。すっかり使わなくなっていたその腕は、あの時と比べるとずいぶん細くなっているように見えた。
その腕を握ってみる。その細くなったはずの腕に、むしろ強さを感じた。もう何が来ても怖くはないと、僕に訴えかけているようだった。
まるで新井の持つ底知れなさが、そこに取り憑いてしまったかのようでもあった。
「新井はまだ野球部に?」
僕が記憶の中の新井と対峙している間も、先生は深刻な面持ちで話を進めていた。
先生は不意にかけられた声に少しだけたじろぎながらも、すぐに答えてくれた。
「ああ」
「よかった」
僕の言葉に、先生はやや困惑した表情を浮かべた。それを見て僕自身も、なぜそんな言葉が自分の口から発されたのか、不思議に思った。
「どうして新井を野球部に戻したんですか」
大きな顔の表情が、少しだけ緩んだように見えた。
「あいつは本当に野球が好きなんだ」
「そんなことで、ですか」
部の状況が最悪な中でやってきた新井は、今思えばカンフル剤のようなものにも思えた。良くも悪くも野球部をかき回し、結果的にそれがきっかけで、野球部自体が大きく変わることになった。
そこに何らかの意図があったとしてもおかしくはなかった。ましてや新井を戻したのが落合先生だというのであれば、なおさらのことだとも思った。
だからこそ先生の返答に、少しばかり拍子抜けをした。
「そんなことも、私たちの仕事なんだ」
照れくさそうにボリボリと頭をかいた先生の表情は、今までになく
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