彼の名前。彼女の名前。
仲咲香里
彼の名前。彼女の名前。
「あーっ、彼女欲しいー!」
学校からの帰り道、突然叫ぶイチに、あたしたち三人は同時にイチを見る。
あたしとコハが前を歩いて、イチとシンがその後に続く。四人で帰る時の、いつもの定位置。幼稚園からの幼馴染のあたしたちは、自然とその配置に就いてしまう。
「そんで『
「セ、セリナって、何勝手にイチの彼女にしてんの?」
あたしは軽く動揺しつつも、伝い歩いてた縁石の上から、イチこと壱哉に訊ねた。
ちなみにセリナっていうのは、男子高校生の彼女にしたい有名人一位の新人女優で、イチも大ファン。その上、女子高生のなりたい顔一位だし、息子の嫁にしたい有名人一位でもある。
そんな相手と、田舎の公立高校に通うあたしたちが出会える筈もないんだから、イチには現実を見て欲しい。
「昨日、セリナが俺の夢に出て来た」
何それ、セリナずるい! あたしだって、イチの夢に出たいのに!
そう思ってるのを、おくびにも出さないよう気を付けながら、あたしはイチの話に乗ってみる。
「まあ、セリナは無理だとしてもさ、イチ、彼女にはあだ名じゃなくて、壱哉って呼ばれたいんだ?」
「そうそう俺の憧れ。なんか特別な感じすんじゃん。彼氏彼女だけの特権、みたいな」
そうだったんだ? 知らなかった。
その特権、絶対あたしが欲しい!
思わずあたしは、イチに、ノンじゃなく
「いいね、それ! 私も『希々花、壱哉』とかって呼び合いたい!」
「は? 何、ノン。勝手に俺の名前使うなよ!」
言われてあたしは、はっとする。
しまった! 思わず心の声が出ちゃってた!
「た、ただの例えだってば! そっちこそ、赤くなんないでよ!」
「は? 赤くなんてなってねーし!」
明らかに赤くなって強がるイチに、あたしはほんの少し、期待してしまう。
「ていうかイチ、彼女欲しいとか、急にどうしたの?」
「だって夏が来るし? 高校生だし? 彼女いない歴更新すんの、ここら辺で終わりにしたいんだよ!」
それは分かる。あたしも痛い程分かるよ!
って、声を大にして叫びたいのをぐっと堪え、さっきの反省を踏まえて、あたしは今度は、余裕の態度を取ってみる。
「そうなんだ? イチを好きになってくれる人がいるといいね?」
「何だよ、ノン。それ、どういう意味だよっ」
「そのまんまの意味だよ」
嘘です。ここにいます!
って、素直に言える程、あたしは可愛い女の子じゃない。そろそろ、他の人を彼女にしたいって話ならやめて欲しいし。
「シン! 冷めた目で見てないで、ノンに俺の魅力を教えてやってよ!」
イチに
シンはいつもそう、無表情が板に付いてて、他人に興味が無くて、ほっとくと、あたしたち以外とは喋ろうともしない。
「はいはい。イチのはただの現実逃避でしょ? 期末試験も明日で最後なんだから、余計なこと考えてないで勉強しなよ」
さすが、シン!
って、あたしは心の中でシンの頭を撫でる。そんなシンだけど、喋ると的確で、意外と良いこと言ったりする。
「……ちょっとノン、頭撫でるの止めてくれる?」
と、思ってたら、本当に撫でてた。
どうもあたしは、考えるより先に、体が動いてしまうらしい。
「コハも。笑ってないでこいつらに俺の良いとこ言ってやって」
「えっ? えっ、とー、元気なとことか?」
急にイチに振られて、コハこと
コハは引っ込み思案で、読書が趣味の、見てると守ってあげたくなるような、あたしとは正反対のタイプだ。
シンから離れ、あたしは今度は、急いでコハの元へ行く。
「ちょっとイチ、コハのこと困らせないでよっ。シンが言うとおり、早く帰って勉強しないと、また数学で赤点取るよ!」
「それだよ! なんで最終日に数学あるんだよ。もうこっちは連日の試験で記憶領域いっぱいなのに、公式なんか入るかっつの」
「イチの場合、初日だろうと
「シン! ボソッと呟くな! どうせ言うならはっきり言ってくれっ」
「シンは数学で赤点取りまし……っ」
「叫ぶな、ノンっ!」
あたしはイチに、突然口を塞がれた。
やばい!
