理の旋律

クソザコナメクジ

理の旋律

 私が消えても、どうかこの歌だけは覚えていて。

 願わくば、私の泡沫の欠片が、貴方のーー。



 人と人魚の時間は異なり、互いの理は別の場所にある。古くから伝えられていた伝承を、親しみ慣れた長老から聞いたのは、私が人間の男を連れ込んだ時だった。

 叱咤するでもなく、私達を追い出すでもなく、皺の刻まれた口角を僅かに動かして、畏怖の対象となる言葉を紡ぐ。座り込み、その言葉を静かに聞く私の腕の中には、息も絶え絶えと死へ誘われる人間の男。地上の体温は熱く、海で暮らす人魚の私の体を灼いたが、気にする余裕はなかった。私は必死だった。


「人の子を救うは罪にはならぬ。しかし地上に介入した代償は、我ら人魚に降りかかる。それはお前自身を奪い、戻ることは許されぬ。よく考え、決断するがいい」


 それでもいい。男の体温が肌を灼く苦しみを抱きながら、私は考える間もなく叫んだ。

 何故、と聞かれると、私にはわからない。私は海の世界しか知らない。地上の男という種族を知らない。人魚の繁殖は海の理に沿って為され、絶対数を上回ることなく、1人が滅べば代わりに1人がどこからともなく産まれる仕組みになっている。

 大抵は、長老のように、長く海を守り、老いとともに滅んでいく。けれど例外は一つだけあった。今まで他人事のように、お伽噺のように聞いていた話。私達が海を守るための絶対の制約。


 地上な人間、ないしは種族の異なる者に、恋をすること。


 有り得ない、と自分では思っていた。

 人魚に性行為や、雄や雌の概念はない。だから知らなかった。人がこんなにも心を揺さぶること。言葉、体温、瞳、その者の持つ全てを以て感情を揺らがせること。ーー愚かにも、私は人間に恋をしてしまったのだ。


 始まりは、岩礁の上、潮の引いた時間に、気まぐれで歌を歌ったことだった。昔昔の、長老さえもまだ生まれていなかった頃に、人に恋をして泡となった伝承の歌。人を殺める為に渡された短剣を、自らの身に翳した愚かな人魚の歌。波打つ泡の中に消えた、泡沫の物語。

 愚かだ、と思っていた。けれど綴られた歌詞も、添えられたメロディーも、何もかもが切なく、悲しく響いて、私は何故だかこの曲に惹かれていた。思えば、その頃より予兆はあったのかもしれない。歌が終わると共に、私の瞳からは涙が零れる。それは髪を濡らす海水と大差なかったが、唯一違うのは、流れるその一雫が熱を帯びている事だった。


 たまに歌を歌い、涙が涸れるよりも前に海へ帰るのが、私の密かな楽しみだった。空を飛ぶカモメは憧れだったし、普段感じることのない風はいつも潮の香りを纏っていた。

 誰かにこの歌を聞かれるなど、思ってもみなかったのだ。ましてや、それが人間の男などとは。


「見事な歌ですね、聞き惚れました」


 初めて聞いた音に、身体がびくんと跳ねる。知らない音。知らない男。知らない出で立ち。振り返るとそこには、重そうな服ーー私が人魚だからそう思うのかもしれないがーーを着た男が立っていた。私は目を見張る。潮が引いている。知らず知らずのうちに、海岸より近い岩礁へと身を置いてしまっていたのだ。


「にんげん」


 こわごわと口にした。

 長い金の髪を、後ろで纏めている。瞳は晴れの日の海に似た蒼色。空を写したような澄んだ色が印象的だった。肌は白く、海で生きる私達と大差はない。細く、けれど決して低くはない身長と、声音の低さから、これが人間の男だと判断した。


「……驚いたな。船にも乗らずセイレーンに会えるとは」


 男は聞きなれない言葉を口にする。こちらへ歩み寄ってくる。潮が引いている。人間でも、靴を濡らさずにこの岩礁へ来ることが出来る。

 油断した。自分の軽薄さを呪った。人間という種族は、人魚にとって危険な存在だった。恋に落ちれば泡と化し、人の中では人魚の肉を好む者もいるという。不老不死になれるという出鱈目が、噂として出回っていると、仲間によく聞いていた。


