第7話
コハク語り
峠道をこえてシオツ村に着いたときには、すっかり暗くなっていた。足を悪くしたおれがあまり速く歩けなかったから、ずいぶん時間がかかってしまったのだ。
シオツ村は小さな村で、日が暮れたいまは、もうまったく人は歩いていない。何軒かの家に、明かりがともっていた。雪が風にまってびゅうびゅうと音がした。フブキというやつだ。さっきは血まみれだったが、いまおれは雪まみれだ。サクヤも雪まみれで、とても寒そうにしている。
村には大勢のミノ兵がいておれたちをねらっていると考えていたのだが、じっさい着いてみると、兵はひとりもいなかった。しかしあちこちに、兵たちがいたあとは残っていた。雪を踏み荒らしたあと、何かをたくさん置いたあと、そのまま捨てていかれた刀や槍や、竹の棒、紙屑、小便のあと、そのほかたくさんのゴミ。
一軒の家の前に、年とった女がいた。サクヤが近づいて、村の宿がどこかをたずねた。女はおしえてくれたが、おれとサクヤを見て変な顔をした。とてもいやそうな声で、あんたがたイクサバからきなすったのかい、と言った。イクサバとは何だとおれがきくと、あんたオサムライかい? ときいた。そうだ、オサムライだと言ったら、ミノのヒトかいと言う。ミノではないと言うと、へえ。じゃあミノの相手の方だね? と言う。おれがそうだと言ったら、ミノの連中は夕方みんな逃げて行ったよ、敵がものすごく強くて負けそうだから、ひとまず南まで引くといって大あわてで出て行った。でもあんたはあれだねえ、あんまり強そうじゃないというか、あんたまだ子どもじゃないか。
サクヤが話の途中でわりこんで、あの、あたしたち先を急ぎます、道を教えていただいてありがとうございましたと言った。それからおれの手を引き、いこうコハク、と言った。
その宿は村のはずれの山際にあった。二階建てのまあまあ大きな建物で、窓には明かりがついてとても温かそうだった。まわりはもうすっかり暗かった。夜だ。雪がひどい。
「こっちのヒトはオサムライさん? うちはいやですよ、戦にかかわるのは。うちじゃなくて、どこかの別のところにとまってくださいよ。ここよりもうちょっと手前に、いくつも陣屋があったでしょうに」
そう言って宿の主人はいやな顔をした。じつはここにくる前にも二軒、おれたちはそのジンヤというところで断られたのだ。おれたちを泊めると、またこんどミノの兵が村にきたときにつごうが悪いのだそうだ。
サクヤがふところから金をさしだして見せると、主人はいやな顔をしながら、じゃあまあ、一泊だけならいいですがね。だけどほんとに一泊だけですよ。せめて泥だけは落としてくださいね、部屋を汚したら、そのぶんのお代を明日いただきますよと言った。
一階の奥の部屋に案内された。おれとサクヤはもう風呂にもいかずメシも食べずに、そのままたたみの上に転がった。たたみはひどく汚れてしまったが、おれもサクヤも気にしなかった。たたみの上で、おれとサクヤはぴったりと体をくっつけて寝た。押入れにはふとんがあるのは知っていたが、ふたりともそれを出すのもめんどうなくらいつかれていた。
横になるとものすごい勢いで眠気がおそってきた。そのまま寝ようとすると、サクヤが顔を近づけて、寝るのはいいけど寝たまま死ぬなよ、朝起きたら死んでたとかはダメだぞ、と言った。だいじょうぶだ死なないぞとおれは言った。今はそれ、あんまり信じられないな、ほんとに血だらけでムチャクチャだよおまえ、と言ってサクヤは笑った。サクヤが笑うのはひさしぶりだったから、それを見ておれはうれしかった。寒いね、やっぱふとんを出した方がいいねとサクヤは言った。おれが起き上がろうとすると、いいからコハクはそこにいな、あたしが全部出すからといってひとりで用意してくれた。おれはサクヤの出してくれたふとんを頭からかぶり、そのままそこで寝た。
