第4話 三回表の大量失点
時間の流れととともにそうなったのか、それとももともとがそうだったのかは定かではないが、低い天井はデコボコとした表面で灰色をしていた。立ち上がって思い切り手を伸ばせば、ペリっと剥ぎ取ることができそうなほど、もろく見える。しかし仰向けになったまま、それをただ眺めているだけの僕達にとって、それはいつもよりも少しばかり手の届かないものになってしまっていた。
外のグラウンドから運動部の掛け声が聞こえた。
それほど離れた距離ではないはずなのに、いつにも増して遠くに感じる。
部室の隅に掛けられた時計は、ガラスの表面が茶色くくすんでいた。短い針は5時を指している。このくらいの時間であれば、この掛け声の中には既に一年生のものが紛れ込んでいるだろうな、などと思ったりもした。
窓から差し込む陽の光が、徐々に赤みを帯びていくのが分かった。
僕はゆっくりと上体を起こした。
頬骨のあたりと唇の端っこのあたりが、まだヒリヒリしている。
顔をしかめながら隣に目をやると、ブラックホールのような瞳が、じっと天井を見上げていた。瞬きすらせず、電池の切れたロボットのように停止しているのだが、その目には確かな生命力が見てとれるような気がした。
「…巻き添えくらったじゃねえか」
底知れぬ黒い瞳は動かさず、新井は答える。
「逃げればよかっただろうが」
「あほか。逃げたら一生帰ってこられなくなる」
グラウンドで飛んだ怒号が、離れた
「戻って早々、チームワークを乱すなよ」
ずっと天井を見つめたままでいた眼が、初めてギョロッと動いた。
「何のためのチームワークだ」
窓枠とレールが錆びついたガラス戸の外へと目をやりながら、僕は背中を壁に預けた。もたれかかった拍子に後頭部をぶつけると、思っていたよりも脆い音がした。
僕らはそれから何も口にしないまま、窓からこぼれて届く光が、段々と小さくなっていくのだけを眺めていた。
「俺は野球をしに来たんだ」
誰にともなく新井はつぶやいた。
そうして今日も天井を見ていた。
僕はそれからも定期的に、新井と一緒に部室へぶち込まれていた。
放り込まれた狭い部室で、低い天井を眺める日々。毎回毎回その表面の脆さに心もとなくなるのだが、何度思っても、そう簡単には崩れてこないことに、何かしらの安堵を感じてもいたのかもしれない。
「おい月瀬」
ガタガタと荒々しい音を立てて、アルミ製の引き戸が外から開いた。
「いつまで寝てんだ。早く来い」
「…はい」
監督が来たのだ、と思った。
グラウンドへ出ると、案の定、監督の清田先生が腕組みをして立っていた。
「先生、連れてきました。基礎トレをやらせていまして」
清田先生は僕の方を横目でちらと見て、もう一度グラウンドへ目を向けた。
「ご苦労さん。お前もこっちに入れ、月瀬」
監督である清田先生が来たときの実践練習だけは、僕がレギュラーメンバーとして参加できる唯一の機会だった。
グラウンドの脇に転がっていたグローブをとって、自分の守備位置まで駆けていく。
バッターのいるところから一番遠い場所。
近づいてくる前方には先輩たちの視線が待ち受け、少しずつ離れていく後方からは同級生たちの視線が後をつけてくる。
「一年のくせに」
「なんであいつだけ」
視線はいつもそう語っていた。
音として発された声を耳で聞いているほどにはっきりと、肌で感じることができた。
生ぬるい追い風と向かい風が交互に吹くのに挟まれながら、駆けていく足取りは重い。
キン、と気持ちが悪くなるくらい快い音がグラウンドに響くと、「センター!」という声が同時に上がった。
呼ばれた僕は返事をする代わりに、どんよりとした灰色の空を見上げた。
高々と上がったボールが、放物線を描きながら落ちてくる。
その白球だけは、描かれるキャンバスがどんな色の空であっても、いつでも同じ姿を僕に見せてくれた。放物線の頂点で失速して、自分のグローブへ収まるまでの静寂は、どんな時でも僕を裏切ることはなかった。
「てめえ!!」
ボールがグローブに収まる直前だった。
野球人生で初めて、そんな白球との暗黙の契約があっさりと裏切られた。
怒号の主は先輩だった。聞こえ方からすれば、それは僕に向けられたものではなさそうだ。
グローブに収まったボールを確認するよりも先に、僕は顔を上げていた。
何の確信があったわけではない。けれど最初に僕の目が捉えたのは、清田先生に対峙して立つ新井の姿だった。
「新井!」
先輩たちが駆け寄って、鬼のような形相で新井を清田先生から剥がしていく。
清田先生の胸元から新井の腕が離れていくのが見えて、どうやら彼が先生の胸ぐらをつかんでいたようだと分かった。
「何してんだ、お前!」
先輩たちの怒声があちこちから集まる中、清田先生は呆気にとられたようにして、新井とそれを抑える先輩たちの方を向いていた。
「なんであいつだけ…!」
先輩たちの声を押しのけて轟いたのは、新井の声だった。
「なんであいつだけ出すんだ!!」
先輩たちを払いのけながら、必死にこちらを指差す新井を見て、“あいつ”というのがどうやら自分のことなのだとようやく気づいた。
「俺も出せよ…!」
新井と取っ組み合う形になっている先輩も、必死に駆けつけてきた同級生も、みんな同じ顔をしていた。
