信じるかもめ。

尾田わらば

第一部

(一)

合唱祭1週間前となって、隣のクラスの1組が合同練習をしようと持ち掛けてきた。決戦は金曜日。明日の放課後。1組は、禁止されている外部講師を合唱練習に招いたとかで1週間練習禁止のペナルティを課されていた。そのペナルティ明けの今朝、木曜日早々、1組の合唱委員である沢口恵里が2組のドアを派手な音を出して入ってきた。この学校ではなぜだか分からないが違うクラスには入ってはいけないという謎のルールがある。恵里があまりの形相で入ってきたので、村井先生も注意するに注意できないような困った顔をしていた。恵里は教壇の横に立ち、その細くて切れ長の目の視界に篠田飛鳥を捉えた後、教室の後ろでプロレスごっこに興じる男子にまで届くように声を張り上げた。


「突然すみません。放課後。明日金曜日の放課後、ウチと合同練習しませんか?帰りのホームルーム終わり二十分後、16時から。やる場所はどちらでも構いません。ウチでもこっちでもいいです」


よく通るソプラノ声だった。我が2組の生徒たちはしばらく押し黙って教壇の女生徒を、まるで異教徒でも見るかのようにしていた。やがて、ひそひそと話しはじめた。1組って外部講師呼んで練習してたんでしょ?フツーにズルじゃない?そもそも合唱祭に出る資格ハクダツでしょ?あははは、そうやね。ラッキー、敵が減る!でも、まぁアスカが決めてくれるっしょ。

 教室の中は、渋滞した車の排気ガスを連想させるような、嫌な空気が漂っていた。

 恵里は唇を真一文字に結んで回答を我慢強く待った。が、静かに恵里を責め立てるような弾圧に近いようなひそひそ声に耐えかねたのか、飛鳥の方を真っ直ぐ見た。飛鳥はその視線を確認すると、朝の読書の時間からずっと読んでいた山田悠介の本を閉じた。そして短い咳払いをした後で言った。

「別にいいけど。やるならこっちの教室で。それと、合同練習って言ったって、互いの演奏を聴きあって問題点を言い合うだけでしょ?」

「それでいい。先攻はこっちで。そのあとで合唱委員が改善点を指摘し合う」

「オーケー。私たちのクラス、オリオンの生徒多いから、1回ぽっきりの勝負よ。みんな、それでいい?」

飛鳥はクラス中を見渡しながら言う。女生徒は口々に「いいよー」とか「オーケー」とか返答した。

「あんたもそれでいい?」

「いい。ありがとう」

 恵里の顔はもはや俯かれていて、自分の握りこぶしを見ていた。それで、キッと顔を上げたかと思うと「村井先生、すみませんでした。教室入ってしまって」と丁寧に謝り教室を出ていった。

 彼女が出て行ってしまうと、教室は元の空気の流れを取り戻したかのように話声で溢れた。好きなジャニーズについてきゃっきゃ言い合いに興じたり、教室の後ろではタカユキとサトシのプロレスの掛け合いを、その取り巻きがやいのやいの煽ったりしていた。そんな中で、紘一の心中は悪い予感でいっぱいだった。飛鳥の方を見ると、彼女は時折アカリやサトコの正直どうでもいい話に適当に相槌を打ちながら、読書にも集中しようとしていた。器用だな、と紘一は思った。器用、というか、友達の話を適当に聞きながら読書していても許されるような女なのが飛鳥なのだ。クラス合唱の練習の意向だって、彼女の意見が全てだった。それに関しては、他の生徒があまりにも無責任に思えたが。要するに、このクラスの、こと合唱に関しては飛鳥が絶対であり、クラス全体としては現役合唱部員である飛鳥に任せてけば大丈夫、との判断だった。



(二)

 一、二時間目連続の数学の授業を終えて、運動場ではぞろぞろと体育服姿の学生たちが出てきていた。合唱祭が終わった後に予定されている、十一月の持久走に向けてぼちぼち身体づくり、というわけで先生が運動場に着いた学生からグラウンドを走らせている。まだ休み時間だというのに。休ませてやれよ、と紘一はガラスの向こうの光景を眺めていた。


