第5話

語り手知らず 


 時刻は夜。場所はキヨの都の東方・七条山の御殿。


 御殿、などという風雅な名がついているが、その外見はまったく御殿にふさわしくない。暗々とした深い山の上にそびえる青黒い色をした山城。切り立つ崖の上に、さらに高い壁をめぐらせ、来る者をことごとく拒むかのようだ。


 その最上層、青の間と呼ばれる奥座敷に、城の主のイナリが坐っている。青の間とよばれるだけあって、ふすまも壁も、すべてが青い。柱や床板さえもが、青黒い顔料でぬりつくされている。強い香がたかれ、部屋の中はうっすらと煙がかっている。


 イナリはいま、ひとりでそこに坐っている。外見は初老の女性。半分ほど白髪のまじった灰色髪を、肩ほどまでのばしている。けわしい眉、厳しい目。目のまわりのしわが、その厳しさをさらに強調する。目に痛いくらい冴えきった青の着物を堅く堅く着ている。真冬のつめたい床板の上にまっすぐに正座し、正面にすえた鏡を、じっと見ている。


 鏡にはイナリの姿は映っていない。かわりになにか別のものがそこにある。多くの色がそこにある。赤や黒や青の入り混じった、まるで絵具を水にぶちまけて流したような。イナリはその色を読んでいる。色の流れを読んでいる。


 な、に?


 イナリがかすかにうめいた。


 なにゆえ? 


 同じ? 


 昨日とまるで変わっておらぬではないか?


 イナリは昨夜も占った。その前の夜も占った。そしてその前も、その前も、その前も。


 占うたびに、見えるものは同じ。


 あふれかえる血煙。多くの屍。


 狂ったように剣をふる侍の群れ。


 とばされる首。ふみつけられる首。


 焼かれる村。焼かれる町。焼け落ちる城。


 海上を埋めつくす軍船の群れも、そのすべてが燃えている。


 この国全体が燃えている。


 生きたまま焼かれる人間。川を埋めつくす骸。高くそびえる骨の山。這いまわる蛆。そこを飛びかう蠅。蝿。蝿。


 なぜ、


 と、小さく声をもらし、イナリは鏡を両手で揺すった。すると色がまた変わる。


 そこに見えるのは、ひとりの女。


 修羅と修羅の戦いの渦中を、槍をもってかけまわる。女の周囲で血が飛ぶ。首が飛ぶ。女のゆく先で、死体が山をなす。すべての戦いの渦中に、その女がいる。生まれながらの戦神。争いの女神の化身。この国土に仇なす者。呪われし者。女が生きつづける限り、この国土から戦の炎が尽きることはない。


 激しい憎悪の目で、イナリは鏡の中の女をにらむ。まもなく女の姿は赤黒い血の海のかなたに消えた。そのあと鏡は色を失い、やがてそこには、夜の部屋でひっそりと冷たく光る銀の板が残った。


 イナリは鏡から手をはなし、ふたたび床の上で姿勢をただした。そのまま目をとじて、何かを長く強く思考している。ときおり目じりが、ひきつれたようにぴくりと動く。かわいた口の端がわずかに震える。


 やがて目を開いた。


 イナリは音もなく立ちあがる。


――ならばわたくしが、変えるまで。


 イナリはひとり、つぶやく。


 わたくしの手で変えてみせよう。


 変わらぬ未来? 変えられぬ未来?


 そのような未来など、どれほどのものか。


 この手で変える。変えてやろうぞ。


 あの娘は、いま、たしかに殺さねばならぬ。





ルリ語り


 イズの浜で、一緒にカニをとった。コハクはいつも探すのがうまい。ルリは下手。コハクが二十見つけるあいだに、わたしは二つ。ふてくされてべそをかいたの。コハクは笑って言った。泣くなルリ。ならばおれのをやろう。カニが少ないくらい、気にするな。ルリはカニをとる以外に、できることがいっぱいあるだろう?


 そのあとふたりは大きくなった。いっしょに戦に出た。出ないとだめだと、イナリ様が言うから。ルリはいやですと言って泣いたの。そしたらぶたれた。そのあと井戸に沈められた。息が足りなくて死にそうになった。それでしかたなく、戦に行った。そのあと何回も、行った。


 わたしは戦はきらい。血とか、そういうのは好きくない。でもコハクは、きらいではないみたい。遊びみたいなものだぞ。そう言って涼しく笑っていた。いつだったか、エチゴとの戦でルリがへまをして脚を折ったの。ニンゲンの兵に殺されそうになったルリを、コハクが助けてくれた。「弱いな、ルリは。おれがいなければ、いまごろ死んでいただろう」そのときもコハクは笑っていた。いつでもコハクは笑っていた。


 そして、いま。


 ルリは姉のヒスイと、ニンゲンの兵たちの先にたって夜の平野を走る。むかしはわたしより強そうに見えたニンゲンの兵。あれは今ではわたしを怖れる。むかしの泣き虫の女の子は、いまでは妖弧衆のひとり。うそみたいだけど、ほんとうだ。


 いまでも戦はきらい。大嫌い。けど、やらなければ、ルリが死ぬ。殺される。


 おそろしい人だ、イナリという人は。あの人にはむかったら、誰でも、命はない。


――ばかだ、コハクは。


 ほんとうにばかだ。勝ち目など、あるものか。


 ミノの追討軍は夜の闇をついてコハクを追う。コハクのつれたアケチのムスメを追う。わたしたちは、すぐに追いつく。そしてすぐにおまえを殺すの。ここにはヒスイもいる。わたしの姉。わたしより何倍もつよい。ヒスイは強く、情けを知らない。誰ひとり、戦って勝てる相手ではないの。勝ち目など、ほんとうに、あるはずもない。少し考えればわかること。ほんとにコハク、おまえはどうしてそうなの。昔からぜんぜん考えることをしない。ほんとにバカだ。バカだバカだコハクは――


