私の心臓と魂は

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私の心臓と魂は

女王の心臓と魂は


 私はか弱く脆い肉体の女性でしかない。だが、私は王の心臓と魂を持っている。


 「『黒太子』がようやく兄と手を組んだか」

我らが女王はわずかに嘲りと哀れみを含んだ、美しくも残忍な笑みを浮かべられました。

「はい。 今になってから必死に味方を集めているようです」私は頷きます。

「戦争は始まる前に勝敗の九割が決まっている。 それに、足手まといの味方は敵よりも恐ろしいものだ」

「はい。 次は誰を『洗脳』いたしましょうか?」

「手はず通りに、『彼女』を」

「はっ」私は敬礼し、女王の執務室から出ようとしました。

「カスパール」

我らが女王にその時呼び止められた私は、忠実にかしこまって振り返りましたが、胸の張り裂ける思いが隠しきれずにあふれ出たのを悟られたのでしょうか、それとも私の思い込みから来る錯覚だったのでしょうか。

私を見下ろす女王の目が、ほんの少し、潤んでいらっしゃったのです。

「命令通りに、だ」

「はい」

私は、そのまま退室いたしました。

歩いてすぐの廊下を曲がった先で、『夜を駆ける者ナイトライダー』ヴァン・ヘルシングが目をぎらつかせて私を待ち構えていました。

「おい。 我らが女王と何を話していた」

「極秘任務だ。 今はまだ話せない」

「男でもない癖に気に入られて。 俺はお前が大嫌いだ」

「男が頻繁に出入りしているとなると我らが女王には困ることもあるのだ。 嫌いならそれで構わないが、私が男ではないのは真実ほんとうだよ」

「ふん。 昔からだが、いけ好かないヤツだ」

「それよりも、もうすぐ我らが女王のお休みの時間だ。 いつものように、お前が行って不寝の番をしなければ」

「言われるまでも無い」と我らが女王の寝室の方へ歩き出した彼に、私は声をかけました。

「妹御の具合は大丈夫か?」

途端に機嫌が良くなった彼は、単純と言えば単純なのですが、血の繋がった家族のいない私には酷く羨ましい存在でした。

「ルーシーならもう大丈夫だ」

「それは何よりだ」

「ルーシーのことをババアと呼んでいたハーカー家のクソガキもあれ以来ルーシーにべったりでな。 ママ、ママと甘ったれてしょうがねえ。 いびっていやがったクソババアも無視していたクソジジイも人が変わったようにさ。 全く人間なんか適当な生き物だぜ」

「シャンデリアが落ちてきた時に血の繋がらぬ子供を庇って大怪我した妹御の、健気さと深い愛情に心打たれたのだろうな」

「下らねえな。 だが悪くはねえ。 じゃあな」

「ああ」


 神よ。罪を罪とも思わぬ人に、何故罰がありましょうや。そして彼らのどこに救いがありましょうや。己を罪人と分かっている者にのみ、罰も救いも、ひいては地獄も天国も、存在し機能しているのでしょう。

されど私は、紛うことなく罪人でありながら、罰の全てにこの魂を押し潰され、救いの全てに見放されることを切実に望んでおります。

私は地獄に堕ちて、未来永劫、苛まれて苦しみ続けたいのです。

エリーゼが地獄に堕ちることを甘受している限り、私も、その側にてお仕えし続けたいのです。

地獄、おお、地獄よ!

私達にとっては、生きることこそが地獄以外の何ものでもありませんでした。

たった一つの恋を殺さざるを得なかった私達の、末路が生き地獄でございました。

あの恋に殉じていればきっとそれは天国だったでしょう。

ですが私達は愛しい恋を殺しました。殺したその瞬間から、私達の地獄を生きる日々は定められていたのです。

エリーゼ。

エリーゼ、エリーゼ!

私の女王よ。

地獄で再会することが出来ましたら、どこまでも暗い道を寄り添って歩いて行きましょう。何も憚らずにまっしぐらに、地獄の奥底を目指しましょう。そこには殺して死んだ私達の恋の亡骸が、冷たく横たわっておりましょう。

もう少しだけお待ち下さい、私の女王よ。

私は地獄に確実に行くために、今や、魔王になけなしの魂を売り飛ばそうとしております。

「何だお前」と魔王は不気味そうに言うのです。「不老不死になりたいとか、力が欲しいとか、これを守ってくれあれを成就させてくれとか、普通はそう言う建設的な願望を死ぬ間際には言うだろう。 地獄に堕ちたい、それも今すぐに連れて行けだなんて破滅的願望、俺は数千年は生きているが初めて聞いたぞ」

「私は、もう、充分にやるべきことをやった」私は血反吐で周囲を汚しつつも、微笑んで告げます。「彼女の願った未来が数百年後には確実に到来する。 そう言うことをやった。 その代償が私の、この死だ。 だが私が暗殺されたとなると、この屍が見つかったとなると、また跳梁跋扈する輩が出て来るだろう。 だから、」

地獄にこのまま連れて行け。

「分かったよ。 お前の体は俺が喰って、お前の魂は地獄に堕としてやる。 お前を喰えば愛が分かるかも知れない」

「それは、無理だろうな」

唯一の愛を殺した私とエリーゼの愛の真髄を、たかが数千年生きただけの魔王が喰って理解しようなどと、無理無体にも程がありましょう。

「チッ。 忌々しい。 俺は下手したらとんでもない毒を喰おうとしているのかもな」

「さあ、な」と私は最期に言い、そのまま意識が薄れて行くに任せました。

エリーゼ、随分とお待たせしましたね。

私も今、そこへ行きます。


 ――だからこれは、俺が何も知らない物語であり、俺が何もかも知っている物語である。


 私はカスパール・トロイと申します。魔族の赤ん坊で、どこの誰の子とも分からぬ捨て子でした。ただ、私は誰より恵まれておりました。ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン大公の跡継ぎ、ヴェンツェル様に拾われて召使いとして育ったからです。

私がヴェンツェル様のお館の前で拾われた日は、ヴェンツェル様の長子、ディートリヒ様がお生まれになった、まさにその日でございました。

いくら魔族であれど、捨て子であれど、この吉日だ。特別に召使いとして養育してやろう。

滅相もないくらいに有り難いことでございました。

大憲章マグナ・カルタ』に一三人の大枢機卿の署名が記された日から、魔族は公的な迫害こそ無くなったものの、むごい差別は全く変わってはいなかったからです。『屍喰らい』と言うのが魔族に新たに付けられた名称でございました。この頃は『合成肉』は民間には普及しておりませんでしたから、普通の魔族は生きていくのに死刑囚の肉や、戦場の死骸を食べていたのです。

召使いとして育てられながら、私はよくヴェンツェル様や奥方様が嘆いていらっしゃるのを目にしました。

「ディートリヒがもう少し丈夫だったら!」

「あれではこの軍人の家を継ぐことなど出来ない!」

「おまけにあの年で小娘を追いかけ回している!」

「勉学も嫌がって、本当に呆れたものだ!」

ですから、奥方様が身ごもられた時のお二人のお喜び様は、類を見ないものでございました。

「神は我々をお見捨てにならなかったのだ!」

「何て嬉しい!」

本当に幸せそうに寄り添っていらっしゃったお二人でしたので、私がお二人が実は政略結婚だったと知ったのは、奥方様が産褥でお亡くなりになった後のことでした。

そして、生まれたのはお二人があれほど待ち望んでいらっしゃった男児では無く、女児でございました。

ヴェンツェル様は人が変わりました。元は温厚で、魔族の私を拾って下さるほど度量の大きな方だったのが、少しのことで激怒するようになりました。更に浴びるように酒を飲んでは、私ばかりを殴り、蹴るようになったのです。

屍喰らいめ、貴様の所為でオフィーリアは死んだのだと怒鳴りつけながら。

何一つ私の所為ではないことはヴェンツェル様こそ一番ご存じだったのでしょう。ですが一切合切を私の所為にしなければヴェンツェル様は気が狂ってしまわれていたでしょう。私は、私を怒鳴りつけては殴り、蹴るヴェンツェル様の目がいつも悲痛な色をしておられましたので、抵抗すら出来ませんでした。ヴェンツェル様が奥方様と過ごされたあの幸せな時間を、私もちゃんと知っておりましたから。

私はこの暴虐に耐えました。私には、いつまでもこのヴェンツェル様と私の苦痛が続くものでは無いと言うことがちゃんと分かっていたからです。

奥方様が命と引き換えにお産みになった次子、エリザベート様はとても秀麗なお嬢様で、そしてディートリヒ様とは比べるのも失礼なほど優れた素質をお持ちだったからです。いずれ、ちゃんとヴァレンシュタイン家を継げる才覚を持った殿方を婿入りさせて、エリザベートお嬢様に家督を継承させれば、その時にこの苦難はそそくさと立ち去っていく、その輝かしい未来が私には見えておりました。

 人にも魔族にも、悲しみや苦しみは平等に訪れます。苦難や災厄は不意に襲います。ですが、その先の未来に、ほんの一筋で良いのです、か細く消えそうでも良いのです、ほのかに光明が見えてさえいれば、どれほど私達は勇気と誇りを持って現状の悲惨に立ち向かえるでしょうか。


家庭教師の教えることを十に満たぬ内に全て覚えてしまわれたエリザベート様は、私を供に連れてよく外出されました。そして、馬車の中から外を見つつ、おっしゃるのです。

「どうして魔族を誰もが白眼視するのかしら。 お前のような魔族を見ていると、どうしてもそれが不思議でならないわ」

そこは貧民街でございました。貧民と魔族が混住している、汚らしい場末の街でございます。誰も彼もが貧困に喘いで苦しんでおりました。彼らは汚れていて、臭うのです。飢えと貧しさゆえに犯罪にも手を染めるのです。その彼らに対して私は同じ魔族とは言え、ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン公のお屋敷に奉公する身でしたので、きちんとした身なりで、けしからぬ素行とは無縁でございました。

「いいえお嬢様、私も屍喰らいでございますが、幸いヴェンツェル様のおかげで、私は屍肉でないものを食べることが出来るのでございます」

「屍肉でないもの?」

「はい、合成肉、と言うものでございます。 聖教機構が開発した屍肉の代用品でございます。 美味しくはありませんが、合成肉を食べていれば私達は魔族として生きるに何の不足もありません。 ですが……合成肉はまだ彼らの間には広まっておらぬのです。 合成肉を手に入れられるのは聖教機構の重鎮であらせられるヴェンツェル様や、富裕な方々のみなのです。 何しろ高価なものなので……」

「……まだ合成装置を大量量産していないのね。 恐らく『費用がかさむから』、そんな理由なのでしょう。 魔族に金をかけるよりは人肉を喰わせておけば良いと誰もが思っているのね」

そう言ってお嬢様はぷいと私より顔を背けて、馬車の窓をじっと見つめていらっしゃいました。窓より差し込む光と影の所為で、その横顔がどのような表情をされているのか、私にはいくら見つめても分かりませんでした。ただ、お嬢様がひどく怒っていらっしゃることだけは私にも良く分かったのです。

『魔族が何だと言うの。 人は迫害をしなくなった代わりに屈辱を与えているのだわ』

『一つは既得権益のため、一つは己の頭で考えないため、一つは恐怖のため、差別なんて所詮はそれが起因なのよ』


私は人の思考を読み取ることが出来ました。正確に申しますと、人の脳波を感じ取ることでその人が何を考えているのか、ほぼ正確に把握できたのです。逆に使うことで、人の思考を操ることも可能でした。『人の思考を自在に知り、操る力』、これが私の魔族としての力――『プロメテウス』でございました。

ですが私はこの力をあまり好ましいと思いませんでした。

人には誰にでも踏み入れられたくない領域がございます。見られたくないもの、見せなくないもの、聞かれたくないもの、聞かせたくないもの、人には自分以外に隠しておくべきことが沢山ございます。

私のこの力は、それを無礼にも土足で踏みにじるものでありました。

ですので、私は、この力をいつも意志でぐっと抑圧して過ごしていたのです。

更にこの力を誰かに打ち明けると言うことも決してしませんでした。打ち明けた所で、不快に思われる方はいらっしゃっても、私の性根が素直でよろしいと思って下さる方は一人もいらっしゃらないのは明白でありましたから。

それに私は、本性がまるで悪魔のようにねじ曲がった魔族でありました。

この力に目覚めたのは、お嬢様が産まれて間もなくのことでしたが、悪用することをすぐさま思いついたからです。

それは洗脳、刷り込み、とでも言うべき酷い悪行でした。

私は何と、己の命の恩人と言っても過言では無いほどにご厚恩あるヴェンツェル様を何年もかけて洗脳したのです。それは、お嬢様の長所や美点を、そっとそっと、少しずつ、ヴェンツェル様の頭の中に小刻みに刷り込んでいくと言うものでした。

奥方様を殺したのはエリザベート様だと自覚もなく思っていらっしゃったヴェンツェル様は、一度も彼女に娘として接したことも、愛したことも無かった。

エリザベートお嬢様はヴェンツェル様に愛されたいがために、常に無理をして聡明で利発な『お嬢様』を一生懸命に演じられていたのにも関わらず、です。

……もしかすれば、私はこの頃には既にお嬢様を愛し申し上げていたのかも知れません。ですがこの頃の愛はまだ異性への愛では無く、私を『人』として扱って下さるお嬢様への感謝と喜びから生まれた愛情だったように思います。

ヴェンツェル様にこの効果が出ましたのは、お嬢様が一七歳になられました、正にその日のことでした。

「話がある」とヴェンツェル様はお嬢様を応接室に呼び出しました。私はこの時、自らの悪行に対して完全に慢心しておりました。何故なら応接室にはやんごとなきご身分の、貴公子と呼ぶべき麗しい青年がいらっしゃったからです。ゆくゆくは聖教機構の重鎮におなりになる御方でございました。ヴェンツェル様がご紹介なさります、

「お前の婚約者のエドワード・オブ・ウッドストック殿だ。 御祖父にはかのデルヴィエール卿がいらっしゃる。 ご挨拶なさい、エリザベート」

しかし私はこの時驚きました。それはエリザベートお嬢様からとんでもない感情を感じたからでございます。

「お断りしますわ」

エリザベート様は激怒していらっしゃいました。

「エリザベート!」ヴェンツェル様が血相を変えました。ですが咄嗟にお顔を繕われて、「こら、恥ずかしがるのもいい加減にしなさい!」

私は唖然としておりました。お嬢様がここで「はい、こんにちは」と微笑んで言えば間違いなくお嬢様は幸せになれるのです。それが英明なお嬢様に分からぬはずはありません。なのに、何故?

