リザレクション

成井露丸

リザレクション

 三年前に双子の妹が死んだ。急な病気だった。

 明るくて、容姿も綺麗で、私なんかより男性からも好意を寄せられることが多い妹だった。ちょっと女性としてずるいところもあったけれど。それでいて勉強だって良く出来た。気立てだって良かったし両親から何かを期待されるのはいつも妹だった。その妹が死んだのだ。


 そして、後を追うように私も死んだ。

 妹の突然の死から一年も経たない頃だった、それは、自分で選んだ死だった。

 後悔はしていない。後悔しても仕方ないのだ。

 もう、私は死んでしまったのだから。


 その屍を越えて、私は、あなたと今、接吻キスをしている。


 そっと唇を離す。少し吐息が漏れる。上目遣いであなたの顔を見上げると、あなたは、少し照れ笑いを浮かべながら視線を逸らした。


「こんな場所で何やってるんだろうね」

 紺と灰色のポロシャツの上で照れた呆れ顔。あなたは階段の先を見遣り、誰も来ていないことを確認する。時々大胆なあなたも人並みの羞恥心は持っているのだ。


 人通りの少ない区役所の階段の踊り場。薄暗がりの中に白く光る蛍光灯の下で、私達は突然の接吻キスに興じていた。あなたが衝動的に回した左腕が、私の腰を後ろから抱き寄せるように支えている。くびれに絡みつくあなたの少し硬い腕の感触を、私は心地良く感じていた。


 ――もっと、引き寄せて欲しい、もっと締め付けて欲しい。


 そういう感情が横隔膜の下の臓器の辺りから突き上げてくる。それが愛情なのか、衝動なのか、強迫観念なのか、もう分からない。でも、確かな腕の中に居るのだと、私は自分自身に確信させる。確信させねばならないのだ。


「あなたはいつも衝動的なのよ」

「絵理子の方だろ。衝動的なのは。いくら一生に一度の記念日だからって、区役所で突然、接吻キスするなんて」

「あら? 私の方? あなたが急に抱き寄せたんじゃなくて?」

「違うよ。絵理子が首に手を回してきたのが先だよ」


 そういうと、あなたは「絵理子は昔から扇情的なんだよ」と冗談めかして嬉しそうに笑った。絵理子にはそういう面が昔からある。私にはそういう面があるのだ。

 ちょっと色っぽいことが好きなあなたに合わせている内に、私自身も随分とも破廉恥な振る舞いが板についてきた気もする。正直に言えば、私自身は、むしろ男性との距離のとり方がわからず、肌に触れることはもちろん、言葉を交わすことさえ出来ないタイプだった。

 こんな私になったのは、あなたの求める私になろうとしたからか、私自身の投影するイメージのせいなのかは分からない。でも、これが今の自分なのだと思う。


 初夏の平日にあなたは仕事を休んでくれた。私の仕事は時間の融通が効く。だから「婚姻届くらい、私が一人で出してくるわよ?」と言ったのだが、あなたは頑として聞かなかった。「婚姻届を出す時っていうのは、公式に結婚をする時なんだ。絵理子と僕が夫婦になる瞬間なんだよ。それを君だけに任せることなんて出来ないよ。一緒じゃなきゃダメ」それが、きっともうすぐ私の夫になる男性の見解だった。


 何を結婚のタイミングとするのか? 結婚において何を大切にするのか? それは人によって違う。入籍、結婚式、共同生活の開始、披露宴、セックス――。

 結婚というものの見方自体が多様化している現代で、入籍というタイミングを大切にするあなたは古風なのかも。でも、私はあなたのそういうちゃんとした所が好きだった。こういう気持ちは高校生の時から多分変わっていないと思う。


 区役所は五階建ての建物で、婚姻届を出す市民窓口は三階にある。私達は二階から三階に上がる階段の踊り場で絡まり合っていた。この階段の人通りはとても少ない。ほとんどの利用者は自動車でやって来て、各階には地下駐車場から続くエレベータで移動する。階段は使わない。