「コーイチ、ねぇ聞いてんの?」

 え、と紘一はふと目の前の飛鳥の方に視線を向けた。隣の席の飛鳥が身体をこっちに向けている。零れ落ちそうなほど大きな目が繊細に顔の上にのっている。少し茶色がかった瞳と、大きな口、丸い耳、肩にかかるかかからないかぐらいの少し茶色がかった髪の毛。この夏休み、連日のようにプールに通い詰めた挙句、色素が落ちてしまった、と彼女はそう紘一に話していた。もちろん、先生達にもそう言い訳しているのだろう、そして何のお咎めもなく許されているはずだ。もしかしたら、むしろ夏のプール教室皆勤賞でも貰ったのかもしれない。幼馴染のひいき目なしに見ても、可愛いと不覚に思ってしまうほど、飛鳥は周りの女子から頭一つとびぬけて可愛かった。

「ごめん、ぼーっとしてて」

「ばか。だから、今日の放課後の練習、アイツなんとかしといてね。いい加減に。それでダメなら明日の勝負で口パクだから」

「そんな殺生な。アイツだってさ、音分からないなりに頑張ってんだよ。最近じゃ、4分の1音ぐらいのズレに留まってきてるって。口パクなんて辛いと思うぜ」

「あんたが音を語るな。どう聞いたって、全然音違うわよ。それにこれは合唱祭で勝つためなんだから。そのためにもまず、明日の1組との勝負にも勝たなきゃならないの。わかってんの?」

 飛鳥は眉毛をハの字にして、わざとらしい困り顔をしてみせた。

「どうしてそんなこだわるんだよ。もう少し気を緩めらんないの?」紘一がそうため息交じりに呟いたあとで、飛鳥は信じらんない!とでも言うような顔を作った。しまった、と思いつつも紘一は続けた。

「たかが合唱祭でしょうが。それも中学最後の。最後なんだからさ、気軽にさ。やろう。アイツも口パクなしで」

そう言ってしまった後で今度こそ本気で紘一は「しまった」と感じ取った。飛鳥の眉間に皺が寄っている。完全にお怒りのご様子だ。紘一は飛鳥を怒らせてしまった。

「ふっざけんな。たかが合唱祭じゃないのよ。これで全校一位になれば市民文化ホールで歌えるのよ!サユリ先輩とかマナ先輩も立ったあのステージに!こんな辺鄙な田舎な県の附属中にとってそれがどれだけメイヨあることだかわかって言ってんの?大体、あんたも案外音テキトーなのよ。フレーズの止め方だって雑。あんたの性格そのもの」

 はっきり言って最後の部分は余計な一言だったが、紘一は反論はしないでおいた。飛鳥は、言ってしまえばこだわりの強くて、負けず嫌いな猫みたいな女だ。こぼれそうな茶色い瞳の丸耳女。今回も、言いたいことだけ言わせてほとぼりが冷めるまで耐え忍ぶしかない。

「とにかく、放課後、アイツに言っといて。後であたしももっかい言っとく」

 それだけ言うと、飛鳥はハンカチを手に取って席を立ち、教室を出て行った。


 この学校では、体育祭と文化祭が連続してある。文化祭といっても、特にクラスの催しがあるわけではなく、全学年のクラス合唱のコンクールがあるというだけだ。だから文化祭ではなく、合唱祭としか呼ばれない。昔は、クラスの出し物やら部活動の発表など多々盛りだくさんだったらしいが、PTAの判断だとかでいつの頃からかなくなってしまった。体育祭も危険な競技(組体操だとか、騎馬戦だとか)は種目から外されてしまった。あるのはせいぜい徒競走と体育委員が考え抜いた冴えない創作ダンス、そして合唱祭のためにあまり声を張り上げることのできない応援、だ。

 合唱祭は一方でPTAが推奨するイベントだった。元々合唱が盛んだったこの中学においては、そのレベルの高さから地域住民も鑑賞しに来るほどの一大学校行事だった。学校の宣伝のための良いプロパガンダになる、と教頭あたりがPTAのお偉いさんと結論付けたんだろう。