夜中に目がさめると、横でサクヤが寝ていた。小さく寝息が聞こえる。サクヤを起こさないように起き上がり、ひとりで部屋を出て、足をひきずりながら厠まで行って用をたした。部屋に戻ると、サクヤはまだそのまま寝ていた。おれもまたその横のふとんに入った。
「どこ行ってたの?」
サクヤが横からきいた。
「起きていたのか?」
「いま起きた。いま何時ごろ?」
「さあな? まだ夜中だ。朝はたぶん、まだもう少し先だろう」
「そうか。でもあれだね、すっかり明るくまる前に出た方がいいな。あまり長居もしてられない」
「そうだな。またヨウコの誰かがきたら、今度はおれは負けるかもしれない」
「傷は痛まない?」
「痛む。痛むが、しかし、がまんできるのだ。前にもこれくらいのケガをして、なめていたら、そのうち治ったのだ。だからこんども、なめておけば治ると思う」
「ワカサに着いたら、ちゃんとした医者に行けよ。オバマは大きな町だから、いい医者の二軒や三軒はあるはずだ」
「おれはイシャというものを見たことがないし行ったこともないのだ」
「そうか。ま、じつはあたしも医者にはかかったことはないけどな。ときどき父上のところに来てはいたけど」
「アケチマンシューは、なにかケガをしていたのか?」
「いや。病気だった。治らない病気。医者も来てはいたけど、けっきょく治せなかった」
「そうか」
「うん」
サクヤはそれっきり、口をつぐんだ。おれも口をとじた。外では風の音がした。雪はまだ降っているだろう。これからこえていく坂道が、雪ですべらなければよいのだが。
「なにを考えてるコハク?」
「雪のことを考えていた」
「雪か。ワカサはきっと雪だらけだろうね」
「道がすべるのは困るが、おれは雪はきらいではない。白くて美しい。おれは美しいものが好きだ」
「ふふ、たまには風流を言うじゃないか」
「フウリュウ? それは何だ?」
「ん、何でもない、気にするな。ねえコハク、」
「なんだ?」
「あれだね、ずっと今が、今のままだといいね。あたしさっきから、ずっとそれを思っていた」
「? 今が、今のままだと?」
おれはわからなくて、サクヤの方を見た。サクヤはこっちを見ずに、天井を見ている。
「だからつまり、明日が来なければいいなってこと」
「どういうことだ? よくわからないぞ?」
「いまここにおまえがいて、あたしがいて、寝る場所があって、寝る時があって。でも夜が明けたら、ぜんぶ、そうじゃなくなってしまう。あたしらはまた逃げて、あいつらは追ってきて、ワカサに着いたら着いたで、またもしかしたら、またすぐその先まで逃げないとダメかもしれない。そのあと、またいくつ戦があるかもわからない。いつまでたっても止まれない。そんな気がするんだ。だからコハク、」
「む?」
「ねえコハク、そっちのふとん、行ってもいいか?」
「ん? なんだ? 何かあるのか?」
「なんだか寒くて。いっしょにそっちで、寝ちゃダメか?」
「む、それは、まあ、ダメではないのだが、」
サクヤがこっちのふとんに入って来た。
体をぴたりとおれによせて、そのあと何も言わずに黙っていた。
サクヤの体は温かかった。
「だが、悪いな、サクヤ。おれはひどく汗くさい。おそらく血の臭いも――」
「だまって」
サクヤが、指を一本、おれの口に当てた。だからおれはだまった。
それからサクヤが、まっすぐにおれを見ながら、
サクヤがおれの口に、自分の口をつけた。なんだそれはとおれがきくと、ばか! そんなこときくもんじゃないんだ、ほら目ぇつぶれよ目! といって、また口でおれの口をふさいだ。おれは何か言おうとしたが、サクヤの口にじゃまされて言えなかった。だからなにも言わなかった。サクヤの口はとてもやわらかくて、とてもやさしかった。
ねえコハク、
なんだ?
なぜおまえはあたしをそこまで助けてくれる?
