第5話 五回裏にデッドボール
「なによ、あれ」
いつものように気だるい昼休み。
机に突っ伏していた後頭部から、香織の声が聞こえてくる。
「ん?」
「昨日。平気だったの、あの後」
僕が新井にバットを突きつけられた光景を目にした後、香織は言われるがまま、学校を後にしていた。その後、また一からトンボをかけ直したことなど、知る由もなかった。
「心配してくれてんのかよ」
「あほ」
机に体を預けたまま、香織の方に顔だけ向けた。
香織はぷいっと顔をそらした。
「最近はさ、高校生が野球できるところはたくさんあるんだよ。クラブチームとかさ」
保護用のシートが汚く剥がれた窓ガラスの方へと目を向けたまま、続き出した言葉はとても唐突だった。
ただ香織がうちの野球部をよく思っていないことは、以前からのことだった。だから僕には彼女の言わんとしていることが、だいたい分かった。
「なのにどうして、あの野球部なの」
彼女のそうした思いは、新井が野球部に戻ってきたときから、より目立つようになっていった。
彼女からすれば、ただでさえ良くない部の中に、それをさらに引っ掻き回すような存在が現れたということになる。それが彼女の姿勢に拍車をかけたのだろう。
僕は黙って彼女の言葉を聞いていた。
どうしてあの野球部なのだろうか。
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
小学校、中学校と野球を続けてきて、高校に入ってからも野球を続ける。高校で野球をするというなら、部活に入って甲子園を目指す。それが普通なのだと思っていた。
いや、思っていたというよりもむしろ、その道しか僕の頭の中にはなかった。
香織の言うクラブチームのことも、もちろん知っていた。ただ、そういうものがあるのだと知っていただけで、自分が野球をできる場所として認識していたわけではなかった。
僕は野球部に何を求めているのだろう。
それ以外の場所ではなく、あの野球部に。
“俺がやりたいのは野球だ”
ふと頭に浮かんだのは、昨日の新井の言葉だった。
気づけば香織はもうそこにはいなくて、僕は机から体を起こした。
香織の見ていた窓の外に目を向けると、ほとんど黒に近い灰色の空から、針のような雨がとぎれとぎれに落ちていくのが見えた。
放課後のトレーニングルームで、筋トレメニューをひたすらこなす。長くやればいいという種類のものではないので、メニューを終えた部員から、各々に帰り路についていく。
雨の日の練習は、いつもに比べて早く終わる。天気が変わって練習メニューが変わっても、最後に残るのが自分であるということは、何も変わらなかった。
雨の日だからこそできる道具の手入れがある。
ボール磨きから備品の整理まで、他の学校であればマネージャーがするような仕事を、淡々とこなしていく。県大会で上位に食い込むチームで、マネージャーがいない高校なんて、ウチくらいのものだ。
校訓である“自立”を体現するため、自分のことは自分でするという方針から、この学校の野球部では伝統的にマネージャーというものを置いていないのだった。
部室に隣接する備品倉庫は作りが古く、橙色の白熱電球が申し訳程度に倉庫内を照らしている。そのうちのいくつかは明かりを切らしたままだ。
トタン屋根から伝わってくる甲高い音は、時間とともに激しくなっていた。
「ふう」
手にしていた最後のボールを、持ち手のついたアルミ缶へ向けて
真っ黒になったボロ雑巾を手に持って、もう片方の手で重たい金属の扉をこじ開ける。雨というよりは滝に近い大量の水が注がれ続けるグラウンドは、既に一つの大きな水たまりになっていた。
遠くの景色は、その滝に遮られてよく見えない。
「うわっ、危ねえな!」
数人の男子生徒達があげた叫び声を聞いて、そちらに目をやった。
部室棟の脇にある通路の部分にだけ、屋根がついている。
その場所に、バットを持つ生徒の後ろ姿が見えた。
今日のような雨の日は、皆、屋根のあるところを
後ろ姿で顔は見えない。しかしそれでもそれが新井であることは、男子生徒達の悲鳴を聞いた瞬間から分かっていた。
あの様子では、ついさっき始めたようには思えない。実際に人通りの多かった時間帯にも、何事もなくこうしていたのではないだろうか。
「おい新井」
僕の言葉に耳を貸す様子もなく、バットをもう一振りしてみせる。
「こっちの方が広いぞ」
ゴンゴン、と備品倉庫の重い扉をノックする。
その音に誘われて、新井がこちらを振り返った。
叩いた扉をじっと見つめてから、何も言わずにこちらへと向かってくる。
「早く言えよ」
鋭い目つきでそう言い捨てながら、倉庫の中へと入っていった。僕もなぜだか吸い込まれるようにして、その後に続いた。
道具の整理は全て終わっていた。
倉庫内には薄い天井を叩く雨の音と、力強いスイングの音だけがあった。
僕は壁にもたれかかりながら、ただそれを見ていた。
いつ見ても新井のスイングは理想のものとは程遠かった。野球を経験したことがある者であれば、ひと目でそれが分かった。彼は、間違いなく下手くそだった。
しかし僕はいつもそれを美しいとも思った。どんなに汚くても、そのスイングは力強く、彼の目はひたすらに真っ直ぐであるということに変わりはなかった。
だから評価されるべきだというのではない。だから試合や練習にも参加させるべきだというつもりなんてない。ただ、新井のスイングから決して失われることのないそれは、他の野球部員の誰もが持っていないものだった。それは僕自身を含めてもそうだった。
自分が初めてバッターボックスに立ったときのことを思い出していた。