「……食べないで。不老不死なんてなれないわ」


 私がそう言うと、男は驚いたのか、目を僅かに見開き、そうして笑った。真面目に身の危険を感じているこちらとしては、どう反応して良いのかわからない状況だった。


「なるほど。お互いに恐ろしい噂が流れているわけですか。失礼、こちらでは、セイレーンは人を食らうと聞かされているのでね」

「せい、れーん? ……私達のことを、そう呼ぶの?」


 それは大昔に泡と化した人魚の名前だった。人の世界にも、同じ伝承が残っていることに驚いた。


「私達は人に関与しないわ。食べることもなければ、恋に落ちることもない。私達はそういう存在ではないから」


 確かに、綺麗な宝石は好きだし、着飾るのも楽しい。しかし、あくまで自分の趣味に過ぎない。人間が起こす求愛行動と似てはいるが、目的は違う。

 海の世界を守る。それだけが私たち種族の役目だった。存在し、魚と語り合い、珊瑚を愛でる。それが私達人魚の役目なのだ。


「恋? ああ、アンデルセンの童話ですね。……確かに、俺もそういえば王子だったな」

「いや、近寄らないで。王子なら尚更嫌いよ。私たちの同胞を泡にし、忘れ去った王子など……!」

「どうか警戒を解いて。俺は恩義のある相手を忘れたりはしない」


 王子だと名乗る男が、私の足元に跪いた。震えながら、私はそれを見下ろす。それが始まりだった。愚かしくも、けれどどうしようもない、人魚が落ちた最初で最後の恋。


「歌を聞かせてくれた貴方を、俺は忘れられそうにない。どうか、またこの岩礁で、その美しい声を聞かせてください」


 人と人魚の交わる時間など、限られているのに。



 それから私達は、何度か逢瀬を重ねるようになった。人魚の私が知らないことを、彼は沢山知っていた。遠くの海のこと。地上に咲くという花のこと。恋のこと。私の中に新しい感情が生まれるまで、時間はそうかからなかった。


「もし、許されるなら……私と、共に生きませんか。遠い昔の人魚のように、両の足を手に入れて」


 そう持ちかけられるのも、出会って暫くしてだった。種族の差があるからこその、焦りだったのだろう。私もその気持ちは同じだった。だから受け入れた。代償に何を払うとしても、構わないと思った。


 しかしーー。

 彼が偶然乗った船を、荒波が襲った。いや、偶然ではなかったのかもしれない。長老は語った。地上と海の交わりは、世界の禁忌。たとえ何を代償にしても、溺れ、死へと向かう彼を助けても、決して人魚は報われはしないのだと。


 私はその時、初めて知った。大昔の王子は、自分を助けた人魚を忘れたのではなくーー忘れさせられたのだ、と。

 それは時間の経過とともに訪れる、世界の理。人魚の存在を知った人間は記憶が改竄され、叶うはずもない恋を抱いた人魚は自分を忘れた相手を殺すか、泡になるか、選ばされる。大昔に恋に落ちたセイレーンは、愛した相手を殺せず、泡となった。

 それでも良い、と私は叫んだ。長老の話を聞いても、泡となった者の切なさを知っても。彼が助かるならばそれで良いと。


 王子は海に命を奪われ、そうして人魚の願いの元に、海に命を救われた。

 出会った岩礁の上に、息を吹き返したその体を横たえる。

 瞬間、私の手元には、古く、重い短剣がどこからともなく現れた。選べ、と言っているのだ。彼を殺すか、波の中の泡となって消えるか。


 人魚の世界では禁忌とされてきた話を、私は聞いた。


 セイレーンと王子は恋に落ち、セイレーンは自らの声を代償に、鱗を纏った尾を人間の足へと変えた。

 人間の世界でも、一国の王子が身元のない女を嫁にとるのは許されず、最終的に駆け落ちした2人は慣れ親しんだ海の傍へと居を構えた。


 魚を捕り、街へ売って、2人は生計を立てたが、ある日、王子の乗った小舟が波に攫われた。彼は瀕死の状態に陥り、セイレーンは彼を助けるべく海へ身を投げた。そこで彼女も、私と同じように、決して交わらない互いの理を知らされた。


