痛いほどに優しい世界

白羽 くれる

届くか。届かないか。

 貴方は暗闇が怖いのですか?


どうして、そんなに怯えた目で絶望の手前を見ているのです?


 誰にだってあることじゃないですか。

 一筋の光すらをも拒否し続ける深い闇に沈んでいくことなんて。


***


 今日は、梅雨明け近くのじめじめとした暑い日であるはずです。天気は分かりません。でも、暑いはずです。外では人々が長い梅雨にうんざりしていることでしょう。


 そんな暑い日に、私は震えています。何かに対する怯えによる震えではありません。そんなものには私は怯えません。そんなものに怯えているようでは、私は自分に負けてしまいます。


 だって結局、一番強くて憎むべき敵は弱い自分自身なのですから。


 勝ち負けとは。

 これがどんな意味であるかを考えずに他の誰かと闇雲に戦うと、どうなると思いますか?


 答えは簡単。目的を見失い、意味の分からぬ達成感で満たされます。それはどういうことか。自分が弱い自分に支配されるということです。


 誰かに勝つのは簡単です。相手を殺せばいいのです。相手に戦わせなければ、負けることも無いでしょう?


 相手が老体だ。相手が幼児だ。


 そんなことで、躊躇うようでは貴方は強くはなれません。別に強くなりたくないのなら、それでもいいのです。貴方の自由の一つですから。でも、それなら私に迷惑をかけたり関わったりしないで下さい。


 私は貴方に、貴方自身を妥協してほしくない。


 あくまでも、これは私の貴方に対する好意からです。


 


 さて、私は今、何処にいるのでしょうか。ここでは、私は誰かに必要とされるのでしょうか。


 辺り一帯、青がかった透明な世界。ですがそれにも果てがあります。


 水槽でしょうか?


 それなら納得は出来ますが……。私としては、違う気がします。


 下を見ても水槽にあるような石、海藻は置かれていません。それに、空気を入れる為の機械もありません。


 いずれ、私は命を落とすでしょう。水に溶けた酸素にも、限界はあるのです。そうでなくても、私は泳いで出口を目指せない。


 そもそも、今意識を留めていることだって奇跡です。そんな奇跡を自分が受けることになるなんて、神様の加護は私の生きたいつの日よりも優しさで溢れているのですね。


 ですが、少しずつ時間が経つにつれ、私の命が急速に淡いものとなっていくのが感じられます。


 水に溶けていく……。この表現が正しいようです。実際は溶けているのではなく、ただ沈んでいっているだけですがね。


 徐々に大きくなる水圧に、私はどれだけ耐えられるのでしょうか?


 生物の限界ってところですね。




 ところで、私が今何処にいるのか分からないのと同じように、貴方も何かが分からないのではないですか?


 私が自分の為に出来ることはもうありません。ですから最後に貴方の話に耳を傾けることにします。


 何も話すことは無い。そんなはずはありませんよね?


 貴方の溜息は、そんなにも弱く儚く美しくはなかった。どうせまた、つまらない世界につまらない思想でも向けていたのでしょう?


 違うのですか?


 では、何を? 自分の努力が報われるか分からなくなったから、もう努力なんてしたくない。それが本心ですか?


 確かに努力してもどうにもならないことで世界は構成されていますね。今の私の状況が、まさにそれでしょう。


 でも、私は絶望なんてしていませんよ?


 だって、もう進めないのですから。


 どう足掻いたって無駄だと分かってしまった、そんな私にはもう絶望することも出来ません。だって、もう諦める事しか出来ないのですから。諦めと絶望は、似ているようで違います。


 でも、貴方は違いますよね? これから続く未来が信じられないというだけで、まだ進む道があります。


 絶望は悪いことではありません。


 絶望するのが辛いのならば、生きている実感や生きる価値をそこから見出だしてください。

 それさえ出来れば、貴方に勝利がすり寄ってきます。


 勝利だって、自分自身という強敵に勝った強い人間に微笑みたいはずです。

 それに、それが出来れば案外絶望だって楽しいものかもしれませんよ?


 だから、頑張って。


 私は貴方の努力は知っています。でも、貴方の努力が正しいかどうかは分からないのです。


 分からないけど、頑張って。




 そういえば、あれからどれくらいの時間が経ったのでしょうか。何故、私はまだ生きているのでしょうか。

 希望と言ってもいいのでしょうか。でも、これが希望なら共に絶望を連れてきます。


 私の想いは貴方に届いたのでしょうか?


 私は、届いていても届いていなくても構わないのです。

 たとえ自己満足で終わっていたとしても、最期に自分の考えをまとめられたのは良かったのかもしれませんね。


 最後の最後に後悔をするほど、生への未練、明日への未練は無いはずです。


 貴方は今、こちらを向きました。私の言葉が聞こえていたのでしょうか?