心臓が飛び出そう。
身体中の血液が逆流して、イチが触れる場所へ集まってく。
息をするのも忘れそう。
「そう言うノンも、前回、平均点ぎりぎりだったんじゃなかったっけ?」
シン、余計なことをっと思っても、今のあたしは身動き一つ取れない。
「じゃあ、ノンちゃんとイチくんの為に、みんなで勉強しようか?」
「さすがコハ! 優しいなー。んじゃ、後で俺ん家に集合な」
コハの提案に、やっとイチの手が離れ、あたしは急いで呼吸する。顔が熱い。梅雨明け間近のこのむっとした空気でさえ、あたしの顔より涼しい気がする。
「やったな、ノン」
そう言って破顔するイチに、あたしは「へへっ」と笑うので精一杯だった。
成績学年十位以内のシンとコハに教えて貰えることより、イチの部屋に入れることのが嬉しい、とは口が裂けても言えないけど。
今年高校一年になったあたしたちは、同じマンションの五階にコハ、六階にシン、七階にあたしとイチが住んでいる。親同士も仲良くて、兄弟姉妹みたいに育ってきた。だからお互い、異性として意識したことなんてなかったのに。
でも変わったのは、今年の春。
ブロック塀の上を、いつもの如く平均台みたいに歩いてたあたしが落ちかけた時、イチがとっさに抱き止めてくれた腕が力強くて。
ずっと変わらなかった身長が、いつの間にかあたしより高くなってるのに気が付いて。
ドキドキした。
その日から、私だけを見て欲しくなった。
たぶんイチは気付いてないと思う。
いつも、前を歩くあたしのこと、見てくれてるといいなって思ってることも。
「よし、完璧」
と確認して、あたしは同じフロアにある、イチの家の玄関前で深呼吸する。
自室に戻ってから、鏡の前で小一時間格闘した結果だ。明日の試験は最悪でも、最高の自分になったと思う。
顔とスタイルは将来的に追い付くとして、とりあえずセリナが好きなブランドの服に着替えたあたしは、玄関ドアを開けて中に入る。
「イチー、入るよー」
この入り方は、幼稚園の時から変わらない。
反応無いけど、気付かなかったのかな?
玄関には、イチとシンの靴がある。コハは少し遅れるって言ってたから、まだ二人だけかと思いつつ、あたしはイチの部屋へ向かう。
どうせなら、突然入って驚かせようかな。
これも時々するけど、その後で「びっくりするだろっ」て言いながら、イチに頭わしゃわしゃってされるのが、あたしはすごく好きだ。
もしかして今日は、なんか可愛いなって、ドキッとしてくれたりして。
なんて一人にやにやと想像しつつ、ドアノブに手を掛ける。
「え? シン、何で分かんのっ?」
「まあ、付き合い長いしね。誰が誰を好きかなんて見てればすぐ分かるよ」
中から聞こえてきた声に、思わずあたしの手が止まる。
「マジか。あいつにもバレてるかな?」
「さあ? イチはセリナが好きって思ってんじゃない? わざわざセリナに置き換えて話すから」
「だよな。あーっ、違うのに!」
「そういうとこ、イチとノンてホントそっくりだよね。素直じゃないし、考え無しで行動するとこなんか特に」
「は? しょうがねーだろ、なんか急に可愛いなって意識し始めたら、まともに話すのも緊張するし、後ろから見つめるのだけでいっぱいいっぱいなんだよ」
「もういいよ、その話。早く止めないとノンに聞かれるよ」
「決めた! 俺、絶対、夏休み前に告白する!」
「だから、後のことも考えてから……。まあ、とにかく今は、勉強に集中しなよ」
あたしはそっとその場を離れて、急いで自分の部屋に帰った。
な、何、今の? それってイチも、あたしのこと……!?