小学2年生の夏。すでにほとんど負けが決まったような練習試合で、僕は初めて試合のグラウンドでバットを持った。
自分以外のすべてが大きく見えて、真っすぐ立っているだけでも必死だった。
問答無用にピッチャーから投げ込まれてくるボール。
初球は「ストライク」という審判の声を聞いてから、ボールが投げられていたことにようやく気付いた。
二球目はボール。少しずつボールを目で追えるようになってきた。監督やコーチの声が聞こえてはくるが、何を言っているのかまでは分からない。
三球目はストライク。今度はピッチャーがボールを離してから、キャッチャーミットに収まるまでの軌道が確認できた。
そして次の四球目。それが僕のはじめてのスイングだった。
初球と同じ「ストライク」というはっきりとした声。それとともに「アウト」という言葉もセットになって聞こえてくる。
思いの限りでバットを振った。それまでしっかり見えていたボールは、全く見えていなかった。
あのとき以上のスイングを、きっと僕はしたことがない。
史上最大のフルスイング。自分の中で最も力強く、真っ直ぐなスイングだった。
結果は三振だった。とても悔しかった。けれど野球の気持ちよさを知ったのは、あのときでもあったのかもしれない。
試合に立つ緊張感、だんだんとボールが見えてくる興奮、三振したときの悔しさ。その全てとともに僕はあのとき、野球を好きなのだと知った。
だから野球選手だったのだ。
それを僕は、新井のスイングを目にするたびに思い出していた。
僕はたしかに野球が好きだったのだと。
「俺さ、部活やめるよ」
新井に伝えようと思ったわけじゃない。けれど独り言だけのつもりでもなかった。
新井のスイングが止まったことに驚いた。
何を言っても聞く耳を持たないはずの、あの新井が、だ。
「あ、悪い…なんでもないよ」
新井の目はじっとこちらを睨みつけていた。
雨の音が激しい。
「なんだよ」
「なんでだ」
二人の声が重なった。
僕が聞くのと同時に、新井が問いかけた。睨んでいる漆黒の瞳は、瞬きすらしない。
「なんでって…、わかるだろ」
「分からねえ」
正面から向かい合う。底知れぬ力を持つ視線に負けないようにして、なんとかそこに立っている。僕らの間に大粒の雫が落ちていく。雨漏りだった。
「お前だけ試合に出て」
沈黙を破ったのは、新井の方だった。
「お前だけ練習できる」
途切れ途切れの言葉に気圧されそうになる。
「何が不満だ」
雑用を押し付けられようと、理不尽な扱いをされようと、野球の練習ができて、試合に出られている。それを許されない新井からすれば、望み通りの環境なのかもしれない。
「こんな形でやりたかったわけじゃねえよ」
新井の言いたいことはわかった。けれど僕にも僕の思いがある。それを全くなかったことにする新井に、少しだけいらだっていた。
「野球なんか上手くなければよかった」
新井の目の色が変わった。
黒に包まれていた眼球に、マグマのような赤色が充満していくように見えた。
「てめえ…!!」
新井が振り上げたバットがトタン屋根を大きく叩いた。大量の雫がこぼれ落ちてくる。構わずそれを振り下ろすと、新井の手から勢いよく離れたバットが、僕の方へ向かって飛んできた。
カランカラン、と金属バットが激しく転がる音がする。
気付けば僕は、左手で右腕を抑えながらうずくまっていた。
「痛え…」
右肘の辺りに焼き付けるような痛みが広がっていく。
「何やってるんだお前ら!」
激しい痛みに朦朧とする意識の中で、清田先生の声が聞こえる。
部室棟の通路でバットを振っている野球部がいると聞いて、駆けつけてきたようだった。
新井はこちらを向いて、ただ呆然と仁王立ちをしている。
「月瀬…!」
僕の肩に触れながら、新井の方へ問いかけた。
「新井、お前がやったのか…!?」
新井はなおも何も言わないでいた。
清田先生も黙っている。
何も口にせず、ただ僕と新井の方をゆっくりと見比べた。
「…新井、お前はもう帰りなさい」
清田先生の低い声は、ひんやりと冷たく聞こえた。
「あとは先生がなんとかするから」
そのとき、金属の扉が勢いよく開いた。
「どういうことですか?」
憎悪に満ちたような顔をした女子生徒が、先生を見上げた。紺色のカッコいいスポーツジャージを身に着けていた。
「日野…!」
清田先生は突然扉が開いたことに驚いたのか、少しの間、
「なんだ、どういうことっていうのは」
「先生がなんとかするからっていうのは、どういうことですか」
「何を言ってるんだ…。月瀬を…、保健室に連れて行かないといけないだろうが」
「じゃあなんで、あいつは帰ってもいいんですか?」
日野香織の語尾が震える。今にも泣き出しそうな目をしていた。
「あいつがやったんじゃないですか…!!」
倉庫中の備品を全て震わせるような声が響いた。
日野香織は顔を拭いながら、全速力で駆けていく。
「日野!」
清田先生は僕から手を離したまま、それを追いかける気力もなく立ちすくんでいる。顔色がだんだんと青ざめていくように見えた。
「先生、大丈夫ですから」
「ああ」という先生の声を聞くよりも前に、僕は自分の足でゆっくりと歩き出した。新井の方に目をやると、まだ仁王立ちのまま、じっとこちらを睨んでいた。
「だったら、その体を俺によこせよ」
僕の背中へと向かって、新井の言葉が放たれた。
聞こえないふりをしていたが、一瞬で全身に刻み込まれてしまうようだった。
扉を出ると、雨は弱まっていた。グラウンドはまだ水浸しのままだ。
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