 ありえませんね。


 まさか、こんなところにこんな奴がいるとは誰も思わないでしょう。相当突飛な発想の使い手さん以外では。


 貴方はこちらに歩いてきます。そして、私の方を憂鬱そうに眺めています。


 もし壁のガラスらしきものが、もっと透き通っていて光が射し込めば気付かれたのでしょう。ですが、そんな奇跡は起こりません。誰にも、ガラスが透き通っていないという事実は今この瞬間には変えることは出来ません。


 こんなに近付いていても、貴方は気付かない。


 それが少し寂しい世界だとしても、これが今起きている現実です。今、一番哀れなのは私なのでしょうね。


 貴方が貴方のすべきことに気付く未来を私は望みます。



 それでは、お元気で。



 古びた機械音が消し去っていったのは、私の最期の意識と貴方の僅かな悩みであった。


***


 何かが、聞こえる。

 言葉では無いが、語りかけてくるような絶叫のような何かだ。

 僕は今、そんなにも疲れているのだろうか?そんなにもイライラしているのだろうか?


 まあ、関係無いか。


 そう考えれば何一つ問題は無い。しかし、もし誰かの身を削った絶叫であったのなら……。

 僕は何て自分勝手な人間なのだろう。そう思う。


 分からないことなのだから気にせずにいようか。しかし、そう思うように決めても、気になってしまうのだろう。


「はぁ……。」


 僕以外には誰もいない筈のこの部屋に、僕自身のため息が薄く広がる。見えるわけでは無いけれど、だんだん元の空気と変わらなくなっていくのが分かるようだ。


 ため息ばかりつくのは良くない。でも、ため息の種類によってだいぶ違うのだろう。

 僕は“何か”が聞こえてくるより前の、自分のため息を唐突に思い出した。


 何にも希望を見出だせない。

 未来が怖い。

 努力が認められない。

 自分の努力とは比べものにならない努力がある。


 そんな現実に潰されるのが弱い人間だ。つまり、僕だ。

 無駄とも言える、このため息は人の為ではない。自分の自己満足の自問自答であった。


 誰かの為に自分の幸せを捨てる?


 そんなことは出来ない。そういうことが出来る人間が“他人の痛みが分かる人”ならば、僕は偽善者にだってなれないだろう。



 …………。



 僕は冷静に考えた。


 分かってしまったのだ。

 聞こえてくる音が、慈愛に満ちた誰かの思いだということが。


 でも、どんどん小さくなっていく。

 やっぱり気のせいなのか?


 分からない。


 分からない。


 ああ、バテた頭は全く役に立たないではないか。

 結局は自分自身のせいであるのか、この世界の一番身近な敵であるのは。


 もう、いいか。分からない物だし、音も途切れ途切れになっている。

 暑さと湿気を吹き飛ばしてから、また自分自身と戦わないと。こんなところで絶望するなんて、僕は弱い。でも、ここからまだ先に進める。


 僕は立った。まだ、バテている頭が重い。

 少しでも、湿度をましにしようと向かった先は部屋にある除湿器だ。


 ん……?この除湿器、壊れてるんだっけ……?


 試しにつけてみないと分からない。


 それに……。音が途切れ途切れなのは変わらないが、大きくなっていないか……?


 気のせいか。そう思えば何も問題無く終わるだろう。



 僕は除湿器の運転ボタンを押した。それも、強く。



 ゴォォォ……。


 途中で止まってしまった。

 タンクを覗きこむと、プラスチックの壁が濁っていてよく見えない。しかし、もう水がいっぱいにたまっている。


 僕は、水の入ったタンクを取り出した。


 キッチンの水道まで、持ってきて少しずつ水を捨てていく。


 水は流れていく。


 半分位流した。僕はそこに、赤色を見た。


 え……?


 その中には、水以外の物もいた。

 僕の家で飼っている金魚だった。特徴的な水滴のような模様があるため、一目見るだけで分かる。


 でも、なんでこんなところに?

 誰も気付かなかった。水槽は毎日見ているはずなのに。


 死んでしまっているのだろうか。よく見ると、ヒレが欠けている。それ以外にも身体が壊れてしまっている。


 なぜ?


 気付かなかった。


 そういえば。ふと僕は、音が除湿器に近付くと大きくなっているように感じたことを思い出した。


 まさか、コイツが……?そんなことがあるのか?

 でも、もしそうなら……。あれは絶叫だったのか?

 もう、命は戻らない。

 せめて、前に進んで行くしかない。



 この時心に感じた鈍い痛みを忘れることはないだろう。

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