「いえいえヴェンツェル様、初対面でこの年頃の娘御に恥じらうなと言う方が無理でしょう」

まだ何にも分かっておらぬ貴公子が呑気におっしゃいます。

「僕はまた来ますので、その時には色よい挨拶をお願いしますよ」

「申し訳ない、『黒太子』殿。 不出来な娘で、本当に……」

「いやいや、これほど美しい姫君なのです、無調法なことは出来ませんよ。 ご心配なく」

「ご厚意感謝致します」

そして貴公子はご機嫌で去って行きました。私は唖然としつつも、お嬢様の激怒の原因を探ろうといたしました。ですが事態はそれではもはや収まらぬ所に達していたのです。

「お父様」エリザベート様は冷静におっしゃいました。「今まで一度も私と言葉を交わしたことさえないお父様が、今まで一度も言葉を交わしたことすらない男を私の良人(おっと)にするおつもりか。 それはあまりにも身勝手と言うものでございますわ」

「お前は莫迦か気狂いなのか! お相手はかの『黒太子』殿だぞ!? お前がはいと頷いて『こんにちは』とさえ言っていればお前も私も幸せになったのだ!」

「お父様、貴方が私を娘として一度でも愛して下さっていれば私は従順にそうしていたでしょう。 貴方の政略結婚の道具となることに、むしろ喜んで。 ですが貴方は私を一度も娘として扱って下さったことは無い。 何故そんな貴方のために今更『はい』と頷いて『こんにちは』と言わねばならないのか、ご説明をお願い致します」

「この親不孝者が!」

平手が飛びました。お嬢様が倒れました。お嬢様、と私は咄嗟に叫んで駆け寄りました。

私は私が引き起こした大失態におののき、青ざめておりました。

私のヴェンツェル様への刷り込みは大失敗に終わったのです。そうです、二人の人間がいて、二人とも幸せにしたいのにその片一方だけ洗脳するなど、あまりにも愚かでございました。私は、お嬢様をも洗脳しなければならなかったのです!

お嬢様は、抱き起こそうとした私の手を振り払い、冷徹とも言える目をして、こうおっしゃったのです。

「私を初めて娘として貴方が思っておっしゃった言葉が、それですか」


男は理性的に怒り、女は感情的に怒るものだと私は聞いておりました。ですが親子というものは、それを時として逆転させるものなのでしょうか。捨て子の私には全く見当が付きませんでした。ただヴェンツェル様は感情のままに怒鳴り散らし、お嬢様はただじっと、冷えた目でヴェンツェル様を見つめていらした。ヴェンツェル様は最後にこう言い捨てました。

「お前はどの道何があろうと『黒太子』殿の妻になるのだ! それがお前の人生だ! このヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家に『黒太子』殿が婿入りして下されば、何も問題は無いのだ!」

そしてお嬢様とあまりの事態に動けぬ私を置いて、応接室を乱暴に出て行かれました。

私が今更洗脳した所でもはや間に合いません。ヴェンツェル様の洗脳には念を入れて数年をかけました。ですがお嬢様をこれから洗脳するには、もはや時間はございません!時間的猶予など皆無です!

おお、神よ、これが私の罰でございますか。主を裏切った私への、神罰でございますか。

私は幸せにしたかった二人を、親子を、仲違いさせると言う不幸に陥れたのです!

「お嬢様、どうかお許し下さい!」

そして悪辣な癖に意志薄弱な私は、もう良心の呵責に耐えきれませんでした。

「お許し下さいって、お前が何をしたの?」お嬢様は優しい声でおっしゃいました。「お前は何も悪くは無いわ」

ここで感情に任せ、八つ当たりでお嬢様が私を責めて下されば私もまだしらを切り通そうと無理を貫くことが出来たでしょう。ですが違った。堰が切れたように、私は己の悪行を白状しておりました。

「……お前は私とお父様を幸せにしたかったのね」お嬢様は私の大罪を知っても、まだ優しくおっしゃって下さるのです。「方法を間違えただけよ、その気持ちは嬉しいわ」

「お嬢様……!」

「だからお願いがあるの」

とお嬢様は相変わらず優しい微笑みを浮かべていらした、ですが、微塵たりとも優しくは無い思考をしていらっしゃいました。それは私を用いて、とんでもない大罪をお嬢様が背負うと言うものでございました。しかし今の私に何の否む力がございましょう。私が全て悪いのです。そして悪の種は一粒ばらまかれますと、凄まじい勢いで蔓延り、いくら正義を用いても根絶やしにすることは断じて不可能なのです!

罪悪感ゆえに私はまた悪辣さを取り戻し、そして覚悟と言うものを決めました。

神よ、どうか私の魂は地獄のもっとも冷暗な奈落へ堕として下さいまし。


 ヴェンツェル様がお亡くなりあそばされたのは、それから間もなくのことでございました。ディートリヒ様の放埒を叱っている内に頭に血が昇られたのでしょう、突如として倒れておしまいになってからあっという間に……でございました。

盛大に、しかし粛々と葬儀が執り行われました。

その後で、ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家はディートリヒ様がお継ぎになることが決まりました。

エリザベート様は大変落ち込んでしまわれて、喪に服されて全く人と会おうとはなさりませんでした。『黒太子』殿が慰めのために訪れていらしても、決してお部屋から出ていらっしゃることはありませんでした。

それが半年も続きましたので、私は召使いの分際ではありましたが、密かにエリザベート様を慰めるための宴を催すことをディートリヒ様に提案いたしました。

「あ? 何で僕がそんなことを……」ディートリヒ様は渋い顔をされました。

「御当主様、エリザベート様が元気になられましたら、きっとご多忙な御当主様を手伝って下さりますでしょう」

私がこう言いましたのは、ディートリヒ様がご婦人がたと遊びたくてたまらないのに、執務の所為で時間が取れないので苛立っていることを知っていたからです。

そして怠け者のディートリヒ様ですから、自ら宴の手配をされることは決して無いとも。

「そうか、だったら特別にしてやろう。 だが僕は忙しい、お前が支度しろ」

「はい、承知いたしました」

私は精一杯宴に招く方々を吟味いたしました。ヴェンツェル様に年頃が似ている方々はいけません、お嬢様がヴェンツェル様を思い出されて余計にふさぎ込んでしまわれます。老人の方々もいけません、心が弱っているお嬢様に年寄りの説教や訓示をされてしまっては逆効果ですから。

いつの間にか宴の人選は、お嬢様のご友人になっていただけそうなうら若きご令嬢、いらっしゃるだけで場が明るくなるであろう見目麗しき御曹司の方々になっていました。

宴の日がやって参りました。私は、招待状を手に手にいらっしゃった方々を、大広間へと案内しておりました。やがて全員がお揃いになり、料理や楽団が準備を整えて、後はお嬢様がいらっしゃるだけになりました。

「中々いらっしゃいませんわね」

そうおっしゃったのは、『天使のパウラ』と憧憬を込めて呼ばれる美しき貴族のご令嬢、パウラ・プラトーノヴナ・ツァレンコ様でございました。いずれは大きな女子修道院、もしくは教会の長になられる御方でございます。華やかな白百合をあしらった刺しゅうの清楚なドレスと言い丁寧に結われた金の髪と言い、本当に天使のようでいらっしゃいました。

「御父君を亡くされてからふさぎ込んでしまわれているのだろう?」

心配そうにおっしゃったのはオーウェン・オーガスト・ジェレマイア・クロムウェル様でございます。『黒太子』殿の一番の親友でいらっしゃいまして、少し癖のある赤髪がいかにも陽気そうな、好青年でいらっしゃいました。

「ああ、一度も顔さえ見せてはくれなかった」『黒太子』殿が嘆息しました。「あれほど美しい姫はそうそういないと言うのに、花の盛りを無駄になされて、悲しい限りだ」

「あら、美しい方ですの?」くすくすと意味深に笑ったのはパウラ様でした。「私よりも?」

「白百合と紅薔薇のどちらが美しいかと訊かれて困るのはどこの男も同じだろうよ」と『黒太子』殿は優雅におっしゃいました。

「俺は両手に花の方が嬉しいかな!」と陽気にオーウェン様が言われまして、場は少し笑いの雰囲気に包まれました。

「それにしても主役が来ないことには宴も何も……」

誰かがおっしゃいまして、ディートリヒ様も待ちきれなくなったのでしょう。

「ふふん」ディートリヒ様は好色そうな笑みを浮かべて、特に美しい令嬢の方々をねっとりと見つめつつ、私に、「おい、早く呼んで来い!」

「ただちに行って参ります」

「すぐに連れてくるんだぞ」

「承知いたしました」

それで私はお嬢様の部屋に向かいました。着きますと、準備しておりました黒いハンケチをそっとドアの下の隙間からお嬢様の部屋に差し入れました。

「……来たのね」お嬢様の小さな声に、私ははいと答えました。

「手はず通りに、オーウェン様もいらっしゃっております」

「それは重畳。 今、行くわ」

そして、部屋の扉が開けられた時、私は思わず、あっと息を呑んでおりました。

お嬢様は夜よりも漆黒の喪のドレスを着ていらっしゃったのです。まるでそれは、この世で最も美しい白亜の大理石の彫刻に黒い悲哀が音も無くまとわりついているような、酷く色合いが不自然でありながらたまらなく感動的で心奪われるお姿でございました。

お嬢様がお綺麗な方であることは、勿論長年お仕えしていた私は承知しております。

ですが、これほどにお美しい方でいらっしゃったと知ったのは、初めてでございました。

顔に黒いヴェールを下ろされて、お嬢様は歩き出しました。私はその先導を務めて、大広間の扉を開けて、お嬢様のお姿をお集まりの方々にお見せいたしました。

特に女性が、お嬢様の内側の美しさを感じ取ったのでしょう、うろたえるのが分かりました。

「おい!」それを勘違いされたディートリヒ様が乱暴にお嬢様に駆け寄り、ヴェールをはぎ取りました。「まだ辛気くさい格好をしているのか!」

お嬢様の現れた美貌に、ついに男性も私のように感動するのが分かります。

「お兄様……申し訳ありません。 ですが、まだ私の心は晴れないのです」

「全く! ほら、席に座れ!」

乱暴に手を引かれ、お嬢様はよろめくようにディートリヒ様のお隣に座られました。

「大丈夫ですか」真っ先に声をかけたのは以外にもパウラ様でございました。「どうか心をしっかりお持ちになって、神様を信じ、悲しみに負けないで下さいな」

「ありがとう……ございます」

「そ、そうだ!」オーウェン様も続けておっしゃいます。「おいエド、こんなに美しい姫君を花ごときに例えて! 失礼じゃないか!」

「い、いや、そんなつもりは、」

『黒太子』殿が誰よりも動揺していらっしゃいました。そうでしょう、会わなかったこの半年で、お嬢様は本当に美しくなられたのですから。それは移り変わる花の美しさではありません。決して色褪せぬ宝石の美とでも例えるべき美しさなのです。

優雅な調べを合図に、宴が始まりました。


 貴公子がお嬢様目当てで、目の色を変えていることは私には良く分かりました。

私はその欲望を密かに、まるで遠火でゆっくりとあぶるように煽り立てました。

お嬢様にダンスを申し込む貴公子が殺到いたしました。ですがお嬢様は決して席から立ち上がりません。苦痛をこらえているような表情をなされて、首を横に振られるきりです。ですが一人の貴公子だけ、何度も何度も申し込んだためか、お嬢様はついに首を縦に振られて立ち上がったのです。貴公子の方々が彼を憎しみの目で見ます。それは彼の親友であろうと同じでした。いえ、親友である分、その憎悪は凄まじいものでした。

「……」

『黒太子』殿は優雅に踊っていらっしゃるお嬢様とオーウェン様のお二人を、憎しみで殺さんばかりの眼差しで睨みつけておいででした。

私は忙しなく働きながら、内心では、成功した、と手を打ちました。


 宴も終わりに近付いた頃、『黒太子』殿がディートリヒ様に何か耳打ちしていらっしゃいました。ディートリヒ様は明らかに面倒そうなお顔をされましたが、すぐ表情を変えて、満足げに頷きました。

私はその秘密の話の全てが聞こえておりました。

「ディートリヒ殿、貴方の御父君から僕は妹御と許嫁の許しを貰ったのだが、何ですかあれは。 君の妹御は許嫁がいながら他の男と踊るような女でしたか」

「え、ああ、それは……」

「違うでしょう。 貴方の妹御はもっと慎み深い女性のはず。 ですからあれは余計によろしくない。 それに僕が貴方の義理の弟になれば、貴方を一切の面倒から解放して差し上げましょう。 いくらでも好きなように、ご婦人方と踊れますよ」