 あと少しの階段を上れば結婚生活の光へと飛び込める。その事実に私は少し興奮しているのかもしれない。どきどきする。いや違う、本当は不安なのだ。本当に不安なのだ。


 あなたは知らないが、私達が入籍するためには婚姻届提出の前に、もう一つだけ儀式を行わねばならないのだ。それを私だけが知っている。


 ――それは死者を蘇生する儀式なのである。


「でも、なんで婚姻届だけは窓口で書きたいんだい? 全部事前に準備しておいたほうが安心じゃないかい」

「ふふ……、良いじゃない? やっぱり署名サインは最後の瞬間にしなきゃ。ドラマチックでしょ?」

 あなたの首筋の肌に張り付いた手の平を外して、うそぶいてみる。


「そういうものかなぁ」

「そういうものよ」

 私の腰に絡みついていたあなたの腕も外れる。私は半歩後ろに下がり、背の高いあなたの顔を下から覗き込む。あなたの肌の感触が剥がれ落ちた右手を握り、お尻の後ろの左手で包む。


 ――嗚呼、この感触も、一生感じられなくなるかもしれないのだ。


「じゃあ、行こうか」

 あなたが、そんな私の左手を引き、昇りの階段に足を掛ける。

「ええ……」

 何一つ覚悟出来ないまま、私はあなたに手を引かれて三階を目指す。

 心臓は握り潰されそうだ。


 私は階段を上る。その先に在るのは儀式を執り行う祭場。

 きっと、誰も望まない蘇生リザレクションの儀式を執り行う祭場なのだ。


 今日、が復活する。もしかしたらは私から全てを奪ってしまうのかもしれない。



**********



 高校時代にあなたと出会った。

 背が高く、人当たりも良く、勉強も良く出来たあなたは、女子生徒達から密かに人気があった。いわゆるサッカー部のエースや、野球部のピッチャーのような華々しい人気は無かったが、あなたのことを「良いよね」と言っていた女子は一人や二人ではなかった。多分、私自身も、そんな女子生徒達の内の一人だったのだ。


 高校時代の私はどちらかと言えば奥手だった。他人からどう思われていたかは分からないが、奥手というのはそんなに間違っていない自己認識だと思う。友達が居なかった訳ではない。そういう辺りは良くも悪くも普通だ。普通に仲の良い友人は居たし、普通に一緒に御飯を食べたり、帰ったりしていた。でも、高校生の時、あなたと話す機会は殆ど無かった。その理由は単純に恥ずかしかったからだったし、勇気が無かったからだった。


 だから、ずっと見ていた。

 あなたに気付かれないようにずっと見ていた。

 秋のグラウンドで百メートル走を走るあなたを教室の窓際のクリーム色のカーテンにくるまりながら見ていた。昼休みに男子の友人三人で机に腰掛けて楽しそうに話すあなたを片肘を付きながら見ていた。放課後にあなたが落ち着きなさそうに誰かを待っている姿を少し離れた場所からそっと見ていた。

 見ていたから、気付くのだ。あなたがいつも誰を待っていて、誰を目で追っていたのかということに。

 あなたが目で追っていた姿。それは妹だった。私の双子の妹だった。


 妹は私と違って明るかった。快活で男子生徒の輪の中にだって物怖じせずに飛び込んだし、色よい容姿は男子の視線を自然と惹きつけた。

 双子なのに随分な違いだと思う。妹は異性交友にも積極的で、高校生の間だけでも、五回ほど彼氏が変わっていた。そして、あなたもまた、妹の放つ性の輝きに引き寄せられていた男子の一人だったのだ。

 ただし、あなたが妹と付き合い出すということは無かった。妹もあなたに気のある素振りを見せることは無かった。そのすれ違いは、当時の私の心を少なからずホッとさせたものだ。一方で、もちろん、私の方があなたと付き合い出すということがあったかと言えば、それも無かった。

 正直なところ、私は妹のことが羨ましくて仕方なかった。望んでもいないのに、彼から思いを寄せられている妹のことが妬ましかった。私は、妹に対する強い嫉妬に苦悩しさえもしていた。

 結局、私もあなたも、気になる相手を眺めていただけだったのだ。



 高校を卒業し、大学に入り、大学を卒業し、社会人になった。

 社会人になると仕事で人に会うことも増える。高校生の時のように、服装やメイクに横着し続ける訳にも行かない。

「お姉ちゃん、素材は良いんだからさぁ。絶対磨けば光るって。なんなら私がコーディネートしてあげようか?」

 社会人になって、必要に迫られた私は、高校時代、大学時代はあれだけ抵抗していた、妹のコーディネート、ファッション指南を遂に受け入れることにした。もともと、二卵性双生児とはいえ双子だ。容姿の素材はとても似ている。妹の洗練されたファッションを受け入れていくことで、私自身が驚くほど垢抜けて行くのが分かった。大人になって初めて気づく「ファッションって凄い!」である。

