第3話 プレイボール

「気をつけ、礼」


 “さようなら”を言い終わらないうちに、教室出口の引き戸が勢いよく開け放たれる。

 校舎のどこを見ても、その先駆者は常に毬栗頭いがぐりあたまだった。朝と同じ、上履きの跳ねる音が響いていく。それぞれの教室から昇降口へ向かって、それぞれの風が吹き抜けた。


 先輩たちがやってくる前に、準備まで全て終わらせていなければならない。この時間帯が一日における緊張感のピーク。練習中よりもはるかにキビキビとしている。


 放課後の練習が始まる時間になるといつも思う。

 自分は何をしにここへ来ているのだろうか、と。

 朝から晩まで何に時間を割いているのだろうか。

 

 心からやりたいと思えているわけじゃない。

 やらなければいけないようなことでもない。

 きっとやっておいた方が、やらないよりはいいのではないかというくらいの気持ちで、とりあえず一日をこなしていく。そんな繰り返しが、いつの間にか知らず知らずのうちに積み重なっていった。

 惰性で生きるくたびれた大人のようだ。まさに自分が一番なりたくない姿ではないか、と。


 「少しばかり野球が上手い」と担任は言った。

 確かにそうだ。

 “少しばかり上手い”からこそ、ここにいる。

 自分にもできることがあると思うからこそ、僕は今も野球をしている。




 そんなことを考えていると、他の同級生達が部室へ駆け込んでくる。

 目を合わせても会釈もしない。目すら合わせない奴もいる。

 僕自身も彼らの姿を目で追うこともない。視線の先には野球道具。これをグラウンドに届ければ、いつも通り野球をすることができる。今日も、昨日や一昨日、その前までと同じようにして、練習が始まって終わる。いつも通りの後片付けまでをこなし、日が落ちきってから帰るのだ。数人の同級生とすれ違う頭の中でよぎっていたのは、ただその一連の流れだった。


 しかし校庭の景色はいつもと違っていた。

 自分一人のためだけに開け放たれているはずのグラウンド。唯一この瞬間だけは、新鮮な気持ちになれるはずだった。


 でも今日は違った。

 一人分の野球道具だけが先に準備されていた。

 そしてその脇で一人の生徒がバットを振っている。とてもではないが、きれいなフォームとは言えない。しかし一心に続けられている力強いスイングと、ただ前だけを見つめ続ける真っ直ぐな瞳には、その一瞬で惹きつけられるような思いがした。


「新井」


 僕の後ろから同級生の一人がぼそっとつぶやいた。


「何してんだよ」


 そういえば、バットを振り続ける男に僕は見覚えがあった。

 入学早々に停学処分を受けた、いわく付きの生徒。復学後も数ヶ月間は課外活動を制限されていたと聞く。思えば4月にはこうして野球部に顔を出していた。


「聞いてんのかよ」


 後からやってくる一年生たちが、それぞれ罵声のような声を上げ始めたが、新井が目もくれずひたすらスイングを続けているので、誰も近づくことができないでいた。


「何してんだ」


 そんな彼らの後ろから、キャプテンの土田先輩達が姿を表し始めた。

 グラウンドにやってきた土田先輩は「ああ」といった表情を見せてから、僕らに語りかけた。


「新井のことだけど、今日から復帰することになったらしいから。仲良くしろよ」


 二年生たちがクスクス笑った。しかしその傍らでは、力強く空を切るスイング音が、ブオンブオンと途切れることなく鳴り続けていた。


「キャプテン」


 一年生の一人が土田先輩に向かって駆けていく。


「こいつを野球部に戻すんですか」


 背の高い土田先輩は、言い寄ってきた一年を力のない目で見下ろし、新井の方と見比べている。


「監督の意向だ」


「でも…」


 日頃こらえきれなくなったものが溢れ出しそうになり、言いよどむ。


「なんだ、文句でもあるのか」


 土田先輩の冷たい表情は、ただ淡々と話しているだけで凄みがあった。


「いや…」


 ふっと上げた土田先輩の顔が、こちらの方へと向けられる。それでも表情は変わらなかった。


「一年、集合」


「はい…!」


 僕達はうつむきがちになりながら、速やかに土田先輩のもとへと駆けていく。見つめる先には自分たちでならしたばかりの地面だけがある。


「一年は今日、外周」


 校外の周りを沿うようにして、ぐるっと一周するルートで走るトレーニングの通称。それが外周だった。時間間隔を決めて、起伏のある道をひたすら走り続ける、精神的にも肉体的にも最も過酷なメニューだった。


