第二部
(七)
金曜日の放課後。1組の連中がぞろぞろと2組の教室に入ってきた。帰りのホームルームの時間を使って机を中央に詰めて移動したので1組は教室後ろ側。2組は黒板側で彼らを迎える形になった。体格のいい男子がわざわざオルガンを移動させる。待ち構えた2組は既に勝った気でおり、漫然とした態度だ。他人事のように紘一は思った。
「今日は、皆さん忙しいのにわざわざ合同練習に応じてくれてありがとう」サワさんはいつだって丁寧だ。
「それじゃ、さっそくですが1組の演奏を聞いてください。信じる、です」と挨拶を済ませるとトコトコとソプラノパートの巣に戻っていった。笠田が指揮棒を手に持ち、目の前の自分のクラス、それから伴奏者に目を向ける。それから指揮棒を振り始めた。印象的なサビ、とでもいうべきフレーズがイントロで弾かれる。美しい旋律だった。そして歌声が響き始めた。最初は恐る恐る、といった雰囲気で。しかし、フレーズを追うごとに芯の力強さが増していった。それは曲調が変わると激情へと変わっていくようであった。かと思えば次の瞬間には繊細なパートの掛け合いが繰り広げられた。
ここまで素人目に、谷川俊太郎の詩を上手く表現できていると、紘一は感じた。男声に粗削りな野武士のような声が時々聞こえたような気はしたが。そのまま最後のテーマへと表情豊かにこの合唱曲は歌われた。
笠田が指揮を降ろすと、こちら側を向き、笑顔で一礼をした。
「どうですか。篠田サン」笠田は笑顔のまま飛鳥に意見を求めた。
教壇の傍の椅子に座っていた飛鳥はすっくと立ちあがり、一つ咳払いをした。今日の飛鳥は、前髪を上げ、オデコ全開である。狭いオデコの生え際の産毛が彼女の幼さを際立たせた。
「演奏ありがとうございました。谷川先生の詩を上手く表現しようとしていることが伝わる演奏でした。地雷を―の歌詞の部分とか特に。」
言い方に少し角が立つような気がしないでもないが、意外にも彼女の口から賛辞のような意見が聞こえたので1組も2組の皆もそれぞれ面食らったような顔をしていた。中には露骨に顔をにやけさせる者もいた。だがしかし、その後に続いた言葉に、皆絶句した。
「でも、全体として、特に男声はやっぱり粗くて音が統一されていないと思います。ソプラノも息もれが随所に見られて、上ずって聞こえます。震えて聞こえます。その辺りかな」と、飛鳥はソプラノの後ろの3列目辺りを指さした。その列にはサワさんも含まれていた。サワさんの表情に緊張が見られる。唇を噛んでいる。紘一は彼女が泣きだしてしまうのではないのかと思った。しかし、彼女は泣かなかった。彼女は強い人なのだ、紘一はそう感想を持った。依然として飛鳥は長々と相手の悪かった点を述べている。小節番号を指示し、時にクレッシェンドだのなんだの音楽記号を使って指導をした。具体的な歌い方まで提案していた。
「―というわけで、残り1週間頑張ってください」
そう、なにか重いものでも置くかのような口調で一息に言ってしまうと、彼女はくるりこちらを向いた。そして笑顔を向けた。次は私たちの番ね、目にモノをみせてやりましょう。彼女の大きな瞳はそう言っていた。
最初の音を取り、指揮棒を飛鳥があげる。その棒の先に皆の視線が集まる。一瞬の緊張の後、指揮棒は拍を取り始める。と同時に「自由は彼らのものとなる」。四十人弱の歌声が響き始める。パートの統一されたハーモニーが幾層にも重なって、形を成していき重みと広がりを与える。重層的なハーモニーの中にメロディラインが浮かび上がり、情景を浮かび上がらせる。鴎が自由に海空を謳歌する姿。飛鳥にとっては、それはトンビの姿で川面を飛ぶ。ヒューロロロと鳴く、鋭い爪を持った猛禽類。
ふいに事件は起きた。テナーのハイトーン、よりによって一番目立つところで調子っぱずれな声が聞こえた。ヒューロロロ。飛鳥の中のイメージするトンビが墜落していく。その音の出どころを追するまでもない。犯人は分かっている。でも、あいつのせいで音楽を止めるわけにはいかない。今、このクラスの合唱を引っ張っているのは自分なのだ。焦りつつも懸命に棒を振った。それでも次から次にボロボロと、風に当たった砂の城が崩落していくように、音楽は崩れていくようだった。最後のソプラノも決まらない。決めるべき最後の和音さえ決まらなかった。トンビは墜落し、砂の城は崩壊した。
飛鳥の大きな目の中に明らかな落胆が浮かんだ。そして誰とも目を合わせないまま、1組の方を向き一礼した。
沢口恵里が後攻相手に対するアドバイスを告げている間、飛鳥はどうやら一言も聞いていないようだった。窓の方向、テニスコートのある方角に目を向けている。
