第三部
(十四)
木曜日のこと。2組の教室。明日の放課後は体育祭の前日準備でまともに練習することができない。実質、本格的に練習に打ち込めるのは今日が最後だった。
ラストに一度通しを行う前に、最後のパート練習が設けられた。住野は書き込みがたくさんある楽譜を手に、紘一に歩み寄った。
「パーリー、いいの?」
「いいんだよ。住野、お前が頑張ってんのは分かってんだよ」
「できるかな」
「できる」
「ほんとに?」
「現にいままでやってきたろうがよ。心配ない。ぶちかましたれ」
ありがとう、住野は紘一の方をしっかり向いて言う。なんだよ、と紘一は照れたように口角を広げた。
住野にとって、唯一出来なかったのが歌だった。音が分からなかった。どの声が高くて、どう声を出したら音が低いのか。どのくらいのテンポで歌い、どこで休符を取ればいいのか。数学や理科と違って、オリオン塾ではそんなこと教えてくれない。まして、この学校では、驚いたことに歌のことしかしない。楽器演奏をするでもなく、なぜか歌の勉強、のみだ。音楽記号や楽譜の読み方をいくら独学で学んだところで、音痴は一向に治らなかったし、宇宙と同じくらいそれは謎に満ちていた。物理の法則、化学反応式をいくらも覚えたところで、宇宙の広さを測るものさしにもならない、かもしれない。そういった謎と不安をずっと覚えていた。そして、毎年クラス合唱では煙たがられた。厄介者扱いされ続けてきた。
3年に上がってからもそれは続いていくのだろうと半ば諦めていた。だが、この男、目の前のパーリー、森田紘一は違った。
「好きに声を出していい。クラス合唱なんだから」と。そのたび、住野は声を出して、なぜだか紘一が篠田飛鳥にキレられているのが見えたが。二人は付き合っているのだろうか。
パーリーは、辛抱強くパート練習で付き合ってくれた。彼は本来バスのパートリーダーのはずだ。合唱委員でもない。それでも、バスのパート練習を一通り終えるとテナーのパートに寄って、色々指導してくれる。テニス部で、小学校の頃少しだけ合唱クラブに所属していただけでテナーパートリーダーを任せられた横峯聡をサポートしながら。
「あいつなんでも出来ちゃうんだよな」と横峯は時々、ほくそ笑みながら言う。パーリーとは小学校からの知り合いだそうだ。
住野の音痴は修正の兆しを見せていた。当たらずとも遠からじ、といった感じ。先週の木曜日、住野は「声を下げろ」と言われた。あのパーリーが、だ。大方、篠田飛鳥に言いくるめられたか何かなのだろうと思うが、この理不尽さには疑問が残った。篠田飛鳥とパーリーが付き合ってるのか、とかそんなこともうどうでもいい。大体やっぱり、テナーは声量不足だったのではないか!
その日は怒りが収まらず、オリオンのトップクラスで授業を受けていても全く身に入ってこなかった。明日の合同練習では勝たねばならない。確か、篠田飛鳥はつぶやいていた。それならば自分がやるしかないと決心したのは、塾講師が理数科模試の過去問を配り始めた時だった。
結果としては、確かに散々だったとしか言いようがない。そして、ようやく自分のしたことの大きさを思い知った。住野の目から見ても完敗したのは明らかだった。それくらい、合唱のことがわからない住野でさえも明らかな敗北だった。それも自分のせいで。
その夜、オリオンから帰宅すると、電話があった。パーリーからだった。今まで体のいい理不尽を働いてきてすまなかった、と謝られた。
そして、明日からカラオケで特訓してもらう手筈になった。これは自分自身の不出来への克服であり、クラスの皆への贖罪の為でもあった。オリオンの授業はどうにか、遅い時間の授業に出してもらえることになった。土日も体育祭の練習の時も、カラオケに入り、パーリーとマンツーマンで練習をした。
「合唱の楽しさをちゃんと思い出させてやろうぜ」とパーリーは誰にいうでもなく良く呟いていた。
そして、いくらか良くなった木曜日、今日。放課後、声を出して歌わしてもらえることになった。一度目、二度目の通しでは怖気づいて思った通りに出来なかったが、今度は、最後はできそうだ。
教壇の前に置いた椅子の上に立った篠田飛鳥が指揮棒を振り、カウントを取った。
(十五)
飛鳥は驚愕した。昨日おとといまでとまるで響きや圧が違うのが分かった。それどころか、さっきまで合わしてた時とも全然違う。一体なにが起こったというのだろうか。何が違う?何がそこまで劇的に変わった?