真剣に怒っているわけでも、指を差して笑うわけでもない。自分たちよりも劣っているものを憐れむように眺め、嘲笑っていた。口元に人を蔑む笑みを浮かべつつ、表面上は眉間にシワを寄せて怒りを表すのに必死だった。
僕は遠巻きからそれを呆然と見ていた。グッと強く手を握ると、確かにグローブにボールが収まっていることが確認できた。
「ねー、まだー?」
グラウンドに面した2階建ての部室棟から、呑気な声が下りてくる。
「うるせえ」
「もう真っ暗なんだけどー」
「だったら早く帰れよ」
ザーッという、グラウンドにトンボをかける音が自然と大きくなる。
「こんな遅い時間に女子一人で歩かせる気ー?」
香織はすっかり錆びきった金属の柵にもたれながら、視線を横へ動かした。
その先で、白い光が動き続けている。わずかに残されたグラウンドに届く光が、銀色の金属バットに反射する。光の動きに合わせて、ブゥン、ブゥンと鈍い音が繰り返し聞こえていた。
「お前はまだ帰らないのか」
木製のトンボを片付けながら、新井に声をかけた。
「まだだ」
「そうか」
自分で聞いておきながら、新井がそう答えるのは分かっていた。
清田先生に掴みかかった一件があってから、新井は一週間の部活謹慎が課された。謹慎明け初めての練習で、ただひたすら一日走り続けていたなんてことを、彼が許せるはずはなかった。
溜まったフラストレーションを晴らすかのようにバットを振る新井を横目に、散らかった道具をまとめながら部室の方へと歩き出した。
「おい」
初めは聞き違いだと思ったが、その声がもう一度聞こえて、はっとして後ろを振り返った。新井の方から話しかけられるのは、おそらくそれが初めてだった。
「お前は俺より上手いのかよ」
「え」
すぐには何を言っているのか分からなかったが、この前の新井の行動を思い返すと合点がいった。僕が新井よりも野球が上手いといえるのか、ということだと思った。
「どうだろうな」
「お前は出られて、俺は出られない」
練習に、あるいは、試合に、ということだろう。
「出られるのは上手いやつじゃないのか」
「まあ、普通はそうだろうな」
声が聞こえる薄闇の中から、ザクッとスパイクを踏み出す音がした。不気味にきらめく金属バットの光が、気づけば目の前まで近づいている。
「お前より上手ければ、俺が出られる」
「う…」
僕は詰まるような声を出した。バットの先端を腹に突きつけられたからだった。
「俺と勝負しろ」
部室棟の階段から、慌てて駆け下りてくる音がした。ゴム底のローファーが、錆びた金属を叩いている。
「ハル!!」
端から見れば僕が脅されているようにでも見えたのかもしれない。香織の血相の変わった顔とは対照的に、僕はなぜだか笑みを浮かべていた。
「香織、やっぱり先に帰れ」
香織がさっきのように拗ねる様子はなかったが、何が何だか分からないといった困惑の表情を浮かべているのは、暗闇の中でも確かに分かった。
学校の前の道路は車通りが少ない。街灯もそれほど多くなく、まれに通る自動車のヘッドライトが目立つくらいには暗闇だ。
秋の気配を感じさせる虫の音と、自分たちが土を踏みしめる音だけが聞こえている。
新井と僕はそれぞれ3打席ずつの勝負をした。互いにピッチャーとバッターを交代で行い、打った打球の勢いと飛んだ場所から、ヒットかアウトかを決める。ヒットが多かったほうが勝ちという、極めて単純なルールだった。
「くそぉっ!!」
カラァン、と金属バットの転がる音が、静まり返ったグラウンドに響き渡る。
僕は新井から1本のヒットを打っていた。残りの2本もヒット性のあたりではあったのだが、新井曰く、飛んだところが悪いとのことでアウトということになっていた。
新井の打席は3打席とも三振だった。僕が投げたボールが彼のバットに当たることは、一度もなかった。
「俺の勝ちだな」
暗闇のグラウンドの中、ささやかに灯される明かりが、新井の仁王立ちを照らしている。肩で息をしている背中が、僕の方に向けられていた。
「俺が勝ったら、お前の代わりに俺を出せ」
最初にそう言い放った新井は、本気で悔しがっていた。ふざけて、遊びのつもりで、気軽に、けしかけられたものなんかでは決してなかった。彼の中では当然ながら本気の勝負だったのだ。
「お前は本当に野球が好きなんだな」
動く岩のようにゆっくりと仁王立ちが振り向く。鋭い眼光が僕に注がれた。
「そんなに好きなんだったら、周りとももっと上手くやれよ」
「俺がやりたいのは野球だ」
「だから…」
「馴れ合いがしたいわけじゃない」
前の通りを大きなトラックが走り抜けていく。ヘッドライトの光があたりを一瞬だけ昼のように明るくして、エンジン音と風を切る音を残しながら過ぎ去っていった。
辺りがもとの暗闇に戻ると、鈴虫の声がより一層大きくなったような気がした。
「次は負けねえ」
新井は放り投げたバットを拾って、部室の方へと歩いていく。それに続こうと歩き出したところで、茶色くえぐれた地面が目に入り、我に返った。
「おい、新井…!
少し待ってはみたけれど、いつまでたっても返答は無い。
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