それでも「指揮者がクラス合唱の皆を信じ切れていない」というアドバイスにはピクリとその丸い耳を反応させていた。
正直に言って、場の空気は最悪だった。村井も高木も職員会議だとかで、今日の合同練習にはいない。どうせいたところであまり役に立つ存在でもないけれど。それでも、今はこの場にいて、1組を教室に帰らせ、2組に中央に防壁のように並べられた机を戻すように指示を出してほしかった。
「じゃ、じゃあ今日はありがとうございました。合唱祭、その楽しみましょう」まだ表情の硬いサワさんが意を決したように指示を出した。勇気ある人だな、とこんな時でも紘一は他人を評した。
「なにあれ。どういうこと?」
多くの生徒がそろそろと帰宅の準備をしている中、突然飛鳥がぼやいた。紘一は最初、自分が話しかけられている自覚がなかった。赤く腫れた大きな目が上目遣いに自分を睨んでいることに気づいて初めて、自覚した。
「なにって」
「とぼけないでよ。スミノ。なんでアイツあんな大事なとこであんな音出してんのよ。」紘一は飛鳥がもう少しでヒステリーでも起こしてしまうのかと思った。それくらい、彼女の普段は快活でコロコロと甘ったるいはずの声は、わなわな震えて低く、暗かった。
「そんな、また修正していけばいいじゃないかよ。こんなことでいちいち怒るなよ。住野の音は前からだったじゃないか」
「こんなことじゃないでしょ!」飛鳥は激昂した。どうやら紘一は地雷を踏んでしまったらしい。こらえきることが出来なかった涙が、大きな瞳に滲む。
「こんなことじゃない。今日の合同練習は絶対に勝てた。昨日の練習から見ても確実とは言えないにしても、手ごたえは感じてた。なのに、なによ。前以下の出来じゃん!」そういうと前髪を止めていたヘアピンを外し、ヘアゴムをほどき、前髪を降ろした。
「大体、コーイチがテキトーなんだよ。たかが合唱祭だとか、こんなことくらい、だとか。ふっざけんな」吐き捨てるようにして飛鳥は教室を出て行った。
その一連の、怒涛の嵐のような一瞬の連続に紘一は何も反応をすることが出来なかった。飛鳥は執念と言っていいほど合唱祭のことばかりだし、それにかける気持ちも知っている。それでいて、自分がテキトーだということも。それでいて明確な答えも見出せないまま、漠然とした答えを訴えることもできぬまま、彼女は帰ってしまった。
前に感じた嫌な予感は、本当はこの状況のことだったか。
嫌な予感とは好むと好まざるとにかかわらず的中する。誰かが言っていたような気がした。けれど、それは、その嫌な予感とは、本当なら感じた瞬間に対策を打てたはずのものなのだ。そうも誰かが言っていたような気がした。
まだ間に合うだろうか。家に帰ったら直ぐに電話をかけることを紘一は決めた。
(八)
沢口恵里は、今複雑な心境だ。英語の課題に取り組みながらその実、数時間前の出来事を思い返していた。飛鳥の指摘した箇所は自分でも確かにまだまだ練習が足りないと感じてはいたものの、どう練習をし直せばいいのか具体的な対策を考えられていないでいたのだ。それを飛鳥は逐一分かりやすく教えてくれた。真奈美さんのように穏やかな口調ではなく、敵意をむき出しにしたような言い方だったが彼女らしいと言えば彼女らしい。
「クラスの皆を信じ切れていない」
そう自分は言った。テナーのあの人が声を出した時に、戸惑いの顔が2組全体に蔓延していったのが目に見えるようだった。不安と緊張を呼び、無秩序が生まれ混沌と困惑の内に演奏は終わった。
それでも、やはり彼女は流石であるというのが恵里の本音だった。演奏が崩れていくまでの前半。はっきり言って負けたと思った。魅入られてしまった。自由の象徴、若く凛々しい青春の権化。聞いているうちに自分が白いカモメになって海原を往くのをまざまざと感じるようだった。ただのクラス合唱をあのレベルまで持っていく飛鳥の手腕は、やはり、すごい。
致命的なのはやはり、あの人、といったところだろうか。住野彰浩。メガネで短髪。テナーパート。2組の問題児。彼が文字通り鳴りを潜めていた前半。その猛禽のごとき爪を剥きだした後半。後半2組のクラスに蔓延した困惑はきっと、「住野はクラスの調和のために声を出さない、出してはいけない」という暗黙の共通認識のようなものを打ち破られた結果なんだろう、と恵里は推測した。
果たして、それを調和と呼べるのであろうか。恵里には甚だ疑問であった。部活動ではなく、クラス合唱ならば尚更である。
ひとまず、今日の勝負は1組の勝ち、と言えるのだろうか。いや、そもそも勝ち負けなんて。どうだって、いい?