 「20××年 全国合唱コンクール 合唱部 銀賞」と書かれた垂れ幕が、正門入って真正面の校舎の屋上から垂れ下がっている。その横にも「剣道部 県大会 準優勝」だとか「卓球部 九州大会 入賞」と書かれた垂れ幕が遠慮がちに垂れ下がっている。数年前まで、ウチの合唱部は華やいだ名誉ある部活動だった。タイトルを勝ち取り、凱旋したのちの市民文化ホールでの演奏は、紘一の素人耳でも圧巻であった。まだ小学生の時分ながら、全国レベルを聴くことができて凄いとも思ったし、中学に入ったら合唱部に入るのでもいいとさえ、思っていた。だが、その後合唱部は全国大会へ導いた3年生がごそっと引退した後、二度と全国への切符を手に入れることが出来なかった。それに、当時はどの部活動でも、なぜだか荒れていたらしい。合唱部も荒れた。バレー部やテニス部に準じるように荒れ、部活動停止を度々宣告される者がいた。

 今、校舎の屋上から垂れ下がっている、少し汚れてしまった祝幕は、要するに「前時代の名残」なわけだ。

 合唱祭で全校一位になったら、市民文化ホールの舞台に立って感動するような演奏をする。飛鳥の目標であり、夢だ。中学に入る前から、あるいはきっと、小学校の時、紘一の隣で合唱部の演奏を聞いたときからの。

 中学に入って飛鳥は合唱部に所属したものの、部の成績は芳しいものではなかった。それは、顧問が変わったからなのか、黄金期の部員が誰一人としていないからか、あるいは田舎で威張っていた国立附属中合唱部の実力も底が知れていたのか。県大会は勝ち抜いたが九州大会は突破できなかった。全国

の壁は想像していたよりも厚かった。3年間飛鳥は頑張るだけ頑張った。しかし願いは叶わなかったし、満足に歌うことなど一度として出来なかった。

 そして、このクラス合唱がいわば飛鳥の最後の砦だった。


 紘一は教室の隅の方で俯せになってイビキをかいているアイツを見つめた。

 やれやれ、嫌な予感がする。ため息をつきながらいそいそと3時間目の準備を始めた。



(三)

 恵里は、唇を噛んだ。正直、泣いてしまいたいくらいだった。でも、泣きたくなかったし、クラスを代表して啖呵を切ってしまった手前泣くことは情けないことのように思っていた。

 外部講師を呼んだのだって、悪いことをした、明らかなルール違反を犯したとは思っていたが、得に反省はしていない。後悔というならば、合唱祭本番2週間前という貴重な時期に練習できなくさせてしまったことへの後悔が一番だ。クラス合唱委員はこの時期、委員長に匹敵、あるいはそれ以上の権力を持つ。そのクラス合唱委員に立候補でなった自分自身と、その自分を推してくれたクラスの皆全員にたいする裏切り。そのような後悔がこの1週間、恵里を蝕んでいた。ミホもノリちゃんも、委員長の笠田君も「だいじょうぶだ。気にすることはない。自分たちもプロに教えてもらって随分舞い上がっていたし。責任はみんなで取る」そう言ってくれた。

 その優しさがまた、恵里の心をぎゅっと押しつぶした。それでも、恵里は泣かない。泣かずに、合唱祭で2組に勝って市民文化ホールの舞台に立たなければならない。そう何度も心の内で唱え、唇を噛むことでプレッシャーに耐えた。

 大丈夫。確か2組には問題児がいる。テナーパート。でたらめな旋律を歌うメガネの男の子。以前、放課後の練習をしている2組の前を通りがかったとき、メロディを妨げるような、ハーモニーを崩してしまいそうな、そんな声が聞こえた。気になって合同の体育の授業の時、2組の森田くんに聞いた。あの調子はずれの声だれ?と。

「ん~。そんな声する?そんなことないよ。ウチのクラスのハーモニーは学校一さ。」と、取り合ってはくれなかったが、その目が一瞬、あの人に向いたを恵里は見逃さなかった。

2組のハーモニーには致命的な欠陥がある。それが恵里の、野望への支えであった。

 その時は篠田飛鳥の視線を背中に何となくではあるが感じたので、それ以上の質問はしなかった。しかし、体育の終わり、更衣室へ向かうときに彼女があの人に何か言っているのを見て確信した。

