宿無し男と家なし少女

路傍の石

宿無し男と家無し少女

「ここはどこだ……」


 じりじりと照り付ける夏の日差しに晒されながら、道端で呆然と立ち尽くす一人の男。

 年の頃は恐らく二十代前半から三十代前半のどれかだろう。

 見た目の年齢の幅が広いのは、その男の容姿によるところが大きい。

 ぼさぼさの頭に真っ黒になった顔。もう何日も洗ってないんじゃないかと思える汚いTシャツは、所々破れている。

 泥まみれのジーンズはまぁいいとして、靴の先っぽに穴が開いて親指が出ているのはある意味問題だろう。裏を見れば靴底がまるっきり無いんじゃないかとも思えてしまう。

 肩から下げた巾着袋だけはかろうじてまともに見えるが、○○米店と書かれたところを見る以上、どう考えても盗品か何かだろう。

 かなりの長身で、やせている事もありひょろりと長い印象が強く残るようなそんな男だった。


 その男は少しの間辺りを見回した後、フラフラと近くにあった自動販売機に向かって歩いて行く。

 やがて、自動販売機の前に立つと、ズボンのポケットに右手を突っ込み、少し引っ掻き回した後右手を引き抜く。


 右手には十円玉二枚。


 男はその表情を絶望色に染めながらも、今度は左のポケットに左手を突っ込み、かなり引っ掻き回した後、左手を引き抜く。


 左手にはカラカラに干からびた食いかけのガム。


 男は少しの間そのガムを見つめた後、やがてそれを口の中に放り込むとくちゃくちゃと鳴らすように噛みだす。

 そこから生み出される唾液をゴクリと飲み干しながら、


「誰か俺にバイト紹介してくれ」


 そう呟く男の言葉は、追い詰められたそれであった。




◇◇◇





 あまり人通りの無い農村地帯。

 その農道を一人の少女が走っている。

 全身に汗を浮かべながら、息も絶え絶えになりながら走る姿は、まるで誰かから逃げているようにも見える。

 年は十代後半位か。少なくとも、二十にはいってはいまい。

 まだ幼さを残す顔は、疲労からかとても苦しげに喘いでいる。


 そして、その息遣いにあわせるように、後ろで縛った髪も上下に揺れていた。

 何度も足を縺れさせながらも走る姿は、誰が見てももう限界が近い事を教えている。

 それでも、少女は走り続けた。

 もはや、一般人の歩行速度程度しかないスピードであっても。


 どれ程走っただろうか。


 何も無い農道から、多少の民家が見えるようになり、近くに公園がある寂れた道路に差し掛かったところでついに少女の前進は止まった。

 吐き出される息と一緒に胃の中のものも一緒に吐き出されてしまいそうだった。

 ただ、少女にとって幸いだったのは、昨日の夜から何も食べていないという事だったろう。


 もっとも、それが幸いかどうかは別にして、少なくとも嘔吐する事による気分の悪さを味わわない事だけましだとは思った。

 少女はひざに手を付いた状態で、前方を見ると一台の自動販売機が目に留まる。

 そう言えば、食べ物だけではなく、飲み物も殆どとっていなかったんだと思い出す。

 もう限界だった足を強引に動かすと、壁に手を付きながらゆっくりと自動販売機に向けて少女は歩いた。


 幸いにもお金だったら多少はある。

 何日も暮らすのは無理でも、それまでに仕事を探せばいいだけだ。

 できれば住み込みがいい。

 自分にはもう帰るところなんか無いから。

 それにいざとなれば自分には女という立場上何とか生きていく手段はある筈だ。

 そこまで考えた所で、少女は自分の考えに身震いし、その足を止めてしまう。


 ……あくまで最後の手段だ。


 そう決意すると、少女は再び歩き出した。

 取り敢えず何か飲もう。考えるのはそれからだと……自分を叱咤激励しながら……



◇◇◇



 何とか自動販売機にたどり着いた少女が見たのは、アスファルトの上に這いつくばり、自販機の周りを這い回っている異様な物体だった。

 物体……そう表現したのは、それが自分と同じ生態系に属している生物だと認めたくなかったからだ。


 ギョロギョロとした目で自販機の下を覗き込み、棒か何かで必死に下をかっぱいている。

 時折体の位置を変えるためか、腰をくねらせながら動くさまは悪夢以外の何者でもない。

 何も知らない無垢な少女が覗いたのであれば、一生のトラウマとして残るだろう。

 しかも、その物体は、時折「うっ」とか、「あうっ」と言う声を出しているのが始末に悪い。


 しばらく、その様子を眺めていた少女だったが、いつまで経っても移動しそうも無いその物体の存在は取り敢えず無視する事に決めたようで、ポケットから財布を取り出し、中から小銭を取り出す。