 ただ、どう見ても、なんだか趣味が妹っぽいのである。それは、まぁ、仕方の無いことだろう。


 それからしばらくして、妹が発病した。急遽入院となったが、病状は医者の予想より遥かに早く進行した。妹は持ち前の明るさで、病気に打ち勝とうと、色々な試みに挑戦しようとしたが、現実は無情なものだった。様々な抵抗を試みる、そんな暇さえ与えられずに、妹の命は何気ない呼気の中で吹き消された。



**********



「あれ? もしかして絵理子さんですか?」


 仕事の合間に立ち寄ったカフェで不意に声をかけられた。妹が死んで一年経ったか経たないかといった頃だった。ラテを注文してテーブル席を陣取ると、ノートパソコンを開いて一時間ほどの空き時間を潰していた。

 目の前には、いかにも仕事中の男性らしい、白いワイシャツに黒いスーツパンツ姿の背の高い男性が立っていた。少しだけ彫りの深い、人懐っこい笑顔。五年以上会っていなかったから、随分とお互い大人になっていた。でも、面影は十分に残っていた。それは、あなたでした。


 私を見つめる、懐かしそうな、そして少し熱っぽい瞳。高校時代のまだ純粋だった私のときめきが、なんだかくすぶり出した。私は、その時のあなたの問いかけに何と答えたものか思案した。

 偶然、出先で会ったあなた、もうこれから会うことも無いかもしれない。でも、あなたの瞳を私の体につなぎ止めたい。そんな夢魔の悪戯心のような欲求が頭をもたげ、言葉を紡ぐ私の理性を濃霧のように支配した。


「あら、久しぶりね。高校卒業以来かしら」

 机の上のノートパソコンの横に置いたカフェラテのカップを右手で取ると、ぎゅっと両手で包んだ。まだラテは温かい。

 下から見上げたあなたの笑顔は高校の時から変わらずに無邪気なままだ。思いがけずに仕事の途中の出先で高校の同級生に遭遇して、ちょっと嬉しい。そういう偶然は、それが仲の良かった同級生だったら、日常の良いスパイスとなって、ちょっとだけ興奮を与えるものだ。


「あ、やっぱりそうなんだ。久しぶり。――此処ここいいかな?」

 彼は私の座る二人席の正面の椅子を指さした。コクリと頷く。彼は「お言葉に甘えて」と荷物を机横のカゴに入れて、椅子の背もたれに手を掛けた。


「ほんと偶然ね。――仕事?」

「あ、うん。ちょっと外回りみたいな感じ。そっちは? もしかして、カフェで書き物をしている、物書きライターさんとか?」

 半分冗談っぽく、高校の同級生の職業を当てようとするあなたに、私は首を左右に振るって返す。

「私もあなたと同じような感じかな。お客さんのところへの訪問が続きであって。その間に一時間くらい隙間が出来たから、メール対応とかやっちゃおう、みたいな?」

 私は右手の人差指で、開いたノートパソコンの画面をつんつんと突付いて見せる。


「あっ、そっか。じゃあ、邪魔しちゃいけないかな?」

 そう言って、あなたはウェットタオルのビニール袋をピリッと破って、濡れたタオルを左手に掛けた。そして、濡れた白いタオルに、右手と左手の長い指を絡める。右手の甲まで念入りに拭くウェットタオルの白い広がりから、覗くあなたの五本の指先を、私は無意識に眺めていた。


「全然、大丈夫だよ。急ぎのメールはもう全部処理しちゃったから」

 右手の中指先の腹をノートパソコンの画面上辺に掛けて、スッと天板を下ろす。ノートパソコンを閉じる。手を拭き終えたあなたは「そう?」と答えて、フレッシュと砂糖を順番にコーヒーのマグカップに注いだ。


「本当に久しぶりだね。でも、覚えていてくれてよかったよ」

 熱いコーヒーマグカップの持ち手に指を通して口に運んだ彼は、無邪気な笑顔を浮かべた。その笑顔は私の胸を少しばかり締め付ける。


 あなたのことは高校時代は確かに好きだったけど、特にに引きずっているとか、ずっと好きだったとか、そういうつもりは全く無かった。大学生になって、社会人になって、多くの男性と出会い、時には恋もしてきた。今までお付き合いしてきた男性だって居なくはない。あなたのことは自然と忘れていたし、高校生の恋愛なんてそういう物だと思っていた。


 ――あれ? 私、この人のこと、そんなに好きだったっけ? 