「ふうむ。 だがヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家の当主は絶対に僕ですよ。 それだけはお忘れ無く」

「ええ、当然ですとも」

私はその間、やっと笑顔を見せてご令嬢や貴公子の方々と仲良くお話しをされているお嬢様の、その笑顔の起因となったオーウェン様がただただ気の毒に思えて仕方がありませんでした。この計画の一番の被害者であり、犠牲者に選ばれたのですから。

私は『黒太子』殿の憎悪といやに高い矜恃への侮辱、傲慢と言う名の煮立っている油に小さな小さな火種を落としました。

「今度、お館に遊びに行っても良いかしら!」とお嬢様ははしゃいで、パウラ様に話しかけます。

「勿論ですわよ。 それにしても、お元気になられて、本当に良かったわ」

「……ずっと一人でお父様が突然いなくなったことを抱え込んでいましたの。 でも、皆様と話すことで、まるで張りつめていた袋からゆっくり空気が抜けるように楽になれたのですわ。 本当にありがとうございます」

「俺が言った冗句も効いたかな?」とオーウェン様が言うと、お嬢様は途端に、困った顔をされて、

「ええと、あのう……」と言葉を濁されます。

「貴方の冗句は寒くて凍えるかと思いましたわよ!」代わりに、ぴしゃりとパウラ様が言って下さいました。

「――ええっ!? そうかい?」オーウェン様が衝撃を受けた顔をされます。

「全くもう」とパウラ様が嘆息されたお姿を見て、お嬢様はついに声を出して軽やかに笑われました。


 この三日後、オーウェン様は『黒太子』殿に決闘を申し込まれて、仰天したのもつかの間、受けろと凄まれ、やむを得ずに受けますが、即座に殺されました。


 お嬢様は再び引きこもるようになりました。ご無理もありません。お嬢様はオーウェン様に対して二心など無く、むしろ『愉快なお友達』として思っていらしたのです。それが己の許嫁によって殺された。

『黒太子』殿に対して、お嬢様が反感――そして嫌悪感を抱くには時間など要りませんでした。

「全てはご計画通りになりました、お嬢様」私はお嬢様にしか聞こえぬ声で報告します。「『黒太子』殿は親友をもあっさりと手にかける御方だと判明いたしました」

「ええ、次はディートリヒよ。 もし『黒太子』殿がいらっしゃったら私の部屋の前まで通して。 そこで充分よ」

「はい」

私はティーカップを押し台の上に片付けつつ、頷きます。私とお嬢様の直接の接触は極力抑えてありました。疑われることの無いように、そして、他の召使いに『魔族を重用している』と思わせないために。

現時点では、あらゆる事象がお嬢様の計画通りに進んでおりますが、予断は許されません。父親殺し、オーウェン様をわざと嫉妬させて憎悪の対象にして殺させる、いずれもただならぬ重罪でございます。ですがお嬢様の、薄らとオーウェン様を殺すのが『黒太子』殿で無ければ良かった、と思っていらっしゃることが、私の胸を痛ませました。もし『黒太子』殿が殺さなければ、この計画はその瞬間に破綻しておりました。しかし同時に潰れたのは、お嬢様が本当に誠実な人生の伴侶を得られたであろうと言う私の哀れな夢でした。今となっては本物の絵空事となってしまいましたが、私達は『もしも』が叶った瞬間に、これ以上の悪事を重ねなくとも良くなったのですから。

『お嬢様が己の人生を生きるための計画』、これが完全に成就するにはまだまだ何十年もかかります。その間、油断せず、着実に進まねばなりません。

「それと、パウラと『黒太子』殿についても探っておいて。 あの二人は恐らく恋人同士よ」

「はい」

私は押し台を押しつつ、お嬢様の部屋を出ました。執事のブライアン様が部屋を出た私を待ち構えていて、心配そうに聞いてきます。

「お嬢様は?」

「お茶を一杯飲まれるのが辛うじて、と言うご様子でございました。 オーウェン様と『黒太子』様の件で、相当滅入っていらっしゃるようです……」

「……お察しするに余りあるな。 折角ヴェンツェル様のご逝去の悲しみから立ち直れたと思ったらこれだ。 元気を出せと言われても、もう出所が無いだろう」

「ブライアン様!」そこに小間使いの少年、クライヴが走ってきました。「パウラ様がいらっしゃいました! お嬢様とご一緒に、エッツェンバーム大聖堂の司教様に悲しみを聞いて頂きましょう、と――」

「おい、お嬢様にすぐに聞いてくるんだ!」とブライアン様は私に言いました。私は頷きまして、お嬢様の部屋の扉を叩きます。

「エリザベートお嬢様、パウラ様がお出でになりました! エッツェンバーム大聖堂の司教様に悲しみを打ち明けましょうとのことでございます!」

やがて、部屋の内側から、

「……行くわ」と力ない声が聞こえた時、ブライアン様やクライヴがほっとするのが分かりました。


 「……私、誓って二心などありませんでしたのに」

馬車の中で、お嬢様はぽつりと話し始めました。馬車の外で護衛役をしていた私は盗み聞きをもしておりました。私はこれからお嬢様はどうされるのだろうと言う圧倒的な不安と、私はお嬢様の下知に従って何をするのだろうと言うわずかな期待に両側から挟まれておりました。それはまるで天国と地獄の綱渡りのようでした。

私は同じ罪人であるがゆえにお嬢様とはもはや離れられないだろうと言う事実を、どうしてか快く受け止めておりました。私がもうお嬢様から離される時は、お嬢様にとって私が不要になった時、即ち殺されるか死んでしまう時だけでしょう。それが奇妙にも私にとってはとても愉しく、嬉しかった。

……私はまだ、この時には、己のお嬢様への愛情が変質しつつあることには無自覚でございました。

「父の言葉通りに、『黒太子』殿の妻になるつもりでしたのに、何故このような……」

「――お泣きなさい」とパウラ様が優しくおっしゃった途端、お嬢様はわあっと泣き伏せました。その涙には嘘が無かったのは、私が恐らく誰よりも分かっていたはずです。

「『黒太子』はね、嫉妬深い男なのよ。 自分より優れた者を徹底的に憎むの。 オーウェンが殺された本当の理由はね、『黒太子』より劣った男なのに貴方に好かれたと『黒太子』が勘違いしたからよ。 酷い男でしょう。 きっとディートリヒ殿が彼より劣っていなければ、ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家は乗っ取られ、貴方は虐げられていたわ」

「そんな、私、どうすれば!」

「戦うしかないわ」パウラ様の本性がようやく私にも見えました。それは優美な白百合の姿をしてはいましたが、白銀の花弁、鋼の茎、そして葉は鋭い剣で出来ていました。「『黒太子』は私生児と言う欠点がある。 だからそれを克己するためならば女の一人や二人、平気で強姦できるのよ」

「――」

「だから私は戦った。 戦って男と関わらなくても良い未来を勝ち取った。 今も、これからも、数十年間はあれの愛人を演じなければならないけれど」

「……戦う」

お嬢様はゆっくりと顔を上げられましたのが分かります、その顔に手を添えるほどの至近距離で、パウラ様がそっと囁かれました。

「私は貴方のような女の子が、本当は大好きなの。 だから教えてあげるわ。 『万魔殿パンテオン』と言う反聖教機構組織をご存じ?」

「いえ……」

「小さいけれど恐ろしい組織よ。 魔族が人を統治する体制を提唱して、この聖教機構に真正面から戦争を仕掛けてきたの」

「!」

「貴方にも先が見えているわね。 そうよ。 今は少しずつだけれど、この聖教機構の下で不遇に暮らしている魔族達がそちらに流れている。 対して、魔族と対等に戦える特務員の数はそれほど増えてはいない」

「……」

「今は良いけれど、いずれはね、いずれは。 この聖教機構の完全敗北が訪れるわよ。 だって向こうで戦えば、今のような未来も何も無い暮らしとは違って、血まみれの自由と権利が与えられるのだもの。 でも聖教機構の御重鎮達は誰一人その現実を見ようともしていない。 局地戦で勝てば、良いと思っている」

「――私は、」

「女だって同じ。 魔族と同じよ。 同じだからこそ、気づけたの」

そしてパウラ様はお嬢様にキスをしました。

「どうか貴方にも、未来があらんことを」


 エッツェンバーム大聖堂の司教様の前で、お嬢様は宣告なさいました。

「私は生涯誰とも結婚いたしません。 この魂を神に捧げ、聖教機構のために尽くします」


 その話はあっと言う間に広まりました。血相を変えた『黒太子』殿が飛んできまして、ディートリヒ様に詰め寄ります。

「どう言うおつもりだ! これでは話が違うでは無いか!」

「いや」と既に私に洗脳されきったディートリヒ様はしらけた顔で言いました。「親友を殺すような男との約束など、いつ裏切られるか分からないと思っただけだ」

「そ、それは!」

「帰って下さらないか。 僕は忙しいんだ。 それに貴方の代役なら妹で充分だ」

「――!」

『黒太子』殿はディートリヒ様から離れ、控えていたブライアン様やクライヴ達を突き飛ばして今度はお嬢様の部屋の前までまっしぐらに走りました。

「エリザベート!」『黒太子』殿の凄まじい怒声に、クライヴが私の後ろですくみ上がります。「君がこんな不実な女だったとは知らなかった!」

「……」少しの沈黙の後に、冷たいお声でお嬢様が答えられました。「私には二心などありませんでした。 父の言葉通りにするつもりでしたのに。 陽気で愉快だったオーウェン殿は本当に良いご友人だったと今でも思っていますわ。 ですが貴方にとってはそうでは無かったのですわね。 たった一人の親友をあっさりと手にかけられるような恐ろしい人と許嫁を続けるのは、いくら何でも無理と言うもの。 不実も何も、現実に人の感情を踏みにじったのはどちらかしら?」

『黒太子』殿は形相を変えました。汚らしい言葉を吐きます。

「女の分際でつけ上がりやがって! それが貴様の本性か! エリザベート!」

「あらやだ、下品……」

「!!!」

『黒太子』殿は足音も乱暴に立ち去って行かれました。私達はただただ立ち尽くしておりました。ですが、澄んだお声が我に立ち返らせたのです。

「カスパール、仕立屋を呼びなさい。 私は妹として、兄上に尽くさねばなりません」


 仕立屋が呼ばれました。お嬢様の部屋の中、メイドのエイミーとサリーが手伝っているようです。

やがて仕立屋がほくほく顔で金貨の入った小袋を手に握りしめて、出てきました。

「いつもごひいきにして下さって、ありがとうございます」

そう言って仕立屋は下がっていきました。

やがてエイミーとサリーが顔を上気させて、部屋の扉を開けました。

私達は目の前のお嬢様の姿があまりにも威風堂々とし、凜々しかったので、この世のものとは思われず、ただ何度もまばたきをしました。

「お、お嬢様……!」

ブライアン様の上ずった声で我に返ります。

「ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン家は軍人の家。 私はこれから、軍人の一人となって聖教機構のために戦います」

お嬢様は軍服姿で毅然と男装していらっしゃいました。ですがどうしてでしょう、ドレス姿の時よりもお嬢様は妖しいまでに魅力的であったのです。それはお嬢様の体から立ちこめる、ほんのりとした香りのようでございました。芳しく甘く、異性を惹きつける毒のように鮮やかで、しかし正気を失うまで惑わす香りでございます。

「さあ、床屋も呼びなさい」お嬢様は見とれている私達に、ご自身の艶やかなブロンドの長髪を撫でて命じます。「この髪も切らねばなりませんから」


 ここまでなさったのに、最初、お嬢様は兄を助ける『妹』と言う、女の分際と言う、か弱く愚かでどうでも良い存在として、聖教機構の軍人達からは全く相手にされませんでした。それどころかお嬢様は聖教機構の誰も彼もから嘲笑の的にされました。

じゃじゃ馬、男勝りの小娘だ、馬から落ちてその内に男に乗り回されるだろう、と。

 皆殺しにしてやろうと私は何度も思いました。私にとっては目の前の肥え太った将校共、着飾った貴婦人共を一瞬でヴェンツェル様のように殺すことが充分に可能でした。ですがお嬢様は私にそれを命じないのです。代わりにお嬢様は媚びました。彼らや枢機卿達に媚びて、金を出させたのです。どれほど屈辱だったでしょう。どれほどに悲しかったでしょう。娼婦の方がまだ割り切って金を受け取れたに違いありません。お嬢様のお気持ちは私が誰よりも知っております。されど、感情に振り回されてはなりません。既得権益を木っ端微塵に撃破するには、感情では力不足なのです。お嬢様は兵法の学習や体を徹底的に鍛えられることも始められました。私がお相手いたしました。魔族の身体能力は、人間のそれを圧倒的に越えておりますから。

 そして、その行動の一々を『黒太子』殿が阻害してくるのです。

御重鎮達からの資金提供も邪魔しようとしましたし、『黒太子』殿がお嬢様へ侮辱を浴びせる先頭に立ちました。更に、

「女の分際で体を鍛えようとするなど、売女の証拠だ」とまで言いがかりを付けてきたのです。……いくら『聖人』、生まれながらに不思議な力を持つ『黒太子』殿とて、言って良いことと悪いことがございましょう!