 彼女は王子の身体を、かつて彼が住んでいた王宮のそばへと横たえた。涙を流しながら短剣を構えたが、結局、彼女は海へ還り、泡となることを選んだ。


 泡になる人魚への罰は、残酷だ。自分と過ごした時間、その全てを、愛した彼は忘れてゆく。自分が重ねた逢瀬も、助けた記憶さえも、人間の王子にとって最も近しく、最も彼にふさわしい相手へと置き換えられる。全てが地上の記憶へと置き換わり、文字通り、彼の中から自分が消えていく様を見せつけられ、彼が自分以外の女を愛している場面を見せつけられ、悲しみとともに泡へ還ってゆく。

 自害してもそれは同じこと。走馬灯が彼の結末に置き換わる、それだけだ。

 最後に彼女は願ったという。いつか、一欠片でもいいから、私の残滓が貴方を苦しめてくれますように、と。


 自らの辿る運命を聞かされた私は、歌を歌った直後のように、泣いていた。泣きながら愛した身体を地上へ返し、泣きながら短剣を海へ投げ捨てた。

 濡れた彼の頬を撫でる。美しい金の髪が潮水に濡れ、張り付いている。

 ――愛してる。私は彼の耳元で囁いた。


 横たわる彼が目を覚ました時、私の記憶は他の人に置き換わっているのだろうか。遠い昔のセイレーンのように。

 今も記憶が書き変わっていっているだろう。私は彼の傍に腰掛けた。セイレーンと違い、私は声を失ってはいない。そう至る前に、海が私達へ禁忌の罰を下した。


 私はあの日のように、歌を歌った。遠い昔の、恋に消えた泡の記憶。傍に横たわる、愛しく、名残惜しい体温を時折撫でて、歌を歌った。何度も何度も。繰り返し繰り返し。潮が引き、地上と海が繋がるまで。私の代わりとなる誰かが、彼を迎えに来るまで。


 最後の逢瀬を終えて、私は自分の体が海に沈んでいくのを感じた。もう、故郷にも戻れないのだろう。

 遠い水面に、ぼんやりと彼の姿が映る。彼と、私によく似た、けれど私ではない誰かがそこにはいた。私ではない誰かが、彼の体を抱いて泣いている。無事で良かった、生きててくれて良かった、奇跡っておこるものなんだわーー。荒れた海に降りかかる雨のように、言葉が降ってくる。


(これが奇跡だというのなら、私の歌が、あの人に残っていればいいのに)


 共に重ねた時間。育んだ愛情。私が世界から弾かれていく。私だけが彼との時間を覚えている。

 意識が海へ還っていく。愛してるよ。彼が私ではない誰かに囁いた。抱き合い、キスをする彼らの姿が、私の記憶の最後だった。

 私は歌う。泡と化していく身体と、想いの中で。

 彼が好きだと言った歌を、ずっと、歌い続ける。


 ーー私が消えても、どうかこの歌だけは覚えていて。

 願わくば、私のこの泡沫の欠片が、貴方への呪いとなりますように。

 この歌が、貴方の記憶の断片でもいい、残っていますように。


 いつか私を、思い出さなくていい、けれど、その余韻を想ってくれますように。


 人魚の世界は、その日、悲しみの歌に包まれた。

 恋を知らぬ人魚達は王子を呪う。王子への呪いが、何処までも、深い海の底にまで、続いていく。

 深い悲しみと、切なさを本当に理解していたのは、人魚に全てを語った長老だけだった。


(あの話には、本当は続きがある)

(私は世界の理とはいえ、他の女を愛した男を許せなかった、だから殺した)

(皮肉にも、罪深い私の名は人の世にも伝わっていたようだな)


 泡となった人魚を思いながら、長老と呼ばれるほど年を重ねた彼女は、一振りの短剣を撫でる。

 セイレーン。かつて呼ばれていたその名は穢れ、もう呼ばれることはなくなった。自らを過ちとし、その名を人魚たちに伝えたのは彼女だった。


 彼女だけが、消えた人魚の呪いを聞いていた。王子への恋慕、世界の理、女への憎しみ。全てを知った人魚は泡となって消え、また新しい伝承を残す。

 懐かしい歌声だけが、耳鳴りのように、いつまでも響いていた。

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