 最初に先輩に言い寄った一年生だけが、「え」といった表情を浮かべた。


「新井とも上手くやってほしいしな。チームワークを高めるいい機会だ。こいつが心配してるらしいからよ」


 そう言って土田先輩は、その一年の肩に手を置いた。


「いや、でも…」


「まだ何かあんのか」


 さきほどにも増して冷たい視線が、彼に突き刺さった。


「…いえ」


 土田先輩がふっと息を吐く。笑ったようにも見えるが、表情の変化が小さな先輩の本心は、全く読み取れない。


「おい新井」


 土田先輩は、なおもバットを振り続けている新井に声を掛ける。

 一定のリズムを刻んでいたスイング音が止んだ。


「はい」


 新井は何事もなかったかのようにこちらを向き、バットを地面にコツンと当てながら、片手に持ち替えた。

 一年達は刺すような視線を新井に送っている。

 キャプテンの集合がかかったとき、同じ一年であるはずの彼が、反応すらしなかったからだった。


 しかし彼はまっすぐに土田先輩だけを見ていた。


「聞いてたか」


「何をですか?」


 土田先輩の眉がピクリと動いた。


「聞いてないならこいつらに聞け」


 土田先輩は、顔だけを振るようにして僕らの方を指し示した。

 それに促されるようにして、新井のあの真っ直ぐな目がこちらを向いた。

 濃い眉と、その下にあるくっきりとした瞳からは力強さを感じられ、見つめられ続けると吸い込まれてしまいそうだった。そうでありながら瞼だけは重たそうにしており、その力強さと憂鬱さを相備えた不気味な雰囲気からは、底知れぬ闇のようなものを思わせた。



「二年集合」


 朝と同じようにして、先輩達が列になった。その傍らで僕達一年はグラウンドを背にして走り出そうとする。




「何してんだ。お前はあっちだ」


 僕達は先輩の大きな声を背中で聞いて、反射的に振り返った。

 ランニングを始めようとする先輩達の列の中に、さっきまでバットを振っていた新井がぬけぬけと紛れ込んでいた。


「聞いてんのか、新井」


 土田先輩が声を大きくする。

 「一体何をしてくれてるんだ」という、驚きと呆れと憤りの負の感情の合わせ技から、一年は全員その場に立ち尽くしていた。


「いや俺はこっちで」


 先輩達が、走り出そうと低くしていた腰を正した。


「お前さ」


 大きな声がグラウンドに響く。「何だ何だ」と、周りにいる他の部活の生徒達がこちらの様子を伺っている。


「やめとけ」


 声を荒げた先輩を、キャプテンの土田先輩が片手で制止した。


「おい月瀬」


 あまりの異常事態に僕の頭が緊急停止してしまっていたのか、土田先輩の呼びかけに反応するまでに時間がかかった。


「…あ、はい」


 僕はすかさず走った。

 グラウンドの外から、中央へと向かっていく。風のない蒸し暑い日に、僕が走ったところにだけ一時的に作られるささやかな向かい風は、試合中に感じる匂いに似ていた。試合の中盤、展開が大きく動く大事な場面で感じるような匂い。


「こいつ連れてけ」


「すいません」


 帽子をとって頭を下げる。

 もちろん僕が新井のためにそうする道理などない。形以外に何の意味もなく、何の価値を生み出すこともない動き。

 そうして僕は新井の手をとった。


「触んな!」


 ドワっと響いた声とともに、僕の腕が一瞬にして弾かれる。

 先程の先輩よりも大きな声に、周りの生徒達がざわつき始めていた。


「月瀬」


 土田先輩はそれ以上何も言わず、僕の出方を伺うように、また何とかするのを強制するように、ただ僕の方をじっと見ていた。

 しかし僕の目は注意するべきそちらではなく、この異常事態を作り出している問題児の方に釘付けになってしまっていた。今日初めて新井を見たときから感じていた闇のようなものの爆発に、単なる驚きとは違うものを感じていた。


 僕は黙って彼を見つめることしかできなかった。ただその場で立ちすくんでいるだけだった。


「お前らちょっとこっち来い」


 声色の変わった土田先輩とそれ以外の先輩達が、僕と新井の体を強引に連行していく。

 それでも僕は新井を見ていた。

 ここまで周りが大きく動き始めても、彼の目は全く動じず同じところを見続けているように見えた。


「やめろ!」


 新井は叫び、先輩の腕を振り払う。


「何すんだてめえ!」


 一人の先輩がそれよりもさらに大きな声を出すと同時に、新井の周りを先輩達が囲んだ。

 それでも新井の目は変わらなかった。その目は確かに先輩達の方を向いてはいたが、全てを吸い込んでしまいそうな力の範囲は、端から見ていた僕までもしっかりと及んでいた。


「俺は野球をしに来たんだ」


 わがままな子供のような言葉を、先輩達は笑った。

 離れた場所にいた同級生たちも、周りで様子をうかがっていた他の部活の生徒たちでさえも、クスクスと笑っていた。


 しかし僕の中からはそんな反応も、感情も生まれることはなかった。

 驚きすぎてしまったのか、呆れすぎてしまったのか。

 自分でも何なのか分からないその感情は、おそらく感情と呼べるものですらなかったのかもしれない。

 僕はただその存在に、ひたすら圧倒されてしまっていた。

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