「どうしたのルリ?」


 ヒスイの声に、はっとした。


「さきほどから、足が少し鈍っています。どうした? 何か考え事?」


「ううん、何でもない」


「本当に?」


「うん。ただ、思ったよりも遠いなと思って。すぐにも着くかと思っていたから」


「とは言え、間もなくです。さきほどまたいだのがアドの川。しばらく行けばマキノ原。目指すシオツは、もう目と鼻の先」


 暗闇のむこうで、ヒスイがささやく。一瞬も足は止めない。白の毛並が闇の中に見え隠れしている。わたしはその後ろ姿を見失わぬよう、さっきより足を速める。夕方まで必死でついてきていたミノのニンゲンたちは、もうとっくに後ろにおいていかれた。もとよりヒスイは、そいつらには期待もしてない。ま、いないよりはいるほうが良い、という程度。ニンゲンの足ならば、シオツまで、あと二日はかかるのでは?


「明日の朝、トラヒメからくる増援軍と、シオツ近くで落ち合う手はず。それに後ろから来ているミノ兵をあわせると、数は千と少し。コハクひとりに無駄すぎる戦力だとわたくしは思うのですけれど」


「イナリさまの御意向、ね?」


「そういうこと。あの方はすべてにおいて万全を好まれる方ですからね。さ、もう少し急ぎましょう。わたくしたちが遅れては、それこそどうにもならないのだから」


「でも姉さま、」


「なに?」


「コハクは本当に北へ?」


「おそらくは」


 脚をゆるめずに、ヒスイが言葉を吐く。雪の風が、行く手の闇からびゅんびゅん吹いてくる。


「東にも兵、南にも兵。そして西には我ら。ならば残るは北のみ。そしてシオツは、ワカサを目指す者が必ず通る道。頭の悪いコハクは知る由もないでしょうけれど、サクヤという娘は、少しは頭が切れるとか。必ずや北のタケダ、あるいはササクラのもとを訪ねようとするだろうと。そのような予想です」


「それもイナリさま?」


「ええ。もちろんわたくしにも、その程度の予想は最初からしていましたけれどね。加えて、湖東にはスズがおり、タンバ方面からはシロガネとイオウもこちらに向かっている。いずれにせよ、コハクらには逃げ道はない。そういうことです」


「なるほどなるほど…」


 なるほど。話を聞くほどに、コハクの無茶っぷりに腹がたつ。シロガネとイオウ。それにスズまで。どれひとりとっても、とてつもない力をもった恐ろしいヒトばかり。万に一つも、コハクに勝ち目があるはずもない。ほんとにほんとに、少し考えればわかることなのに。おまえはおまえは、いつもいつもバカでドジでマヌケで――




コハク語り


 夢をみた。夢にはイナリさまが出てきた。おれはそれが夢だとわかっていたのだが、それでもそこに立つイナリさまはこわかった。イナリさまはまっすぐおれをにらんでいる。場所はどこかわからないが、どこか青い部屋だった。壁も天井も床もぜんぶが青い。


 おれは、とくになにもしません、とおれは言い訳をした。おれは汗をかいていた。冷や汗だ。


 おれはただ、サクヤとワカサに行くだけです。それだけです。イナリさまにはめいわくはかけません。ほんとうです。おれはうそは言いません。


 アケチの姫を殺せ。


 イナリさまが、言った。イナリさまはもうおれの目の前にいて、その姿はのしかかるように大きくなっている。青い着物のはしがおれのアタマにかぶさって、きゅうに息が苦しくなった。


 殺せ。あれは人の世に仇なす娘


 いいえおれはころしません、とおれは答えた。とてもこわかったのだが、すぐにもその青い場所から逃げたかったのだが、だが、そのことだけは言わなくてはダメだと思った。


 いや、殺せ。わたしが命ずる


 声がまたひびいた。声はとても大きくてアタマが割れそうだった。


 おれは、ころしません。


 おびえながら、おれは言った。こわくてこわくて、歯が、がちがち鳴った。


 殺せ。


 いいえ。まもるのです。


 殺せ。


 いや、まもります。


 殺せ。


 おれはまもる。


 殺せ。


 いやだ。


 殺せ。




 目覚めると、月が出ている。空をおおっていた雲はすっかり晴れて、その広い夜空のてっぺんに月がある。まんまるい月。マンゲツというやつだ。舟はあいかわらず湖のただなかをただよっている。波はない。水はまるで鏡みたいにしずまりかえっている。


「起きたかコハク?」


 おれはうーむ、と背伸びをしてから、起きたのだぞ、と答えた。知らないあいだに、たくさん汗をかいていた。


「よく寝ていた。疲れていたんだね」


「サクヤは寝てないのか?」


「ん、まあな。寒いし、なにか眠れなくて」


「む、」


「きれいだな、月」


「そうだな。まんまるだ」


「とりあえず夜明けまで、このまま動かないでおこう」


「なぜだ?」


「方向。月が沈む方が西、日がのぼる方が東だろう?」


「たぶん、そうなのだと思うが」


「それを見ながら進む方がいい。いまうっかり間違った方に行ったら、もときたサカモトあたりに逆戻りってことも―― ん? どうかしたかコハク?」


「いま聞こえなかったか?」


「聞こえなかったかって、何が?」


「むむ、」


 その音は夜の湖のむこうから、たしかに聞こえてきた。


 ロン、ロン、


 ロン、ロン、ロン。


 ヒトの声ではない。ケモノの声でもなく、鳥でもない。かわった音だ。なんの音だろうかあれは?