 

 1組が歌うのは混声四部合唱「信じる」、谷川俊太郎作詞、松下耕作曲。中学校のクラス合唱としては定番中の定番曲だ。2年のどれかのクラスもこの曲を歌うらしいが、そちらは混声三部合唱。声変わりしているかしていないかの2年生の技量から思えば当然の判断。それに学年が違えば曲が被っても問題ではなかった。まして相手は合唱祭最後の3年。優先されるのは年次が上の方だ。どちらにせよ、市民文化ホールへの切符を手に入れるのは3年のクラスのどれか、である。もっと言ってしまえば、1組か2組、そのどちらかだ。そして明日の放課後はその模擬戦というわけである。負けるわけにはいかない。伴奏のミホもいるし、指揮者兼委員長の笠田くんも付いている。普段は不真面目な男子だってそんなに悪くない。女子なら尚更。あとは、合唱委員の私がしっかりしなければ。私さえ毅然としていれば勝てる。

(四)

 この休日2歩手前、木曜日の放課後とあって、さすがに一週間の疲れが、教室中にたまり始めていた。皆部活こそ夏に引退したものの世間体に見れば立派な受験生だ。多くの運動部員たちが嫌々言いながらも塾に通ったりしているようだ。この辺の大手受験塾。その名もオリオン。おそらく、クラスの半数はそこに厄介になっている。

 紘一は、元々帰宅部だった。中学に入って始めに少しだけ野球部に所属していたが辞めてしまった。炎天下の中、水も飲ましてもらえずにひたすらノック。走り込み。ノック。模擬試合。球拾い。それからノック。それでいて毎年この部活は勝てた試しがないのだから、紘一にとって時間の無駄でしかなかった。バカバカしい。夏の合宿をサボり、しばらく幽霊部員を楽しんだ後で退部届を出して辞めた。スパイクもグローブもエナメルバックさえも親に揃えて貰ってはいたが、使い込むことなく今では倉庫の中だ。親は哀れにも似た声で、紘一を諫めたものだった。

 その代わり、紘一は勉強に精を出した。他のことは適当にしておけば毎日が過ぎてゆく。退屈な授業もホームルームも、今日の放課後だって。

 だが正直に言えば、アイツに告げるのも含め、億劫だった。しかし、なんだってパートリーダーなんぞ引き受けてしまったのだろう。一番暇で、一番成績が良くて受験勉強の必要性皆無だからだそうだ。そして、飛鳥の幼馴染だから。野球部を中途半端に辞めて、クラス行事にも適当。だがそれでもクラスの皆が紘一をハブったりせず、むしろ好意的なのはきっと、飛鳥の存在が大きい。紘一は飛鳥に守られている。男子の中には、紘一達の関係を囃し立てるお調子者も時々現れた。その時々、飛鳥も紘一も取り立てて大きな反論はしなかった。


「住野、ちょっといいか」バスパートの練習は別のやつにやらせて、テナーパートが練習するオルガンの近くで楽譜をいそいそと広げているメガネの短髪に声をかけた。

「なに?パーリー」

「実はな、明日の合同練習で、そのお前の声量下げてもらってもいいかな。その囁くボリュームでくらいで」

 住野彰浩は、目を点にした。いきなり冷たい浴びせかけられたような顔をした。

「え、でも、パーリーがこのクラス最大の問題点はテナーの声量の小ささだって言ってなかった?大サビの迫力が足りないって」

住野は急な理不尽な措置に対してどこに怒りの矛先を求めていいのかと、目をうろうろさせている。

「そ、そうなんだけどな。ある程度テナーの声量も上がってきたしさ。それに合唱っていうのは皆の声が一つにならなきゃダメなんだよ。誰かひとりが悪目立ちしちゃってもダメだし。合唱祭ももう来週の日曜に迫ってきてるしさ、必要な調整なんだ」紘一も住野に負けずと、この理不尽な仕打ちをどう理屈を付けて説明しようかとおろおろと話した。苦し紛れに耳の後ろを搔く。