恵里は、分からなくなった。ペンを回し、メガネを上げ、長文読解問題に取り組むことにした。合唱祭が終われば本格的に受験まっしぐらだ。自分の試験は近い。
布団に入り、目を閉じるまで、恵里は今日のことを振り返っていた。飛鳥の指摘は完ぺきだった。改善のアドバイスも確実なはずで、自分はしっかりそれをメモしている。大丈夫だ。問題は自分にある。あそこで声が引っくり返ったりしなければ。
ぶつぶつ口に出しながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
(九)
休日は、教室が閉まっていて使えない。したがって、合唱練習は行われることはない。まして受験生である。1、2年生の時分ならば先生に許可を貰って練習することもあっただろうが(実際した覚えもある)、多くが他の部活動真っ盛りである。全員集まっての練習など厳しいにもほどがあった。
昨日、紘一から電話があった。謝罪の電話だった。飛鳥の気持ちも夢も考えずにテキトーに発言してしまって申し訳ない、との電話だった。自分も演奏がうまくいかなかったパニックで、半ば八つ当たりしてしまった。こちらこそごめんなさい、と謝った。
実際のところ、このところ合唱祭のことばかり、張り詰めて考えていてしまって自分としたことがいっぱいいっぱいだった気がして反省した。それに元々土日は母親との約束で合唱に関することにはノータッチでいるつもりだった。土壇場で進路変更して、喧嘩したのち、決して破ることのできない事項である。
「土日は勉強に全力集中すること」
飛鳥の当初の志望校よりも2ランク、あるいは3ランクも上の高校を受ける。いくら普段から自分が成績優秀だとは言っても確実に合格するためには、油断は禁物だ。
だから、あの事件の後に休日を挟めることは、丁度いい箸休めと言いきかせた。あの事件のあの気分のまま、その後の放課後の練習に取り組んでいたら、それこそ取り返しのつかないレベルまで崩落してしまいそうで怖かった。
でも。だけど、と飛鳥は思った。恵里に昨日「クラスの皆を信じ切れていない」と指摘された。その他の指摘は自分でも重々承知の自明の理だったので聞き流したが。あたしはクラスの皆を信じることが出来ていなかったのか。それが指揮に表れ、皆に不安をもたらしたのか。
あたしが、皆を信じ切れていない。
口に出してみても、部屋にこだますることなく、ポツンと目の前に広げたノートに吸い込まれていった。
あたしは、皆を信じ切れていない。
ノートにも濃く書いてみた。が、それでもあまり真意をとらえきることが出来なかった。ふいに母親との約束を思い出して、それを消しゴムで消した。少し書き跡が残った。
昨日、コーイチは「大丈夫だ」と電話で言った。「なんとかする」とも言っていた。何を企んでいるのかわからないけれど、とりあえずコーイチのことを、飛鳥は信じてみることにした。
その日は、そのまま一日勉強をして過ごした。
次の日の日曜日も少し昼寝こそすれ、だいたいを勉強をして過ごした。
(十)
月曜日。秋も深まり、枯れ葉が公園の道を埋めていた。公園管理人のおじさん方が十メートルおきぐらいで枯れ葉を掃いていた。ベンチのわきに枯れ葉がパンパンに詰まったゴミ袋が幾つか放置されている。
すっかり、と言ってしまっていいだろうか。ほとんどの木々たちはその裸体をさらしていた。つい最近まで蒸し暑い夏だったような気がするのに、瞬きをしている間に木々は色づき、そのほとんどが葉を落とした。そうして、もう瞬きもするかしないかの間に冬へと移ろいで行くのだろう。紘一は肌でそれを感じ取った。冬の予感はきっと、合唱祭が終わればさらにまざまざと感じられることになるだろう。そして、クラスには今まで以上にピリピリとした緊張が漂うことになるだろう。