「何か来る? 敵か?」


 サクヤがさっと身がまえる。おれは体をかたくして、音の出所をさぐる。場所まではわからないが、それほど遠くはない。


 


 ロン、ロン、ロン。


 ロン、ロロン、ロン。


 ああ、あの音、とサクヤは言った。いまようやく、サクヤの耳にも音が聞こえたらしい。


「弦の音だ、あれは」


「ゲン?」


「筝曲」


「ソウ?」


「音楽。楽器ってやつだ」


「楽器なのか?」


「たぶんそうだ。誰かがどこかで琴をひいてる」


「なるほど。しかし誰が、どこで?」


「さあ? こっちがそれをききたい」


 おれとサクヤは耳をすましてその音をきく。音は少しずつ近くなっている。というよりも、おれたちの舟が、すこしずつ、そちらに向けて流れているのだ。風も波もないのに、これはとてもおかしなことだ。なぜ舟が、かってに動くのだろう。


 むこうに明かりが見えた。赤い、ぼんぼりのようなものだ。最初は二つ見えたのだが、まもなく数が増えて、十五個くらいになった。


「へえ、あそこに島があるのか?」


 サクヤが舟から身をのりだす。ロンロンというゲンの音が、いっそう大きくなった。さらさらと水をわけて、舟が、まっすぐ音の方に進んでいく。


「おいコハク、舟が」


「わかっている。かってに動いているのだ」


「変だぞこれ。どうなっている?」


 黒い島影が、すぐそこに見えた。さっきまで近くに島などなかったと思うのだが、今はたしかに、そこにある。そこの水辺にならんだトウロウに、ぽん、ぽん、ぽん、と赤い火がともされている。その火のまんなかに、ひとりの女が座っていた。


 白っぽい着物を着た、ほっそりした女だ。水辺の砂の上に赤の布を広げ、その上に琴を置き、 ロン、ロン、ロン、と爪ではじいている。女の顔はここからはよく見えない。


 ロン、ロン、ロン。


 ロン、ロン、ロ……


 音がきゅうに止み、女が立ちあがった。おれも舟の上に立つ。からだをゆるくして、少し前かがみの姿勢をとる。女が何かをしかけてきても、すぐにサクヤをまもれるように。


「はは、そんなに警戒しなくて良いよ。誰もおまえをとって食ったりしないから」


 女が言った。ゆったりのんびりした声だった。のんびりな声なのに、舟のおれのところまでたしかに届く。考えてみればこれもフシギだ。女が左手を前にかざすと、舟が、進む速度を増した。風も波もないのに、するすると水をわって前へ進む。


「おいコハク何だこれ? 妖術? どうやっているんだこれ? あいつは何?」


 サクヤがおれの着物のはしをつかんだ。


「わからないのだ。わからないが、とにかく気をつけるのだぞサクヤ」


「あれは妖狐?」


「わからない。だが、たぶんそうではないのだ。ヨウコには、かってに舟を動かすことなどできないのだから」


 女の姿が近くなる。浜はすぐ目の前だ。


 ザ、と砂を踏む音がして、とうとう舟が止まった。浅瀬にのりあげたのだ。


「誰だおまえは?」


 おれは大声で言った。


「ぼくは紅女」


「ベニジョ?」


「くれないのおんな、と書いて紅女。でもあいにく、赤い服はあまり似合わない。うまくいかないものだね」


 水際に立つ女が笑って目を細めた。とても美しい女だ。整った顔立ちをしている。髪は黒ではなく薄茶色。そのサラサラした淡い色の髪を、ざっくり切ってそのまま流している。体はほそく、おれよりもだいぶ背が高い。それほど年寄りでもなく、サクヤほど若くもないのではないか。肌はとても白い。夜の中でその白さがきわだつ。着ている服と帯の色は、しっくりとおちついた玉子色だ。いったい何者だろうか?