サクヤが問いかける。黒い瞳がおれを見ている。その目で見つめられると、胸が苦しい。息が少し、しづらい。顔がなにか、ぼうっと熱くなる。
おれはサクヤがとても好きだ。これまでよりも、もっとずっと好きだと思う。口と口でふたりがふれると、その好きの気持ちがさらに大きくなるからとても不思議だ。おれはいまとてもサクヤが好きだ。その好きの気持ちと重ねて、おれの心は、ひとつの言葉をおれに与えた。それはこういう言葉だ。おれは、このヒトを、まもるのだ。まもるのだ。まもるのだおれは。このヒトを、このヒトを、このヒトを。
あのサカモトの城で、おれの心の中に光の玉がおりた。光はおれにまもれと言った。だからおれはサクヤをまもった。
でもいまおれにはわかった。あの光る玉は、おれ自身の心だ。おれの心に、あれはもとからあった光だ。おれはそれをずっとずっと引きだしの奥に忘れていて、だからあのとき、外から光が心に入ったとかんちがいしたのだ。
でもちがう。それは外ではない。それはもともとおれのものだ。おれがもっていた光だ。いまここでサクヤといて、おれはとつぜんそれがわかった。おれにはわかる。それはおれ自身の光だ。おれの心なのだあれは。だからおれは、もともとのおれの心が言うことを、おれ自身の心のいいつけを、おれはいちばん大事にまもる。
なぜなら、おれの心はおれのもの。それはおれだけのものだ。ほかのだれにもそれは消せない。おれの中の光は、だれにも消せない。だからおれはその声をきく。ひとことももらさずきく。おれはだから、まもる。まもるのだ、このヒトを。どこまでも、まもる。
――なぜとか、理由は大事じゃないのだ。
おれは言ったが、まるで夢の中でしゃべるみたいだった。なにを言っているか、おれ自身にもつかめなかった。
おれはサクヤがとても好きだ。おれはおまえを死なせたくない。だから、それだけなのだ。おれの心が、それを言うのだ。おれの中の光が、それを言うのだ。おれの心はおれのものだ。だから、おれの心がほんとうに言うことを、おれは大事にするのだ。それだけなのだ。おれのアタマはおかしいのだろうか? おれはやはりほんとにバカなのだろうか?
ううん、ちがう。
サクヤが言った。小さいが、とてもはっきりとした声で。
それはね、きっと、おまえのつよさ
つよさ?
そう。そしてつよいだけでなく、おまはほかにもいろいろもっている。それってたぶん、とても大事なことだ。だからぜんぜん変じゃない。その光とか、その気持ち、ずっとずっと、大事にしたほうがいい。バカとか言って悪かった。おまえはぜんぜん、バカじゃない。
そうか。それならおれはうれしいぞ
だけどコハク、
なんだ? まだ何かあるのか?
あたしとこれより先にいったら、もう戻れなくなるぞ?
戻れなく?
死ぬかもしれない。こんどはほんとに死ぬかもしれない。おまえも、あたしも。おまえはほんとにそれでもいいの?
外では風が強くなった。バタバタと雨戸が音をたてた。サクヤの髪と肩がおれにふれている。
戻ることなど考えないのだ、とおれは言う。
戻らないのだ。おれたちは先に行くのだぞ。それだけを考えると良いのだ。そして死なない方法を、これから必死で考えながら走るのだ。それだけを今は考えるときだぞ。
ねえコハク、
なんだ?
あたし、おまえが好きかもしれない
そうか。おれもサクヤが好きだぞ
コハク、
なんだ?
コハク、コハク?
なんだ?
コハク、あたしはたぶん、おまえが好き
それはいまさっき聞いたのだぞ
いいよ何度でも。コハク、ねえコハク、
おれも好きだぞ、サクヤ
ならばコハク、もっと抱いて
む、ではもっと抱くぞ
はなさないで。ずっとずっと
はなさないぞ、おれは
コハク、
サクヤはまた、唇をつけておれの口をふさいだ。汗と血とサクヤのにおいがした。おれは、そのにおいも何もかも、ぜんぶを強く抱いた。ぜんぶ抱いた。おれはサクヤのぜんぶが好きだ。
夜明け前に宿を出た。出るとき宿の主人にあいさつはしなかった。部屋は汚くなってしまったが、カネを多めに置いて出たから、そんなにおこったりしないだろう。