 その時、私の奥底からじわりじわりと漏れ出した感情は、恋愛なのか、願望なのか、憧憬なのか。その水は床の割れ目から漏れ出して、徐々に私の心を濡らして、湿らせて、浸していった。


「もちろん覚えているわよ。あなた結構、人気のある男子だったのよ」

「……え? そうなの? 絵理子さんにそう言ってもらえるのは嬉しいなぁ」

 あなたの言葉もどこか思わせ振りだ。


「でも、流石に卒業して五年って長いわね。『全然変わらないわね』って言おうとしたけど、その言葉、飲み込んじゃったもん」

「そう?」

 首を傾げるあなたに、私は「そうよ」と頷いて見せる。

「絵理子さんも、その、随分と落ち着いたというか、大人っぽくなったというか……」

 そう言って、あなたは視線を泳がせた。私はそんなあなたの浮ついた様子を少しだけ複雑な気持ちで、でも、愛らしく感じながら眺める。


「ありがとう。なんだか、そう言ってもらえると、頑張ってきた甲斐があるって思うわ」

「そう? うん。僕もそうだな。何だかんだで、もう高校生じゃないしね。『全然変わらないね』じゃないよね」

 あなたの口元で上がった口角に、合わせるように私の口角も上がる。笑顔に笑顔がつられる。


 ――嗚呼、やっぱり、この人、いいな。


 それから二人で、三十分ほどの時間を、仕事や昔の話をして過ごした。久しぶりでも言葉は自然と出てきた、あなたの言葉は、昔と同じ様に、私の耳には心地良く響いた。

 少しカメラのアングルは違ったけれど、あなたの唇から紡がれる高校時代の風景は、間違いなく私が生きていた世界だった。だけど、高校の青春時代という舞台では、私という役者が観衆の注目を集めることは無かった。その劇のヒロインは、いつも私ではなかった。


 ――ピピピッ、ピピピッ

 出発時間を示すアラームが鳴る。カフェに入った時に、次の仕事に行く時間を忘れないようにと、あらかじめセットしていたアラームだ。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。


 私はノートパソコンを仕事鞄に仕舞って立ち上がる。

「ごめんなさい。……もう行かなきゃ」

 私が腰を上げると、あなたはコクリと頷いて、右手を上げる。

「お疲れ様。お仕事頑張って」

 私もコクリと頷いた。


 折角の楽しい時間だったけど、そういう時間は早く過ぎ去ってしまうものだ。

 私は残念に思いながら、席を離れた。後ろ髪は引かれた。


 その時、あなたが私を呼び止めてくれた。


「あのさ。もしよかったら今度、食事でも一緒しない? 積もる話もあるし。もっと……、もうちょっと話してみたいっていうか……」

 あなたが少し照れているのが分かった。


 私は、大人気なく、コクンコクンと、何度も首を縦に振った。それを見て彼は「良かった」と相好を崩した。そして、私達は、LINEと携帯の連絡先を交換してから手を振って別れた。


 その日の内に、あなたからLINEで連絡が届いた。二人での夕食ディナー約束アポイントメントだ。

 寝転がっていたベッドの上で、私は思わず起き上がり、姿勢を三角座りに切り替えた。すぐに返事した方がいいかな、ちょっと引っ張った方がいいかな。そんな高校生みたいなことを考えながら。スマートフォンの画面をスワイプする。返事はもちろん前向きに。スケジュール帳の上では、現在の再優先事項だ。


 私は久しぶりに浮ついている自分自身を眺めては、少し口元を緩めた。


 「積もる話もあるし」と、あなたは言った。高校時代の思い出話だろうか? 大学生になってから現在までのことだろうか? それが、どちらでも構わない。でも、どちらにせよ、きっとあなたの積もる話の中に、私自身は積もってはいない。私自身はそこには居ないのだ。