それからあたしは、毎日ドキドキして、夏休みまでの日数をカウントダウンし始めた。
放課後は、何かと理由を付けてイチの部屋に遊びに行ったり、さり気なく言い易い状況を作ってみたりしながら。
後二週間。
後五日、四日……。
夏休み三日前の放課後、一日のうちで最大級に緊張するエレベーターを、七階で降りた所で、イチに後ろから呼ばれた。
「ノン」
「えっ?」
き、きた!?
声、裏返ったかもと思いつつ、あたしは自分が一番好きな、左斜め四十五度の角度が見えるようにイチの方を向く。
「今日も家来んの?」
「あ、イチがいいなら……」
「そっか……」
「な、何?」
「あ、いや、そのー……」
「何よ、早く言ってよっ」
ずっと待ってたんだから!
「うん。俺さ、実は、好きな人がいるんだ」
「う、ん」
知ってる。
「で、その、好きな人って言うのが……」
色々考えたけど、やっぱりシンプルに『ノン、好きだ』があたしの理想!
「あーっ、もう! はっきり言うわ!俺——」
真っ赤になったイチが、真剣な顔であたしに告白してくれた。
こんなの、一生に一度でいい。
じゃなきゃ、あたしの心臓がもたない。
壱哉、好き。大好き。
あたしのことも、
その夜、あたしの夢に壱哉が出て来てくれて『壱哉、希々花』って呼び合う夢を見た。
「ノンちゃん、イチくんとシンくん、先に降りて待ってるって」
「あっ、うん。行こっか、コハ」
よしっ、今日のあたしも完璧。
「今日のノンちゃん、すごく可愛いね」
「そう言うコハの方が可愛いよ」
あたしはコハをぎゅっと抱きしめつつ、ドキドキしながらエレベーターで一階に降りる。
「二人ともごめん、遅くなって!」
「おっ、来た来た。二人とも、浴衣似合ってんじゃん」
「そっちこそ、二人ともかっこいいじゃん。ね、コハ?」
「う、うん」
「だろ? 浴衣で花火デート、憧れだったんだよなー!」
「……絶対、普通の服のがいいのに」
「ちょっとシン、少しは褒めてくれてもいいんじゃない?」
夏祭り会場から、花火の音がし始める。
暑い夜空が、紅く色付くと、あたしは毎年、無条件に心が騒いでた。
今年は、格別に。
「あっ、花火始まった。早く行こ、
「う、うん。イチく……、壱、哉」
そう言ってイチが、コハに手を差し出すと、コハがはにかみながらも手を重ねる。
まだ、壱哉って呼ぶのは、慣れないらしい。
こういうの見るの、正直ちょっとキツイな。
「大丈夫、ノン?」
「えっ、何のこと? それより、走ろシン!」
「いや、歩こうよ」
「冷めてるなー、シンは。早く行かないと、花火終わっちゃうじゃん。じゃ、私は走ろっと」
「ノン。無理して二人と一緒にいなくていい。俺も花火見なくても、全然いいし」
「ずるいなー、シンは。いっつも無関心のくせして、肝心な時は昔からすごい優し……っ」
シンが、無言であたしの頭を撫でてくれる。
それであたしは、自分が泣いてるんだって初めて気付いた。
『俺、コハのことが好きなんだ! 一生守ってやりたいと思ってる。俺、今からコハに告白する。だから今日は、コハと二人きりにさせて欲しい』
一生忘れられない、イチの告白。
もう二度と、聞きたくなんてない。
壱哉、壱哉。
あたしが呼べるのは、夢の中だけ。
彼の名前。彼女の名前。 仲咲香里 @naka_saki
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