「安心して。敵ではないから」


「……本当か?」


「まあ、信じるしかないよね。とにかくそこ、おりてきなよ。水の上は寒いでしょ?」


 おれはサクヤをふりかえり、どうする? ときいた。


「おりてこいって言われてもなあ。まあ見た感じ、いいやつそうだけど。あくまで見た感じだけどな」


「では、敵ではないのか?」


「わからないよそんなの。直接きいたら?」


 おれは女の方にむきなおる。


「では、おりるぞ。しかし変なまねはしないことだ。なにかしたらすぐに、おれはおまえを殺す。ヨウコの牙はするどいから、おまえなどは、すぐ死ぬぞ」


 おれは牙をむいて言ったのだが、それを見ても女はこわがる様子はない。首をわずかにかしげて、に、と笑っただけだ。


 おれが先におり、それからサクヤの腕をとって、女から目をはなさずに、気をつけて舟からおろした。サクヤとふたりで浅い水をふみ、まもなく砂の上に立った。


「ようこそ、ぼくの島へ」


 女が言った。


「紅女はいつだって恋する男女の味方だ。さ、あっちにおいで。ぼくの家に案内する。ちょっとした料理もあるし――」


「ちょ、ちょっと待てちょっと待てちょっと待て!」


「なに? どうかした?」


「こ、恋する男女ってどういうことだ? あたしがいつ誰に恋をした??」


「あれ? 違った?」


「違うにきまってるだろ!」


「いいよ、そんなにムキにならなくても。ごめん。じゃあ言いかえる。紅女はいつだって心を通わせた男女の味方だ」


「いっしょだろそれ! おまえ、本気で喧嘩うってるのか??」


「おいサクヤ、初めてのヒトにそれは失礼だぞ?」


「う、うるさいっ、コハクは黙ってろ。だいたい誰なんだあんた? なぜここであたしらを待っていた?」


「そういうキミは、アケチマンシューの娘でしょ? サクヤ姫、だよね?」


「? なぜそれを?」


「ふふ、キミはほんと、びっくりするくらい率直な娘だね。でもいいよ。ぼくはその率直さが、とても好きだ」


「おいっ。ぜんぜん答えになってないぞっ」


「とにかく。せっかくここまできたんだから、家までおいで。ほんとにすぐそこだから」


 女は琴をかかえ上げ、大事そうに胸の前にもつと、先にたって歩きはじめた。おれはサクヤと顔を見合わせる。


「どうするのだサクヤ?」


「どうするったって――」


「ひとまず、ついて行ってはどうだ? もしかしたら本当に良いヒトかもしれない」


「そうか? あたしはどうかと思うけど」


「料理があると言ったのだ。おれはとても腹がへったから、料理があるなら、行った方が良いと思うのだが」


「ま、うん、じゃ、行くか。あたしも腹ペコ」


「では行こう」


「じゃ、行こう」


 竹林の中を、道はゆるやかに曲がりながら続いていく。道のわきの地面に、あちこち明かりがともっている。そのせいで、竹林の中は夜なのに明るい。ロウソクか何かかと思ったのだが、顔を近づけてみると、そうではなかった。竹の切り株が、ほわっと光っているのだ。どうして竹が光るのか、理由はよくわからない。とてもフシギなことだ。


 しばらく行くと竹の林はおわって、また水辺に出た。そこに女の家があった。


「へえ、良さそうなところだな」


 サクヤは家を見て言った。おれもそう思った。赤色の柱と白壁を組み合わせた立派な家だ。壁のないわたり廊下がたくさんあって、棟と棟とをつないでいる。びっくりしたことに、わたり廊下の下には、さらさら流れる水があるのだ。よくわからないが、たぶん、さいしょから浅い水の上に家を建てたのだろう。だから廊下の下に水があるのだ。とにかくとても変わった家だ。


 女が手をかざすと、玄関の扉がかってにひらいた。中に召使いがいるのかと思ったのだが、入ってみると誰もいなかった。どういうしくみで扉が開いたのか、おれにはぜんぜんわからない。サクヤも不思議そうに首をひねった。


 おれはゲンカンでぞうりをぬぎ、黒びかりする廊下を歩いて奥の間に入った。部屋の真ん中に黒くて長い机があった。そこに料理がたくさんならんで、ぽわぽわ湯気がたっている。良い匂いがする。たぶんいまさっき作ったばかりなのだろう。


 感心して料理を見ていると、すわれば? と言って女がザブトンを出してくれた。だからおれたちはすわった。


「どうぞ。遠慮はいらない、好きなだけ食べて。これはお茶ね。あったまるよ」


 女はおれの前に、湯気のたつ水をおいた。


「ぼくはしばらく自分の部屋にいる。なにかあれば呼んで。すぐにもどってくるから」


 そう言ったきり、女は廊下のむこうに行ってしまった。すこしすると、どこか家の奥からロン、ロン、とまたあの音がきこえてきた。たぶん、あの女が弾いているのだろう。


「見た感じ、毒とかは入ってなさそう、だよな?」


 サクヤが竹のハシのはしっこで料理をつついた。


「毒かどうかは、食べてみないとわからないのではないか?」


「じゃ、コハクが先にどうぞ。毒見毒見」


「む、」


 おれはとりあえず、目の前にある魚料理を手でつかんでかじった。とてもうまかった。ちゃんとした魚だ。たぶん毒も入っていないのではないか。おれがそう言うと、サクヤも近くの皿の何かをとり、お、うまいじゃんこれ、と言った。


「こっちの料理もとてもうまいぞ」


「おいコハク、おまえちゃんとハシで食べろよ。さすがにそれは行儀悪いだろ?」


「む、しかしハシというのは、メンを食べるものだろう? これはメンではないから、手で良いと思うのだが」


「大間違いだそれ。そんな無茶な作法、誰におそわった? まったくこれだからコハクは。あー、それそれ、こぼれてるだろ、それ!」


「おお、こぼれたのだな」


「おい、そこにふきんがあるから、それでちゃんとふけよ!」


「しかしサクヤも、いまそれを手で持っているようだが、」


「こ、これはそういう料理だからいいんだ」


「そういう料理とそうでない料理を、どうやって見分けるのだ?」


「ど、どうでもいいだろ、そんなのはっ。とりあえず食べよう。むぐ、ん、ぜんぶうまいよ、これ。本気の上等料理」


 おれも腹がへっていたのだが、サクヤはもっとへっていたらしく、おれの倍くらいは食べた。たちまち皿をぜんぶあけてしまうと、サクヤはごろりと畳の上に横になった。おれもまねして横になった。おまえそれ食ってすぐ寝ると牛になるぞ、とサクヤが言った。おれはヨウコだから牛にはならないと言うと、じゃあデブのキツネになると言った。それならサクヤはデブのニンゲンになるのかと言うと、サクヤはおこっておれのアタマをたたいた。そこにさきほどの女が戻ってきた。サクヤがあわてて起き上がる。


「あ、いいよいいよそのままで」


 女は言った。顔が笑っている。


「二人がくつろいでくれたら、それが一番だから。へえ、だけどよく食べたね。まだ食べる? 食べるなら、追加を用意するけど?」


「いえ、もう十分です。ありがとうございます。たいへんなご馳走をいただきました」


サクヤがめずらしくていねいなコトバで言った。


「ふたりはお酒は飲む? 飲まない? じゃあ、ぼくだけで悪いけど、ちょっといただくね」


 ぱんぱん、と女が手を打つ。ひとりでに奥のふすまが開き、赤い杯をのせた盆がすうっと空中をすべってきた。盆はかってに紅女の前までおりてきて、そこで止まった。


「今のはどうやったのだ?」


 おれはびっくりしてきいた。


「え? ああ、これ? まあ、ちょっとした手品だね。そんなにたいした何かではないよ」


 女はおれを見て、に、と笑う。


「ま、やりたければ何かヒトの形をした召使を適当につくってそれに持ってこさせてもいいんだけど。でもぼくは、どこかの陰陽師みたいに女の式神をはべらせて酌をさせる、とかさ。ああいうの、好きじゃない。あれってすごく悪趣味じゃない? 女をバカにしてるよね。紅女はもっとシンプルなのが好きなんだ。あ、ごめん。これはぜんぜん大事じゃない話だから忘れてくれていいよ」


