本当の任務Ⅵ

 少女はそっとその花弁のような口を開く。その表情は僕の拒絶をそのまま包み込んでしまいそうなくらい柔らかく、温かいものであった。


「大丈夫だよ、ツルギ」

「うるさい、黙れ」


 顎の先から滴るのは雨か己の瞳から流れ出たものか、そんなことを判別できる余裕なんてなかった。絞り出す声は泣き声のようにかすれて上手く出ない。


「大丈夫……、大丈夫だから……」

 ナナは再び両の手を差し出すと、今度は僕の頭を抱きかかえるようにした。

「うるさい……」


「大丈夫……大丈夫……」

「うる……さい……」


 手にあったナイフはいつしか地面に落ちていた。

 ナナの胸に埋まりながら、空いた両手はどうすることもできず、ただ情けなくだらりと下げたままだ。


 絶え間なく鳴る雨音の合間に、微かに少女の鼓動が僕の身体を通して耳に伝わる。


 とても、優しい鼓動。

 その振動に、ふと別の振動が混じるを感じる。


 それは懸命に押し殺している少女自身の嗚咽であった。懸命に、本当に、それがわかる僕の胸が痛くなるくらい懸命にその小さな身体を強張らせ、それでも僕に気取られないようにと声色だけは優しく……、でもやっぱり微かにその端々を震るわせながら少女は言葉を紡ぐ。


「ツルギ……ごめんね……」

「っ……」


 ごめんね。 


 その短い一言に、僕の頭の中は瞬時に塗り潰された。息が詰まり、声すらも出せなくなる。


 ごめんね。それは一緒にこの旅を続ける道中、時折聞く、ナナの言葉。涙と一緒に聞く、僕の一番嫌いな言葉だ。


「ごめんね」


 ああ、なんだ……。


「ごめんね」


 ああ……。なんだ、そういうことか。そういうこと、だったんだ。

 徐々に思考が色を取り戻していく。


 ナナのその言葉で、ようやく僕はすべてを理解した。

 すべてを理解して…………、そしてすべてが、どうでも良くなった。


 ああ、本当に、僕は、この娘に対して、なんて取り返しの付かないことを……。


「違うよナナ、僕がそう願った。そうだろう?」


 声は上手く出ていなかったが、それでも僕の頭を抱きかかえているナナの耳には届いた筈だ。

 だが、ナナはその問いには答えてくれなかった。


「ナナ……ごめん、ナナ……僕は……」

 ナナは僕の頭に頬を擦りつけるようにして首を振る。

「わたしがツルギに辛い想いさせた。大切なものもたくさん奪った。だからごめんね」

「違うよナナ、違う……」


 色々伝えたいことがあったけれど、もう言葉を紡ぐ気力すら残されていなかった。

 かわりに両手でナナを抱きしめた。手にはあまり力が入らなかったが、代わりにナナが強く抱き返してくれる。その小さな腕で、強く、強く……。


 そんなことをしても、僕のやったことは、この娘に押し付けた自分勝手な願いが無かったことにはならない。


 わかっていながらも、そうしていないと雨に濡れてすっかり脆くなった僕の中の何かが崩れてしまいそうであった。



 *  *  *



 柔らかい花のような香りの中で目が覚めた。


 身体の上に微かな重みを感じる。

 頬のあたりに何かが触れ、くすぐったかった。

 眼球に貼り付いた瞼を無理やり開くと、眩い光が目に入り、思わず目を細めてしまう。


 ぼんやりとした視界の中に見慣れた少女の姿。

ベッドの横に椅子を置いて僕の胸の辺りに頭を乗せて小さな寝息を立てている。


 ナナは既に僕のことを食べていた。


 ごめんね。


 ナナの言葉がまだ耳に張り付いて離れない。


 ナナが僕の憂鬱を食べる度に口にしていたであろう言葉。


 それはナナがやりたくてやっていたことではないから。だから、幾度も謝り続けながら、涙を流しながら、それでも無理にやらなければならない状況の中で、身を削りながら、その幼い精神を擦り切らせながら、それでも必死にやっていたに違いない。そのようなことを、ナナから、ナナの意思で提案できよう筈もない。そもそも冷静になって考えれば、ナナのような人間に捕らえられた鬼には、そのような機会も権限も無い。ならばこれを提案できる人間は自然と一人に限られる。