それでもお嬢様は、表向きはしおらしく、兄に尽くさねば、と流されるのです。

お嬢様は金を使って、合成肉の培養装置を安価で――いつの間にかお嬢様は合成肉の培養装置の費用コストを削減しての大量製造を可能とする設計を頭の中で組み立てておいででした――作成されたのです。それは、およそ現時点で10万人は魔族を養うに充分足る数でした。この安価な合成肉ならば大勢の魔族が死肉を食べずに済みます。

それでも、まだ残金はかなりございます。お嬢様が何を次にされるのか、私にすら分かりません。ただ、『とんでもないこと』であること、私も全身全霊で行わねばならぬことであるだけは、しっかりと確信できていました。

金品を狙った魔族が館に忍び込んだのは、そんなある日の深更でございます。

私は変な脳波を遠くに感じまして真夜中に飛び起きました。『金品を寄こせ』、とその脳波は言っているのです。『どこだ、どこにある、メスブタの部屋は』とも。

青ざめて、私はベッドから飛び降りてお嬢様の部屋まで一目散に走りました。

お嬢様の部屋の前に変なものがございます。それは、薄汚い格好をした泥棒でございました。全身が、真っ黒な。

咄嗟に私は泥棒に体当たりしました。その瞬間に全身に熱湯を浴びせられたような衝撃を受けて、悲鳴を上げて転倒します。泥棒に触れた部分が黒く、まるでインクでも塗られたように染まっておりました。そしてその部分が、激痛を発しているのです。私の悲鳴に館が一気に騒がしくなりました。ブライアン様達が灯りを手に駆けてくる足音を聞いて、泥棒は逃げました。私は痛む体に鞭打って、必死にその後を追いました。

しかし、館の塀を跳び越えた先で泥棒の気配は消えました。逃げられました。

ですが、私はむざむざ戻らずに済みました。

怯えている、薄汚い格好の幼い少女を捕まえて戻ることが出来たからです。

「だ、大丈夫か、カスパール!?」ブライアン様が私の姿に驚きます。「ん? その子は?」

「この子は、どうやら泥棒のことを知っているようなのです」

「何だと!?」ブライアン様やクライヴ達が気色ばみます。

「カスパール、ご苦労。 休みなさい。 ――ブライアン、その子を連れてきなさい」

お嬢様の命令に従って、ブライアン様がガタガタと震えている少女をお嬢様の前に強引に連れて行きました。

「名前は? 答えなさい」

「……る、るーしー」

「泥棒について何を知っているのかしら?」

「……」少女は答えません。真っ青になって口をつぐみ、お嬢様の静かな威圧に耐えています。

その間、私は痛む体の黒い部分を手当てされておりましたが、全く激痛は変わりませんでした。それどころか黒い部分はじわじわとシミのように広がっていくのです。

お嬢様の手が伸びます。少女がヒッと息を呑みました。ですが逃げ場などどこにもありません。

「止めろ!」と絶叫が響いたのは、その時です。さっきの泥棒が戻ってきていました。「ルーシーに手を出すな!」

泥棒は、まだ私と同じくらいの年の魔族――それも夜に特別強い、吸血鬼の青年でございました。

「おや。 戻ってきたと言うことは、この子は貴様の家族なのね」

「……」お嬢様の声に、泥棒はふて腐れたような顔をしています。「妹だよ」

「名前は?」

「……。 ヴァンだ。 ヴァン・ヘルシング」

「そう。 泥棒に入った理由は?」

「食うものが無いからだよ、『お嬢様』!」憎々しげに泥棒は言いました。

「衣食住が欲しかったら働きなさい。 ここで雇ってあげましょう。 勿論貴様の妹も」

「えっ」と誰もが驚きました。私も驚いておりました。ですが一番びっくりしていたのは泥棒です。

「――」声が出せない泥棒に、お嬢様は上から命じます。

「カスパールの異常を治したら、彼が召使いとしての基本を教えます。 妹は、私の方で躾けしますわ」


 ヴァンは夜に強いので、夜中の警備役として働くことになりました。彼の能力、『夜を駆ける者』は、力を発動させることによって『夜』を感染させ、場合によっては殺すことも可能だ、と言う力でした。私も夜に蝕まれて危うかったのです。彼の身体能力も考慮しますと、恐らく夜間に彼に太刀打ち出来る者は魔族の中にもいないでしょう。とは言え、吸血鬼にとって太陽の光は害毒なので、昼間の彼はとても動けないのでした。私の存在でかなり慣れていたとは言え、魔族への偏見と何より彼の尖った性格が相まって、館の者の間で彼はあまり好かれませんでした。

一方、ルーシーは兄とは全く逆でした。まだ魔族としての力に目覚めていない彼女は太陽の光の下を自由に駆け回ることが出来ましたし、何より彼女は館の者からとても好かれました。利発で才に溢れているのにそれを鼻にかけることも無く、めざとく気が利くのにちっとも嫌味では無くて、常に真面目なのに明るく朗らかなのです。何を任せても安心で、しかも愛敬があるのです。男からも女からも同時に可愛がられ、悪口を言われることがほとんど無いと言うのは、間違いなく天賦の才でしょう。彼女を館の者はとにかく溺愛しました。庭師のシャビアーは老いていて頑固な偏屈者なのですが、彼でさえ笑顔でルーシーとは話すのですから、相当なものでした。いくら付き合いにくい性格のヴァンでも、こんなにも愛くるしい妹がいれば、命がけで取り返しに来るのも納得できます。

 お嬢様の目論見は、しかしこの兄妹への慈悲だけから生まれたものではありませんでした。館に戻らずに遊んでばかりのディートリヒ様への忠信など、とうの昔に尽き果てておりました。

お嬢様の野心は、既に翼を持ち、飛び立とうとしていたのです。


ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン公の館では魔族を3人も雇っているらしい。もしかすれば、魔族でも雇って貰えるかも知れない。

その噂は徐々に、しかし確実に貧民街へも広まっていました。おずおずと館の門戸を叩く魔族が日に日に増えてきました。その大半は日々の糧にも困っていて、働く先を求めている魔族でした。

お嬢様は門に絵を貼らせました。文字の読めぬ彼らにも、お嬢様が彼らに何を求めているのか、容易に分かる絵でございます。

それは軍隊が血みどろになって戦っている絵画でございました。詳しい者がいれば、その軍隊は古代の有名な自由都市の護衛軍であり、野蛮な侵略者から都市と都市の自由を守るために玉砕した――その真っ最中の光景を描いたものだと即座に分かったでしょう。

おお、何と言うことをお嬢様はお考えなのでしょうか。聖教機構の誰もが考えなかったことでございます。誰もが考えすらしなかったことでございます。これは既得権益への宣戦布告でございます。新たなる価値観の創造でございます。否、現行の社会体制に対する大戦争、革命、禁忌への一大挑戦なのです!


 『魔族の軍隊を編成し、人間の女が指揮する』――今まで誰が考え、実行したでしょうか!


 凄まじい恐怖による抵抗感と壮絶な自由への意志が誰もの胸へ到来します。

数名の魔族は抵抗感から門の前から立ち去りました。ですが、ほとんどの魔族は残りました。

どの道、戦わねば未来はない。明日の糧すらない。このままの状態が続くだけだ。

その諦念が彼らを絵の前に釘付けにしていました。

……ですが、心のどこかで彼らも羽ばたいてみたかったのです。たとえ地面に叩き落とされようとも、自由と力が欲しかったのです。彼らも私も魔族です。人間から差別され忌まれ嫌われる種族でございます。だが私達には力がある!力を持つ者は誰しもその力を試したいと思うものでございます。力を使い、抑圧から解放されようとします。雁字搦めの鎖を振りほどこうと苦闘し暴れる猛獣でございます。ここにいる者は断じて、ただの家畜ではございません。

『ならば我が指揮の下に戦場にて戦え!』

お嬢様が私達に与えた回答は、とても単純で、とても決定的なものでございました。


 彼らを軍隊として編成すると、軍隊としての過酷な訓練の日々が始まりました。

お嬢様は厳格な軍紀と軍法を定められ、違反した者をそれに従い、全くの慈悲なく処断いたしました。ですが脱営者は一人もいません。脱営した所で行く先など無いのです。

聖教機構は大騒ぎでございます。お嬢様が乱心したとか、魔族を軍隊にするなど前例が無いとか、やかましい限りでございます。特に『黒太子』殿がこの軍隊を解散させようと躍起になっておりましたが、お嬢様は先程の金を賄賂に使って枢機卿達に頷かせないようにしました。そして同時に恭しく奏上なされたのです、どうぞ我が軍を軍隊として用いて下さい、と。

枢機卿達の間にも万魔殿の恐ろしさに気付いている者がいました。その者らにとっては、毒を用いて毒を制する良い機会だと分かっておりましたので、快くそれは受け入れられました。

訓練を終えた魔族の軍隊は、戦場へ行進を始めたのです。補給と兵站は私とルーシーが受け持ちました。ルーシーは若いながら実に如才なく、私を手伝い、合成肉や武器、そして食料を手配し、継続して後方から移送させました。私は軍隊に同行しつつも医師団の派遣やその補給路の護衛の方を差配します。お嬢様の身辺の護衛はヴァンが買って出ました。どのような手段であれ大将首が取られれば、勝敗は付きますから。

万魔殿の尖兵が立てこもっている難攻不落の前線城塞の陥落、それが最初の戦いの勝利条件でございます。


 お嬢様は陣幕の張られた司令部に私を従えて入られました。ここに前線指揮官のマルティン・ムスチスラーヴォヴィチ・アルバトフ少将がいるのです。この時まだ昼間だったため、ヴァンがいなかったことは実に幸運でございました。

……話には聞いておりました。前線でも私達魔族は『屍喰らい』として死体処理の役目を負わされていて、尊厳などどこにも無いと。

少将は陣幕の中に娼婦を囲っておりました。いずれも魔族の美しい少女達でした。

彼女達は生気を失った目で、ぼんやりとお嬢様や私を見つめるのです。彼女達は屍喰らいですら無かったのです。無理矢理に娼婦にされたのです。

「おやおや、ようこそはるばると。 ですがもう何もなさることはありませんぞ。 ここでのんびりと屍喰らいが共食いをするのを見ていればよろしい」挨拶代わりに少将が小馬鹿にした様子で言いました。

「少将のお気持ちは大変嬉しい。 ですが生憎、私はここに戦いに来たのですよ。 魔族を指揮し共に戦うために」ここでお嬢様はぼんやりとしている少女娼婦達に告げました。「おい、そこの娼婦、もし貴様らが戦う気なら私は約束しよう。 貴様らに楽園をくれてやると。 戦死者のみが歓迎される戦士の楽園ヴァルハラを。 このまま男に股を開いて生きていくのも悪くは無いだろう。 だが気が変わったら我が軍門へ来て戦え」

少将が吹き出しました。側にいる軍人達も一斉に声を出して嗤いました。ですがお嬢様は嘲笑などものともせずに踵を返して陣幕を出られたのです。

「ヴァンがいたら連中は皆殺しだったな」とお嬢様は淡々と小さな声で言いました。「さて、休憩を取ったら、夜と共に打って出るぞ」

魔族にとっては夜の方が有利なのです。私達は新月の夜であろうと昼間のように夜も目が利きますし、吸血鬼にとっては邪魔な陽光がありません。

「作戦はいかがいたしましょう?」

「夜の到来と共に吸血鬼を城塞に忍び込ませる。 合図と共に門を開けさせる。 ――今までヤツらは昼間にしか城塞を攻撃しなかった。 だから夜戦を仕掛ける。 勝機は私のこの初戦の一度きりだ」

「……内通者が出た場合はどうなさるおつもりですか」

「今の内に不確定要素は可能な限りに排除しよう」


 お嬢様は日没まで休憩を取られました。徐々に夕暮れが辺りに染み込んでいきます。ヴァンが起きてきて、私に訊ねました。

「おい、これから俺達はどうすりゃいいんだ」

「それはお嬢様が決められることだ」

「……」ヴァンは最後の夕日がか細く照らしている前線要塞を見やって、ぽつりと言いました。「あそこには俺達と同じ魔族がいるんだな」

「そうだな」

「俺達は屍喰らいって散々馬鹿にされて虚仮にされているのに、アイツらは一生懸命に戦っているんだな」

「ああ」

「……ルーシーが残っていなかったら俺はあっちに付いていたぜ」

「ほとんどがそうだろうよ」

私はヴァンを否定しませんでした。事実、『あちらに逃げたい』と言う考えをしている魔族が大半だったからです。そして私はお嬢様がどうやってこれを食い止めるのか、ちっぽけな心躍る期待と大きく不安を帯びた覚悟を天秤にかけつつ、この目で見定めようと決めていたのです。最悪、私が犠牲になればお嬢様だけは無事でしょうから。

「お前もか? お前はエリザベート様を見捨てられるのか?」

「それは無理だろうな」と私は答えました。

お嬢様は私の悪事の、罪の共同責任者です。お嬢様を見捨てた瞬間に、私は全ての罪から解放されますが、同時に私は何もかも無くしてしまうでしょう。今の私を形成している根幹が失せてしまうのです。人はおしなべて罪人です。罪人だからこそ、救いと罰が、天国と地獄があるのです。……いえ、そんな理由ではありません。私がお嬢様にここまで従う訳は、最も単純かつ恐ろしく致命的で、たった一つのどうしようもない理由があるからです。しかし私はでまかせを言いました。

「何しろ私はお嬢様が産まれる前からお仕えしている」

「エリザベート様の家族気取りかよ、いけ好かないアツだ」

その時、お嬢様がお目覚めになり、少ししてから、お嬢様は各々に休憩していた私達を召集しました。

お嬢様は鎧をまとって騎乗しており、手には鞘から抜きはなった剣がありました。

「万魔殿は魔族が人を支配する組織だ」

お嬢様は私達に向かって語りかけます。大きな声ではありません。むしろ穏やかな、凪いだ海のように静かな声でございました。ですのに、その声は遠くまで轟き、響くのです。誰もがざわめくのを止めて、思わず聞き入っているのです。

「あちらに行けばお前達は屍喰らいとは二度と呼ばれないであろう。 現状に耐えかねている者、行きたい者は今すぐに行け。 私はその者を止めない。 だがその者に私は宣告する。 貴様らは逃亡兵であると。 貴様らは現状を変えようと努力する代わりに逃げた、ただの屍喰らいであると。 貴様らはよしんば万魔殿に逃げ込もうと逃亡兵であることに何ら変わりは無い。 いずれ貴様らは万魔殿でも疎まれ、結局は戦場の屍を喰らう日々が戻るであろう。 だが我が軍に残り、戦死した者に私は宣言しよう――お前達こそが紛れもない『人』であったと!」

……誰もが仰天して瞬くことすら忘れました。お嬢様が人間で初めてなのです。私達、魔族を『人』と断言したのは!