 すると、その時にした僅かな金属音に反応するように、その物体が勢いよく顔?を上げた。


「金!?」


 喋った。


 それが少女がこの物体の声を聞いて感じた感想だった。

 内容など聞いていない。何故なら喋るとは思わなかったから。

 同じ人類であると認めたくなかったとも言う。

 しかし、男はそんな少女の考えなど知ったこっちゃ無いらしく、勢い込んで言ってくる。


「たのむ! 俺に金を恵んでくれ! もしくはバイトを紹介してくれ! もう、四日も何も口にしていないんだ!」


 喋るどころか、酷く俗物的な事をのたまう生物だ。

 しかし、その男の言葉は少女にとってもこれからの自分に妙にかぶるものだった。

 だったら、少し位の会話ならいいかと譲歩する事にする。


「いや。その言葉はそっくりそのまま私が言いたいんですけど……」


 そういいながら、少女は自分の財布を男に見せる。

 中には千円札が二枚と、小銭が少々。


「これが私の全財産なので、人にあげる余裕はありません」


 そう告げる少女の言葉に、男はその顔に絶望の色をにじませる。

 しかし、何かを思いついたのか、すぐに真顔になって一言こういった。


「二人で分け合って飲もう。幸い俺にも少しなら金はある」


 そう言いながら差し出される十円玉三枚を少女は見つめ、深い深いため息をつくのだった……



◇◇◇



 結局、男に百円を渡してしまったのは、この男との回し飲みだけは断固拒否したかったからに他ならない。

 男は、少女から貰った百円に、自分のお金を足して買った牛乳を飲んでいる。

 清涼飲料水ではなく、牛乳を選ぶあたり相当に切迫していた事だけは伺えた。


 少女は手痛い出費だったと思いながらも、男と二人公園のベンチに座りながら、自分で買ったコーヒー牛乳を口にする。

 変な男だなとは思ったが、何だかこの男のにおいが自分のそれと似ていると思って、思わず一緒の時間をすごしてしまった。


 共に汗臭い……という意味ではない。


 雰囲気という奴だろうか。ともかく、他人のような気がしなかったのだ。

 少女には親がいなかった。

 もちろん、初めからいなかったという訳ではなかったのだろう。

 しかし、少女が物心付いた頃には、もう施設での生活だった。

 少女にとっては施設の先生が親であり、他の入所者が兄弟であった。


 しかし、彼女にとっては、決していい親、いい兄弟ではなかった。

 それでも、そこで生きるしかなかった少女は、そんな場所でも我慢してやって来た。しかし……


 つい先日の事、自分を引き取ってくれるという人物を見たときに、たとえようも無い感覚が走った。

 その、欲望丸出しの顔をした男の下に行くなど死んでもごめんだった。

 だから逃げた。

 たった一人になろうとも、生き抜いてみせると強い気持ちを持って……


 しかし、現実は甘くなかった。

 親も、身元引受人もいない未成年を雇ってくれる所なんてどこにも無かった。

 しかも、あの施設の傍では自分の顔は知れ渡りすぎていて、すぐに施設に連絡されてしまった。

 結局、誰も知らない町まで逃げようと、こんなところまでやってきたけれど、正直疲れた。


 少女は大きなため息をつくと、グッタリと前のめりになる。

