満月夜の夢 Side:N


――十五年前――


2192年 冬・某日/第二都市アシュバタ・鎮めの地




「ねえ、先生の秘密って何だと思う?」


 突拍子のない問いかけ。少年はくりくりとした空色と柔らかな緑の瞳で、じっとネメアと彼女の弟を見ていた。

「なんで急にそんなこと」

「だって不思議な人じゃん、先生って」

「そうだけどさ……」

「レオは先生の秘密なんだと思う?」

 ユーリスに名指しで尋ねられたネメアの弟は、少し面倒そうな顔で口を尖らせていた。だがユーリスを前にした彼はいつも半ば呆れたような態度で、それでも友愛を隠さないような子だったとネメアは思う。

「分からないよ、そんなの」

 レオは手元の本に再び目を落とす。ネメアの暖かな白の髪とは真逆の黒髪。燃えるような赤の瞳ではなく、くすんだ灰青の見つめる図鑑には、ニルヴァーナ独自の医術があった。薬の生成に用いるあらゆる「自然」の産物。その写真が簡単な活用方法と共に掲載されている。

 アロエ、ニンニク、ビーツの根、ビスマス塩、ペパーミント、エメラルド――。

 ミミズにドクグモ、ヒルだとかマムシだとか、トリカブト。そんなものまで。

 普通の人間なら原料を知れば卒倒しかねないものだって、ニルヴァーナの「生命の科学」の一部なのだ。


「……実はすごい辛いもの好きとか」

 ペパーミントの絵図を見ながらレオはぽつりと呟いた。彼は幼馴染の少年を邪険にしているように見えるが、どうしてもそもそもの性根の律儀なところが出てしまうらしい。

「それ、ほんとだったら一番びっくりするかも……ニルヴァーナここのご飯って味薄いから」

「嫌なのか」

「うーん、俺はもうちょっと濃い方が好きかな」

「ユーリスってば、目を離したらすぐに山ほど調味料かけようとするもの……」

 ネメアが溜息を吐きながら言うと、ユーリスは愛らしい顔を綻ばせていた。


 実弟のレオは無論だが、ネメアにとってはユーリスも家族の一員だった。父も母もニルヴァーナ一族の中核にいて、ここ最近は会話どころか顔を合わせた記憶もない。叔母であるシンハも例に漏れず、というよりむしろ両親よりも重要な立場にいる――ネメアの勘に過ぎなかったが――だろうに、自分を含めた集落の子供たちの教育に心を傾けていた。

 夜、二十一時。この時間になるまで、三人揃ってネメアの部屋で三つ机をくっつけて勉強をするのが日課だった。ネメアとレオはニルヴァーナの生まれのため、薬学を学ぶのが殆どであったが、ユーリスは日によってまちまちだった。語学だったり歴史だったり、幼馴染に倣って薬学だったり。看護師である母の影響か、医術に興味があるらしい。

 だがレオもユーリスも、ネメアより随分と覚えが早かった。そも、。レオとは五歳、ユーリスとは四歳も離れていた。子供にとって一年の差はかなり大きい。平均身長を鑑みれば、十三歳のネメアは彼らより身長が高いはずだった。だが二人はネメアよりも僅かながら背が高かったし、今もぐんぐんと背が伸びている。ネメアよりも多くの言葉を知っていたし、色々なことを考えているようにも思える。


 こうやって二人と並んで座っているだけでも、彼らが自分と違う人間だと、生来早熟な特殊体質――なるだけ早く戦士になるよう、神に、世界に規定された存在なのだと思い知るのだ。


「先生って友達いるのかな」

 ユーリスはノートの端に奇妙な犬の顔を描きながら言った。ああ、でも、とネメアは思う。彼はいつまでも子供のように興味というものを失わない。見えないものなどない、だからこそ見ようと努力し、そして見える全てに意味がある。そう信じているような子だった。――少々掴み所のない自由人なところはあるが。

「まったく失礼な疑問だな……」

「だってさ、ニルヴァーナの人たちとか、村の子供たち以外と喋ってるところ見たことないし」

 先生の、叔母さんの秘密。その至極他愛もない興味へと思考が戻っていく。ネメアが黙ったままでいると、ユーリスは右向かいに座る彼女に尋ねた。

「ネメアは先生の秘密、何か知ってるの?」

「……たぶん」

「多分ってなんです、姉さん」

「合ってるかどうか分からないんだもの。変なこと言いたくないじゃない」

 ネメアが渋ると、ユーリスは身を乗り出しながら綺麗な両の眼を輝かせる。

「予想でいいから聞きたいなあ」

「ええ……絶対信じてもらえないと思うわ。笑われちゃう」

 笑わない笑わない、そう言いながらも歯を見せている憎めない少年。助けを求めるように隣の弟を見たが、彼も興味ありげな顔をしていた。

「多分っていう割には自信ありそうじゃないですか」

「もう……誰にも言わないでね、絶対よ」

 ネメアが渋々ながらも口を開こうとしたその時だった。



「あら、三人で顔を寄せ合って、何か悪戯の算段かしら?」

 三人ともが声をあげて目を丸くする他なかった。振り返れば部屋のドアに手をかけて先生が微笑んでいる。皆が皆、ノックの音にも気づかなかったようだった。ネメアはそこで初めて時計を見たが、もうとっくに就寝時間を過ぎている。

