おはようデッドボール

大黒 歴史

第1話 試合前

 ぼんやりとした橙色の明かりが、なんとか手もとが分かるくらいに灯されている。鈴虫の鳴き声が、さっきまでよりもはっきりと聞こえ始めた。

 9月の終わりになったというのに、この時間になってもまだ暑い。目の前に広げられたグローブやスパイクから放たれる匂いが、それをさらに増幅させているように思えた。


 真っ暗になった室内を背にして、部室の前のベンチに腰掛けた。プラスチックの青がきしむ音がする。ひんやりとした感覚は気持ちがいい。

 目線の先にはきれいに整備されたグラウンド。さっきまで自分が一人でいた場所だ。手に取ったグローブはまだ少し温かかった。けれどもそれをぬくもりと呼ぶことには、抵抗感しかない。


「また一人?」


 声がした方を振りむくと、紺色のカッコいいスポーツジャージが目に入る。学校指定のえんじ色とは、質感も違ってスタイリッシュだ。


「何やってんだよ、こんな時間に」


「何って部活だよ。うちらだってモップ掛けしたりさ、ボールとかバッシュとか、道具の整備もあるんだよ」


 彼女がちらりとグラウンドを見やる。その横顔はどこか寂しげだった。


「野球部ほどじゃないけどさ」


 少しだけ心地良い風が通り抜けると、虫の音がまた聞こえ始める。


「手伝ってあげよっか」


「やめろよ」


「わかってるよ」


 彼女は「ちぇっ」と口にしながら、そこにあったベンチに、どっかりと座り込んだ。


「もう遅いんだから早く帰れよ」


「なに、心配してくれてんの?」


「ちげえよ」


「手伝わなかったらいいんでしょ。先輩に見つかったって、一人でやってることには変わりないんだから」


「そういう問題じゃねえだろ」


「じゃあどういう問題?」


 自分とは正反対に、彼女はずっとニコニコしていた。何がそんなに楽しいのかと聞きたくなるくらいに。


「せんぱーい、わたしー、手伝ってませんからねー」


 誰もいなくなった校庭に声が響く。思っていたよりも大きな声だった。


「やめろって」


「いいじゃん。ひとりぼっちより二人の方が楽しいよ」


 そう言って、彼女はずっと隣にいた。決してその微笑みをとどめずに。決して自分を手伝おうとはせずに。






「夜の学校って、なんかワクワクするよね」


 一番最初にこうして並んで自転車を引いたとき、かつての彼女が言った言葉は、すっかり過去のものだった。そこから遠くに見える職員室以外、校舎の明かりが全て消え、外灯が主役になったこの建物の姿は、僕達にとってすっかり日常の光景となってしまっていた。


「ワクワクなんかしねえよ」


「え?」


 目の前で急に彼女の声が聞こえる。頭の中で思い出していただけのことが、口から出てしまっていた。


「何?」


 自白させようとする刑事さながらにしつこく、しかしニヤついたような顔で問い詰める。


「なんでもない」


「ワクワクって?」


 ちっ、と今度はこちらが舌打ちをする。


「ちゃんと聞こえてんじゃねえかよ」


 「へへ」と笑う彼女は、詰めた距離をもとに戻して、再び自分の自転車を引き始めた。


「夜の学校のこと?」


 観念したように、何も言わずに頷いた。


「そうかなあ。私は今でもワクワクするけどな。昼間の学校と全然違うじゃん。なんていうか、ミステリアスっていうかさー」


 彼女の方の自転車は意気揚々としたタイヤの音がするのに、僕の方だけは誰にも届かない悲鳴のように、不快な甲高い音を立てている。


「あ。ハルは、昼間ずっと寝てるから分かんないか」


「それはお互い様だろ」


 乾いてはいても、緩んだ表情を作ることができるのは、こうしてそばにいてくれる人がいてくれるからかもしれない。そんなことを考えている脇で、腹を抱えて大笑いしている彼女のことを何も考えていないような奴だと、僕はずっと勘違いしていた。


 


 自転車を走らせて、小さな頃から見慣れた街に近づくと、彼女が不意に口を開いた。


「部活、楽しい?」


「え?」


 ちゃんと聞こえてはいたけれど、聞こえないことにしてしまえばそのままやり過ごすことができるかもしれない、という思いから聞き返す。


「高校の野球は楽しい?」


 しかし質問はむしろ具体的になって返ってきた。あちら側もそのくらいの気持ちで切り出したのだと思った。


「まあそれなりに」


「無理してない?」


「してねえよ」


 前を走っていた自転車のスピードを緩め、僕の横につくと、いぶかしむような表情を近づけてきた。


「ほんとに?」


 非がなくても認めてしまう冤罪犯を思った。そこまで念を押されると、たとえ確信していたとしても、人は不安になるものだ。


「片付けのことかよ」


「それも、そう」


「言っとくけど、いじめとかじゃねえぞ」


「じゃあなに」


 少しだけ間が空いた。それが何かと問われれば、こうだと言ってやれるような答えを持っていなかった。


「必要なんだよ。部がまとまるためには」


「まとまるために?」


 街灯が少ない道では表情まではよく見えなかったが、その言葉は怒っているようでもあった。


「ハルが一人で後片付けすれば、野球部は一つにまとまるってこと?」


 自分の中でなあなあにしていることで助かっていた部分に、ずけずけと土足で踏み込まれる。あると知っていて隠していた歪みが、明らかになっていくのが苦しい。


 僕はなにも言えないまま、ただ自転車を漕いでいた。

 はあ、と彼女がため息をついた。


「百歩譲って、後輩が雑用をするっていうのは分かるよ。でも、だったら一年生みんなでやればいいじゃん。なんでハルが一人で全部やるの」


 そのときになって、ようやく僕は気づいた。彼女の言葉は、宙に吐き出されているようだった。僕を問い詰めていたのではなく、誰かに対して怒りをぶつけていたのでもなく、もっと大きな空気のようなものに向かって、ただひたすら放り投げられているようなものだった。


「あいつらだって、やりたくてやってるわけじゃない。そういうものなんだから。必要なことなんだよ」


 そんな言葉が自分の口から出たことが、心底信じられなかった。先輩達のふるまいを必要だとし、それに黙って従う同級生をかばうかのような発言。本心では納得なんてしていないのに、彼女が代わりに怒りをぶつけてくれるから、少しだけそこから距離を置いてとらえることができた。




 そこからは何も言葉を交わさないまま、彼女の家の近くまで来た。


「じゃあね」と言う彼女に向かって、こちらも軽く手をあげる。家の方へ振り向いた彼女の背中に、言いそびれたことを置いてくるようにして声をかけた。


香織かおる


 ぷいっ、と小刻みに彼女が振り向く。


「なんかありがとな」


 最後はいつもの屈託のない笑顔になってから、自宅の方へと自転車は進み始める。こちらに背中を向けたまま、左手だけは高々と空に掲げながら、別れの合図を送り続けていた。

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