本当の任務Ⅴ
行く当てもなく僕はシエナの宿に戻ってきた。この様な状態でも辿り着くことができたのが不思議だ。
肩で押すように扉を開くと、未だ覚束ない足でふらふらと自室への階段を目指す。
「ツルギさん! 今までどこに!? ツルギさん!?」
何か聞こえた気もするが、その音はくぐもったように良く聞こえない。
――僕はまた人を傷付けた。
外の声は気にも留めず、ただひたすら自身に問い掛ける。
――僕はこれからどうすれば良い。
「ツルギさん! ツルギさん! ナナちゃんは心配してツルギさんを探しにっ! ツルギさん!」
ナナ?
ああそうだ、僕はナナの為に……。
瞬間、自分という闇の中に光を見た気がした。
その消え入りそうな光を、漆黒の中から無様に手を伸ばし、それでも僕は必死に掴もうとする。
僕はナナの為に、だから僕は間違っていない。
ナナの為ならどんな指令だって黙って聞く。どんな汚いことだってやってのける。人だって傷付けても構わないんだ。
僕にはナナがいる。
圧倒的な闇の中でも僅かばかりの光を見つければそれに縋らざるを得ない。人の頭とは都合の良いようにできているようで、それは僕という人間においても例外ではない。それがわかっていながらも、縋らなければ生きていけないのである。
「ナナ……」
呻くようにナナを呼ぶ。部屋を見渡すが、あの幼い少女の姿は見当たらない。
「ナナ……」
もう一度。
僕はナナの為に今の仕事をしている。僕は人間だ。自分の為でもあるが、それは今までの酷い行いを悔いているからだ。ちゃんと、そう思えている。僕は、まだ人間だ。他に何も考えなくても良い。僕が今までどんな人間で、これからどんな人間になろうと、ただあの娘の為に、それだけ考えて生きていけば、それで良い。
他のことはどうだって良いんだ。
ふらふらとした足取りでナナのベッドに倒れ込む。その振動でベッドに置かれていたままのナナの鞄が床に落ちた。ばさりと何かが床に広がる音がして僕はすぐに体を起こす。
床に振りまかれたのは恐らくナナが国へ提出する為の報告書だ。
内容や項目は一切知らない。だが、ぼうっとした視界に広がる紙は表向きに広がってしまっている。それをベットの上から虚ろに眺める。
眺める限りではどれも複製された同じ内容のようだ。
いけないとは思いつつも、今の僕にはそんなことを気にする頭は残されていなかった。
ほとんど無意識に近い感覚でその中の一枚を拾い上げると、散らばった書類をまとめることも忘れ、ベッドの上で目を通す。
項目の記載はどれも簡素な箇条書きで、項目と項目の間に都度内容を書き記す為の空白が空いている。
◆レポート対象期間
◆食欲
◆睡眠
◆体調
◆疲労の度合い
項目を順番に確かめる。
ナナが普段どのようにこの項目に沿って記載をしているか、当然見たことは無いが、「食欲」だけは僕でも評価できる。ただ、あのナナのことだ、もしかしたら過小評価して記載するのかもしれない。項目だけが列挙された用紙を眺めていると幾分か気持ちが落ち着いてきた。ナナの食欲に対する意地悪な妄言に笑みさえ零れた。
早くナナに会いたい。勝手に書類を見たことは謝らなければならないだろうけれど、ナナの好きなお菓子をたくさん買って、それで機嫌を取ろう。必要経費だ。もしかしたらうっかり「食欲」の項目を話題に出してからかってしまうかもしれないが、その時は大目に見てくれ。
◆怪我の有無とその度合い
◆現任務に対する意欲
◆感情の起伏
続けて項目を読み進める。
感情の起伏? こんなもの自分自身で正確な判断ができるのか。それもあのナナが。
国の連中はつくづく阿保だ。こんな質問、それこそその時の感情の起伏によって左右されてしまうのではなかろうか。
心の中で辛辣な言葉を吐く。半ば八つ当たりにも近い感覚だ。最早自制心が働く程の余裕が無い僕は、もう二つ三つ節操を欠いた汚い言葉を「国」に対して浴びせると、続きに目を移した。
◆前任務に対する口述の頻度とその内容
