狐と鬼の子

時雨ハル

狐と鬼の子

 雨が髪を打ち、べたりと頬に貼り付く。邪魔な髪をかき上げて封印と向き直った。頼りない月の光のみでは文字も読み取れないが、とうに役目を終えたはずの封印の札は、少し力を込めただけで破れてしまいそうだ。

「さて、この中には何がいるのやらだ」

 そっと触れれば指に擦れた墨が付く。壊れそうな封印の向こうには、馴染みのある妖気に似たものが漂っている。しかし過去に知ったものとは違う気配だ。

「まだ生きてる……訳無いよな」

 一人呟いてみる。この奥にいるのが彼女であるはずはない。数えるのも面倒なほど昔に封じられた彼女は、とうにこの奥で朽ちているのだ。ならば何がいるのだろう。

 雨の日は出会いの日。母親の言葉を呟いてみる。

 破れそうで破れない札に爪をかけた。妖気を集中させていく。はぜる雨粒が力を鋭くさせ、封印を砕く武器とする。

「さあ――出てこい」

 一閃の後、あっけないほどに容易く封印は砕けて消えた。

「なんだ、もう終わりか」

 雨の日を選ぶまでもなかったようだ。脱力しながら扉を押し開ける。奥にいるのは彼女ではない。

 黒い瞳がこちらを見つめていた。開けた扉から月明かりが差し込み、輪郭を浮き上がらせる。

 見た目はまるで人間の子供だ。黒髪は床まで届き、水に濡れた訳でもなくそう思わせる光を帯びている。病人に似た肌は透き通るように白い。だが何よりも目を引いたのは、闇を写し込んだ二つの瞳だ。暗闇のためか何の光も返さない瞳は、吸い込まれる錯覚すら覚える深さを持っている。そして身に纏うのは、かつて最強と呼ばれた鬼によく似た妖力だ。

「お前は……何だ?」

 漆黒の瞳が揺れる。

「わた、し?」

 頼りなく掠れた声。何の意味も意図も持たない言葉は雨音に溶けて消えた。

「そう、お前だよ。ここに封印されてた鬼はどうした?」

「おに?」

 くしゃりと表情が歪む。

「お母さんの、こと?」

 まさか、と。やはり、と驚きながらも予想はしていた。

 知った気配、似た力。見かけはそう似てはいないが、鬼を思い出させるには十分すぎる。

「お前……鬼の子供か!」

 かつて最強と呼ばれながら人間に封じられ、時と共に朽ちた妖怪。その子供が今、目の前にいる。俺の感情を満たしたものは驚愕か、歓喜か、それとも別の何かだっただろうか。子供は首を傾げて言葉を紡ぐ。

「おかあさんは、いなくなったの。あなたは誰?」

「見りゃわかるだろ。狐だ」

 頭に生えている耳を差し示すとこくりと頷く。しかしまた口を開いて疑問を口にした。

「なまえはあるの?」

「それを俺に聞くか」

 大仰に溜め息を吐く。妖怪に名前などあるはずがないのに母親に何を教わったのか、それとも何も教わっていないのか。

「そう言うお前はあるのか?」

「ないよ」

 視線を下げて落ち込んだような表情で答える。

「お母さんはつけてくれなかったの」

「そりゃまあ、妖怪だからなあ」

 最強だった鬼の子と対峙しているというのに、やけに脱力するような方向へ話がずれている気がする。だが脱力させている本人は至って真面目らしく、悲愴な顔で首を振る。

「そうだけど、ちがうの。お母さんはそうだけど、お父さんはひとだから。なまえをつけてくれるって言ったのに」

 何やら、聞いてはいけない事実を聞かされたような気がする。だが聞き流してしまう訳にもいかず、仕方なく聞き返す。

「お前の父親、人間なのか?」

「うん」

 ためらわない肯定が返ってきた。

 鬼が封印されたのは、人間にとっては随分と昔の話だ。まだ妖怪が当然に存在するものとして知られていた時代に、鬼が人間と交わっていたという。それがどれだけの大事か、こいつには欠片も分からないのだろう。

「面倒だな……まさかお前みたいのがいるとはね」

 これが人間に見つかっても妖怪に見つかっても、面倒なことが起こりそうだ。鬼の生まれ変わりだと崇められる程度ならまだいい方だ。最悪の場合、人間を嫌う妖怪に付け狙われることもありうる。かといって放置して行くほど薄情にもなれない。