 おれには女の言ったことが半分もわからなった。サクヤのほうを見ると、サクヤも変な顔をしてだまっている。たぶんサクヤにもわからなかったのではないか。女は赤い杯に自分で酒をつぎ、とてもおいしそうにゆっくり飲んだ。


「いま、奥でお風呂を入れてる。もうちょっとしたら湯が張れるから、そしたら順番にお入りよ」


「ひとつききたいのだが、」


「なんだいコハク? ひとつと言わず三つでもいいよ」


「どうしてこんなに良くしてくれるのだ? おれにはそれが、よくわからないのだが」


 これはさっきからずっと気になっていたことだ。ふつうニンゲンは、なにか自分の得になるから誰かに良くするのだ。しかし、おれとサクヤに良くしたからといって、このヒトにどのような得があるのだろう。それがよくわからない。


 そんなにむずかしく考えなくてよい、と女は言った。


「これはね、単なるきまぐれ。遊びみたいなものだから」


「遊び?」


「むだに長く生きてると退屈もする。だからときどき、気が向いたらニンゲンあいてに遊ぶわけ。今のも、それ」


「む、ということはつまり、おまえはニンゲンではないのか?」


 おい、おまえは失礼だろ、とサクヤがおれの尻をつねった。ではなんと言えばいいのだときくと、あなた様とかそちら様とか、なんとでも言いようがあるだろと言ってこんどは耳をつねった。


「いいよいいよ、様とか、そういうのは抜きにしよう。好きじゃないんだ、そういうの。紅女って呼んで。それでじゅうぶん」


「では、ベニジョはニンゲンではないのか? もしかするとヨウコなのか?」


「いやいや、まさか。ぼくがヨウコに見える?」


「いや、あまり見えないのだ」


「でしょ? だからヨウコははずれ。ニンゲンに似てるけど、ニンゲンよりももうちょっと長生きな種族だな。あえて言えば仙女って感じ?」


「センニョ?」


「あえて言えばね。でもそれはニンゲンが勝手につけた名前。ぼくはあまり好きじゃない。だってそれ、なんか怪しいお婆さんって響きがしない? あるいは古臭い女神みたいな」


「む、どうだろう、おれにはそれはわからないが」


「まあとにかく、ぼくについてはそんな感じ。で、いわゆる仙女にもいろいろあって、いいのも悪いのもいる。ぼくはそのどちらでもない。とくにニンゲンに悪さをしないかわりに、それほどニンゲンを助けてもいない。ときどき気が向いたときだけ、嵐にまかれたイケメン漁師の舟を浜に返してやるとか――」


「イケメ? それは何の意味だ?」


「ん、つまり不細工の反対だね。カッコいいってこと。で、逆にそれが不細工ないけすかない漁師の舟だったら、そのまま見なかったことにして溺れてもほっとく、とかね。わりと適当なんだ。気まぐれというか、不真面目というか。ま、だからその程度。あとは好きなだけ琴をひいて、それ以外の時間は家で寝てる。それだけ。そういう、毒にも薬にもならない怠惰な女なんだ、ぼくは。別の時代だとそういうのはニートと呼ばれて忌み嫌われるんだけど。幸いぼくはこの時代にいるから、弁天さまとか、それなりの扱いだ。ほんとにラッキーだよね、これは」


 紅女はまた笑って、ひとりでまた一杯、酒をくみ、とてもおいしそうにひとくちなめた。


「今夜ふたりを迎えたのも、ほんとの気まぐれ。おもしろそうな二人が逃げてて、なにやら大変そうだ。都合のいいことに、ぼくの家のすぐそばまで舟できている。じゃ、ここはひとつ、ちょっとだけ手をかそうかって。それだけ。仙女はね、良い目と良い耳を持っているんだ。だからずっと前から知っていたよ、キミのこと」


「む、おれを知っていたのか?」


「もちろん。キミがサカモトの城でサクヤの命をすくったときにも、こっそり遠くから見ていた。おもしろそうだったから」


「おもしろそう?」


「一時はどうなるかとドキドキしたけど、でもあれはよかったよコハク。すっごくよかった。かっこ良かった。ぼくはとても感動した。あれこそ愛だよね。すごいよコハク。そのあともよく逃げてよく戦ったよ。なかなかできないことだ。ぼくはああいうピュアさに弱いんだな。すごく応援したくなっちゃう。あんなにドキドキしたのはひさしぶりだ。ほんとに何十年ぶりかな。あー、思いだすだけでもまたドキドキしてきたよ。すごいよコハク」


「おいコハクコハク、」


 サクヤがおれの着物のそでをつかんだ。


「やばいよ。あいつ本気で仙女かもしれない。それか、酔っぱらって本気でアタマおかしいかのどっちかだ」


「どっちなのだろうか?」


「わからない。でも舟をあやつったのとか、さっき酒を出してきたのとか、あれはちょっと普通じゃない。だからやっぱ仙女じゃないのか。あまり無礼なこと言っておこらすとまずいぞ」


「おれは無礼なことを言ったことはないぞ」


「いっぱい言ったろ?」


「言ってないのだ。言ったのはサクヤではないのか?」


「あたし? あたしが何を言った?」


「ほらほらもめない、そこ」


 紅女がむこうで笑っている。


「さ、もう湯が張れたよ。入りたければどうぞ」


「しかしおれは、あまり湯は好きではないのだが、」


「そう? だったらそのまま寝てもいいし。寝るんだったら、廊下をまっすぐ行って左のつきあたり。そこが寝室。いちおう布団は二つ用意した。そうしたければ、二人でひとつを使ってくれてもいい。それはまあ、お好きに」