その、合わさった歌声がイメージさせるのはもはや川面の上を飛び、その鋭い眼差しで獲物を狙っているようなトンビなどではなかった。カモメだ。おおらかなカモメ。大海原を自由に翼を広げて、たゆたうカモメ。自分がそれを遠くの浜辺で見ているイメージ。
これはたぶん、テナーの声量が上がったことが大きい。その伸びが他のパートにも影響を与え、ソプラノに安心感を、アルトに協調性を、バスに真実味を与えたのだ。そう推察した。これは一体どういうことだろう。
演奏を終え、放心していた。皆がこっちを向いて、何か改善点があるかどうかを、沈黙を通して訴えてくる。
「どういうこと?どうしたの?さっきと全然違う」
「全然、だめ?」誰かが恐る恐る尋ねた。
「ちがう、そうじゃない。あたし、驚いてる。今までこんなことなかったから」飛鳥の驚愕はもはや困惑の域に差し掛かっていた。
「信じたんだよ」テナーのパートリーダー、サトシがおもむろに口を開いた。
「アスカ、住野の声出さないように指示出してたろ?
それで、最初は俺たちもその方が歌いやすい感じがしてたんだよ。間違った音が聞こえてこないし」ふっとにやけて、隣の住野の方を見る。悪戯っぽい子供のような笑顔だ。
「でもさ、気づいたんだよ。コイツの出してくれる声の大きさに依存してたんだ。ホントは俺たちだって、そう上手く歌えるわけじゃない。音ミスっても、コイツのせいにすればなんとか場は収まる。ハーモニーは崩れないし、曲はそのまま進んでくれる。アスカも満足。それでいいと思ってた。
だけど、コイツが声出さなくなったとき、やっとわかったんだよ。」
「なにが?」飛鳥の声は震えている。
「恥ずかしいっていう気持ち」サトシがやれやれ、といった風にため息まじりに答えた。
「ほんとは自分たちだってちゃんと歌えていない。それなのに平気でいた。コイツに頼り切って、それでいてバカにしてた。恥ずかしい」
ハッと、飛鳥は自分の胸に手をやった。そうして自分が今までしていたことを思った。自分は今まで、言い切ってしまえば自分のことしか考えていなかった。そして傲慢にも、自分の野望をクラスの目標になるように仕向けていた。そのために、住野のような者を排除しようとしていた。間違っていた。あたしは間違っていた。合唱とはこんなものじゃなかったはずだ。あたしが好きになった合唱はこうなってしまってはダメなはずのものだった。
「だからさ、紘一から電話がかかってきたとき、素直に応じたんだ。反省して、信じることにした」
サトシが紘一の名前を出した瞬間、紘一はそりゃあないぜ、という顔をした。
「聞けばクラス全員に電話したんだと」タカユキが追い打ちをかける。
「私のとこにもかかってきた。これは俺たちの間だけの秘密だとかなんとか言ってさ。やっぱあれ全員にだったんだ、やるね森田」ミサが笑った。それに続くようにクラス中が笑い始めた。そっと花が咲き乱れるように。
飛鳥はもう、自分を支えることが出来ず、クラスの皆を見つめることができずその場にしゃがんだ。涙が次から次へと溢れていく。トイレなどで席を離している間に、時々皆が自分のことを話していたのは気が付いていた。自分の行き過ぎた指導への不満か何かなのだろう、どちらにせよ仕方のないことだ、全校一位のためだと我慢してきた。本当は、実際のところは、そうじゃなかったかもしれないのだ。
不平不満が飛鳥のところにしっかり届いて、双方に悪い空気が蔓延してしまう前に紘一が飛鳥を守ったのだ。飛鳥は紘一に守られていたのだ。
「だーからさ、信じようよ。住野を、皆を、自分をさ。お前ちゃんと合唱好きだろ?」紘一はそばに来て、飛鳥の肩を抱いてくれた。ひゅー、と複数人が冷やかす。紘一はそれを否定しなかった。