 それでも構わない。あなたとこれから一緒に居られるのなら、そこに新たな軌跡が生まれていく。軌跡は記憶を生み、また、人生の欠片を二人の間に積もらせて行くのだ。


 それから何度か二人で会い、LINEのメッセージを交わしながら、程なく私達は付き合いだした。そして、時間をかけて育んだ愛は、徐々に二人に新しい思い出と絆を生み、二年間の歳月は、二人を結婚という大きな決断へと導いていった。



**********



 二年間の濃密な時間は、高校の三年間の思い出の何倍もの記憶を私達二人の間に積もらせていった。

 過去に降り積もった記憶は、新しく降り積もった記憶によって、やっと、覆われたんじゃないかな?


 妹は三年前に死んだ。そして、私は二年前に死んだ。

 その屍を越えて、私は、あなたと今、接吻キスをしていたのだ。


 階段を抜けて区役所の三階に辿り着くと、婚姻届を出す市民窓口はすぐに見つかった。平日の午前中で、窓口はそれほど混んでは居なかった。順番待ちの番号札を取って、待合の長椅子で二人で並んでいると、十分も経たない内に私達の番号が呼ばれた。


 左肩に掛けていたトートバッグを椅子の脇に置いて市民窓口の前に並んで座る。あなたが右で、私が左。あなたは鞄からクリアフォルダーに挟まれた婚姻届と必要書類を取り出す。戸籍謄本に運転免許証。クリアフォルダーから取り出されて広げられた婚姻届は、あなたと私の氏名を除いては、全ての項目が埋められている。


 ――おめでとうございます。

 ――ありがとうございます。

 ――では、確認させていただきますね。あ、署名サインはまだなんですね?

 ――ええ、彼女が、そこは最後の瞬間に署名サインしたいと言っていて。……変わってます?

 ――とんでもない。居られますよ、そういう方。


 あなたと受付の女性が話をしている。言葉が耳には入ってきても、頭の中には入ってこない。私の頭の中は、不安と焦燥で溢れてしまっていて、どうしようもない。それでも、トートバッグの中に左手を差し込み、手探りで私自身の戸籍謄本を引きずり出した。そして、それを裏返したまま机の上に置いて、受付の女性に差し出す。

 俯きながら私が差し出す書類を、受付の女性は、あなたと話し続けながら、何一つ訝しがることなく業務的に受け取った。


 ――蘇生リザレクションの儀式が始まる。


 あなたが机の上に広げて署名サインを終えた婚姻届を、するりと私の目の前に動かした。「ほら、絵理子の番だよ」と。

 そして、ボールペンが一本、あなたから私の前へと差し出された。


 あなたの純朴な瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。その真っ直ぐな瞳が、真っ直ぐだからこそ、今は私の心を掻き乱す。


 私は瞼を閉じて心を決めた。


 あなたの名前が既に書かれた『夫になる人』の欄の隣、『妻になる人』の欄が私の埋めるべき場所なのだ。蘇生を告げる呪文スペルの書かれる場所なのだ。


 私はボールペンを受け取り、嗚咽を漏らしそうになりながら、瞼を熱くさせながら、婚姻届に向き合った。


 さぁ、儀式の始まりだ! 怖くても涙を流してはいけない!

 誰も望まない蘇生リザレクションの儀式を一人執り行うのだ。

 二年前に死んだ。私が殺した

 あなたを偽って、周囲を偽って、自分を偽るのもこれが限界なのだ。


 私は汗ばんだ左手で婚姻届の左端を押さえ、震える右手で氏名欄にペンを走らせる。ペン先にあなたの視線を感じながら。

 耳朶に吐息さえ掛かりそうな距離に顔を寄せながら、私に寄り添うあなた。


 あなたの瞳の色は、今、徐々に、幸福から困惑へと変わっていることだろう。


 そして蘇生リザレクションの儀式が終わった。


 名前の欄には、私が二年前に殺してしまい、そして、今、自分勝手に蘇生させた、戸籍謄本上の私の名前が記載されている。


 ――美恵子


 それが私の名前。


 『絵理子』は死んだ妹の名前なのだ。

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