「尊厳が欲しいか。 ならば戦場で戦え。 明日が欲しいか。 ならば死地に突貫せよ。 迫害と差別が怖いか。 そんなものでお前達の魂を害することなど出来はしない。 真にお前達を害するのはお前達の内にあるものだ。 ――恐れるな! お前達は既に変わり始めたのだ! 戦うことを選んだ時から変革の先へお前達は走り出したのだ! 私が先頭に立とう! どれほど傷を負おうと何人失おうとも断じて立ち止まるな! 私達を覆う古い天井を木っ端微塵に撃破して、その上にある青空を見るまでは!」

誰もの目に燃えるような凄まじい情熱が宿りました。それは闘志――いえ、『希望』でございます!今まで持つことなど出来なかった未来への意志でございます!

人が本当に動くのは、動きたいと思うのは、暴力への恐怖や苦痛からの逃避、力による無理強いからではなく、自発的な希望を持った時でなければ何だと言うのでしょうか!

剣が振りかざされました。

「出撃だ!」


 ヴァン率いる吸血鬼部隊が潜入した頃を見計らって、城塞の攻防戦が始まりました。不意打ちしたと言うのに、万魔殿の尖兵からは苛烈な抵抗がありました。とても門を開けたとしても現状のままでは接近すら出来ないでしょう。石が投げ落とされ、熱湯が浴びせられ、毒矢が放たれます。このままでは夜明けまでに勝てない!じわじわと私達を焦りが襲います。それに伴って攻囲する軍が徐々に押されて行きます。鼓舞のためにお嬢様ご自身がついに陣頭に立とうとまでした時でした。

あの少女娼婦達が走ってきたのです。彼女達は大声で叫びました。

「ねえ、私達も『人』なのよね!?」

「戦って死んだら、戦士の楽園があるのよね!?」

「もう嫌よ! こんな生活! 屍喰らいとしてしか生きられないなら、せめて人として戦って死にたい!」

お嬢様が大きな声で呼応しました。

「勿論だ! ――者ども、増援が来たぞ!」

わあっと私達は声の限りに大声を上げました。声の限りに叫びました。そして力を振り絞って攻め寄せたのです。その瞬間、お嬢様が閃光弾を打ち上げさせました。城塞の門が開きました。私達は我先に、そこに突撃したのです。後は勢いです。殺し、殺し、殺すだけです。

聖教機構を酷く悩ませていた前線城塞は夜明け前に血まみれで陥落しました。

 そしてお嬢様は医師団の手当てを受けている兵一人一人を見舞いながら、大慌てして滑稽な顔でやって来た少将達を、冷めた眼差しで出迎えられました。

「ようこそ少将殿。 随分と遅いご到着ですね」

口角から泡を飛ばして少将は叫びました。

「お、お、女の分際でッ、女のッ! 屍喰らいなんぞを率いて良い気になって!」

「その女と魔族に一夜で出来たことが数ヶ月かかっても貴方達には出来なかったのですよ」

「!」少将が青くなりました。私達の殺意の視線にようやく気付いたのです。「ひ、ヒイッ! 止めろ! わ、私を殺せば、」

「無能であることはまだ仕方ないとしても、卑怯であることは大変に不愉快です。 ――ところで、殺したところで一体何の価値が貴方達にあったと判明するのでしょうか?」

「た、助け、助けてくれッ!」

「うわああああッ!」

少将達は逃げようとして私達に囲まれていることに気付きます。失禁する者、泣き叫ぶ者、実に見ていて愉快です。

「死にたくなければ私に服従しろ」

お嬢様はこうして前線指揮官の地位に就きました。

お嬢様はパトリックと言う足の速い魔族に手紙を持たせて、すぐさま枢機卿や色々な人間へ根回しを行いました。その中には、既に聖地エルサーレムの聖母子大教会の修道女となっていた――もっとも数年でそこの教会長になることは確定しているのですが――パウラ様への手紙もありました。

パウラ様はすぐさま戦場にやって来て下さいました。そして戦死者の墓の前で祈りを捧げて下さいました。それから、教会にすら拒まれてきた私達が驚きのあまりに言葉も出せない前で、こうおっしゃったのです。

「貴方達は神のために果敢に戦いました。 何ゆえに慈悲深き神がその貴方の天国の門をくぐることを拒みましょうか」

死んだとしても天国へ行ける。これは私達、魔族にとってはやはり前代未聞のことでございます。今まで私達は教会へ行くことも、懺悔することも、祈ることも、全て否定されてきました。ましてや天国など、と誰もが諦めていたのです。それが違う。これからは違う!

「今は教会に仕える者の心が頑なで、貴方達を拒んでいるだけですわ。 いずれ神の恩寵が下りました時に、必ず心は開かれ、教会の扉も貴方達のために開かれましょう。 どうぞ神を信じ、祈り、そして戦って下さいまし。 ――神の御心のままに」

彼女はそう言って十字を切り、静かに祈りました。私達の誰もが不器用にその真似をします。生きていても救われる。死んでも救われるんだ!中にはすすり泣いている者もおりました。

人の尊厳と魂の安寧。どちらも人らしく生きるには欠かせぬ、車の両輪のようなものでございましょう。

ですが私はどこか冷めた思いで祈っておりました。私には天国の門が本当の意味で開かれることは決してありません。私はそれほどの重罪人でございます。私を天国に入れてしまっては、神の掟も何もありません。

ですから私は、どうかお嬢様にご栄誉とご栄達があらんことを願いました。

パウラ様はそれから『異人(魔族のまだ人らしい呼称の一つでございます)の聖女』と呼ばれるほど魔族のために活動し、生前から人間からは聖女として、魔族からは聖母のように崇められるようになります。


 『天使のパウラ』様の戦いはお嬢様のように血まみれで派手なものではなく、かつての敬虔な信徒を思わせる地道で、しかし根強いものでございました。死肉の代わりに合成肉を食べることを普及させ、安価な合成装置を各教会に置くように勧め、教会の門戸を彼らのために開く。既得権益に拒まれた場合は魔族の信徒の大群を率いて何度も聖地エルサーレムの大通りを歩きました。石礫が飛ぼうと罵声が飛ぼうと全く意に介さず――そして魔族が彼女をそれらから身を挺して庇うのです――賛美歌を歌い、大聖堂の前でじっと祈りを捧げられました。穏やかですが、美しく感動的な光景でございます。声を荒げての抗議では無いのです。神のための奉仕、殉教なのです。そしてその静かな感動は何より枢機卿にとって深刻なものとなりました。既にお嬢様の魔族軍が大戦果を挙げたことは周知のことでした。されど毒が毒である内は、毒を用いる者は数多くいても、一体誰が毒そのものを愛するでしょうか。

その毒が信徒、それも敬虔な信徒になりつつあるのです。そして神の信徒になりつつあると言うことは、建前上でも神を奉じる聖教機構にとって、魔族が人と同じ立ち位置と魂の安寧を得つつある――愛すべき同胞となりつつあることと同意義でございました。恐ろしいこと態でございます。今まで蔑んでいた種族が神の御名の下に同列に並ぶのです。『選民』、すなわち『人』の既得権益が壊れていくのです。

枢機卿達は何度も青ざめた顔で会議を開きました。

ですが今更パウラ様を捕らえて処刑した所で、彼女が魔族の中で聖女としてますます崇められるのは目に見えております。パウラ様を投獄し彼女に従う魔族を何百人何千人処刑した所で、断食しつつ地べたで必死に祈っている彼らに対して迫害をしたと思われるのはどちらなのか克明でございます。迫害、そう、迫害でございます。公権力による信徒の迫害――聖教機構成立以前、古代に唯一神を奉じた者達が遭ったものと同等の受難でございます。しかもパウラ様が聖教機構の体制に異議を申し立てているならばまだ迫害も無理を押して行えたでしょう。しかしパウラ様は巧妙に、聖教機構の体制に対しては全くと言って良いほど文句を言っておりません。

『聖教機構の奉じる神は優しい神であらせられます』――全くもってその通りでございます。枢機卿達も良く口にします。それが今の正統教義だからです。『一心に神を崇めて奉仕し、敬虔に祈りを捧げる者を、神がどうして御国に迎え入れることを拒むでしょうか』――神父達が口癖のように言います。『右の頬をぶたれたならば左の頬を差し出しなさい。 愛に憎悪で返してはなりません』――退屈な説法の時間にいつも聞きます。『神のために戦い、死ぬ者は殉教者です。 真っ先に神の御国に迎え入れられるでしょう』――全く同じ言葉が神父から戦地に赴く軍人によく伝えられます。『聖教機構のために尽くすことも神に尽くすことと同じです』――この言葉からどうやって彼女に聖教機構への反意があると言いがかりを付けられましょうか。

つまり、パウラ様は聖教機構の教えを完全に逆手に取ったのでした。だからこそ枢機卿達も全く言い返せずに新たな教義――『敬虔な魔族が聖教機構に尽くして死んだ時には御国へ迎え入れられるであろう』――と定めざるを得なかったのです。勿論これは嚆矢はじまりでしかありません。数十年かかるかも知れませんが、いずれ魔族も人と同じように救われることが教義によって制定されることが既に確定されたようなものです。

これが、パウラ様の既得権益に対する勝利でございました。


 一方、お嬢様の方もじっとなさってはおりません。各地を転戦しつつも、魔族軍を鍛えに鍛え上げられます。お嬢様の軍門を叩く魔族は日に日に増えて行き、お嬢様は魔族の中から参謀や兵站長、部隊指揮官など『軍隊』を組織化するに必要な者を任命しました。補給部隊には力の強い者を、前線部隊には頑強な者を、伝令兵には足の速い者を選び、衛生兵には処置や治療のための医学を学ばせます。

そして――お嬢様は何より魔族に『文字』を学ばせることを重視なさいました。

「読み書きが出来れば軍隊で戦えなくなっても働く先がある」

「これがどう言うことか分かるか?」

「日々の糧に困らずに済むと言うことだ。 犯罪をまた犯さなくても生きていけると言うことだ。 二度と屍喰らいと呼ばれぬためにも、今の内に学んでおけ」

魔族の誰もが必死に文字を学びます。地面に枝で書くのです。木の葉に爪で書くものもおります。野営した近くの木々が丸裸になったこともありました。

この頃には、お嬢様への私達の信頼は揺るぎないものとなっておりました。

……ディートリヒ様が放埒すぎる生活によって不健康を増した体を馬車に乗せてお嬢様に会いに来たのは、その多忙な日々を送っていた時のことでございます。

「金が欲しいんだ」と挨拶よりも先にディートリヒ様は言いました。「金を寄こせよ」

お嬢様がカッとなったのが分かります。ですがお嬢様は冷静に、

「用意いたしますので、兄様、少しお待ち下さいな」と答えました。

陣幕に入った瞬間お嬢様の感情が、静かに爆発します。

「カスパール。 この軍資金は誰が集めてくれたものだと思う」

「……戦死した彼ら、今も戦ってくれている彼らです」

「女に遊びにと現を抜かす兄にくれてやる金などここには一銭たりとも無いのだ。 この金は我が軍の血と死が払った代価だ! だが……」

お嬢様が今もこうして戦っている大義名分が『兄のために』なのです。

その大義名分を簡単に殺してしまうと、お嬢様とこの魔族軍はすぐに瓦解されてしまうでしょう。お嬢様は、まだ既得権益に勝利していないのです。

「……私が女だからか」お嬢様は感情を押し殺して呟きました。「力があれば!」

「お嬢様……!」

「……」お嬢様は首を横に振り、私をじっと、じっと見つめました。「エリーゼだ」

「!」私はその瞬間にお嬢様のお気持ちに気付いてはっとしました。お嬢様のお気持ちを読んだのではありません。お嬢様の瞳が全てを語っていたのです。

いけません、いけません、それだけはいけません!それだけは許されぬことなのです!ですから私は、あえてかしこまってこう申し上げました。

「エリザベート様、ディートリヒ様については私が対処いたしましょう。 軍資金の一部を『私が』転用いたします。 ですので、ご安心下さい」

「……そうか」

お嬢様、もし私が人間に産まれていたら、あるいはお嬢様が魔族だったら――そんな夢見ごとは止めましょう。――私達は生きている限り、決して許されぬ者なのです。


 『黒太子』殿はこの時、パウラ様やお嬢様に対して、恥知らずだの屍喰らいに浮気した売女だの散々に言っておりました。恋人であったパウラ様が魔族と共に祈っている時に一度殺そうとなさったほどでございます。その時は魔族の少年が我が身を犠牲に『黒太子』殿の『弓撃』から庇ったので、パウラ様はご無事でしたが、流石にこれは枢機卿の目にも余って危機感を抱かせたようでございます。