飛鳥は、なんどもうなずいた。しゃがんだまま、鼻水と涙で汚れた顔を見られたくなかった。泣き腫らした目を見られたくなかった。まだうまく笑顔にならないまま引き攣った、みっともない顔を見られたくなかった。
(十六)
金曜日の昼休み、1組では合唱の練習が始まった。午後の体育に合わせてみんな体操着だ。昨日は体育祭練習、今日は体育祭準備で満足に練習をすることのできる時間は昼休みしかなかった。それでも、皆不満を漏らさず、昼ご飯が終わって昼休みに入っても残ってくれた。
さて、通しを始めるか、というときになって、教室を訪問するものがいた。あれはたしか、2組の小山くんだ。白団団長。元野球部主将。青のアイテムで溢れた教室を見渡し、目的の人物を見つけると彼を呼び出した。元男子バスケットボール部部長、加山祐樹。このクラスの、この団の団長だ。
二人はしばらく、廊下で話したあと、何やら互いにガッツポーズをし、握手をして別れた。
「わるいわるい。こりゃ皆明日からの学校祭は盛り上がるぞ」とだけ、満面の笑顔で言いながら列に並んだ。
一度、通してみて申し分ない出来だと、恵里は思った。後は自分がしっかり引っくり返ることなく、本番も声を出せれば。
それにしてもどうして今年は体育祭と連続して合唱祭をするのだろうか。応援で声がつぶれてしまうとは先生たちも考えなかったのだろうか。いくら、体育祭がPTAの圧力か何かで華の競技種目がなくなってやりがいがないにしても。
ウチのクラスは、体育祭にももちろん全力で取り組んでいる。だから、応援だって精いっぱいするだろう。リレーだって一生懸命やるだろう。創作ダンスだって、恥じらいもなく取り組むだろう。そういうクラスだ。
「みんな、応援するとき声が枯れないように腹式でがんばろうね。そうすればいつもより声出るし、合唱祭も問題ないと思うから」
三回目の通しが終わって、あと五分もすればでチャイムが鳴るだろうというとき、恵里はみんなに言って聞かせた。
午後の体育祭設営準備の時間、保健用テントの机が必要だとかで保健室に向かっている最中だった。森田くんと飛鳥とばったり鉢合わせしてしまった。
「ひ、ひさしぶり」とホントは体育の合同の授業などですれ違うくらいはしているのに、ついて出た言葉はそれが精いっぱいだった。
「久しぶりってほどじゃないでしょ。」飛鳥はにやにやと大きな口の端を上げてる。すると、恵里の手を取った。彼女の手は日に焼けて小麦色だ。顔だけは色白なのに、腕や手足が黒い。顔だけは焼けたくないのだと念入りに日焼け止めクリームを塗るも、おざなりな手足はすぐに焼けてしまう。夏の時期は、このコントラストがおかしくって二人で笑い合っていたのを思い出した。
でも、今よくよく見てみれば、顔や首もいくらか赤く日焼けしているのが確認できた。
「ね、恵里」恵里の名前を呼んだ。その甘く、少し低く、時に残忍なまでに明るすぎるとまで思った声で名前を呼ばれた。
「白団、ウチのクラスも今年は本気出すことにしたから。狙うは総合優勝あるのみ。がんばろう」そう早口言葉のように言うと先に保健室に入っていった。すいませぇーん、包帯と消毒液あまってませんかー、と大きな声が廊下に響く。相変わらず小学校の時分から声が大きい。
「ひとりウチのクラスで転けたやつがいてさ、その応急処置道具をゆっくり取りに来た」森田くんがボソッと独り言のように呟いた。
そうなんだ、と恵里も呟くように返す。
「サワさん、飛鳥、もう気にしてないよ」
「え?」
