本当の任務Ⅳ

 女の声が聞こえた方へ振り返ると、先日レンカと名乗った吸血鬼の女が階段から降りてくるところであった。


 今まであの踊り場でこちらの様子を眺めてたのであろうか、着物を両手でたくし上げ、眩いまでの素足が晒されるのも厭わず階段を駆け下りてくる。


「おぬしは信用ならん……。そのような……ああ恐ろし……。おぬしのような狂人は……」


 荒い呼吸混じりに言葉を吐き出すと、僕が先程放り投げたブレードを拾い上げた。そしてそれを両手で掴み、胸の前で構えた。


「レンカ……何を……」


 戸惑いを見せるレナードに一度も視線を移すことなく、真っすぐとこちらを見据えている。


「おぬしに染み付いた血の匂い、その眼、狂っておる。まさしく人殺しの狂人じゃ。わらわだけであるならば見逃したが、おぬしはレナードの顔を見た。正体を知った。であれば、国の人間をこのまま帰すわけにはいかん。そう、このままでは……」


 女の目はあの時、僕が心の中で殺そうと考えてしまった時に見せた表情のままであった。両手で構えたブレードをキチキチと震わせ、僕の方へ駆け出した。刃を真っすぐにこちらへ向けて。


 キモノを纏った足では速く走れる筈もなく、距離も十分にあったので躱すのは容易い筈であったが、何故だか僕の足は固まったように動かなかった。


「どうして……」


 僕は殺すつもりなんてないのに……。

 僕が狂人?

 僕にはもう人の心が無い?

 でも僕は……。


 心の中で言い訳を繰り返し、見える筈のない自身の瞳を必死で見ようとする。心でいくら都合の良い想像しようとも、女の放った「狂人」という言葉が反芻される度に、頭に映る僕の瞳は酷く醜悪で…………。


 いや! そんなことを考えている場合じゃない!


 我を取り戻し、注意を頭の中の妄想から現実の世界へと、目の前の景色へと向ける。


 だが、もう遅かった。


 僕は一体どのくらい固まっていたのだろうか。突き出された刃は今まさに僕の胸に届こうとしている。


 考えるより先に、体が動いていた。


 極限まで圧縮された情景は音を無くし、自身の心臓の鼓動だけが鳴り響く中、僕の体は操り人形のように、意思とは関係なく、それでも気味の悪いくらいに妙に滑らかな動作でナイフを引き抜くと、突き出されるブレードをいなし、返す手でその抜き身を突き出した。


 刃が肉に食い込む懐かしい感触が手に伝わった時、ようやく僕は動作をやめた。


 次に聞こえたのは女の、ほとんど悲鳴のような叫び声。


 その声に、響き渡る残響に、僕の視界はようやく本来の景色を取り戻した。


「レナードぉ!」


 目の前には二人の人間。男と女。


「レナード! レナード! レナードぉぉ!」


 愛する女を庇い腕に傷を負った男と、それを抱きとめ子供のように泣きじゃくる女。まるで光のように眩い光景であった。


 闇は、光の前には無力だ。


 そして今まさに直面しているこの状況。悪しきものとされてきた鬼が光で、国に仕え正義である筈の僕が紛うことなく闇。


 闇。


 黒洞々たる、闇。


 僕という闇の存在が、光を前に存在を危うくされている。いっそのことこのまま影のようにかき消してくれればどんなに楽か。


 女は涙を流しながら恨むような、縋るような目でこちらを見上げる。


「ちっ違う……僕は……」


 一度は危うく、それでも己を保ち、ナナの為にと己を律し、決意の中である程度収まってくれたかのように思えた僕の中の、僕自身の闇に対する恐怖が、醜い膿のようにぼこぼこと膨張したかと思うと、弾ける一歩手前で収縮し、不気味に蠕動を繰り返した。


 その感覚に合わせ、不意に吐き気が込み上げてくる。


「ツルギ! 俺はいいから! 行け!」


 突如発せられたレナードの言葉を合図に、僕は逃げるように飛び出した。


 外に出た瞬間に打ち付ける雨と、込み上げる吐き気が決して錯覚ではない既視感となり、耐え切れず、僕はほとんど空の筈の胃の内容物を泥水に吐き出した。

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