今日の放課後は、合唱練習はお休みである。曲がりなりにも体育祭も控えているわけで、3年生クラス対抗リレーと創作ダンス、それから暇な1、2年を含めた団全体の応援の練習をしなければならない日であった。ウチのクラスは白団。パッと映えもしない色。地味。目立たないから応援点も取りにくい。それに、ウチは合唱祭一筋だ。大きな声は出してはいけないという不文律がある。ウチの団長さんも大変だな、と紘一は同情した。こんな厄介な仕事をこんな受験期に半ば押し付けられる形で、タカユキは引き受けさせられた。(本人は、内申点に都合良いと言っていた)
放課後の練習とは別に今日は体育の授業もある。体育祭と関係ない持久走をさせられた後の汗をかいた体操服にもう一度袖を通して、放課後自主練習、というわけだ。非効率すぎるカリキュラムだ、というのが紘一の正直な感想であった。
放課後、運動場には紘一の姿はなかった。どうやら何か用事がある、とのことで帰宅したらしい。それでもクラスの皆は誰も文句ひとつ言わず運動場に集まった。飛鳥は不思議に思った。帰宅部である紘一にとって、体育や放課後の自主練習は唯一身体を動かせる時間なのだ、と今まで積極的に参加するイベントで、休んだことなど今まで一度もなかった。ウチの団長、小山孝之も気を咎めている様子がない。そもそもクラス全体としていない紘一を訝しむ空気が感じられない。これは一体どうしたことだろう。いくら体育祭にやる気のないクラスだからと言って、日々合唱練習で口うるさく指導している立場の人間が、クラスメイト共同の義務ともいうべき体育祭練習に顔を出さない者に対して不平不満がないとはこれいかに。
クラス対抗リレーの練習をするにあたって、もう一人欠番メンバーがいることが判明した。住野彰浩だ。我がクラスの問題児。正確には合唱祭における、クラス合唱の問題児。飛鳥はやはりアイツの無断欠席がクラスの調和を乱し、めぐりめぐって合唱にも影響を及ぼすのではないのだろうか、と危惧した。
だが、それは杞憂に終わりそうだった。だって誰一人として住野の不在を咎めるものはいなかったからだ。仕方ないわな、と呟くものさえいた。何が一体仕方ないのだろう。
飛鳥は不思議でたまらなかった。
飛鳥はわけもわからないままに、体育祭練習に身を興じた。心なしか、応援練習では声を張ってしまった気がする。周りも張っていた気がした。ユミもカナエも。でも、空気が、というのだろうか、彼女らを注意させるような気持ちにさせなかった。それどころか、なんというか浮いた気持ちのまま、ふわふわ感情が行き場を失っている気がした。楽しい、けれど、なんか不安。なにが起こっているのだろうか、という不安。何かが知らないところで変わっていくような焦り。
(十一)
放課後の練習。恵里のクラスでは、恵里のメモを元に細やかな練習が執り行われていた。外では体育祭の練習の声がする。あれは何団の声だろうか。張っている気がする。赤団かな。あの団は毎年応援賞を勝ち取っている。で、今年はそれは4組。
「すごい、わかりやすかったよ、サワちゃん」ノリちゃんが話しかけてきた。
「は?」
「だーかーらー、サワちゃんの指示。プリント。すとんと胸に落ち着くようでわかりやすいご指導でございました」と、犬をあやすかのような口調で恵里を褒めた。
「いや、それはあす…、篠田さんの指示をメモしたのを私なりに考えて、皆に渡しただけで。だから、その指示はいわば篠田さんの指示」
「ううん」ノリちゃんは首を振った。
「確かにそうかもしれないけどサ、サワちゃん自分でも色々うちらの演奏に関して思うことあったでしょ?どこがどうダメだ、とかホントはもっとこうした方がいい、とか。その証拠にちゃんと自分の言葉で伝えてるじゃん。ウチらのクラスのことを思って、ウチらがやりやすいように解釈してサ。ね?