「サワさんが合唱部辞めちゃったこと。サワさんの人一倍優しくて、ちょっと弱気な性格なのも飛鳥分かってる。ああやって、照れ隠しなのかなんなのかちゃんと言おうとしてないけど。あぁ見えて繊細だからね。あいつも。自分もサワさんを追い詰めていたのかもって反省もしてた」
そんな、あれは飛鳥のせいじゃない。自分で自分を追い込んだだけだ。
「サワさん、覚えてる?小五か六の頃、合唱三人で見たじゃん。うちの中学合唱部の全国大会銀賞凱旋ステージ」
覚えている、忘れていない。ずっと忘れることないであろう記憶。
親どうしが仲が良いというので恵里と紘一は、時折学校の外でも、クラスが違えど顔を合わせる仲だった。(大体がスーパーとかだけど)親どうしが話し込んでいる最中、二人で短い距離の散歩をしていたことを覚えている。
小五の夏休みが終わったくらいの時期に、転校してきたのが飛鳥だった。雪のように白く、猫のように大きな目をしていた。親がシングルマザーだ、という理由で転校早々クラスからつまはじきにされていた。今考えてみてもいじめる理由を理解できないし、子どもは残酷だなと思う。見かねた紘一が、彼女の、この町の最初の友達になった。
その凱旋ステージの日に、紘一は飛鳥を連れてきた。そして三人で並んであの演奏を聞いたのだ。
「そんときさ、二人とも泣いてたんだよね。飛鳥もサワさんも。ほぼ初対面のような二人だったのに意気投合してさ、中学入ったら絶対合唱部入るんだって意気込んでた」
たしかに、凄かった。全身に鳥肌が立って、自然と涙が出てしまっていたのを思い出した。そして、彼女らはなにより楽しそうに歌っていた。誇らしげに。あんな風に心から楽しそうに歌いたいと、本気で思った。
「まったく、合唱部入る奴はどいつもこいつも感受性豊かなもんだねぇと子供心に思ったよ」
飛鳥はまだ保健室から出てこない。
「森田くん、サユリさんはまだ合唱してるの?」
「姉ちゃん?んー、なんかアカペラもしてるって帰省した時言ってた」
「そう、じゃ、まだ歌ってるんだ」
「うん。ショーコリもなくね」
「それでさ、これは飛鳥にも言ったことなんだけどさ」改まったように、紘一が恵里の正面を向く。
「ちゃんと―」
「ちゃんとまだ合唱好きでしょ?」紘一の言葉を遮っていつの間にか飛鳥が、紘一の背中から顔を出していた。
「ちゃんと、歌いたいって思ってるでしょ?みんなと、それから自分のこともしっかり信じて、歌いたい。楽しく歌いたい。そうでしょ?」飛鳥は朗らかな顔をしている。全てを許してくれるような、包容力のある笑顔。零れ落ちそうなほど大きな、茶色がかった瞳が見つめてくる。
そうだ。私は、歌いたい。みんなと一緒に。皆を信じるように、自分自身を信じてあげること。なんで忘れていたのだろう。確かに、あの時、飛鳥と二人で泣き笑いながら、手を取って誓いあった。そうだった。一緒に歌おうね、って誓ったんだった。
「あたしも最近まですっかりそのこと忘れてた。市民文化ホールでステージでることだけしか考えてなかった。全国行くことしか考えてなかった」
飛鳥の声が優しく響く。アルト。力強い、女声の持つ無駄な緊迫感や薄さを打ち消す安心感のある声。全てを優しく受け止めてくれる、聖母のような。涙が頬を伝うのが分かった。飛鳥の腕が自分を抱きしめてくれているのを感じた。
「なんか、毎日思い詰めたように見えたからって笠田が悩んでたよ。アイツ、たぶんサワさんのこと好きだぜ」友人の秘密をあっさりばらし、しまったというような顔をしながら。
「ちょっと、嬉しいかも」恵里は涙を拭きとりながらはにかんだ。
三人、それで笑ってしまった。