 漆黒の瞳が正面から俺を見る。訴える感情の無い、ただ見るだけの瞳だ。

「……まったく」

 自分のお人好しに少し嫌気が差した。


 *


 雨に打たれて梅の花が散る。花弁を踏みながら歩を進め、ふと後ろを振り返ると漆黒の目が月を見上げていた。頬を伝う雨粒のせいか、その顔は泣いているようにも見えた。

「どうした?」

 声をかけると、ようやく俺の存在に気付いたかのようにこちらへ顔を向ける。

「雨、降ってる」

「見りゃわかる」

 空へ向いていた瞳が下へと向けられる。

「お母さんが消えたのは、雨の日だったから、雨は嫌い」

「ふうん」

 言葉からすると落ち込んでいるらしいが、表情からは何も読み取れない。感情があからさまでなかったからこそ、おかしなことを呟いてしまったのかも知れなかった。

「雨の日は素敵なものに出会える日らしいぞ」

 俺をじっと見て、それから口を開く。

「どうして?」

「妖気が集中しやすいから」

「どうして、妖気が集中しやすいと、すてきなものに出会えるの?」

 そこまで聞かれてからようやく、自分が面倒な話をしていることに気付いた。話しかけたことを打ち切る訳にもいかず、適当に解説する。

「妖怪の中には普通にしてると人間には見えないやつがいて、その中でも力の弱い奴はなかなか姿を形作れないんだよ。だから、妖気の集中しやすい雨の日だけは人間に姿を見せられる」

「妖怪がすてきなもの?」

「さあな」

 俺の適当な返事にも機嫌を悪くした様子はない。歩き出せば素直に後をついてきた。

「もうすぐ屋根のあるところに着く」

「うん」


 *


 人間に忘れ去られた公園の中に、木々に囲まれた東屋がある。人間なら不満を言いそうな場所だが、妖怪が寝るのに大して問題は無いだろう。

「今日はここで寝るぞ」

「うん」

 椅子の上に乗った鬼の子は、そのまま寝転がるかと思いきや上体を起こしたまま俺を見ている。

「寝ないのか? もう夜が明けるぞ」

 返事は無い。ただ時折瞬きをしながら俺をまっすぐに見つめている。

 今は月明かりを受けて光を宿している瞳は、初めて目にしたときのような深さは感じさせない。それでも漆黒の瞳に見入られるのは何とはなく気が引けた。不意に薄い唇が開かれる。

「妖怪、なの。人なの?」

 意味の掴みづらいだろう言葉を、しかし理解するのにほとんど時間はかからなかった。無意識のうちに顔をしかめていたのか、彼女はびくりと肩を震わせた。ごめんなさい、と小さく呟いてから言い訳じみた言葉を並べる。

「人のところがたくさんある、みたいに見えたから。わたしより、人のところが多いとおもったの」

「お前……」

「ごめんなさい。おこらないで」

 こうも容易く見抜かれてしまうのは、母親から力を受け継いでいる証だろうか。俺は溜め息を吐き、両手を挙げて降参の意を示した。

「怒ってない。お前の言うとおり、俺は半分以上が人間だよ」

「にんげんの子供なの?」

「そう。お前は父親が人間らしいが、俺は母親が人間だった。だからお前より人間の部分が多いんだ」

 俺を宿したことで人間からも妖怪からも疎まれた母親のことを少し思い出す。しかしそれも、不意の質問によってかき消えてしまった。

「じゃあ、なまえはないの? お母さんのつけてくれた、なまえ」

「何でそういうこと聞くかなぁ……」

 再び溜め息を吐けば、怯えたような表情を浮かべる。だから怒ってないというのに。見れば分かるだろ。

「あるよ。母親が要りもしないのに付けた」

「いいな、なまえ。おしえて」

名前があることの何がいいのか理解できないが、目の前の子供は何故か嬉しそうに微笑んでいる。初めて見せる笑顔がこんなことで出てくるとは。

 しばらく黙りを決め込んでみたが、諦めて口を開く。

「春。生まれたのが春だったから春、だ。安易だろ?」

 何度も首を振ってから顔を上げて、俺を見る。

「春」

「何だよ」

「春」

「はいはい」

 妙に気に入ってしまったらしい。呼ばれる度に返事をする。それもだんだんわずらわしくなって、終いには半ば頭を押さえるようにして椅子に寝かせた。

「いいなあ、なまえ。わたしも欲しい」

「なら俺のでも持ってけ」

「だめだよ。春のなまえは春のだよ」

「面倒くせえなあ……」

 理解できそうにないと思いながら、その笑顔に満足を覚えていたのも確かだった。

「じゃあ、俺が死んだらくれてやるよ」

「……それなら、いいかも」

「いいのか」

 ここは普通、仮定でもそんな話は嫌だと言うところだろうが。こいつにそんなものは求めるだけ無駄だということだろうか。

「何百年かかるんだか」

「きっと、いっぱいだよ。それまで一緒にいていい?」

「ああ、いいんじゃねえの」

 なげやりに答えてやれば、やけに嬉しそうな笑顔が返ってきた。名前が手に入るためか、それとも俺といられるからか迷うところだ。

 死ぬまで一緒なんて、人間の愛に誓いにも似ている。そんな下らないことを思いながら、眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狐と鬼の子 時雨ハル @sigurehal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る