◆記憶の混濁の有無
記憶の混濁……。記憶の混濁……。
一体何のことだ。
頭が混乱する。落ち着きかけた揺らぎは、急に大きな波となって僕の内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。僕は急に続きの項目を読むのが恐ろしくなる。微かに用紙を持つ手が震えた。
だが、止められない。その深淵を覗くことを。
◆No7の特異的捕食能力による記憶と感情削除の進行度
◆No7に対する不信感とその兆候有無
◆No7から見た記憶と感情に対する特記事項
「やめろ」
無意識に口にしたその呻き声は一体誰に対してか。頭の中ではただその「やめろ」を連呼し続けた。
それでも用紙を持った手は石のように動かず、ただ微かに震えるのみ。目は瞬きすら許してくれない。乾いた己の眼球のみが心の声に反して貪るように蠢き、そして最後の項目を暗く濁った瞳に写し取った。
◆精神浄化による軍務復帰の可能性
そこで初めて僕は用紙から手を放した。ひらひらと床に落ちた用紙は床の散らばりに混ざった。
「もう……やめてくれ……」
もう、誰も信用できない。
気が付けば雨空の下、僕は飛び出していた。
最近走ってばかりいる気がする。
そのあとは勢いを無くし、まるで酔っ払いのような、立っているのも不思議な足取りで歩き続けた。
時々尻餅を付いてはのろのろと起き上がり、それでも少し進んだ先で再び情けなくへたり込む。そんなことを幾度か続けた挙句、ついには腰を上げる力も失い、ざらついた木の肌を背に項垂れていた。
あとはただ、沈んで行くしかなかった。雨空の薄闇に身を任せて。
ゆっくりと染み込む冷たい感触が、過去の雨と泥に塗れた記憶を呼び起こす。
吐き気がした。喉の奥から泥のようなものが込み上げてくる。
このまま、どろどろとした暗い記憶の中に混ざり合って消えて行きそうだ。
手には力が入らない。
瞼が重い。
辛うじて動かせる口から声を絞り出す。
「ナナ……僕を食べてくれ……」
いっその事、跡形もなく、何もかも全て。
誰に聞こえる筈もなく、その声は雨の音にかき消される。
重たくなった瞼を閉じ、空気と一体化するかのように身じろぎ一つしない。
時間がどれくらい経ったかもわからない。ただ、雨音の中に水を弾くような足音が聞こえてきた。
それは小さな小さな足音。ぱしゃり、ぱしゃりと、どんどんこちらへ近づいて来る。
目を開くと見慣れたシルエットがそこにはあった。
暗闇の中でもわかる濡れた白い髪を顔に張り付かせ、泣きそうな表情でこちらを覗き込む。
「ツルギ……」
優しい声で僕の名を呼ぶ。僕の偽の名を。
そして両手で包み込むようにして両の頬に触れた。
雨に濡れているにも関わらず、その小さな手は温かく、顔、体、両手、両足へと、順々にその温かい何かは広がっていく。
心地良かった。
このまま眠ってしまいそうだ。
僕の中に満ちた冷たい何かが吸い出されて、代わりに温かい何かが満たされていくような、そんな浮遊感に、色々なことがどうでも良くなってくる。
僕は今……どうなっている……?
僕は……。
微睡に飲み込まれる間際、僕は気付いた。
〝僕は今鬼に食われている。〟
何故? 僕がそう願ったから?
違う! そんなつもりじゃないのに……。
「やめろ!」
ハッとなって僕はナナの体を突き飛ばした。ナナはばしゃりと泥に背を付け倒れた。それと同時に力を振り絞ると、後ろ手にナイフを引き抜き、そのまま眼前で這いつくばる小さな身体に突きつける。
「僕に触るな! 化け物が!」
震える手でその小さな体に向けられた刃には、未だ真っ赤な血がべっとりと付いており、雨に流され滴るように地に落ちると薄く滲むように広がり、すぐにわからなくなった。
だが刃を向けられた少女はスッとその小さな瞼を細くすると、白髪が張り付いたままの口元に優しい笑みを作った。
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