第2話 準備体操

「おはようございます…!」


 一年生が一列に並び、大きな声で先輩達を出迎える。三年生は夏の大会で引退したので、後から来るのは二年生だけ。まだ薄暗い青色の空の下、グラウンドには僕たちの声だけが遮られることなく響く。きっちりと整えられたバットやグローブと同じ連なりに、僕らは立って並んでいる。


「アップだろ、一年! 早くしろ!」


 キャプテンの土田先輩が声を張ると、一年の列が勢いよく崩れる。しかしまたそれも、後からできた別の列に吸収されていくだけだ。さっきまでと同じようにして、二年の後ろに一年が連なる。声をだすのはそれでも一年。野球部の一年は、声出し部といっても過言ではない。




「二年やめ。一年はそのままあと十周!」


「い…!」


 「はい」と聞こえるようで「はい」ではない。そんな返事をすることだけが、一年にできる唯一の反抗だった。


 僕たちは走った。先輩達がストレッチをしている間。各々グローブを手にはめ、キャッチボールを始めたときも。

 束の間の早朝の涼しさも、そんな僕らを見て見ぬふりをするようにして、すっかりどこかへ行ってしまう。朝だというのに汗が流れる。秋分の日とは名ばかりだ。




 ぽつぽつと他の部活の生徒が見え始めるのは、少し経ってからだ。サッカー、陸上、ソフトボール。同級生の姿が多い。けれどもその瞳は、僕らよりもいつも少しだけ輝いて見えた。見ているものが違うのだ。彼らが見ているものは、僕達が見ているものよりもきっと明るい。


 それなのに彼らは、僕達の姿を羨望の眼差しで見つめる。このグラウンドにいる中で最も高い成績を残している部活こそが、野球部だからだ。

 朝早くから夜遅くまで、厳しい練習を忍耐強く重ねている。だから強い。強いからいい成績を残せる。いい成績を残せる部活は、さぞかしよくできた人間達の集まりで、他の部活のお手本になるような理想的な団体であるはずだ。そんなが、その残念な眼差しを生んでしまっているのだ。


 カコンっ


 硬球が金属バットに当たる音がした。

 軽く投げられたボールをバットに当てて、ボールを投げたピッチャーへ、転がすようにして打ち返す。ボールを遠くに飛ばすのではなく、丁寧かつ的確に、バットにボールを当てる練習。

 どれだけ力強いスイングができたとしても、起こした風でボールは飛ばない。バットがボールに当たるということが、なのだ。


 先輩達はそういう練習をしている。バットにボールを当てるために。

 

 僕達はまだ走っていた。なぜ走るのか。走ればバットにボールが当たるのか。走れば野球がうまくなるのだろうか。


「一年! 声が聞こえねーぞ!」


 金属音に紛れて、澄んだ空気に流されてくる先輩の声。背中に受けた声の持ち主が、いったい誰なのかは分からない。こちらも誰一人確認しようとはせず、返事もしない。先輩だってそんなものは求めていない。

 校内を一周回り、もう一度その近くを通る頃には、どの先輩も何も言わなくなっていた。あれから一度も声なんて出していないのに。


 息を切らした僕達一年は、そのままようやくストレッチに入った。いわゆる準備体操のようなもの。しかし非情にも僕らの耳に届くのは、土田先輩の声だった。


「集合っ!」


 白無地のキャップ帽を身に着けた部員たちが、一斉にグラウンド脇へと整列する。


「ありがとうございました!」


 土田先輩の声に合わせて、グラウンドに向かって帽子を取りながら頭を下げる。


「ありがとうございました…!」


 二年はそのまま部室へ向かい、一年は先輩の使った用具を片付けに走る。何のための体操だったのだ。何に対しての「ありがとうございました」なのだ。


 腑に落ちている者などいない。それでも誰も何も言わないのは、今までずっとそうしてきたからだ。

 そんなことは、考えてもどうしようもないことなのだった。野球部ここで生き抜いていくためには、考えないことこそがなことなのだ。


 いかにも統率がとれているかのように、卒なく片付けをこなす僕達にそそがれる周りの視線たちは、もちろんそんなことなど知る由もなかった。






 廊下を駆ける上履きの音と、教室の引き戸が開け放たれる騒音が、校舎中に散らばっていく。その中で最後にたてられる音は、いつも決まってこうだった。


「月瀬ぇー、またかぁー」


 ただでさえシワで覆われたその顔の、眉間にさらに深いシワが寄る。


「すみません、先生」


「野球がちょっとばかし上手くたってな、やることはしっかりやらんと」


「すみません」


 教室前方にある入口の前に立たされたまま、毎朝のように繰り返すこのやりとり。クラスの生徒達はもはやそれを気にかける様子もない。

 担任はあからさまにわざとらしく、ため息をついてみせた。


「謝るのは誰だってできるんだよ」


 座れ、というように顎を動かす。それに従ったわけではないという意思を示すため、あえてタイミングを遅らせて自分の席に向かう。グラウンドでも教室でも、どこでも僕にできることは、誰に気付かれるとも分からない、そんなささやかな抵抗とも呼べない抵抗くらいのものだった。




「ハル」


 自分のことを学校でそう呼ぶのは、この学校では彼女しかいない。いやそれよりもまず、教室で声を掛けてくる人間など、日野香織くらいのものだった。


「なんだよ、日野」


「なにそれ」


 昼休み。購買で買った惣菜パンを食べた後は、しっかりと睡眠を取ると決めている。朝早く夜遅い野球部員はだいたいそうで、昼休みに机の上に転がる毬栗頭いがぐりあたまは、この学校の風物詩でもあった。


 明らかに開いていない男の眼と、機嫌を損ねた女の吊目が向かい合う。


「やめろよ、その呼び方。ガキの頃じゃあるまいし」


「なに照れてんの」


「照れてねーよ」


「はいはい」


 香織が僕の坊主頭をグシャグシャと雑に撫でる。後ろの席からひそひそとした話し声が聞こえた。


「やめろって」


 手で軽く振り払うと、香織はすぐにそうするのを止めた。


「…あほくさ」


「あ?」


「遅刻、あんまり溜めると呼び出しだよ」


 そう言って香織は、そそくさとどこかへ行ってしまった。


「わかってるよ」


 遅刻が多くなると、放課後に呼び出されて反省文を書かされる。そんなことは分かっていた。ただ彼女がいったい何をしにきたのか、僕には全く分からなかった。

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