なんて安っぽいドラマみたいな青春だろう。紘一はそう思った。だが、それ以上に、これでいいんだ、という確信があった。俺たちは誰かに敷かれたレールを歩きながらも、色んな景色を見てやるんだ。自分たちの意思で進んでいくんだ。自分たちだけの思い出をつくるんだ。いつか離れ離れになったときに、笑えるような。田舎の学校の、未来や行く末がある程度、運命的にと言ってしまってもいいくらい決まっているような自分たちの、これはせめてもの反抗だ。」
(十七)
体育祭当日。時折曇り空が顔をのぞかせながらも、気温は高く蒸し暑かった。
そしてその蒸し暑さをみんなが皆抱えたまま、一日は終わってしまった。
結果は、青団が総合優勝。優勝旗とトロフィーを加山くんが泣きながら掲げていた。そして驚いたことに、応援優勝は白団が取った。地味で圧倒的不利の白団。だが大方の予想を裏切って青団に僅差で勝ったのだった。これには、運動場全体が湧いた。小山くんは、隣の加山くんに泣きじゃくりながら抱擁さえしていた。
本当はみんな、楽しかったのだ。大人たちに色んな種目を制限されて、放置といってもいいくらい相手にされていなくても。到底盛り上がるはずでもなかった、そういったマイナスの雰囲気を打ち消したかった。みんな楽しみたかったのだ。
片付けも終了間際、恵里が労いにきた。
「おめでとう」
「ありがとう」
「昨日、昼休みにそっちの団長さんがなんか話にうちのクラス来てたけどそういうことだったんだね」
「そう。やっぱり、タカユキも団長になった責任感じてたわけよ。こんなんでいいのかって。んで、あたしが許可を出した。体育祭も全力でやるって」
「なるほどね。それで応援優勝はすごいよ」
「まあねー。でもタカユキ、声潰してた。あとでころす。泣いて謝ってきたけど許さん」そう言いながら、飛鳥は清々しそうな顔をしていた。
「明日だね」少しの沈黙の後、恵里は呟いた。
「うん」
「私たち、飛鳥のクラスに負けないから」
「分かってる。それとこれとは別。今、ウチのクラス絶好調なんだから」
パイプ椅子を両手に持ちながら、二人して笑った。アルトとソプラノ。相性のいい二つの声が運動場にこだまするようだった。
その日の帰り、飛鳥は恵里と紘一と三人で帰った。自転車通学の飛鳥と紘一と違い、恵里は徒歩だ。川のこちら側、公園の近くに住んでいるからだ。
夕焼けが執念深く、飛鳥たちの腕を焼いた。生まれて間もない日焼けはひりひりと痛んだ。帰ったらすぐに冷やしてケアしなければならないだろう。
「お前なー、ほどほどにしてやれよな」紘一がほどほどにしてあげろ、というのはタカユキのことだ。片手に優勝旗を持ち、泣き腫らした顔で飛鳥のところへ謝りにいったが、飛鳥は無視した。しゃがれた声を鳴らしながら土下座をするタカユキはなかなかに滑稽で哀れだった。そのあと男子みんなで慰めた。
「少しは反省したでしょ。大事な日の前日に喉枯らすなんて」
「だいぶ反省してたって。土下座までしてたし」
「知ってる。だから敢えての無視。おかげで目立ったでしょ。ああいう全力バカの存在のおかげでみんな纏まるのよ。大丈夫。あとで電話する」
「趣味わるいぜ、性格わるい」
「知ってるー」飛鳥は軽く受け流した。
体育祭前日金曜日の昼休み、全力でやりたいと提案したのは他でもない飛鳥だった。ただし、喉は絶対に枯らさないこと。そのために腹式呼吸で喉を枯らさないように大声を出すコツをみんなに教えて回った。白団団長殿は高まったテンションを抑えきれないのか、1組の方へ駆け出して行っていた。