何しろパウラ様は今や枢機卿の間でもほとんど聖女の扱いでございました。

いえ、涙ながらに魔族がこぞって崇める『魔族の聖母』を殺せば、魔族が――特にお嬢様の魔族軍が何をしでかすか分からないという懸案もあったのでしょうが、何よりパウラ様の行いが立派であって神の使徒として何らもとることをしていなかったこと、更に『黒太子』殿と同じかそれ以上に高貴な家柄の出自であったことが影響しておりました。

『黒太子』殿は聖人であり、『大枢機卿』のお一人であらせられたデルヴィエール卿の血を引く高貴な血筋ではありますが、妾腹の捨てられた子と言う難点があるのです。要するに『黒太子』殿の背後には誰もいらっしゃいません。『黒太子』殿にあるのは、血筋と聖人としての力だけなのです。

それに比べてパウラ様はツァレンコ家の正統なご長子でありました。本来ならばツァレンコ家を継ぐはずだったところを、彼女自らが聖職者を志願したことで、家督は彼女の弟君に代わったのです。この弟君にとっては家督を譲って下さったも同然の美しく優しいパウラ様は、ただでさえ敬愛すべき姉であったのが、今や崇拝すべき聖女となっていらっしゃいました。そして彼女達のご一族には高位聖職者が沢山いらっしゃいました。彼らの目から見れば、パウラ様の行動は布教活動以外の何ものでもありません。『今まで死肉を食べて夜に動き、神の教えを頑なに拒んできた者に布教した』と思われたのです。これはご一族にとっても大変に名誉なことでございました。勿論古い考えの者は反発しますが、パウラ様に一つも汚点が無いために、結局は黙って頷くしか無いのです。

このように、パウラ様の背後にはツァレンコ家の跡取りである弟君と、聖教機構でも有力者の揃っているご一族がいらっしゃったのです。――彼らが『黒太子』殿に嫌悪感と敵意を持たぬはずがありません。枢機卿の危機感を利用して、パウラ様へ害を加えようとする者を排除しようとなさります。

パウラ様を襲撃したほんの数日後に、『黒太子』殿がいきなり遠方の戦地に飛ばされましたのは、間違いなく背後で彼らが動いていたからでしょう。

何故私がこれを知っておりますかと言いますと、パウラ様からことの次第を知らせる手紙がお嬢様へ届いたからでございます。既にパウラ様とお嬢様は大変親しい間柄になっていらっしゃいました。特にパウラ様からの過度な友愛は、私が少し違和感を覚えるほどでございます。もっとも男色は問題になりますが、女性同士で問題になったことなどありませんから、私は少しの苛立ちを早く捨てようと努めます。


 万魔殿の手先が間諜スパイとして魔族軍に潜入していたことが判明したのは、私がようやくその苛立ちを丸め込むことが出来た頃でした。お嬢様の寝込みを襲い、殺そうとした所をヴァンが捕らえたのです。私の力で白状させましたが、間諜が持っていた情報は、誰もが予想すらしなかったものでございました。

『黒太子』殿や一部の魔族嫌いの聖教機構のお偉方が、お嬢様を殺すために万魔殿に密かに機密情報を垂れ流している。

何と許しがたい矛盾で二心で背信で内通でございましょうか。

お嬢様はまず間諜を自殺に見せかけてすぐさま私に処刑させました。自殺に見せかけたのは口封じのためです。幸いにもお嬢様と私以外でこの情報を知っている者はいなかったので、これで漏洩の心配はほぼ不要でしょう。私は間諜から引き出した情報をすぐにまとめ、誰を最優先に始末すべきか優先順位を付けました。無論、その筆頭にいるのは『黒太子』殿です。しかしお嬢様は『黒太子』殿をもう少し利用すべきだと考えておいででした。

「まだ、目に見える証拠が無い。 それに殺した所で次が出てくるだけだ」

「しかし……」

「非常に屈辱で不愉快だが、今は連中に宣戦布告する時では無い。 その時は必ずやって来る」

「……はい」

「不満そうだな」

「……連中にとって、私達は本当にただの道具なのですね」

魔族はどうせ、連中にとってはただの屍喰らいなのです。兵卒でも娼婦でも信徒でも召使いでもない、ただの道具なのです。奴隷か家畜と同等なのです。

魔族とて殴られれば痛みを感じます。侮辱には怒りと悲しみを覚えます。切られれば血を流し、激痛には涙を流します。楽しければ笑って、光を見れば眩いと思うのです。感情もあれば魂もあるのです。人間と同じく生きているのです!生きていることに魔族と人間の何の違いがありましょう。同じ言葉を使い、罪と罰におののき、神に救いをこいねがうことのどこに違いがあるのですか。ここまで同じなのにどうして魔族は差別されねばならないのですか。屍喰らい、ええ確かに私達は人肉を食べねば生きていけません。ですが好き好んで食べたことなど一度もない!ほとんどの魔族が酷い罪悪感に打ちのめされながらやむを得ずに食べているのです。だと言うのに、どうして更に咎打たれなければならないのですか。救いもなしにただ鞭打つことが神の御心だとでもいうのですか。魔族だからと、たったそれだけの理由で何故惨く『差別』されるのですか。

人間と魔族の本当の『差別違い』は、例えるならば目が青かったり緑だったり、身長が高かったり低かったり、神への信仰心が篤かったり普通だったり、仕事が得意だったり不得意だったり、太っていたり痩せていたりと、『個性』や『特徴』の同属である『差別』であるべきではないのですか。何故私達は生まれながらに屍喰らいと蔑まれなければならないのですか。元々の『差別』に悪意と選民意識と既得権益がおぞましい蛇のように絡みついて、全く異なった様相を呈しているとしか私には思えません!

「カスパール」私が凄い形相をしていたためか、お嬢様は穏やかにおっしゃいました。「こちらへ来い」

「はい」と私はお嬢様の足下にひざまずきました。

お嬢様は私の顔を手で包んで上を向けさせました。間近で見るお嬢様の顔と香りに私がどきりと心臓を鳴らした時、私はキスされていました。

何もかもが真っ白になりました。我に返った瞬間に私は激烈な羞恥心と震えるような歓喜に襲われます。

私はこの時に至ってようやく、己の愛の変質を――すなわちお嬢様を異性として――一人の女として愛していることを知ったのです。

お嬢様はかつての美貌を失いつつあります。いつでもどこでも、それこそ真夜中から苛烈な日の光が射す時も戦場で戦ってきたからです。お嬢様の手は節くれ立ってきて硬く、ごわごわとしています。自ら剣を振るって戦ってきたからです。お嬢様の体は傷跡だらけです。常に先陣に立ってきたからです。着飾った貴婦人達からは冷笑を浴びるような武骨でみっともない容姿なのです。

それなのに、そのはずなのに、どうしてこれほどに――彼女は神々しいまでに美しいのですか。彼女の温もりがどうしてこれほどに恋しいのですか。彼女の命が今ここにあることが、どうしてこんなに幸せで嬉しいと感じるのですか。何もかもが分かりません。分かりたいとも思いません。いえ、理解の有無などちっとも重要なことではありません。たった一つだけ『そうだ』と断言できればそれが全てです。

ええ、そうです。

私はエリーゼを愛しています。

身が焦がれるように辛く苦しいのに、ただ抱きしめたくてたまらないこの思いが愛でなかったとしたら、私は直ちに殺されても構いません。彼女のために私の全てを奪われ、根こそぎ奪われ尽くしてそれでもまだ与えたいと思うこの願いが愛でなかったら、何が幸せだと言うのですか。これは恋と愛です。天国にも地獄にもない、世界でたった一つの私達の恋愛です。

「エリーゼ」

私は、涙のように熱く流れる情動のままに、繰り返して愛しい名を呼びました。

「エリーゼ……!」

「やっと呼んでくれたわね、カスパール」

愚かな私にもやっと分かりました。

エリーゼがどうしてここまで、こんな有様になってまで戦い続けてきた理由が。

愛してくれているからです。私を、魔族の私をこんなにも深く強く優しく愛してくれているからです。愛しい人が屍喰らいと侮辱されるのを黙って看過していられなかったからです。エリーゼは本当は繊細で優しくて可憐な女性なのに、この愛のためにわざとその身を傷だらけにしてくれていたのです。

エリーゼの愛!

恐ろしいまでに甘美であり、打ちのめされるほどに荘厳なこの愛よ!

……私には家族がいません。ですがエリーゼ、私のたった一人の家族になってくれませんか。一緒に戦い、一緒に生きて死にませんか。ね、二人ならきっと何も怖くありませんし、何も恐れる必要も無いと思うのです。

そう囁いて私は自殺させた間諜の死体を見下ろし、目で言葉を交わした後、エリーゼを私の腕の中で受け止めました。

一緒にこうやって罪を犯し、一緒にいずれ罰を受けましょう。そうすればきっと楽しいはずです。お願いです、愛しいエリーゼ、どうか私を離さないで下さい。いいえ、もう離しは――


 そこまで囁いたところで私は愕然としました。


咄嗟に私はエリーゼを放しました。それからあまりの事態に狂いそうになりながら、荒く呼吸をしつつ頭を掻きむしって無理矢理に自分を落ち着けたのです。

「カスパール?」

不思議そうに、不安そうに私を見つめるエリーゼに、私は半泣きの状態で――これでも号泣しなかっただけ、まだ落ち着いているのです――言いました。

「お嬢様、私は魔族です、人間では無いのです!」

私はお嬢様の温かい腕に、赤ん坊を抱かせることが出来ないのです。

人間と魔族では奇跡でも起こらない限り、決して子供を成せないのです。

どれほど愛しても恋しても、私達の思いは実りません。どこまでもどこへ行っても不実な、徒花の恋愛なのです!

差別はこのように己の心の中にも巣くうのですね。

「それが何だと言うの? お前が側にいるだけで私は充分に幸せよ」

――ああ、これも罰なのですね、神よ。

「お嬢様、どうか、どうか――お許し下さい!」

私は一礼してから、お嬢様の手を振り切って、間諜の死体を引きずりながら陣幕を出ました。

ヴァンが陣幕から出て来るなり剣呑な口調で私に詰め寄ってきました。

「おい。 二人きりで中で何をしていた? 答えろ!」

「それどころじゃ無いんだ。 大失敗だったよ」と私は嘆息しつつ死体を突き出して答えました。「不意を突かれて、舌をかみ切られた。 ……私が愚かだった」

怒ったヴァンは私の首根っこを捕まえて前後に激しく揺さぶりました。

「折角俺が捕まえたのに、一体お前は何をやっていたんだ!」

「本当にすまない」


 その後でお嬢様はヴァンを陣幕の中に招いて、そのままその夜は明けました。


 私は私自身を洗脳しようと決めました。私はお嬢様への思慕の一切合切を殺そうと思ったのです。ですが、数ヶ月、いえ、数年、十年経ってもこの思いは消えませんでした。それどこか、消せば消そうとするほどに忘れれば忘れようとするほどに、この思いは強固になっていくことはあっても、殺傷はおろか消失させることも叶わなかったのです。ほとんど毎夜のようにお嬢様とヴァンの睦言が聞こえます。ですがお嬢様の本当の声は私をただ一途に呼んでいるのです。

ヴァンではないのよ、お前だけを愛しているのよ。

お前の腕に抱かれたいの。

さみしい、さみしいのよ!