サワちゃんがうちらのこと信じてくれてる証拠だよ。篠田さん全ての功績じゃあない」
ノリちゃんは穏やかな口調で、まるで恵里を諭すように言った。素直に自分を信じなさいナ。
「ありがとう」
恵里には、ぎこちない笑みを浮かべ、その顔を見られないように手元の楽譜に目を背けた。様々ないボールペンを使って、楽譜に書き込みをしている。遠目から見るとなにか、異次元めいた魔術書でも除いているかのようだ。
そうして、やっぱり飛鳥には叶わないのだと思ってしまう。彼女は恵里の生真面目さを理解している。それでいて、不器用であるということも理解している。今いち自分自身を表現しきれないところ、自分の意見を述べることができないでいること、何か殻のような、あるいは鳥かごの
ようなそういうイメージの中に自分自身を閉じ込めていること。
本当は、恵里自身でもそれを分かっている。きっと、痛いほどわかっている。痛覚がまだ脳に届いていないだけ。
恵里はかぶりを振って、イメージを押しのけた。自分がしっかりしていれば、このクラスはどこにも負けない。合唱祭で全校一位を取れる。
(十二)
サワさんが合唱部を辞めた、と聞いたのは確か今年のゴールデンウィークの前後だったろうか。その日は合唱部の練習は休みで、飛鳥といつものように自転車を押して帰っていた。飛鳥が校門を出たっきり、なにか思いつめたように、顔をこわばらしていた。いつもの快活で人の憂いを先に吹き飛ばしてしまうようなお節介な明るさが萎んでいた。そこだけがいつもと違った。紘一はあの日の夕暮れを思い出していた。
「エリが、辞めたって」
「エリ…、サワさん?なんでまた」
飛鳥は首を振った、分からない。新しい一年生も入ってきてどうにか板がついてきたし、それにもうすぐ県大会も始まるというのに―どうして。
「サワさんって、志望校どこだっけ。N高かな?」紘一はそうやって、無理やり本筋から離すことにした。
「そう、だと思う。その理数科」
「あ~、県トップね」
「いくら国立大学附属中の生徒だからって、簡単に行けるようなところじゃない。この学校の教師陣の無能さは、オリオンが示してるし」
確かに、中学の教師にはろくに授業を教えることのできないやつばかりだ、というのには納得だった。ほとんどが世間知らずで、宿題を出せば勝手に生徒が合格していくと考えているような素人教師ばっかりだ。国の指定要綱をなぞるだけなぞった退屈な授業。最前列で寝る生徒。授業もまともに受けることのできないようなガキでも入学できるようなガバガバな入学システム。吠える教師。最後列でペチャクチャ。受験期に差し掛かって、ぞろぞろと受験塾オリオンへの入塾性が増加するのも当たり前だ。癒着すらそこにあるのではないのか、と紘一は疑っていたくらいである。
「あれでしょ。きっと。サワさんとこの親も医学部か公務員就職希望でしょ」
「そうなの、なんで分かるの?」
「うちもそうだから」紘一は吐き捨てるように言った。
「おばさん、そんなこと言ってるの?」そう聞きながらも、飛鳥は妙に納得だった。田舎の中流階級家庭の一般的な願い。安定した職業、出来れば大義に溢れた職業。「公務員」「医者」。
幼稚園や小学校低学年の頃に書いたなりたい職業、「アイドル歌手」「宇宙飛行士」「プロ野球選手」「映画監督」、エトセトラ。そういったほんの一握りの選ばれし者のみがなれるような職業、そういった不安定な夢は先回りして寸断させられる。子供の教育にお金をなるべくかけて推進校へ入学させ、そしていい国立大学へのレールを子供の足元にそれとなく敷く。
「じゃあ、コーイチもN高行くんだ」