喉を枯らしてはいけない、それなのに枯らしてしまった。いくら団長だからってやってしまった。クラスの共通の約束を破ってしまった。とひとり落ち込んでいた。実際には、応援優勝を取ることができての嬉し涙なのか、総合優勝を取れなかった悔し涙なのか、それとも飛鳥に叱られるという罪の意識からの涙なのか。ほんとはクラスの誰もタカユキを責めるような奴はいなかった。それは、飛鳥だって同じだ。だって楽しかったのだ。やり過ごすだけの退屈なものだと思っていた体育祭が楽しかったのだ。そしてそれを盛り上げたのは、他でもないタカユキなのだ。だから飛鳥は、公然と無視をすることで、クラスのみんなが誰も彼を責めていないのを示したのだ。飛鳥は笑いをこらえきれなかった。笑いながら無視していたのだが、泣きじゃくった彼はそれを見れただろうか。自分でも性格悪いと思う。後で電話して、体育祭がどんなに楽しかったかを話し、それから枯れた喉の治し方をしっかり教えるつもりだ。
「でもさ、学校も頭悪いよね」恵里は二人に同意を求める。
「体育祭の次の日に合唱祭とはね。せめて逆にしろっての」
「たしかに」
「ねぇ、私実は決めたことがあるんだ」恵里は、秘密をうちあけるように小声になった。
「志望校、変える。O高行く。あんまり理数科目できないし。ホントは言語科目しっかり極めたい。お母さんとお父さんには今日話す」
「え」
飛鳥の自転車だけが取り残される形になる。恵里と紘一はいきなり視界の端から消えた飛鳥を探した。
「じゃあ、高校行っても、恵里と歌えるんだ!」そう言うと飛鳥の顔は明るくなる。大きなパーツが輪郭の外側へ飛んで行ってしまいそうだ。
「篠田、お前、学園行くんじゃなかったの?」
「辞めたの。今、改めてはっきり辞めた。元々、迷ってはいたし。マナ先輩と同じ大学行きたいし。そのためにはたぶん学園の偏差値じゃダメ」
「合唱は?お前、合唱で全国行くんじゃなかったのかよ」
「もちろん、全国は目指すわよ。O高の合唱部で全国目指す。でも好きな人といたいじゃない、ね」と飛鳥は、自転車を進めて二人に追いつき、恵里に笑顔を向けた。
「学生生活がどう快適にいきそうかどうかで判断する。ほんの少しの反抗、か」
今度は紘一が一人取り残される形になったまま、二人は先を楽しそうに笑いながら進んでいく。なんだか、形容しがたい、まだ形を取り切れていない感情が紘一を揺さぶった。
「あー、そうだ、コーイチぃ」と、飛鳥が振り向いた。
「あたしのこと、ちゃんと名前で呼びなよ。なんかヨソヨソしい」夕陽が彼女の顔を赤く照らす。太陽が眩しいのか、すぐに恵里の方を見て、来る未来の高校生活について話し出す。
今、逆光で良かったぜ。やれやれと紘一は思った。
(十八)
合唱祭は午後からはじまる。学年ごとにくじ引きで決められた順番で歌う。1年生、2年生が終わってそれから3年生。恵里たち1組は三番目。飛鳥たち2組は四番目、すなわち大トリ。体育館にはすでに保護者や地域住民が敷き詰められたパイプ椅子に座っている。
昼休み、最後の確認として通しリハーサルを行う。昨日、別れ際、飛鳥はもっとサプライズも用意していると言っていた。もっと、という表現は言い過ぎだと森田くんは諫めていた。たいしたことはない、ただ今までのクラス合唱じゃあんまり無かったようなことだと言っていた。なんだろう。
ともかく、まずは自分たちの演奏だ。この半年間取り組んできたこと、それがたった数分の内に昇華されてしまう。ステージの上で観客を眺めることのできるのは数分間。落ち着いた気持ちで、余裕がもしもあったなら、観客一人ひとりの生の瞬間的な反応を見ることが出来るかもしれない。たぶん緊張しているうちに終わってしまうだろうけど。これまでもそうだった。
プログラム、十一番、三年1組。指揮、笠田修一、伴奏、高山美穂。混声四部合唱「信じる」、谷川俊太郎作詞、松下耕作曲。と放送部員がアナウンスする。1組は壇上に上がり、列を整える。笠田くんが手を挙げる。みんな指揮者の方を向く。そして美しいピアノの旋律が始まった。