風がつよかった。どう、どうと音をたてて山のあいだを吹きぬける。枯れた葉っぱが風にとばされて、道ぞいのあちこちに吹きだまっている。風には雪がまじっている。おれたちはその風にむかって、まっすぐ街道を北にむかった。この先しばらく行けば、オーミとワカサのクニザカイというところだそうだ。ざくざくと雪をふみながら、おれとサクヤは歩いた。おれは片方の足がだめだから速くは歩けなかった。道の右にも左にも山があった。左にはたぶん川もあるのだと思うのだが、谷の下は暗くてよく見えなかった。
やがてうっすらと夜が明けてきた。空は曇っている。重たい色の雲から、ときどき雪が落ちてきた。
「しかしなぜだ?」
「なぜとは?」
「そんな槍など、重いだけだろう。宿においてくればよかったのだ。おれがいるから、サクヤが戦うことはない」
「わからないだろ、そんなの。武器があればあったで、あたしもそこそこ戦力になる」
「気が強いのだな、サクヤは」
「悪かったな。だけどちょっとくらいは強くなきゃ、すぐにも死んじゃうよ、こんな世の中。生きていくためには―― ん、だけど、もうまもなくだ」
サクヤが道の先を見た。
「もうちょっとしたら、ぐっと見通しのいい場所に出る。その先の丘をこえたら、もうそこはワカサだ」
「くわしいのだな、サクヤは」
「前に一度、きたことがある。もう何年も前だけどね。そのときあたしは父上の後ろで馬にのっていた。そのときは春で、いまみたいに雪はなかった」
サクヤは顔をあげ、まわりの山や空を見た。サクヤはとくにうれしそうでもなく、悲しそうでもなかった。
「どうしたサクヤ?」
「ん、なにもないよ。ただちょっと不思議だと思って」
サクヤはどこか、遠くの山を見ている。
「前にここに来たときは、今日のことなど、考えもしなかった。五年や六年で、ずいぶん世の中は変わるものだ。なにか、そんなことを思ってさ」
なるほど、とおれは言い、その話は終わりになった。そのあとしばらく進むと、道の両側の山が遠く低くなった。サクヤの言った通り、谷は終わって、見通しのよい広い場所に出た。ここから道は、ゆっくりと上にむかって上っている。のぼり坂のいちばん上には空が見えた。重い雲のたれこめた冬の空が。
「あそこが国境(くにざかい)だ」
サクヤがまっすぐ坂の上を見た。風がひゅうひゅう吹いて、サクヤの髪を右や左に流している。
「着いたのだな」
「ああ、着いた」
おれとサクヤは坂をのぼりはじめた。
真ん中までのぼったとき、それが見えた。坂の上にたたずむ、ふたつの影。
おれは足を止めて、その影を見つめた。
「ん? どうしたコハク?」
信じたくはなかった。だが、やはり、何度まばたきをしてもその影は消えない。夢でもマボロシでもない。あれは、あれは、
「どうしたんだコハク? 何かある? 何? 坂の上に誰かいる?」
「気をつけるのだぞサクヤ」
おれは言った。
「あそこからくるのは、敵だ。とても強い敵なのだ。おれは死ぬかもしれないが、おれが死んでも、サクヤはひとりで先まで走れ」
「え? なに? なにを言ってるんだコハク?」
おれはサクヤの前に立って、その二つの人影をにらんだ。向こうもそこから、おれたちの方を見ている。そして少し、右側の大きい影が笑ったようだ。
サクヤ語り
「ずいぶん遅かったな。待ちくたびれたぞ」
声が飛んできた。その声は風の音に消されずにまっすぐ耳まで届いた。野太い男の声だった。
コハクがそっちをにらんでいる。なにか、悲壮な顔をしている。怯えてはいないけど、ひどくこわばったした顔をして。
「どうしたコハク? あれは誰?」
「イオウだ。もうひとりはシロガネ」
「イオウ?」
「ヨウコだ。しかも強い。力だけなら、ヨウコの中でも一番か二番だろう」
「やれやれ。いったいどれだけ多いんだ、そのヨウコってやつは―― あ、でも、もうひとりの方、あっちは女、だよな? あれもやっぱりヨウコ?」