「二人でひとつを?? お、おまえそれ何言ってん――」


 おれはあわててサクヤを止めた。


「おいサクヤ、無礼を言ってはダメと言ったのではなかったか?」


「言ったさ。言ったけど、だけどあいつ――」


「ごめん。冗談だってば」


 紅女は笑って、自分の顔の前で杯を左右にふった。


「ふふっ、ほんと若いなあサクヤは。なんというか、それくらい反応が良いと遊びがいがあるよね。いや、ごめん。つまらない冗談だ。もう言わない。じゃ、あとはそれぞれ好きに過ごしてよね。ぼくはここでもうちょっとだらだらお酒を飲んでいる。おやすみサクヤ。おやすみコハク。たぶん、また明日の朝にね」


 サクヤはそのあと風呂に入ると言った。おれはひとりでそのシンシツというところに行った。広いたたみの部屋のまんなかに、フトンがふたつ敷いてあった。フトンのそばには新しい着物がおいてある。おそらく寝間着なのだろうと思ったが、着がえるのもめんどうだからそのままにしておいた。横になるとすぐに眠くなった。そのまま寝た。夜中にまた、ロンロンロンと琴が鳴る音をきいた気がしたのだが、それがほんとうだったのか夢だったのかは、よくわからない。




サクヤ語り


 ぜいたくなヒノキの風呂から上がると、いつのまにか新しい着物が用意されていた。上質な木綿の、いい色の寝間着だ。あたしは遠慮なくそれを身につけた。まるで測ったみたいに体にぴったりだった。何から何まで、あの紅女というヒトはほんとうによく気がつく。


 廊下の奥の寝室は、ほんのり明かりがともっていい感じに暗かった。手前のふとんで、コハクが寝ていた。起きてたら、少しは話がしたかったのに、もう完全に爆睡。いたずらでお腹をふんでも起きない。子どもみたいな無邪気な寝顔で、すーすー寝息をたてている。こうして寝顔を見るかぎり、ヨウコだとかそういうのがまるで嘘のようだ。この小さな体のどこに、あのとんでもない力が眠っているのだろう。


 あたしはこっそり顔を近づけて、コハク、とささやいてみる。ん、と寝ぼけた返事が返ってくる。コハク。もう一度呼んだら、今度は返事はなかった。あたしはもう少し顔をよせ、コハクのほっぺたに、こっそりかるく口づけをしてみた。あまりどきどきはしなかった。なんだか弟に口づけをしたみたいにさっぱりしていて、自分でも拍子ぬけた。そのままそばで眠りたい気もしたけれど、さすがにそれはできない。あたしはコハクからはなれて、となりのふとんにもぐりこんだ。湖に面した窓から、月の光が入ってくる。外ではかすかに水の流れる音がする。


 ん、いい夜だ。


 この夜がいつまでも明けなければよいのに。そう思った。でもそれはたぶん、はかない夢だ。夜は明ける。そしてまたむりやり明日がやってきて、むりやりにあたしをどこかに運ぶのだ。


 あしたの今頃、あたしはどこに運ばれているのだろう。そこにコハクは、まだ、いてくれるのだろうか。そうであればよいと思う。せめてそれくらいのささやかな望みくらいは、かなってもいいだろう。この何も信じられない殺伐とした戦の世にいても、せめてそれくらいは信じさせてほしい。そう思った。


 その夜の浅い眠りの中で、あたしは父に出会った。そこでは父はまだ生きていて、おうサクヤ、とあたしに笑いかけてきた。あたしも笑って父の大きな手をとった。どこか知らない夏の山道をふたりで歩いた。とても見晴らしのよい道で、つらなる山なみが遠くまで見わたせた。あの高い山は何という山ですかとあたしがきくと、父はなにも言わずににこにこしながらあたしの手をにぎった。どうだ、こえてゆけるかな、と父が山をゆびさして言った。ゆけますとも、とあたしは言った。そのあとも二人で長く歩いた。ふりかえると、父はいなくなっていた。せみがたくさん鳴いていた。山はどこまでも緑だった。


 目覚めるとあたしは泣いていた。ぜんぜん悲しい夢ではなかったのに、なぜだろうか。まだ夜明け前で、部屋の中は暗かった。ロン、ロン、ロン、どこかずっとずっと遠くで、またあの琴の音が鳴っていた。




コハク語り


 誰かが顔をたたく。最初は夢だと思ってほうっておいたのだが、いつまでたっても夢は終わらない。痛いぞ、誰だおれの顔をたたくのは?


 そう言って目をあけると、サクヤが笑っていた。おきたか? と言う。おきたぞ、とこたえた。今朝のサクヤは新しくてきれいな着物を着ていた。ベニジョにもらったのだろうか。外を見ると真っ白で何も見えなかった。なるほど、アサギリというやつか。キリはとても深く、遠くも近くも何も見えない。


 ベニジョはもうとっくに起きていて、別の部屋にごはんの皿をならべておれたちを待っていた。おれとサクヤは、あまり話もしないでもぐもぐごはんを食べた。カユのような米の料理がとてもうまかった。おれは六杯おかわりし、サクヤは八杯よりも多く食べた。しかしベニジョは、ほんの少ししか食べない。もう食べないのかとおれがきくと、朝はあまり食べない、もともとが小食なんだ、と言ってしずかに笑った。