「わかった」しばらくの沈黙の後、住野は低い声で呟くように言った。

「ごめんな。バスパート目途がたったら、こっち来るからさ」



「じゃあ、合わせようか」

飛鳥は教壇の方に椅子を運びながら声を張り上げた。

クラス合唱委員兼アルトパートリーダー兼指揮者。飛鳥は一人でこの3役をこなすことに責任感とある種の誇りを感じていた。正直誰でもこれらの役職をすることができるとは思ったが、しっかりこなすことが出来るのは自分くらいのものだ。中途半端に誰かがやるくらいなら自分がした方がいいと思っていた。昔から器用でピアノもある程度は弾けたし、小学校の時分からずっと学級委員長だった。そんな器用で完璧にほど近い自分が唯一思い通りにいかないもの、それが合唱だった。夏の九州大会で金賞を取ったにもかかわらず、全国へ行けなかった。悔しくてその日は一日中部屋から出なかった。だから、今度の合唱祭では是が日でも勝たなければならない。勝って、市民文化ホールに行かなければならない。


 2組が歌うのは、混声合唱曲集「夢みたものは」から混声四部合唱「鴎」。伴奏のないアカペラ曲だった。通例、クラス合唱では伴奏付きの合唱が普通だ。しかし、飛鳥は通例、とか、普通とか迎合めいた響きは嫌いだったし、他のクラスとは一線を画すアカペラ曲で勝負したがった。それになにより、飛鳥はこの曲が好きだった。好きな曲で憧れのステージに立つ、誰をも納得させる説得力のある演奏。

 「鴎」は飛鳥に、河原の上、空高くを飛ぶトンビを連想させる。家の近くを流れる一級河川。その上空で翼を広げ、たゆたい、風に乗った自由な鳥。鴎で「彼ら」は、自由の象徴、若くりりしい青春の権化として書かれている。つまり、今の私たちだ。私たちは私たちの為の歌を歌うのだ。鴎ではなく、川の上を飛ぶトンビが連想されるのは、単に飛鳥が海辺に住んでいなければ、カモメを普段目にしないというだけの理由だ。


「じゃあ、はじめから全部一回通すよ」みんなが並ぶのを確認した後、最初の一音をキーボードで出す。パートそれぞれが音を合わせる。少しアイツの音が気になる。アイツは口を開けて音を出している。せめて音を合わせろよ。と、口悪く思う。それから紘一にアイツの対処を目で促した。紘一がアイツを諫めるのを見届けた後、椅子の上に立った。三列に並んだクラス皆を見渡せる特等席。そこに立ち、飛鳥は指揮棒を振り始めた。

 悪くはなかった。というのが一曲通してみての率直な感想だった。少しテナーの声量が小さく、大サビに物足りなさを感じつつも全体としてのバランスは悪くない感じだった。だが、やっぱり物足りない。アカペラで歌う以上、伴奏ありきの演奏に迫力で負けてしまうのは当然といえば当然、考えられることだ。だからこそ、圧倒しなければならない。伴奏なしで打ち勝たなければなるまい。

「悪くないよ。ソプラノ全体として息もれ気を付けてね。リラックスして歌えば大丈夫。んと、コーイチ、バスのテンポ遅れてる気を付けて。あと、テナー、全体的にもう少し声出して。特に大サビ。じゃあもう一回」

 一瞬男声の方で張り詰めてうすくなった空気とその薄さをかち割るような舌打ちが聞こえたが無視することにした。飛鳥はもう一度音を取り、指揮棒を振る。このクラスは反応がいい。指示がすぐに通るし、指揮も振りやすい。ある一人の問題を除けば。そしてその問題も対処を施せば、しっかりよくなった。飛鳥自身の感覚としては、この分であれば明日の勝負は勝てそうだった。この大切な時期での練習禁止は向こうにとって大きなペナルティであるはずだ。そして一週間も声を合わせられなければ、まとまっていた声もばらつく。ブランクは大きくつく。


 その後、もう一度通しをし、短い反省会を終えた後、その日の練習を終了とした。明日は合同練習。来週の日曜には合唱祭だ。大丈夫。飛鳥は自分に言い聞かせた。



(五)