「いまのところ、そうなる。夏になったらオーキャンだわさ」そういってしまうと乾いた笑いをした。なにか諦めたような。
「篠田は、学園だっけ?頑張れよー」
「う、うん」
飛鳥は、合唱が好き。一番が好き。それならば、と母親は学園をしきりに薦めてきた。もう、あんまり彼女に辛い思いはさせたくないし、彼女の輝ける道でしたいことをさせてやりたい。世の中には、こういう親もまた存在するのだった。
確かに、合唱が好き。でも、一番どうにもうまくいかない。なんでも好き放題やって認められてきた自分が、一番どうしようもすることのできないでいるもの。合唱。
どうしてだろう。現に、恵里は合唱部を辞めた。一緒に全国に行こうと約束していたのに。ばか。
あの子、合唱部を辞めるくせにクラス合唱委員はそのまま続けるのだろうか。ムカつく。
それから、二人は廊下ですれ違っても挨拶すらしなくなった。
紘一は、街のカラオケへと向かっている。大通のデパート、その中のスターバックスの前に集合。校則で制服でカラオケに入っちゃいけないことになっている。援助交際だとか、ドラッグ売買だとかの取引の温床になりかねないし、親の目が行き届かないところでは子どもを守ることができない。同じ理由で、ゲームセンターもライブハウスもダメ。立志式を終えたとは言っても、大人でもない。そして子供でもない。絵にかいたような中途半端。だから中学生。バカバカしい。
そんな中で紘一は奴と待ち合わせしている。、その二人は校則を破ろうとしている。それも三日連続、すなわち三回目の校則破り。
今頃、運動場でリレーの練習でもやっているのだろう。紘一は鼻に当たる秋のそよ風を感じていた。
(十三)
火曜日の放課後練習。2組の合唱はまずまずといった形だった。だが、なにかやはり決定打にかける。テンポもハーモニーも良くなってきている。音程が悪いのでもない。相変わらず、テナーの声量の小ささがきになるものの。全体としてのピッチは明るく、温かい気持ちにもさせてくれる。だが、心の奥に、何か金属のように固い、しこりのようなものがあって、それを融解させるほどまでには、芯には迫ってこない演奏だった。
その日の反省会をため息をつきながら帰り支度をした。そして、いつの間にか紘一が帰ってしまっていることに気づいた。思えば、先週の電話からずっと話していない気がする。
水曜日の放課後は体育祭の練習の番だ。しかして、またも驚くべきことに紘一と住野の姿が見当たらない。さすがに何か怪しい気がする。体育祭はもう土曜日に迫っている。創作ダンスを踊れないのは、いくら体育祭に力を入れていない学校だからと言って、恥ずかしい失態だ。住野は、そして紘一は大丈夫なのだろうか。
恵里のクラスではその頃、合唱の練習真っ最中だった。問題があった。伴奏のミホが風邪を引いて、寝込んでしまったのだ。アカペラでするわけにもいかず、まして音楽の先生に弾いてもらうわけにもいかない。恵里は既にズルをしている。また罪を犯して、クラスの皆を巻き込むわけにはいかなかった。だからユーチューブで伴奏音源を違法にダウンロードして、それに合唱を合わせることにした。あんまり上手いとは言えなかったし、伴奏者が変わることで合唱の雰囲気が変わってしまうこともホントは避けたかった。
自分がピアノを弾けたら。弾くことが出来たなら、最初からミホに無理をしてもらう必要もなかった。恵里は自分の不甲斐なさを悔いた。またしても、悔いた。
飛鳥に、合唱部を辞めると告げた時、たくさんたくさん問い質された。どうして?なんで?県大会もうすぐなんだよ?