 朝飯をたべ終えて少したったころ、家の外からベニジョが呼んだ。


 表に出ると、ベニジョは腕を組んで遠くの空を見ている。深いキリがじゃまで、おれには何も見えないのだが。


「何か来たね」


「何が来たのだ?」


「おそらくは、闇鴉(やみがらす)」


「カラス?」


「うん。ササクラの子飼いのカラスたち。はるばるコシノハラから来たんだね。まったくご苦労なことだ」


 そのとき、おれにも見えた。黒い大きな翼。


 二羽の大きなカラスがやってくる。すべるように霧の中をつっきって、しずかに島におりてくる。羽根の音はしない。とてもしずかに飛ぶ。


 ふわり。


 浜におりたつと、もうそれは鳥ではない。いきなり人になった。黒ずくめの服と頭巾で顔をかくした、二人の男。む、おもしろい。ニンゲンのふりをするカラスか。あれはもしかすると、おれたちヨウコと似た者なのか。


「われら、ササクラからの使者である」


「アケチの姫を迎えに参った」


 二人の男が言った。黒い布で顔をかくしているから、年かっこうはわからない。が、声からすると、わりと若いのではないか。


「まあいいんだけど、せめてこんにちはとか、はじめましてとか、それくらいは言ったら?」


 腕を組んだまま、ベニジョが言った。


「ここはぼくの島だ。ぼくが許したからここまで来れたけど、ぼくの機嫌が悪ければ、君らは落ちて水に沈んでいたかも、だよ?」


 二人の男は、ちらりと顔を見合わせた。


「これは失礼を、島の主」


「至急の折、礼が足りなかったことは詫びよう。すまぬ」


 ふたりは深々と頭を下げる。


「んー、あんまり好きじゃないなあ、そういう堅いセリフ。きみたちちょっと、時代劇の見すぎじゃない? まあいいや。とりあえず、サクヤ姫に用があるんだね?」


「なになに? 表で何のさわぎ?」


 そのときサクヤが玄関から出てきた。


「んん? 誰? 何、あのまっくろくろすけは?」


「われら、ササクラに使える者」


「我らが盟主の言葉を伝える」


「ササクラは、アケチの姫を歓迎する」


「すぐにもコシノハラにきたり、われらが軍に加わるがよし」


「ササクラは、ミノと戦う意志あり。準備が整い次第、南に兵をすすめる」


「アケチの名を継ぐ者、ともに手をたずさえ、ミノからオーミを解放しようぞ」


「以上である」


「同意するなら、すぐにも我らとともに、コシノハラへ」


 黒の男たちが、なにか、ムズカシイことを続けて言った。おれには半分も意味がわからない。何と言っているのだ? とサクヤにきいた。今からいっしょに来いって言ってる、ササクラのとこのヤツなんだってさ、あいつら、と言った。


「なるほど。ま、話はわかった」


 サクヤは頭をぽりぽりかきながら言う。


「しかしおまえたち、ほんとに信用できるのか? 見るからに怪しいけれど?」


「む、これは心外」


「われらは誇りある闇鴉。盟主ササクラの名にかけて、嘘は申さぬ」


「どうするのだサクヤ?」


 おれは小声でサクヤに言う。


「ササクラは、コシノハラのトノサマなのだろう? そこに行ければ、サクヤとしては良いのでは? もともと行くつもりだったのだろう?」


「だけど話がうますぎる。いまひとつ信用できない」


「では、あれは敵なのか?」


「どうだろう? でも、どうもあまり好きじゃないな――」


「返事を聞こう、サクヤ姫」


 黒の男が、一歩、前に出る。


「我らと来るか? 来ないのか?」


「来るなら、いま、我らとともに」


「行かないって言ったら?」


 サクヤがたずねた。


「ならば、来ていただくしか、ないかもしれぬ」


 男が少し、笑ったようだ。


「手荒な真似はするなと殿から言われてはいる。姫にケガをさせてはならぬ、と」


「しかし、そうでなければ、手段は問わぬと。そのような命ではあるが、」


 じりっ。


 二人の男が、間合いをつめる。


 おれはサクヤの前に立つ。そいつらがあと一歩でもこちらに来るなら、おれの方も容赦はしない。すぐにでもとびついて首をかみきる。おれは牙をむいて、ううう、とうなった。


「はいはいはいはい、そこまで~」


 ベニジョが、割って入った。


「コハクもやめな。この島で喧嘩とかは、このぼくが許さない。ほらほら、そっちのカラスも、もうそのへんにしておきな」


 ぱんぱんぱん、とベニジョが手を打った。それで少し、その場の空気がゆるんだ。


「どうするのサクヤ? 決めるのは、きみだ。行かないなら行かないとはっきり言えば良い。行くなら行くで、それもありだとは思うけど」


「あたしは――」


 サクヤは腕を組み、ななめ下の地面を見た。


「あたしは――」


 そのままサクヤは、しばらく黙った。誰も動かない。キリだけが、音もなく湖から浜へ、浜からまた湖へと、しずかに流れている。


 サクヤが顔をあげた。まっすぐに二人の男を見る。


「おまえたちの殿様に伝えて。そちらの好意は、しかと受けとった。感謝する。しかるにアケチサクヤは、ひとまずワカサに落ちる。そこに逗留し、時機をみて、いずれこちらからコシノハラに出向く意向。それまでそちらの好意をしばし保留し、とどめておいて欲しい。以上。いま言ったこと、全部そのまま伝えて。できる?」


「言葉は、うけたまわった」


 黒の男が、うなずいた。


「では今は来ないと。そういうわけだな?」


「とても愚かな決断だ。それは今、ここで言っておく」


「愚かかどうかは、あとあと、いろんな決着が着いてからわかることだ」


 サクヤは涼しく笑う。


「あたしからは以上。いまはこれ以上、おまえたちと話すことはない。ササクラカゲヨシという人に、よろしく言っておいて」


 黒の二人は、互いに顔を見合わせる。


 ばさり。


 黒の布が大きくひるがえる。


 と思ったら、次に見たとき、二人の男はもうそこにいない。


 バサッ、バサッ、


 かわいた羽音をたてて、二羽の大ガラスが、空にむかってのぼっていく。


 カラスの姿は、まもなくキリの向こうに消える。羽音も、もうここからは聞こえない。


「やれやれ。帰るときも挨拶なしか。まったく礼儀正しい人たちだ」


 ベニジョがそう言って、少し笑った。


「あれはやはり敵なのだろうか?」


「どうかな? 敵と言えばそうだし、味方と言えばそうかもしれない」


「だけどあれは、すごく感じが悪かった」


 カラスが去ったほうを見ながら、サクヤがつぶやく。


「あたしを歓迎すると言うよりは、アケチの名の者を利用したいだけでは? うーん、どうだろう? ササクラのもとに行くという案は、少し、考えなおす方が良いかもしれないな……」