 紘一の嫌な予感は的中したといっていい。住野は何も言わず、楽譜を無造作にカバンに突っ込み帰ろうとしていた。見ればイライラしてるのは誰が見たって明らかだった。

 触らぬ神に祟りなし。そう考えがよぎって、紘一は声をかけなかった。あいつはきっとまた、理不尽さに怒りを覚えているんだろう。それでいて、女子と話せる度胸もないわけだから、まして飛鳥本人に話せるわけないのだから怒りの捌け口がない。

 まったく、めんどくさい。首を搔く。それから机の中をカバンに入れ、教室の後ろで女子と喋って紘一を待つ飛鳥の方へ向かった。一緒に帰るためだ。小学校の時からずっと一緒に帰っている。


「今日の通し、今までで一番良かったかもしれない。うん。このままの調子でいけば勝てるよ、一組に」

飛鳥と紘一は二人自転車を押しながら、夕暮れの道を歩く。二人の影は平行に並んで長く伸びていた。

「今日、パー練のときにさ、言ったんだよアイツに」飛鳥のハキハキとした声への返事は無視して、紘一は長い影を見ながら話しかけた。

「なんて言ったの」

「お前だけ目立ってるから極限まで小さく歌えー、みたいなこと」

「あぁ、それ。効果抜群だったよ。バランス良くなって聞きやすくなった」

「でも、篠田、お前一回目の通しの後、テナーに声出せ、なんてさ。理不尽だぜ」長い影の頭辺りが動き、隣の影に迫るのが見えた。

「なにが理不尽よ。正当に指示を出しているだけじゃない。テナー全体の声量を上げろって。間違ったことは指示してないし、現に良くなったじゃない」

 紘一は、面と向かって飛鳥に歯向かえなかった。確かに、いつもの通しよりも幾分良かった気がした。そう紘一も感じてしまったのだから強くは言えない。その代わり長い影に向かって投げかけるように、半ば匙をなげるように言った。

「でも、住野はあいつなりに責任とか誇り持って歌ってるんだよ。テナーで一番声出せるのアイツだし。自分が引っ張らなきゃって感じてるんだと思う」

「それで、バランスとかハーモニー崩れちゃ意味ないじゃん。アイツ、音痴とまではいかないけど、調子っぱずれなのよ。アイツは悪目立ちする。それじゃダメ。」

「でも」

「でももくそもない!」飛鳥はピシャリと言った。これ以上この話を深めることはできそうになかった。


 その後、橋を渡って川を超えるまで二人は黙ったまま自転車を押した。成績上位組の二人は、いそいそと受験勉強に励む必要も、そして帰って見たいテレビがあるわけでも特段ない。自転車通学を許され、普通の生徒よりも早く帰ることが出来るというのに、二人はそうしなかった。

「コーイチ、O高受けるんだっけ?N高だっけ?」

分かれ道に差し掛かって、自転車に乗りながら飛鳥は尋ねた。自転車通学性には義務のださい防護ヘルメットをくるくる回している。あぶなっかしい。

「O高。特進科」

「なんで?N高の理数科だったら十分狙えるんじゃないの?」

「トイレ汚いし、校則厳しいらしいから嫌だ」

「そんな理由?」

「そんな理由だよ。今の学力ならどこにでも行ける。それにO高でもN高でも偏差値は変わんないよ。だったら学生生活が快適そうかどうかで決めるよ」

飛鳥は、紘一の言う「そんな理由」に意外性と驚きを感じたのか、くるくる回していたヘルメットを止めた。

「篠田は、学園行くんだっけ?あそこ、合唱強いし」

 奇妙な間があった。学園高校の合唱部は全国レベルで、毎年金賞を取って帰県してくる。それは毎年地元のテレビで特集が組まれているのを紘一は知っていた。あれだけ合唱にお熱な飛鳥のことだ。当然学園に行くのだろうと思っていた。

「秘密」飛鳥は、ぼやくように言って、ヘルメットを被った。すっかり辺りは暗くなってしまって表情は確認できない。

「ひみ…、なんだって?」

「だーかーら、秘密。ヒミツ!帰る!」そのまま飛鳥は、自転車を漕いでいってしまった。

 なんだというのだろう。紘一にはつくづく女子の考えていることが分からなかった。幼馴染の飛鳥とて例外ではない。それに、飛鳥は気分屋で、その上負けず嫌い、勝気なところがあった。それでいて、休み時間も読書を続けてクールぶるような所があった。