 すると、そんな少女の頭に先ほどの男が手を載せる。


「ふむ。なにやら疲れているようだな。そんな時は寝るに限る。空腹感も紛れるし一石二鳥だぞ」

「……帰る家も無いってのに、どこで寝ろって言うのよ」


 顔も上げずに言い放つ少女の言葉には先ほどまでの丁寧な口調は無かったが、男にとってはそんなことはどうでもいいらしく、カラカラと笑いながら、


「なんだ、訳ありか。幼い身分で大変だな。だが、安心しろ。宿が無いのは俺も同じよ」

「だから! それが、どうして安心できる材料になるの!」


 とうとう少女は顔を上げ、男を睨みつけながら叫ぶ。

 しかし、そんな少女に男は微笑むと、大仰な仕草で語りだす。


「宿は無くとも寝る場所が無いとは言わん。たとえば、あれなんかは俺から見たら立派なペントハウスだ」


 そういって男が指差した先には、滑り台の着いたコンクリート製の遊具があった。

 確かに中に入れば雨は凌げるだろうが、風は防げまい。

 丸い窓のような穴があるためだ。

 そんな少女の不満を表情から見て取ったのだろう、男は付け加えるように言う。


「今の時期だ。凍えることは無い。それにダンボールは以外に暖かいのだぞ? 一飯の恩義もある。俺が丁度いい大きさのを見つけてきてやろう。これで俺は一宿の貸しが出来て丁度いい。お互い悪い事でもあるまい?」


 自信たっぷりに語る男に少女は正直呆れてしまった。

 一宿の貸しだって? 全部自分の持ち物以外の無断使用じゃないか。

 あんなところでの野宿で百円をなかった事にしようというのか?

 しかし、そこまで考えて、少女は笑ってしまった。

 百円なら確かにその程度か。

 ダンボールに屋根つきの遊具。

 百円でも贅沢かもしれない。


「ようやく笑ったな」

「えっ?」


 そんな少女に掛かる男の声。

 顔を上げ、男の方に視線を向けると、公園の出口に向かって歩いているところだった。


「そこで待っているといい。すぐに極上の布団を用意してやる」


 そう言って笑う男に、少女も笑いながら見送るのだった。



◇◇◇



 ぐごーっと、盛大ないびきを立てている男と並んで横になりながら、少女はぼんやりと丸い穴から見える夜空を眺めていた。

 野宿なんて初めての経験だった。

 地面は硬いし、埃っぽい。


 それでも、少女の方はまだいい。


 大き目のダンボールに、どこから見つけてきたのか、ボロボロの座布団をダンボールの下に敷くことによって、多少は寝心地は良くなっている。

 しかも、枕代わりにと、男が持っていた巾着袋も渡されていた。

 ダンボールも男がいった通り、意外に暖かく寝る分には快適とまでは行かないまでも、何とかなるレベルではあった。


 それでも、眠れない。


 男の方を見ると、もう殆ど地面に直寝しているような状態にもかかわらず、大いびきをかいている。

 こういう生活に慣れているのだろう。

 少女は再び空を見上げると、そっと目を閉じた。


 自分が一番不幸だと思っていた。


 誰よりも恵まれていないと思っていた。

 でも、この男と比べてどうだろうか?

 自分がこの男より恵まれていなかったと言えるだろうか?

 自分の行動がただの我が侭ではなかったと、自信を持って言えるだろうか?