愛する女が他の男と睦言を交わしながら、実際は私を求めている。

彼女が愛しているのは私なのに私が愛しているのは彼女なのに私達は結ばれない。

地獄の責め苦とてここまで苛烈で痛ましくはありますまい。いえ、むしろ地獄の方がどれだけ生ぬるいでしょうか。この世界では一組の男女が深く愛しあっているのに、その間にはガラスの壁が立ちはだかっているのですから。灼熱地獄インフェルノでは私が身を挺して彼女を火の粉から庇いましょう。氷結地獄コキュートスでは我が身を以て彼女を寒さから逃しましょう。ですがこの生き地獄では、私達は徒花のように愛し合うだけが精一杯なのです。


 愛は忍びがたく、愛は情けを知らず、愛は嫉妬し、愛は自慢し、愛はおごり高ぶる。礼儀を忘れ、己の利益のみを求め、苛つき、恨む。不義に喜び、嘘を重宝する。全てに抗い、全てを疑い、全てを望まず、全てに崩れていく。


 ――今や聖教機構の重鎮のお一人となったパウラ様が陣地にいらっしゃって、お嬢様に内々のお話しがあるとおっしゃいました。

お嬢様は私以外を人払いさせて、何事かと聞かれました。

「実は、ある者から懺悔をうけたのです」とパウラ様は予想もしていなかったことをおっしゃいます。

「どのような懺悔だったのです、私に話さねばならない内容なのでしょう?」

「……実はこのような懺悔を受けたのは初めてでは無いのです。 もう数百人、千人近くから告白されていますわ」

「――まさか」

「ええ、魔族と結婚したい、あるいは人間と結婚したい、そのような懺悔なのです」

「!」お嬢様の顔が変わりました。私は表情を変えませんでした。

「貴方の館の使用人にルーシーというとても可愛らしい乙女がおりますでしょう? 彼女と、彼女を愛した男やもめから別々に懺悔されたのですわ」

「……彼女の兄がここにいなくて本当に良かった。 それで、誰なのです?」

「男やもめの方は、ほら、魔族嫌いで有名な裁判官の一人、ジョナサン・ハーカーなのです」

お嬢様は嫌な顔をされました。

「ああ、この前も判決でパン一切れを盗んだ魔族の子供に死罪を下した――」

「それが」とパウラ様は困った顔をされて、「その直後に彼はルーシーに出逢ったようなのです。 彼は人間には親切ですから、暴れ馬に蹴られた貴方の館の庭師を手当てして、館まで送っていったそうなのですわ」

「……それで、出逢ったと」

お嬢様の複雑な顔には色々な理由がありましたが、その中で最たる理由は彼らの多難しかない前途を思われたからでしょう。

「私もよく貴方の館にはお邪魔しますが、あのルーシーという吸血鬼の乙女は本当に素直で優しくて良い子です。 いるだけで場がぱっと明るくなって、なのに本当に利発で如才ない。 むしろ何で今まで誰も男性が近寄らないのかと思っていたほどです」

それは彼女の兄があのヴァンだからです。闇討ちや暗殺、寝首を掻くことにかけては誰にも劣らぬ、あのヴァンだからです。

「それで現状はどうなのですか?」

「手紙すらやり取りできず、ただジョナサンの方はことあるごとに貴方の館の側を通り、ルーシーと視線を交わすのが限度だと言っていました。 ルーシーに至っては眠れないそうなのですわ」

「しかし仮に二人が結ばれたとしても、どのような目に遭うか――」

「分かっています。 ただ、今のままではどの道共倒れでしょう」

「困ったことだ」

「でも好機ですわ」パウラ様がおっしゃいます。

お嬢様はその言葉に興味を持たれたようで、「好機ですか」と繰り返されました。

「ええ。 今、人間と魔族は法律的――公的には結婚できません。 でも私的に結婚している者なら大勢いるのです。 そして今まで私達は人間と魔族のために法曹界に介入したくても、中々その手段も機会も無かった」

ああ、パウラ様が聖職者なのが本当に惜しい。彼女が政治家だったら、どれほどに優秀だったでしょうか。

「なるほど。 ハーカー家は法曹界でもかなりの発言力を持っている名家だ」

「そうですの。 もっとも、彼に確約させねばルーシーが可哀想ですから、貴方も一度帰投なさって、今後について彼とお話しなさいな」

「ええ」


 お嬢様は前線から離れて、館に私達を連れて帰られました。シャビアーが足を引きずるようになっていましたが、まだまだ元気だったのには安心しました。クライヴがすっかり大きくなっていて、メイドのサリーとよく目配せをするようになっていました。そしてディートリヒ様は女のところにいて、館にはいませんでした。

お嬢様がヴァンに釘を刺すと――彼はお嬢様に、だが、とか、だって、とかありったけの文句を言っていましたが――最終的にはふて腐れた顔で黙り込みました。

まるでそれを待っていたかのように、ジョナサン・ハーカーはやって来たのです。

彼は元々青白い顔だったのを、やや紅潮させていました。そしていきなりお嬢様の前で膝をついて告白したのです。ルーシーを愛していることと、彼女を後添えにしたいこと。ですがお嬢様はきっぱりと断られました。

「あの子は本当に私によく尽くしてくれた。 その子を妾や愛人などにさせる訳にはいかない」

妾や愛人、と言う言葉に一番衝撃を受けていたのはジョナサン・ハーカーです。

「そ、そんなつもりは、」

「だが現状ではそうでしょう。 魔族は人間とは結婚できないのだから。 本来ならば鞭打ちで済む罪で死を与えられねばならないほどなのだから」

「ッ!」

「よしんば魔族嫌いの貴方の所に嫁がせたとて、彼女がどんな目に遭うか分からないとでも? そんなに女奴隷が欲しいのなら奴隷市場へ行けば良いでしょう」

お帰り頂こう、とお嬢様が命令するように言いました、しかしジョナサン・ハーカーは動きませんでした。苛立ったヴァンが叩きだそうと動いた時です。

「――私は確かに魔族が嫌いでした。 何の理由も無かったのに、魔族だからと毛嫌いしていました。 子供に死罪判決を下して、清々したと思ったほどです。 ですが、ルーシーは無慈悲で残忍だった私を変えてくれました。 彼女は差別に優しさで、無慈悲に愛情で、残忍に安心感で応えてくれたのです。 彼女のいない人生を生きるくらいならば、私は今すぐにでも断頭台に上りましょう」と彼は涙ながらに言いました。

ですがそんな甘い言葉、お嬢様は何とも思いません。

「言葉だけなら何とでも言えましょう。 特に貴方は法律家なのですから」

彼が流石に言葉に詰まった時でした。いつの間にか後ろにいたルーシーがヴァンを突き飛ばして前に出るなり、ジョナサン・ハーカーを庇うように抱きしめたのです。

「エリザベート様、お願いです、お願いいたします! どうか私達に機会を下さい!」

「ルーシー……」ジョナサン・ハーカーがあ然とした顔で彼女を見つめました。

「ね、ジョナサン、お願い、お願いよ、魔族と人間が結婚しても良いって法律を作って下さいな。 私は吸血鬼ですから、何十年でも待てますし、待っていますわ。 貴方をずっと信じています。 助けが欲しい時には必ず助けに行きます。 エリザベート様がいつか『良いでしょう』と言って下さるまで、どこまでも貴方を支えますから!」

この間、私はジョナサン・ハーカーを殺そうとするヴァンを苦労して抑え込んでいました。

「ルーシー。 それは最悪、お前まで殺されるかも知れない、ということだよ」

お嬢様が説得しようとしますが、ルーシーは毅然としていました。

「構いません。 エリザベート様、私はこの人を愛しています」

「……ルーシー!」ジョナサン・ハーカーはその瞬間に全ての覚悟を決めたようです。「エリザベート殿、必ず彼女を『正妻』として迎え入れます! どうかそれまで――」

お嬢様はわざとらしく嘆息しました。

「仕方あるまい。 ですがジョナサン殿、覚悟はおありですか」

「はい」とジョナサン・ハーカーはお嬢様をしっかりとした目で見据えました。

しばらく二人はそのままでしたが、ややあって、お嬢様が黙って頷きました。


 ジョナサン・ハーカーが乱心した。魔族と人間で正式に結婚できる法律を定めようとしている。裏切り者は殺してしまえ。法曹界から追放しろ。

ジョナサン・ハーカーはその生涯で数十回ほど暗殺されかけ、その倍の数は、裁判の被告席に立たされました。彼は若くして杖無しでは歩けなくなりましたが、恐ろしいほどの雄弁を振るってはことごとく己と魔族に向けられた刃を論破し、それに留まらずに追撃をかけました。愛しいルーシーのために戦う彼の弁舌は炎のごとく燃えさかり、そしてその炎は障壁が高く険しいほどにいよいよ激しくなったのです。

神の御国では誰しもが平等である。

魔族とて枢機卿が御定めになった教義により敬虔な者は神の御国の門をくぐることは認められている。

では、何故この世で人間と魔族は平等ではないのか。

それは法律が原因ではないのか。

法律は神が定めたものではない。

人間が定めたものである。

人間は過ちを犯す者である。

ならば法律に過ちがあっても何一つおかしくはない。

その過ちを糺そうとしないことほど、法律家として恥ずかしいことはない!

 ルーシーは献身的にジョナサン・ハーカーを支えました。ジョナサン・ハーカーの家に住むことを決めた日には、館の誰もが泣きました。シャビアーが黙って色とりどりの花束を彼女に渡しました。彼女はハーカー家では相当な冷遇を受けたと聞きます。無関心な舅に嫁いびりをする姑、そして血の繋がらない幼子。

ジョナサン・ハーカーが満身創痍で『人間と魔族の婚姻法』を勝ち取ってきた頃には、彼女もやはり満身創痍でした。ジョナサン・ハーカーは父に怒り、母を叱り、義理の母親に反抗的な子供をたしなめました。ですが中々、彼らの態度は変わりません。

しかし、地震が起きて彼の家のシャンデリアが落ちた時に、ルーシーの取った行動が彼らを一変させました。

彼女は我が身を犠牲に子供を助けたのです。

壮絶な光景だった、とあのヴァンが語りました。

「シャンデリアのガラスの破片がキラキラとさ、辺り一面に血まみれで飛び散って。 そのど真ん中に下半身を押し潰されたルーシーが倒れているんだ。 クソガキはお母さんと泣き叫んでうるさかった。 ジョナサンは必死に召使いに医者を呼びに行かせて。 俺はシャンデリアをどうにか動かしたんだが、あまりの酷い怪我に絶句したよ」

「……妹御は大丈夫なのか」

「……分からん」


 伝令兵のパトリックが兵士達を慰問に来たパウラ様達のご一行の一人から、音楽を教わっているのを私は目にしました。

「音符というものがある」とその魔族の修道士は熱心に聞いてくるパトリックにご満悦で教えています。「音の長短や高低を、その位置によって示す記号だよ。 そう、そうそう、その音符は、そう、そう言う意味だよ……」

修道士が去った後で、私はパトリックに声をかけました。

「音楽が好きなのか?」

「はい!」とパトリックは嬉しそうに答えます。「それに、あの、俺、思ったんですが」

「何だい?」

「音楽でみんなを鼓舞できたら、俺達もっと強くなれるかな、って」

「それは良い考えだ。 私達の軍歌だね。 エリザベート様に報告しよう。 君が軍歌を作ろうと考えていると。 きっとお喜びになるよ!」

「あ、ありがとうございます!」とパトリックは笑顔を見せました。

エリザベート様は案の定、喜ばれました。

「そうか、軍歌か。 ……中々良い案だ」

「はい」

「パトリックも貴重な我が戦力。 ……カスパール、あれから、何年になる?」

「……一三年、経ちました」

お嬢様が戦い始めてから、一三年です。もう一三年です。

相も変わらずに『黒太子』殿は反魔族派の旗頭に立っています。

――そして、彼らの策謀がお嬢様をとうとう陥れようとしていました。

 全ては油断が原因でした。前線基地の砦にお嬢様が入った直後に、敵襲があったのです。咄嗟にお嬢様や主力部隊は砦に駆け込んで無事でしたが、後続する補給部隊がほぼ全員囚われたのです。

ここへの進軍情報が『黒太子』殿に漏洩されている可能性も含めて私達は行動すべきだったのに、まさか『万魔殿に友軍は売らないだろう』と油断していたのです!


 赤々と松明の炎が照らす中、捕虜達は縛られて震えながら、ずらりと砦の前に並べられていました。その背後には斧を持った万魔殿の軍隊が待ち構えていました。

「この砦を無抵抗で明け渡せばコイツらの命は保証してやる! さもなくば斬首する!」指揮官らしき若い魔族の女が言いました。「期限は月が沈むまでだ!」

そんな真似をすればお嬢様のお命が――いえ、もし命が助かっても聖教機構からお嬢様が弾劾されかねません。そして弾劾されたが最後、お嬢様は既得権益に敗北してしまいます!されど仲間を見捨てればお嬢様は求心力と指導力を失い、魔族軍の崩壊を招きます!

どちらに転んでもお嬢様に未来はない。

これが、『黒太子』殿が仕掛けた最大の罠でございました。

「――!」

お嬢様は絶句してその光景を見下ろされていましたが、よろめくように砦の中に入られました。

「……カスパール、付いてこい」

その声にいつもの覇気が無かったのは、私の気の所為ではありますまい。

部屋の鍵を固く閉められてから、お嬢様は私の眼前でベッドに倒れ込みました。

「カスパール、お願い、私を連れてここから逃げて!」

激しく泣きじゃくる彼女を誰が責められましょうか。彼女は充分戦ってきました。もう疲れたでしょう。もう身も心も傷だらけなのです。痛くて悲しくて、もう楽になりたいのです。

私は、いくら殺そうとしても死ななかった私の愛が鮮明に動き出すのを自覚しました。

「私、もう戦いたくない! みんなが死ぬのを見たくない! 愛しているの、貴方だけを愛しているのよ!」

――おお、私が千の詭弁を自由自在に弄したとて、万の虚言で右往左往に惑わせたとて、エリーゼのこの一言の何に勝りましょうや!

「貴方を愛しているの」

この言葉に敵う言葉がありましたら、誰でも構いません、どうか教えて下さい!