「あっ、先生! 先生って友達たくさんいる?」

 ユーリスが椅子から立ち上がって、近くに歩み寄ってきた先生――シンハに無邪気さを隠さず問うた。レオは手に負えない兄貴分に大袈裟な溜息を吐いて、さっさと鉛筆やらノートやらを片付け始める。

「そうねえ……とても好きな友達は二人いたわよ」

「それって魔女?」

 ネメアが言うと、ユーリスもレオもはっとネメアの顔を見た。驚くのも無理はない。既にこの頃には人間と魔女の血で血を洗う争いは始まっていた。

「魔女は悪ではなく、人間と同じ心を持つものである」とは他でもない先生の言葉である。三人をはじめとする同郷の子供らは、魔女を恐れはすれど、彼女らが絶対悪であるとは考えていなかった。他の人間よりかはずっと理性的に魔女を見ていたのである。ネメアはその最たる一人だった。彼女は開戦の引き金となったテロの現場に居合わせ、を知っている。

 ネメアがなぜシンハの友人が魔女だと思ったのか。ユーリスとレオはそれが気になったのかもしれない。シンハはネメアの目を見つめて、子供たちの前で絶やされたことがないようにすら思える微笑みを向けた。

「一人は魔女で、一人は人間よ。二人とも、もうどこで何をしているか分からない」

 そんな優しい両の瞳。燃えるような紅、凍えるような蒼が悲愴を帯びたような気がした。


「人を信じることは大切なことです。でも、信じられることも同じぐらい大切なの。あなたちに素敵な関係になれる友人が出来るといいですね。……いえ、もうあなたたち三人は、きっとそうなのでしょう」

 シンハは愛しい子供たちを見回した。ネメアはじっと考える。シンハがなぜそんなことを言うのか、そして――ふと湧き上がった疑問は、ユーリスがその素直さで表してくれた。

「人に信じられるにはどうしたらいいの」

 レオが机を戻そうとしていた手を止めて、静寂が訪れる。

「……その答えは、先生には分かりません」

「どうして」

「私は信じてもらえなかった人間ですから」

 シンハの笑みはいつの時も、ありとあらゆるものを慈しむようなものだった。だが今この瞬間は。寂寥、自嘲。自分一人のために笑っているような、やるせなさ。

「あなたが答えを見つけなさい、ユーリス。先生の代わりに見つけてほしいのです。あなたは優しい子だから、きっと辿り着けるでしょう」

 さあ、もう眠る時間ですよ。シンハが逡巡するユーリスとレオを急かす。二人は「おやすみなさい」とネメアと言葉を交わして部屋を出て行ったが、最後までお互い「人に信じられるにはどうしたらいいか」の答えを言い合っていた。


「あなたももう寝なさい。明日は礼拝もあるんだから」

「……ね、先生、耳を貸してほしいの」

 少しきょとんと目を開いたシンハは、それでもすぐに腰を落としてくれる。ネメアはシンハを前にして、ずっと気になっていたことを聞こうとしていた。日に日に大きくなる疑い。綺麗で賢くて優しいシンハ先生の秘密。だがそれを耳打とうとした途端に、勇気をなくす。ネメアは生来そんな少女だった。

「――ねえ、先生って好きな人いるの?」

 今度こそシンハは驚きを隠さなかった。ネメアが咄嗟に紡いだ逃げ道と知ってか知らずか、彼女は笑いが堪えきれないようだったが、当のネメアはなんだか恥ずかしくなる。

「あら……うふふ、そんなことが気になるの。かわいい子。ええ、随分前にはそういう人もいたかしらね。でもね、かれこれ十年ほど会っていないわ」

「ケンカしたの……?」

「喧嘩というより、愛想を尽かされたと言った方が正しいかもしれないわね」

「今でも好き?」

「今日は随分な質問責めね。そんなに気になる?」

 ネメアはこくりと頷いた。自分で話を切り出した手前もあったが、シンハとこんな話をするのは初めてで、何より雲の上のような、どこか現実離れした雰囲気の彼女が見せた人間味に惹かれていたのだ。

「……彼はこの世で一番許せない人になってしまったけど、それでも……一番愛しい人に変わりはないわ」

 シンハがまた、後悔を宿したような笑みを漏らす。この頃まだ幼かったネメアには、矛盾する心の機微なんてものは難しい。

「好きなのに嫌いなの? それってなんて言うか……ええと……」

「大人?」

「そう、大人! 大人の恋ね!」

 大した理解もせず、ただそう思うのが子供にとっての限界。長い月日が経って、二十八歳になったネメアでも分からない。シンハが愛した者との間に何を抱えていたのか。ネメアに過去は視えない。そして彼女は死によって、永久に口を噤んでしまったから。

「いいえ、むしろ子供みたいだわ」

 記憶の中の先生はただただ笑う。ネメアから目を逸らした彼女は、消えない悔恨をひとりごちた。

「ただ信じてほしいと言えばよかった。ニルヴァーナの教えなんて振り切って、そう言えばよかった……」


 



 ハウリング、そして目覚め。カーテンの隙から差し込む満月の光。ネメアが生涯忘れることはないだろうその言葉。

 ニルヴァーナの教えなんて。という教えなんて、と思いながらも、信じてくれと泣きつく勇気はない。

 私は昔もこれからも、ずっと弱いまま生きていく。涙も零せないまま、ネメアはもう夢を見ませんようにと、再び瞳を閉じた。


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サンサーラ -Samsara- 榎木のこ @enokinobayasi8

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