走る、婆さん

安良巻祐介

 

 元陸上競技の選手であったという婆さんは、車椅子を嫌がっていた。

 人に助けられるのも嫌なのに椅子なんかに体を預けて運んで頂かないとならないのなんて御免だと。

 こんなものに身を任せたらその時点で自分で歩くのを完全に諦めたことになってしまうと。

 私は地面に足をつけた感覚が好きなんだ、地面から浮いた場所で、車輪のご機嫌を伺いながら軋み進むのは屈辱だと。

 そう言われてもこちらとしては、現に婆さんが動けないのだから仕方がない。何とか車椅子の上に載っけて、呪詛を吐く婆さんをなだめすかした。

 泣いたりわめいたりしていた婆さんはやがて絶望的な表情をして、小さな体を車椅子の中に収めて喋らなくなった。

 そしてそのまますっかり呆けて、騒がなくなった代わりに泥のような瞳で呪わしく遠くを見るようになったまま、ぽっくりと死んでしまったのである。

 しばらくして、婆さんの幽霊が出る、という噂が流れ始めた。

 その話を聞いた時には、無念を抱いて死んだであろう婆さんの恨みが何処へ向かうものか、戦々恐々とした。

 ところが、目撃者は口を揃えて、幽霊は特別恨めしそうではないという。それどころか、むしろ楽しげに、嬉しそうにしていたというのだ。

 とすると、死んだことによって車椅子から解放されたわけであろうか。考えてみれば幽霊が車椅子に乗る必要はないのだ。足がないとも言うわけだし。

 若干の安堵と共にそんなことを呟いたら、そうではなく、車椅子には乗ったままであるという。

 ますますわからなくなった。

 あれだけ車椅子をいやがり、それに乗らねばならないことを呪って死んでいった婆さんが、死後なお車椅子に縛られたまま、今度は嬉しそうにしているとは。

 腑に落ちない気持と、何か不気味なものを覚えながら半ば噂を忘れて過ごしていたある日、婆さんの幽霊を目撃した。

 夜中、酒を買いに出た、家の前の道路で。

 婆さんは、向こうから走って来た。

 生前そのままの姿で、車輪のゴムの音をギュウギュウと響かせて、わはははははと大きな笑い声を上げていた。

 確かに、車椅子に乗ったまま、婆さんは心底うれしそうにしていた。

 いや。

 微妙な齟齬に気付いた。

 婆さん、車椅子に「乗っている」のではない。

 婆さんの腰から下が、そっくり車椅子に変わっている。

 着物の裾から、古ぼけたパイプと布が出ていて、ぎゅるぎゅるぎゅるとゴムの車輪が大回転している。

 上半身が婆さんで、下半身が車椅子。

 そうやって、自分の車輪で、走っている。

 はははははははははは

 わははははははははははははは

 生前に一度も見せなかったような笑顔で婆さんは、これぞ呵々大笑と言いたくなるような声を上げながら、立ち尽くす俺の前から、素晴らしい速さで見えなくなっていった。

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走る、婆さん 安良巻祐介 @aramaki88

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