「ああ。あれもヨウコだ。女だが、おそろしく強い。おそらくおれの五倍くらいは強いだろう。名はシロガネという。下がっていろサクヤ。おれがくいとめる。そのあいだに、できるだけ遠くまで逃げろ」
コハクが、坂の上にむけてゆっくりと歩きだした。あとを追おうとしたが、くるな、サクヤは逃げろ、と怖い顔で言う。なんだかよくわからないが、相手がとてつもなく強いんだということはあたしにもわかった。
坂の上に立っていた二人が、こっちにむかって道を下ってくる。女の長い髪が風になびいている。まるで雪みたいな白髪―― それともあれは銀髪、と言う方がいいのか? 着物も白い。真っ白だ。女はほっそりとして色白で、まるで伝説にある雪女か何かみたいだ。
そして男の方―― こちらはうってかわって、ゴツい。両方の肩の肉の盛り上がりがすごい。背丈もある。やたらと派手な橙(だいだい)色の羽織を着て、そしてその髪―― あれはまるで炎だ。グサグサとげとげ逆立った、荒ぶる炎のような黄色髪――
「よう、おまえコハク、なんでもイナリ様の敵にまわったらしいな? え?」
男の声が響いた。どこか少し、楽しむような荒い声。
「がははは、いい度胸してんぜコハク。まず、アタマがまともじゃねえわ、それは」
「黙れなのだ」
コハクが苦しそうな声で言った。コハクは一歩、また一歩、痛んだ足を引きずりながら雪の坂をのぼる。
一歩、一歩。
そしてまた一歩。
二人とコハクが、坂の途中で足を止めた。
一瞬で戦いの間合いに入る、その手前。
深く積もった雪の上で、二人のヨウコと――
コハク。
傷ついてボロボロの小柄なコハクが、雪の上で睨みあう。
もう止んだと思っていた雪が、またちらちら落ちてきた。
誰も動かない。誰ひとり動かない。
雪だけが舞う。白く、白く、世界を染めて。
「どうやらおまえ、本気でわたしたちと戦うつもり、ね?」
そこではじめて、女の方が。
髪の白いほっそりとしたヨウコの女が、口をひらいた。
その声はひどく美しかったが、とても冷たかった。
あれはたぶん、誰をどこで何人殺しても、少しも何とも思わない――
そういう感じの冷たさだった。背筋が少し、ゾッとした。
「ふたりと、ひとり。勝ち目はあるの?」
「黙るのだ、シロガネ」
コハクがぴしゃりと言った。そして刀の柄に手をかける。
「勝ち目は、あるものではない。つくるものだ。わからないのだ、戦ってみなければ。どちらが勝つか、負けるのか――」
「ふふ。ずいぶん勇ましくなった。あのときのチビの泣き虫ヨウコが」
女が着物の袖で口を隠してくすくす笑った。
とても冷たい笑い。そしてとても美人だ。けれどもその眼は限りなく冷たい。
「でもね、コハク。先におまえに告げておく。わたしとイオウは、今はおまえと争うつもりはない。そのために来たのではないの」
女が言って、心の読めない切れ長の薄い瞳をつっと細めた。
「? 争うつもりは…? どういうことだ?」
「わたしたちが用があるのは、そちら。むこうにいるアケチの姫なの」
「サクヤに手を出すな」
コハクが剣の柄を握りしめ、
ひとふりで敵を叩き斬る、その間合い。
そしていま、コハクの体が――
小柄なコハクの体が、むくむく、ざわざわとふくらんで、
たちまちそこに、茶色の毛をした獣が――
「おいおいおい。人の話を聞けってんだ。こら、」
男の方が、女とコハクの間に割って入った。
「いまシロガネが言ったことは本当だ。おれもなにも、おまえをぶちのめすためにここに来たわけじゃねえ。やるならとっととやってるわ。こんなちんけな間合いになる前に、このおれの牙でてめぇをいっぱつで仕留めるっての。え? そこがまだわかんねえのか? やい、コハク」
黄色髪の男が、なんだか少し面倒くさそうに言い、並はずれてゴツイその手のひらで、バサバサ不揃いな黄色の顎髭をさすった。
「……? なにを言っている? お前たちは、いったい、」
ザッ。
いきなり二人が、
その、ヨウコの二人が、男と女、
ふたりがいきなり、
雪の上にそろって膝をついた。
そしてそのまま、アタマを下げて――
雪の地べたに、ひたいをつけた。
なに? いったいあれは、何のつもり??