今までで一番よく歌えた、と恵里は自信を持っていえる。わたしは、信じる。わたしを信じる。瑞々しく純粋で清らかなメッセージを声に乗せることができた、と思う。
何より、飛鳥が笑っているのが視界の隅に見えた。つられて口角ももっと上がった。これだ。この感覚。楽しい。
大トリということもあってか、全校が注目していた。プログラムが読み上げられる中、ぞろぞろと壇上の2組の皆が昇って行った。だが、どうしたことだろう、指揮者の為に設けられた指揮台には飛鳥の姿はなかった。彼女はいったいどこに行ってしまったというのだろう。観客も、不在の指揮台に読み上げられた生徒の姿がないことに少なからず動揺が走っていた。
すると、列の真ん中から手が上がった。陣形は彼女を半円上に取り囲むように形を変えた。篠田飛鳥は列の中にいた。彼女は、歌いながら指揮をするつもりなのだ。絶好調だ、と自慢気に評価したクラスの中で。これは別に規則違反というわけでもない。指揮台に指揮者はいなければならない、という規則は確かにない。それに、アンサンブルのコンクールではよくあることだ。だが列の構成上、端にいる者は指揮が見えにくい。四十人近くの列とあってはなおさらだ。指揮のテンポに遅れることなく、ついていかなくてはならない。特に声の性質上どうしても遅れ気味に聞こえてしまうバスパートならばなおのことである。その重要なポジションを担うのは誰なのかと、その方向をみて、恵里はやっぱりと思うのだった。ひときわ背が高く、襟足を伸ばした森田紘一が端っこで彼らの指揮者を見ていた。
指揮者の手がカウントを取り始め、声が響き渡った。
ついに自由は彼らのものだ。体育館に音が響き渡るのがわかった。やわらかいベールのようなものが、観客全体を包み込むのが見えたと言ってしまっていい。指揮を振りながら、みんなが自分を見つめているのを感じ取りながら、飛鳥は心地よい気持ちだった。自分がカモメとなって、大海原を飛んでいる感覚を覚える。もう対岸で成り行きを眺め、上手く行かない状況にやきもきするバードウォッチャーではない。自分自身がカモメなのだ。自由なカモメ。青春を大海原の向こうへ迎えにいくカモメ。そして、自分は一匹の小さいだけの存在じゃない。タカユキも住野も、サトシも風香や香織、ミサみんないる。もちろんコーイチだって。視界の端では、恵里が涙で目を腫らしながら、笑っているのが見える。きっとまたいつか、一緒に歌える。嬉しい。楽しい。大好きなんだ、やっぱり! これだ。この感覚。なんて楽しいのだろう!なんて幸せなんだろう!ついに自由は、私たちのものとなったんだ。
あっという間だ。幸せな時間はあっという間だ。だけどその感覚は、依然としてふわふわと空間を漂っている。そして割れんばかりの拍手。
まったく、飛鳥にはまいっちゃうな。と、思った。
結果発表の折、校長が壇上に登る。今年は例年になく素晴らしい出来だった、とかなんとか総評をいくらかした後で、クラスの名前の書かれた紙を広げる。紘一は、飛鳥の隣に移動しようと思ったがやめた。恵里と二人、隣同士両手を合わせて、さっきからお願いしますと何度も呟いている。どっちが取ってもおかしくない。
どこが取ってもおかしくないです。それくらい僅差でした。校長が焦らす。
「20××年度、最優秀賞は――」
その結果に、二人の肩が飛び跳ねるのを、紘一ははっきりと捉えた。
【完】
信じるかもめ。 尾田わらば @waraba_poplar
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