「で、けっきょくふたりは、ワカサに行くんだよね?」


 ベニジョが、おれたちの方をふりむいた。


 そうだ、とサクヤが言った。


「なら、早めにここを出る方がいいかもしれないよ。この天気はあまり長くは続かない。たぶん今夜には、天気は崩れて雪になる。波が静かな昼間のうちに、できるだけ距離をかせぐ方がいいと思うよ」


「ふむ、」


「コハクなら、またあの『バタ足舟』でまっすぐ北にむかって半日。カイヅノ鼻とよばれる大きな岬が見えてきたら、それを左に見ながら岬の根元まで進む。まもなく湖の幅はぐっとせまくなって川みたいになる。そこをこえると、ヨゴノ池とよばれる大きな入り江につく。そこで舟を捨てる。そこからひとつ山をこえれば、そこはもうシオツ村。シオツの村からワカサの国境(くにざかい)までは、もう目と鼻の先。」


「しかし、どうやって北や南を知れば良いのだろうか? なにしろこのキリだ。正しい方向を見るのは、カンタンではないと思うのだが」 


「それは心配ない。昼までには霧は晴れる。秋から冬にかけて、ここはいつもそうなんだ。霧が晴れたら、ぼくの紅鷺に道先を案内させるよ」


「ベニサギ? それは誰なのだ?」


「会えばわかるよ。コハク、キミはそのあとを、ただついていくだけでいい。とても簡単」


 ベニジョの言ったとおり、日がのぼるにつれてキリは薄くなった。もう少しすれば完全に消えてなくなるかもしれない。


 家のそばの入り江に、舟がつないであった。昨夜おれたちがのってきた舟だ。夜のあいだに、紅女がここまで動かしたのだろうか。舟のへさきに、首の長い大きな赤い鳥が一匹、しずかにとまっていた。なるほど、たぶんあれが、あのヒトの言ったベニサギなのだろう。ふむ、あれが北へ案内してくれるわけか。それならとてもカンタンだ。紅女はほんとうにアタマが良い。


 なんども紅女に礼を言ってから、サクヤは舟にのった。おれはひざまで水につかり、舟のうしろを押した。おどろいたことに、舟はとても軽かった。昨日おしたときより、半分の力ですすむ。もしかしたら、ベニジョが舟に何かの仕掛けをしたのだろうか。そうかもしれない。あるいはそうではなくて、たくさん食べてマンプクになったおれの中から、昨日の倍の力が湧いてきたのだろうか。とにかくこれは、とても楽だ。湖の水は冷たいのだが、波は低く、この調子で行けばそのカイヅノ鼻という場所まですぐに着くのではないかと思った。


 湖のまんなかでふりむくと、ベニジョの島はもう見えなかった。空をみると、あの赤い鳥がぐるぐると舟の上をまわっている。おれがまたバタ足をはじめると、鳥はまわるのをやめて、一直線に、ひとつの方にむかって羽ばたいていく。おれはその姿を見失わないように、バタバタ、バタバタと、思いきり力を入れて水をうしろにけとばした。


 キリはもうすっかり消えていた。空の半分は晴れて、あとの半分はくもりだ。雲のむこうから日が出ると、水は白くまぶしく光る。日が雲にかくれると、水は光らなくなる。ときどき思い出したように粉雪がふり、すぐにまた止む。しばらくすると、また日がさす。湖はきれいに光り、風が吹くときらきら模様がさあっと広く流れてゆく。


 舟の上で、サクヤは楽しそうに口笛をふいている。なんの歌だとおれがきいたら、いま作った歌だとこたえた。とてもよい歌だなとおれが言うと、サクヤは笑って、おまえってばぜんぜん歌心ってものがないのな、こんなつまんない歌がいいんなら、いくらでもてきとうに作って吹いてやるよと言った。では、てきとうに作って吹いてくれとおれは言った。サクヤは笑ってまた口笛をふきはじめた。


 右も左も前もうしろも、ぜんぶが水だ。おれはまた空を見た。赤い鳥はずっとずっとまっすぐにとんでいる。おれはそのあとを追いかけて、ずっとずっとまっすぐに舟を押した。


 このままずっと、どこにもつかずに舟を押していられた楽しいのではないか。


 今は、そんな気持ちだ。これはとても変なのだが、たしかにそういう気分なのだ。おれたちはミノ軍とクロガネとイナリさまから逃げて、一刻でもはやくワカサに着かなければだめだ。そのはずなのだ。なのにおれは、どこにもつかないのが楽しいと思っている。


 よくわからないのだが、たぶん、おれはサクヤのそばにいるのがうれしいのだ。サクヤがそばにいれば、どこにむかうのも、どこにも着くのも着かないのも、そんなことは少しもカンケイないのだ。こんな気持ちになったのは、これがはじめてのことだ。とても変だったが、とても気分がよい。


 サクヤ。サクヤ。サクヤ。心の中で名前を呼んだ。呼ぶと、それだけで、なにかまた、とてもうれしい気持ちになった。たぶん、おれはサクヤのそばにいられれば、それがぜんぶ、おれのしあわせなのだ。きっとそうなのだ。だからおれはいま心から喜んで、サクヤが行くところ、どこまでもついていく。どこまでもまっすぐに、おれはサクヤと行きたい。

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