 そのことに僕はまったく気付いていなかったのだ。いや、忘却していたのだ。過去の自分自身が自分自身の意思で。

 牢に捕らえられていたナナがこのような任務の提案をできるわけがない。そう考えれば必然、僕が国に提案をした以外に考えられない。


 一体どんな気持ちで過去の僕は国に対してそんな提案をしたのだろう。

 この少女が牢から解放されて、自分の憂鬱な感情や記憶も消えて、一石二鳥とでも考えたのであろうか。


 ふざけている。


 本当に、どういうつもりで。


 湧き上がってくる自身に対する怒りを抑え、極力優しい力でナナの頬に触れた。


「ひゃっ!」

 ナナはびくりとして飛び上がるように顔を引っ込めた。


 知らず知らずのうちに眠ってしまったのであろうか、恥ずかしそうに顔を赤くしていた。


「おはようナナ」

「おはようツルギ」


 お互いに偽りの名前で挨拶を交わす。

 まったく、あとかたもなく食べてくれたら、どんなに楽だろうか。

 たった今湧きあがってくるこの感情も全部。


 未だそんな矛盾した願望が、愚かな戯言が頭を巡っている。

 心底嫌になる。こんな自分が。


「ナナ、これが僕たちの本当の任務だったわけだ」


 何かを悟ったのか、ナナは何も聞こうとはせず、

「そうだね」

 とだけ、静かに言った。


 僕は自分が思っていた以上に自分勝手で卑怯な人間であった。過去の自分を恨んでも恨みきれない。


 酷い事をしたナナに対し、自分だけ苦しいものから逃れようとした。自分だけが目を背けようとした。挙句の果てにはナナの為にやっているという幻想さえ抱きながら。 


 時折見せる涙と謝罪の言葉の意味すら知らないまま、知ろうともしないまま、のうのうと。


「お金、払わないとだね。銀貨一枚」

「いらないよ」


 この先、僕はどう償えば良い。自身に償いと思い込ませてこの小さな少女に真逆の仕打ちを強いていた僕は、この先、どうすれば……。


「むしろ僕が払う。ナナ、僕の憂鬱を買い戻させてくれ」

「ダメだよ。わたしが一度食べたものは返せない。知ってるでしょ?」

「そうだった」


 ナナの嘲るような声色に自嘲めいた笑みが零れる。


「ナナ、もう僕の憂鬱は食べないでくれ。身勝手で都合の良い奴と思われて当然だ。でも、過去の僕が君にどんな約束をしたかわからないけど、僕はもう憂鬱を失うわけにはいかない。ナナに食べてもらうわけにはいかない」


「うん、ツルギがそれで良いなら。でもあの場所に戻るのは嫌だよ?」

「そうだね、だから国には内緒だ」

「これからどうするの?」


 考えようとするが、今の頭でまともな考えが浮かぶ筈もない。


「僕とナナが一緒にいる理由を探す、なんていうのはどうかな?」

 そうそうに諦め、代わりに思考力が戻り切っていない僕の口を衝いて出たのは考えというよりも、単なる願望であった。それこそ幼稚な


「一緒にいる理由?」

「うん、だって任務を放棄するんだから、この先一緒にいる理由がなくなったでしょ? なら別の理由を探さなきゃ」

「理由がなくちゃいけないの?」

「いけないさ。だってそうじゃないと簡単に離れられちゃうでしょ? 僕は自分勝手だから」

「どんな理由?」

「それはわからないよ。でも離れる時うんと憂鬱になるくらいの理由じゃなきゃ、ダメだろうね。憂鬱の大きさで、僕の、ナナの、お互いの気持ちが計れるなら、それはそれはうんと大きな憂鬱が良い」

「理由を探すってことは憂鬱を探すってこと?」

 ナナはこくりと小首を傾げる。

「そう言い換えてもいい。僕はたくさん憂鬱を食べてもらっちゃったからその代わりだね」

「でもそんな憂鬱って、まるでフィリーネみたい……いや……あの……」

 話しながら急にナナはうろたえ始めた。何を想像したのだろうか。


「ナナ、もう少し近くに来てくれる?」

「へ!?」

「ナナの髪、良い匂いがする」

「………」


 ナナは 二の句が継げず、口を結んだままであったが、僕の要求内容を理解するとみるみるその頬を赤くしていくのが確認できた。僕も僕でかなり恥ずかしいことを口走っている自覚はあったが、まだところどころ頭の中がマヒしているのか、不思議とまったくそのことが気にならなかった。


「なんか、落ち着くんだ。ダメかな?」

 固まってしまって動かないナナにもう一度問いかけてみる。


 すると、口を結んだままこくりと頷き、

「別に……ダメじゃないよ……」

 僕の胸のあたりにそっとその小さな頭を乗せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ツルギとナナ~melancholy search of a youth and a tiny devil~ 所為堂 篝火 @xiangtai47

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