 女心と秋の空ってやつかな、違うか。紘一は家路に着いた。



(六)

 恵里は、風呂上がり、濡れた髪を乾かしながら、明日の勝負に臨むクラスの皆に送る、メールの文案を考えていた。洗面台の鏡に向かいながら、ドライヤーを髪に当てる。ただし、直接熱風を当てることはしない。タオルの上から。その方が髪が痛まないし、実は早く乾く。

 今日、一週間ぶりに声を合わせた。一週間ぶりに声を合わせたにしては、壊滅的なほどのブランクは感じ取れなかった。粗が少し見えるものの、そこは重点的に調整していけばいい。伴奏のミホもうまくなっている。ピアノ経験者がミホしかいなかったからと言って彼女に押し付ける格好になってしまったことに申し訳ない気持ちがないわけではなかった。ピアノ経験とはいっても習っていたのは中学の始めまでで、吹奏楽の方で彼女はファゴットを吹いていた。吹奏楽部の方も忙しかったろうに、五月に伴奏者と決まってから随分と頑張ってくれた。笠田くんも委員長だからホントは指揮者という大役までしてしまうと学業にだって影響が出かねないのに。大事な受験期だというのに本当にありがたい。

 普段は引っ込み思案で、1年の時も2年の時も目立たず、やり過ごしてきたというのに。恵里は思わず、ふっと笑った。クラス合唱委員ていう大役だって、今までやるのが怖くて避けてきた。だけど、4月の委員決めの時、勇気を出して立候補したのだ。

 真奈美さんを外部講師に呼んだのだって、勇気のいることだった。彼女は、恵里が唯一連絡を取れる「レジェンド」世代の一人だった。今は大学生になって地元の経済学部で学んでいるらしい。兄と同級生だったから連絡が取れた。真奈美さんは「懐かしい」と言って、私でよければ、と快く引き受けてくれた。

 放課後の練習の折、クラスの皆に真奈美さんを紹介したときの、皆のあの興奮した顔といったら、今でも目に焼き付いて離れない。真奈美さんの適格な指導には毎回目から鱗だった。恵里が伝えたい言葉を分かりやすい言葉で、身振り手振り、実践を交えて伝える。それを教科書に皆習って声を出す。自分も真奈美さんのように指導できればいいのに、恵里はつくづくそう思った。

 だが3回目の指導練習の時、ばれてしまった。確かにばれない保証はどこにもなかったし、迂闊だった。このことについては担任の高木先生も黙っていたわけだし、バレたとき先生は主任の西野先生にこっぴどく叱られてしまったらしい。そのままペナルティを言い渡されてしまった。それになにより、真奈美さんに申し訳なくて顔が立たなかった。

「随分昔に卒業したし、そんなルールがあったの私も忘れていた。ごめんね。気に病まないで。あたしは久しぶりに歌えて楽しかったから」と、気を遣ってそう言ってはくれた。


 自分の指導力の無さと不甲斐なさへの嫌気とは裏腹に、クラスの皆はなぜだか活気づいていた。悪戯がバレてはにかむ幼い子供のように、一瞬立ち込めた嫌な空気を打ち消していた。なんだろう。共犯者の絆とでもいうのであろうか。

 ペナルティの1週間を終えた翌朝、つまり今朝、2組に勝負を挑んだ。これもすごく勇気のいることだったけれど、大好きな2組のメンツの為だった。

そして、ほとんど久しぶりに飛鳥と口を聞いた。


 髪を乾かし終わり、コンタクトを液に付け洗い終えた後、メガネを手に取った。年々目が悪くなっている気がする。元々細めで切れ長で目付きが悪いというのに事態は悪化するばかりのようだった。恵里は自分に自信を持てないでいた。それを何となくではあるが、メガネからコンタクトに変えることで意識改革を計ったのに、なかなかうまくいかないでいる。

とはいえ、明日の放課後は勝負だ。

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