 ……言えない。


 それは間違いの無い事実だった。

 やがて、深いまどろみに包まれながら、ふと思った。

 宿無し二人で枕を並べるのも結構いいのかもしれない。

 少なくとも、自分の同室の人間のように変な事をされる心配は無いのだから……と。







「さむーーー!」


 遊具の中で素っ裸の男が一人、身を震わせながら悲鳴を上げる。

 素っ裸といっても、すっぽんぽんという訳ではない。

 一応ジーンズだけは履いている。

 無いのはシャツと靴だ。

 寝るときは確かにあったはずだと自問しているところで、少女の姿が無いのに気付く。


「何てこと。まさか、置き引きを引き入れていたとは……」

「誰が、置き引きよ。誰が」


 声のした方に視線を向けると、丁度どこかから帰ってきたのか、袋を片手に歩いてくる少女が見えた。


「おい、俺のシャツと靴をどうした」

「捨てた」

「何ーー!」


 アッサリと言い放つ少女の言葉に思わず男は大声を上げる。

 しかし、そんな男の声も気にせず、少女は袋を渡しながら、


「あんなボロボロの服と靴なんて無くても一緒でしょ。それよりも、それ着なさいよ」

「これは……」


 男は中を見て絶句する。

 中に入っていたのは安物のシャツとやはり安物のスニーカーだった。


「二つあわせて千九百八十円いちきゅっぱか……」

「値段なんかどうでもいいでしょ」


 いやに正確な数字を弾き出す男の言葉に赤面しながらも、少女は更にもう一つの袋を渡す。


「そっちは二人でよ。ちゃんと半分ずつだからね」


 男は袋の中のパンを見ながら、少女を見る。酷く真剣な眼差しで。


「お前の今の所持金は?」

「残念ながら、すっからかん、よ」


 笑いながらそう答える少女に男は真剣な眼差しで見つめる。

 しかし、そんな男の顔を見ても、少女はあくまで笑いながら、


「これで、私の貸し三つ、ね。これだけあれば一寸した願いも聞いてもらえるよね」

「何が望みだ?」


 少し視線を鋭くした男の全てを受け止めるように、少女は正面から向かい合い、きっぱりと言い放つ。


「私も一緒に連れて行ってよ。宿無しの旅って奴?バイトしながら気ままな旅なんて面白そうだし」

「ホントにそう思っているのか?」


 少し怒ったような男の声にも、少女は怯むことなく答える。


「思ってるよ。だって楽しくなきゃ続かないよ。辛いときって、笑う事なんか出来ないもの。でもアナタは笑ってたでしょ? 私に笑顔を思い出させてくれたでしょ? だからきっと楽しいんだよ。そして、私もそんな旅をしてみたいと思ったの」


 男は少女をただ見つめていた。

 手に持った袋はそのままに、ジッと真意を探るように。

 やがて、何らかの決意をしたのか、男はゆっくり問いただす。


「お前の想像以上に厳しいぞ」

「わかってる」

「俺と一緒に旅に出たら、もうもとの生活には戻れないかもしれない」

「どのみち戻るつもりも無いしね」

「すべて、覚悟の上か」

「うん」

「そうか……」


 そこまで聞いた所で男はようやく笑顔になり、袋からパンを取り出し二つに分ける。


「それなら、いい。これからは同じ釜の飯を食う事になる仲だ。仲良くせんとな。こいつはその祝いって事で」

「私が買ったものだけどね」


 男が差し出したパンを受け取りながら少女も笑う。

 二人で協力し合って生きる。

 それはきっと辛いだろう。

 でも一人よりはずっといいはずだ。

 宿無し二人で一人分。それが丁度いいのだ。

 ベンチに座って二人並んでパンを食べながら、少女は何かを思い出したように、男に問いかける。


「そういえば、自己紹介がまだだったね。私は神凪桜花。アナタは?」

「俺か? 俺は……」


 男は少し考えるようなそぶりを見せると、視線を道路の方に向ける。

 そこには、車にはねられたのだろうか、哀れな猫の遺体があった。

 それはまるで、自分の将来の姿のように思えた。

 だから男はこう答えた。


「猫野死体だ」

「猫野……したい? アンタの親って何かアンタに恨みでもあったわけ?」

「さあな。きっとムシャクシャしていたんだろう」


 少女の答えに笑いながら答える男にそれ以上何かいうつもりも無かったのか、少女は大きく頷き断言する。


「じゃあ、猫ね。私はこれからアナタの事をこう呼ぶわ。何だかそれっぽいしね」

「ああ。そうしてくれ」


 そういって笑う男……猫に、桜花も笑いながら立ち上がると、


「じゃあ、早速次の町に行きましょう! この町にはいい働き口は無いみたいだしね。それから、猫! アンタ私に借りが三つあること忘れないでよ? しっかり働いてもらうからね!」


 そう言って元気よく歩き出す桜花に苦笑しながら、彼女から貰った靴とシャツを見につけ追いかける。


 楽しそうな少女の背中を見ながら、猫はふと思った。


(そうか、俺は楽しいからこんな旅を続けてたのか……)


 ならば、きっとこれからも楽しいのだろう。

 そして、桜花もそう思ってくれたなら、もっといい。

 一人で歩いてきた道をこれから二人で歩くだけだ。


 そうすればきっと……


(俺が生きている意味も、わかる日が来るかもしれない)


 借り三つを手っ取り早く返す為にも、次の町では仕事を見つけて、せめて暖かい布団で寝かせてやるか。

 そんな事を思いながら猫は笑った。

 桜花が買ってくれた靴はよく足に馴染み、どこまでも行ける様な気がした。

 たとえ、それが錯覚でも……二人で歩く事の期待は錯覚じゃないと、桜花の笑顔を見ながら猫はそう確信していた。


 終わり無き旅の荷物と共に……

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宿無し男と家なし少女 路傍の石 @syatakiti

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