終いには、何も考えられなくなったのか目を赤く腫らして去って行ってしまった。
自分は、あの時何も理由を告げることが出来なかった。恵里は自分に自信を持つことが出来なかった。飛鳥のように何でもできるわけじゃない。合唱部を辞めた理由は、自分の不甲斐なさからくるものだった。
歌えなくなった。普段のように親や友達と話すときなら、声は出る。だが、いざ歌う、となると何かが喉に詰まったようになる。原因は朝練、昼練、放課後練と毎日、県大会ひいては全国大会へ向けて練習を焦った結果によるプレッシャーのせいだろうか。それとも、受験期に差し掛かったことによる心的ストレスだろうか。恵里は理科と数学が苦手だ。なのに、親は理数科へ行けという。医者になってほしいからだと。元々、部活動をさせることへも理解を得るのに時間を要した親だ。必ず全国大会へ行く。そうすれば内申点にもいい影響が出るだろうし。そう言った。
だけど、一年の時も、二年になったときも全国には行けなかった。毎年九州大会ダメ金止まり。熊本とか長崎の学校が全国へ行った。金賞を取ったのに、全国へいけない。それは恵里をひどく焦らせた。
3年生の先輩が引退して、自分がソプラノのパートリーダーを引き継いだ。先輩からの受け売りのようなことを後輩たちへ教えた。自分じゃ全然できていないのに。嘘つき。
全体で合わせる通しの練習の時にも、自分はパートの前に立って、歌うふりをしながら後輩の出来不出来を審査していた。卑怯者。
厄介なことに、練習として一人ずつ皆の前で歌うとなったときには、なぜか声は出るのだった。恵里の脳内は正直なところ、しっちゃかめっちゃか。カオスだった。こんなのは自分じゃない、今こんな張り詰めた声を出しているのは自分じゃない。
恵里のその悲痛な思いとは裏腹に、後輩達は尊敬の眼差しで見つめ、こともあろうに飛鳥は、あの何でもできる飛鳥は褒めてくれた。何より一番苦しいことだった。飛鳥を騙しているような気がして耐えられなくなった。
そうして、合唱部を辞めた。
でも、クラス合唱委員は辞めることができなかった。学校では一人一つ、必ず何かの委員をしなければならない。図書委員や保健委員、体育委員。空いている委員はなかったし、変わってもらえる相手もいなかった。それに、合唱部員ならばクラス合唱委員を務めるのは筋が通ったことだったし、その方が効率がよい。そして不運なことに、1組では恵里のほかに合唱部員はいなかった。
最初のうち、恵里は同じように、自分は歌わないで指導だけする立場に居座った。傲慢で自己中だと自分でも感じていた。
だけど、練習を回を重ねていくうちに、その傲慢さに皆が気づいたのか、徐々に雰囲気が悪くなっていくのを感じ取った。
なんかさ、沢口さんだけ歌ってなくね?指導ばっかり。あれで元合唱部なのか。ほんとは歌えないとか?音痴なのバレたくないんじゃ…。うっそー、合唱部なのに?あ、元か。
ある練習の時、ついに泣いてしまった。その涙がひそひそと教室中に蔓延する噂を暗に認める恥ずべき行為だとわかっていながら、泣いてしまった。下を向くと、メガネのレンズに大きな水たまりが出来ているのが見えた。
突然泣き出した一人のクラス委員。動揺するクラスメイト。場を諫める笠田くん。ミホとノリちゃんが駆け寄ってくるのが視界の隅に見えた。
「サワちゃん、気にしないで。そんな泣くことないよ」
「そうよ、エリ。皆ほんとは頼りにしてるんだから。エリのこと。指導分かりやすくて、なんか歌がうまくなった気がするって皆言ってる。大体さ、たかがクラス合唱よ。思い詰めちゃダメ。きっと、これは楽しく歌うための学校が提供するささやかなイベントなんだから、ね?」
「皆で一つ、なにか成し遂げったっていう思い出をつくるためのイベント。エリ、ちゃんと歌好きでしょ?」
スッと、肩の荷が下りたような気持だった。心のわだかまりが消え、雲の隙間から光が差し込んでくるような。これは部活動じゃない。過去の栄光にいつまでもすがって、万年九州大会止まりでヤキモキしている、殺伐とした合唱部じゃない。たしかにそうだ。後輩も飛鳥も頑張っているけれど、本質を失ってしまっている。合唱はそんな苦しいものではないはずだ。
その日から、恵里はまた歌うようになった。
やはり最初のうちは、彼女がちゃんと歌うのかどうかいぶかしむ声も上がったが、ひとたび彼女の歌声を聞けばそれもピタリと止んだ。クラスメイトは掌を返したように、彼女を信じた。彼女の指導に懸命に従った。安易なことかもしれないが、彼女の実力を見れば納得せざるを得なかった。日に日に自分たちの合唱がよくなっているのがわかった。彼女は、退屈なクラスを打破してくれる女神だった。きっと合唱祭で最高の結果をもたらしてくれるに違いない。だから、外部講師を連れてきたときにも、皆一様に興奮するだけで、誰も彼女を咎めなかった。
恵里は、メガネをやめ、コンタクトに変えた。自分を信じてくれる、このクラスのためにも合唱祭では一位を取らなければならない。私が変われば、きっと、もっと良くなる。
音源を一度止め、恵里は目の前のクラスメイトに改善点を話し始めた。
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