「そちらにおわすは、アケチサクヤ殿とお見受けする」
野太い声で、黄色髪の男が怒鳴った。
顔を地に伏せたまま、雪の上に土下座して。
「われら、妖狐衆のかたわれ、イオウとシロガネの名を持つ二者、おそれながら申し上げる。遅ればせながら、我ら、誉あるアシカガ将軍家の遠き末裔、アケチの系譜のいまや筆頭となられたサクヤ殿を守護するため、はるばるこの地まで馳せ… おほん、馳せ、参じ、候。ここより先は、我ら二人の守護のもと、ワカサのタケダの城下まで、つつ、つつがなく、案内(あない)、すべく――」
「ふ、いいのよイオウ。無理をしないで。そういう下手な公式のしゃべりは、どこか別の機会にとっておきなさい」
女がわずかに顔をあげ、横に伏せる大男に向かって笑いかけた。
「って、おいシロガネよ、今のおれの言葉のどこに不備ってものが――」
「よいから。続きはわたしが言おう、」
シロガネと呼ばれた白髪の女が、低く伏せたままで言った。
「雪の上より失礼いたします。アケチサクヤ様。まず申し上げるべきは、われらは敵ではありません。味方です。われら二人とて、天下の凶と蔑まれる妖狐衆の一翼を担う者には違いありませぬが―― それはイナリを―― あの悪辣なるヒガシヤマ御前を欺くための仮の姿。我らの真の主は、ワカサのタケダトヨノブ様。つまりあなたの大叔父上です」
「ええ? なんだって? タケダの叔父上の??」
あたしは言葉につまった。
いま、こいつら、味方って言った。
タケダの叔父上に仕えて――
え、でも、本当なのか? 本当にこいつら、叔父上の――
「すぐには信じて頂けぬのは、無理もないこと。しかしご覧いただければわかります。ほら、もう、聞こえませぬか? われらの後ろ。あの峠のむこうに控えるのは――」
ザッ、ザッ、ザッ、
音が。
いま足音が、そこにある。
ひとつやふたつではない。
十人。いや、百人。
いや、もっとだ。それよりはるかに多い、
ザ、ザ、ザ、
ザ、ザ、ザ、
そしてもう、それが。
見えた。あたしにも。
先頭の列。
綺麗にそろった緋色の鎧。
同じく緋色の旗印。
菱形の白抜きに、カタクリの花の紋。
間違いなく、あれは。
タケダの叔父御の旗だ。ワカサのタケダ家の。
真っ白な雪の峠を踏み越えて、
緋色の兵たちが続々と姿を現してくる。
緋色の鎧で固め固めたどっしりとした兵(つわもの)、また兵。
研ぎ澄まされた真新しい槍を天高く掲げて。
士気髙く、足並み揃えて。
ザッ、ザッ、ザッ、
ザッ、ザッ、ザッ、
そしてそこの雪の原に展開する数百の兵、いや、もっとか――
その数はもう、あたしには数えられない。
「おわかりいただけましたか。」
白い髪の女が、いまそこに立ちあがり、
雪風に髪を流しながら、後方にちらりと目をやった。
「あそこに見ゆるのは、ワカサタケダの主力、総勢四千の先鋒です。さらに後衛の三千を加えると、その数七千。これらがすべて、サクヤさまの味方です。そしてわたくしたち二人の妖狐を加えれば。これは戦力として、信じて頂けるに十分かと――」
コハク語り
「わ、わからないのだぞ、シロガネ、」
おれは何がなんだかよくわからなくなった。
さっきまでの戦う気持ちは、急にしぼんてしまった。
「なにが、どうなのだ? なぜおまえが、急に、味方する?」
味方、なのか? ほんとうに?
シロガネが、味方? そしてイオウも?
なぜだ? どうして?