私も愛しているのです。エリーゼを、エリーゼだけを愛しているのです。

エリーゼは孤独です。戦い続けて体からも心からも血を流しているのです。私の愛を悲痛に渇望しています。私を愛して私から愛されたくて、しかしもう私達の間にあるガラスの壁を破れずに心底から疲れてしまったのです。

もう充分でしょう。もう充分すぎるでしょう。

エリーゼ、どこか遠い場所へ逃げましょう、二人きりになりましょう、この恋愛に殉じましょう。そうすればもうエリーゼが傷つくこともありませんし、悲しい思いをすることもありません。私の腕の中で安心して微笑んで下さい。ね、ここではないどこかで何もかも捨ててこの愛のために死にましょう。きっとその死は天国へ行くよりも幸せな死です。神が私達を救い給うことは未来永劫ありません。でも、二人一緒に死ねるなら、きっとそれが私達にとっての最後の救済で、唯一の幸福なのです。

「死んでくれますか」

エリーゼは微笑んで頷きました。何と美しい微笑みでしょうか。私は魂の奥底から見とれました。今のエリーゼは軍隊指揮官でもお嬢様でもなく、私の愛しいエリーゼなのです。私が愛して愛し続けてやまぬたった一人の愛しい人なのです。誰のものでもありません、私だけのエリーゼです。

私はナイフを取り出しました。鞘から抜きました。エリーゼは泣き出しそうなほどに幸せな顔をして、一歩一歩迫る私をじっと見つめていました。

「さあ、私の心臓を!」

神よ、これが私達の恋愛です。愚かで惨めで哀れで醜く滑稽ですが、紛れもないたった一つの恋愛なのです。人間も魔族も恋愛をするのです!愛しい恋しいと思う感情に操られて行き当たりばったりに行動し、何もかもが激痛の中で悲惨な結末を迎えようと、これは正真正銘の恋愛なのです。恋愛は奈落への転落です。底なしの泥沼です。それでも止められないのです。むしろ破滅へまっしぐらにひた走り、地獄へ堕ちていく恋愛こそが真の恋愛ではありませんか。

ただ、私は思わずにいられません。もし私が人間に産まれていたら、あるいはエリーゼが魔族に生まれていたら、と。ですが、もはや全てが手遅れです。私はもう決めています。これから私がすることを決めています。

私はエリーゼを抱きしめました。

「愛しいエリーゼ、今殺しますからね」

エリーゼはもう何も言わずに私にキスをしてくれました。初めてのキスです。救世主に裏切りを告げるユダの接吻のように、甘く切なく悲しいのに優しいキスです。

私は思うのです、接吻で裏切ったユダよりも真実、罪が重く罰を受けるべきなのは、貴方を否むことは決してないと言ったのに、前言を翻して3度も知らぬとあっさり救世主を否んだペテロではありませんか。

この恋愛はユダよりも苦しくペテロよりも許しがたい罪で、相応の罰を受けねばならないのです。

私はエリーゼの眼前で、私の男としての象徴を切断しました。

「カスパール!」

エリーゼがはっと息を呑みました。ありがとうエリーゼ、それでもう私は満足です。

私はこれ以上このエリーゼを、私だけの愛しいエリーゼでいさせる訳にはいかなかったのです。私のエリーゼの愛しようは、天国を地獄を現世を探し求めても絶望的にこれだけだったのです。

「お嬢様」私は気も狂うような激痛とそれに勝る至福の中で申しました。「これが、私に許された、たった一つの愛でございます」

切り落とした男の象徴を私がお嬢様に差し出しますと、受け取って下さいました。

「後で焼いて食べるわ」

そう言って下さったお嬢様の声も有様も、全て、まるで『女王』のようでございました。


 私が手当てを受けている間、お嬢様は意気揚々と砦の最上に登られました。そして、赤ワインとパンを用意させてから、よく通るあの声でこう述べたそうです。


 耳ある者は聞け!お前達の死は私が呑んだ。私がお前達の血肉を食み、我が物とした。私のために死ね!死ぬが良い、私の腕の中で!お前達の死は、苦痛は、絶望は、私のものだ!私はか弱く脆い肉体の女性でしかない。だが、私は王の心臓と魂を持っている。

 そして彼女はワインとパンを召されました。

 その瞬間に虜囚となった彼らにわき上がったのは、彼女との合歓に対する狂喜的慟哭、死への甘く暗い熱望、美と崇敬へのとろけるように愛おしい憧憬でした。彼らは人の扱いをされたかった。それが、最も根幹的であり肝心である魂の尊厳を、いと高き場所、夢見た耽美なる地獄へ導かれるのです。もはや愛などと言う生やさしいものではございません。それは狂悦でございます。死の群れの中央を疾走する歪んだ悦びでございます。人として、そう、最低で人としての尊厳と魂を持って死ねる。全ては彼女のために、彼女の所為で!

「我らは貴女がために死ぬ!」叫んだのはまだ一〇代の少年でございました。「貴女がために貴女の中で死ぬ! 我らが死は貴女の御手に!」

「歌え!」絶叫したのは、おお、あのパトリックでございます。「俺に続け!」

そう言って彼は歌い始めました。


 おお神よ 貴方は我らを救い給わぬ

 なれど我らが女王よ 貴方は我らの死に君臨し給う

 耽美なる死よいざ来たれや 我らの待ち望む死よ

 我らは死して女王のものに、

 そう、我先に女王のものになろうぞ

 さあ、死よ、死よ!いざ来たれ!

 死よ!死よ!いざ我らを喰らえ!


 恐慌状態を起こしたのは万魔殿の方でした。まるで賛美歌を謳うように、処刑を待つ身の捕虜達が声を揃えて謳っているのです。その顔に歓喜はあっても恐怖は無く、酔いしれるような狂喜こそあれ、これから彼らに起こるであろうことに対する根本的な興味など全く無かったのです。

悲鳴が上がり、斧が振り下ろされました。パトリックの首がごろんと転がりました。ですが歌はますます狂ったように大きくなるだけで、止むことを知りません。二人目は少女でございました。彼女の首は、死の勝利に笑んだままでございました。

 我らが女王!

 我らが女王!

 我らが女王!

 我らが――

そして、一人ずつ消えていく、天上天下へ高らかに響く歌声を我らが女王は微笑んで聞いておられました。

「見事なり我が兵よ! お前達は戦死者の楽園へ征くのだ、胸を張れ、全世界に誇れ! お前達は、何よりも『人』だ!」

その瞬間、砦の中からも爆発するような音が響きました。歓喜の絶叫でございました。同時に門が開けられて、兵が打って出ました。それは万魔殿の軍隊を我先にと蹴散らし、大勝利を収めたのです。

これより、お嬢様は我らが女王と呼ばれ、聖教機構では『処女王』と呼ばれるようになります。


 同時に、我らが女王は私を埋伏の毒として、『黒太子』殿の元へ放ったのでした。


 「あの女は! 長年仕えてきた私を! ただ一度の失態で!」

私は人を洗脳することと、人の考えを知ることにかけては熟練しております。逆を言えば、人を『己の思考でのように』見せかけて操ることにかけては本当に得意なのです。私はゆっくりと毒を浸透させながら、涙ながらに『黒太子』殿に訴えます。

「やはり女は女で魔族は魔族か」と『黒太子』殿は私への憐憫と我らが女王への侮蔑を込めて言いました。「あれは魔族の女王にでもなったつもりか。 処女王などと呼ばれて良い気になって」

「あの女だけは許せません! 何でもしますので、どうか鉄槌を!」

「ではディートリヒをこちら側に引き入れてこい。 あれがあの女から大義を奪えば、あの女はもう戦えなくなる」

「それでしたら、女と金さえあれば簡単な事です」

嘘というものはそれ単品では脆いものですが、真実と混ぜ合わせることで絶大な威力と効力を発揮します。

「ふうむ。 女と金、か。 パウラに言ってみるとするか」

しかしその必要などありませんでした。

処女王が無能な兄を追放し、エリザベート・ヴィルヘルミナ・ヴァレンシュタインを名乗ったからです。女と金に困ったディートリヒは『黒太子』殿の所へ逃げ込み、ここにて処女王と『黒太子』殿は完全に決裂しました。

私は我らが女王の指示通りに、パウラ様を完全に洗脳しました。と言っても既に彼女は我らが女王の味方でしたので、大した手間はかかりませんでした。

私が我らが女王の館に出入りする時は、館ですれ違う者を『洗脳』し、今すれ違ったのは召使いの一人で自分の知り合いである――半分は真実なのですから、誰も疑いません――と思い込ませていました。もっともヴァンには計画を手伝う指示が下っておりましたので、洗脳はしませんでした。

私は毒をじわりじわりと侵蝕させていきます。『黒太子』殿とディートリヒの間にも不和という毒を、『黒太子』殿とその賛同者の間にも、軋轢と結束の崩壊を生む毒を、そして『黒太子』殿自身にも『罪悪感』という最強の毒を植え付けます。

「……おい」と『黒太子』殿が震える声で部屋の暗い隅の方を指さして言います。「そこに誰かいるだろう、誰だ?」

「いえ、誰もいませんが……」私は困惑した声で答えて、そこに向かい、「……誰もおりませんよ」と繰り返しました。

「……そうか」

と『黒太子』殿は安心した声を出しましたが、実際は私は例の、嘘と混ぜ合わせた真実を答えたのです。

ヴァンはいたのです。無言で、少し癖のある赤毛のかつらをかぶって。

それから、ヴァンは夜が訪れるが早いか、神出鬼没で『黒太子』殿の周りをうろつきました。少し癖のある赤毛のかつらをかぶって、何も話さず。

『黒太子』殿は身辺警護をこれ以上なく厳戒にされました。

ですが夜中のヴァンにはそんなもの、あってないような代物でございます。

それからの『黒太子』殿の崩壊はあっという間でございました。

言動がおかしくなり、挙動がおかしくなり、反魔族派の同志にすら目に余ると思われるようになりました。

「この頃のあれはどうしたのだ?」

「ディートリヒと組んでからあっという間に……」

「そう言えば、ディートリヒは女と寝る時にいかがわしい薬を使うことがあったとか」

「悪貨は良貨を駆逐する、か……」

「――嘆かわしいことだ」

さて、どれが本当に貴方の頭で考えたことなのでしょうか。


 『黒太子』殿はいよいよ狂ってきました。金をせびってきたディートリヒ様を鞭打ったり、パウラ様へとても読めない汚い字で長文の手紙を書いたり、私や往来を行き来する魔族へ凄まじい奇声を上げて襲いかかったり……そして何より夜の訪れを真っ青な顔で怖がるようになりました。

「あれが来る」と言うのです。

「何が来ると言うのですか?」

「あれだ……あれなんだ……!」

彼だと答えられるはずも無いでしょう。若い時の一度の嫉妬に狂って殺した、あの彼の亡霊がやって来ているのが見える、などと。

「それよりも『黒太子』様、今夜はお客人がいらっしゃいます」

「誰だ?」

「はい、イアン・オスカー――」

そこまで私が言った時でした。時刻は既に深更でございました。勢いよく、ノックも無しにドアが開けられて、お客人が登場したのです。

まるで気が違ったような絶叫を『黒太子』殿が放ちました。そして召使いの誰もが仰天している隙に、手元にあった拳銃を手に取り、『狙撃』していたのです。聖人としての『黒太子』殿の力は矢や銃弾などをどれほどの遠距離であろうと必ず対象の急所に命中させる力――『パリス』でございます。お客人は左胸を撃ち抜かれて倒れました。

 ……『黒太子』殿は今度は怪鳥のようなけたたましい嗤い声をあげました。

「殺してやった、殺してやったぞ! 今度も殺してやったぞ!」

その他の誰もが恐ろしいほどの沈黙を破れずにいた時でございます。

「人殺し!」

赤毛の老婆が倒れたお客人にすがりながら、悲痛な悲鳴をあげました。

「人殺し! 人殺し! この人殺しが! ――この子は兄の仇討ちのために、決闘を申し込むためにここに来たのに!」

そして彼女は凄まじい憎悪の視線で愕然としている『黒太子』殿を睨みつけて、言いました。

「貴様は私の子を二人も殺したんだ!」

「え……」

『黒太子』殿は既に死んでいるお客人を見ました。初めてここでまともに見ました。

赤毛は兄譲りなのでしょうか、それとも母親由来なのでしょうか。『黒太子』殿が殺したのは、亡霊にしてはいつまでも消えず、妙に生々しい血の臭気を放っているのです。そして、その顔は、兄には似ていましたが、全くの別人の――。

「お客人は」私は告げました。「イアン・オスカー……クロムウェル様でございます」


「             」

『黒太子』殿はもう何も叫びませんでした。彼はまだ硝煙が立ちこめている拳銃を、今度は己のこめかみに当てがいました。


 結局、性病をこじらせて亡くなられたディートリヒ様は、その生涯何もなさりませんでしたが、たった一つだけ残したものがございます。それは後継ぎでした。クローヴィスと我らが女王が名付けた――というのも、遊び人の父親と母親に捨てられて孤児院に放り込まれる寸前だったのです――この子は、後に我らが女王の後を継いで魔族軍の『鉄壁王』として君臨し、同時に我らが女王の成し得なかった偉業をとうとう成し遂げました。

『人間と魔族の共生』、人間も魔族も平等にその才能によって活躍できる体制の成立。

王は口癖のようにおっしゃるのです、

「魔族の権利を見直し、訴えるだけでは不十分だ。 人間の権利も考えてこそ初めて共生が可能になる」と。

 ですが、それが成し遂げられた頃には、もはや我らが女王はこの世の方ではございませんでした。


彼 女はパウラ様と私に看取られて、病の中、お亡くなりになりました。

「最後に、懺悔したいことがあります」

「何でしょうか」とパウラ様は悲しみをこらえた、優しい声でおっしゃいました。

「私は罪を犯してきました、あまりにも数多くの、罪を」

カスパール、お前を愛した時から、

「貴方はその罪を贖えるほどに数多の功績を挙げられましたよ」

「でも、この罪は、消えません」

この愛が消える時は、きっと、私達が、

「貴方は必ず救われますわ」

「あ、あ――」

天国で、離ればなれになった時だけ。

「もう何もおっしゃらないで。 貴方は本当によく頑張ってきたのですよ」

「……」

我らが女王は静かに目を閉じました。


 私は、未来永劫、地獄で、お前をずっと待っている


 ――さて、俺が何も知らない物語であり、俺が何もかも知っている物語もこれでお終いだ。

ヤツらが地獄で再会できたかどうかは、誰も知らない。

俺も知らない。知りようがないし、知りたいとも思わない。

ただ、ヤツらの悲願は、数百年かけて実現された。




                                   END

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私の心臓と魂は 2626 @evi2016

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