「急に、ではありません。」
シロガネがおれの方をふりかえる。白い髪が、ふわりと風に流れた。
「ずっと以前から、イナリのことは良く思っていませんでした。忌むべき敵だと思っていました。ただそれが表に出ないよう、まるでイナリのしもべであるように、それらしく演技をしていただけ。おまえはもう少し、政治というものを学ばないとダメですよ」
シロガネがすずしく笑って、右手をおれに差しだした。おれのアタマに向かって。
おれはそれは攻撃なのかと思って一瞬身構えたのだが――
だがそれは、やはり攻撃ではなかった。
シロガネはおれに―― ただ単に、おれのアタマに触れただけだ。
その、白い冷たい指先が手がおれの髪に少しだけ触れた。
「大きくなりましたね、コハク。しばらく見ないうちに。そして少しは、強くもなったようで。でも相変わらず、怪我は絶えないようね」
「む、それは、その通りだが――」
そういえば昔――
おれがまだもっとチビで弱かった頃、なんどかシロガネの世話になったことがある。
そのときのことを、おれはいま、いまになって急に思い出した。
イナリさまに罰をうけてひどく腕を怪我したおれを――
たしかシロガネは、何かの薬でもって手当をしてくれた。
たしか背中に湿布も貼ってくれたような。そんな記憶も、かすかにある。
ヨウコの中でもとりわけ強くて冷酷で、あのメノウといっしょになって、そこらじゅうの兵らを眉ひとつ動かさずに蹴散らしてまわるおそるべき女という記憶が一番にあるが――
だが――
そうでない、おれを世話してくれたシロガネの姿も――
いま、もう、何年かぶりかでおれの心に、いま、ふと、思い浮かんできた。
そういえば夏に、おれにスイカを分けてくれたこともあったか。イチジクもくれたか。
どうやらおれには、いろいろ、もう忘れてしまった昔のことがたくさんあるようだ。
「おまえがクロガネと組んで、あっちこっちの国を荒らしているあいだ――」
シロガネがおれに向かってささやいた。あまり心のこもらない、その、いつもの冷たい声で。
「わたしは密かに、イナリの野望をくじく機会をしずかにうかがっていました。そして、そちらにいるイオウも。あれは見た目はたしかに少し、無学で粗野かもしれませんが。その実、いろいろ深いところで、あれはあれなりに、以前よりこの国の現状を憂いていたのです」
「お、おいシロガネ。それだとまるきりおれがバカみてえだろうが」
イオウが横から声をあげた。太い眉毛を曲げて、シロガネを睨みつける。少し怒っているようだ。
「そう? むしろ褒めているのよ」
「褒めてねえ。ぜってーそれ、バカにしてるぜ」
「もとい、おまえ、コハク、」
シロガネがふふっと笑い流して、そのあとおれの目をじっと見た。
まっすぐおれを見た。しずかに見下ろした。
とても冷たい目だ。
とても冷たく、深く、
寒い日の井戸のように透き通っているが、
そこには何も感じられない、怖い感じのする目――
「わたしはむしろ、おまえもいつかは殺さねばならないと。クロガネもしかり。いつかは敵として対面すべき愚かな相手と、今日までひそかにうとましく思っていたのよ。おまえはバカで、言われるままに、何でもイナリの言いなりになっていたから――」
「バ、バカと言うな。おれはただ、ただ、イナリさまが怖くて、その、」
おれはいろいろ、言い訳を言いたかったのだが、言葉がうまく浮かんでこない。
シロガネはおれのその言葉を最後まできかずに、
ほほほほ、と。なんだか妙な高い声で笑って、
そのあとおれの鼻を。
少しの力で、ふたつの指でぎゅっとつまんだ。とても冷たい細い指で。
まるで子供を、何か少し、意地悪をしてからかうように。
「だから少しホッとしました。嬉しかったのよ。おまえが反旗を翻し、アケチの姫を匿いながら北に逃げていると。その知らせを聞いたときには。」
「むぐ、」
「えっと、なんかまだよくわかんないんだけど、」
サクヤが、そばまでやってきた。
まだ少し信じかねるように、
シロガネの白っぽい、つるりとした顔をじっとみて、
それからイオウの、ごつごつした顔をじっくりながめ、
それから、うーん、とうなって腕を組んだ。
そしてちょっと困った顔をして、おれの方を見た。
おれもたぶん、ちょっと困った顔をしていたと思う。
このような話になるとは、少しも考えていなかった。
おれは今、ここで、二人のヨウコと戦って、
なんとかサクヤを逃がさねば――
それしか考えていなかったのだが、そこにきて、
いきなり言った。シロガネが。敵のはずの、その女が。
味方だと。
前々から、ずっと、イナリの敵だったと。
それをこっそり、どうやら、隠していた、などと。
にわかには、信じられない。
信じられないのだが。
だがひとつ、確かに信じられるのは、
いまそこに立つ、その女、シロガネ。
そしてその男、イオウ。
ふたりには、いま、少しの殺意も――
殺気というものが、まるでない。
殺しにくるなら、もうとっくにおれをここで殺しているはずだ。
だがそれをしない。するそぶりも見せない。
そこのところだけは、あまりアタマがよくないおれにも、
おれにもそこだけは。
そこだけはわかったのだ。
戦いは、どうやら避けられたと。
そのことだけはどうやらおれにも、じわりと、今ようやく、
ようやく理解が、できるようになり――
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