『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観て、「"物語"とは何か」について考えた

雪本つぐみ

さよ朝感想

以下ブログからの転載です

http://alright3.hatenablog.com/entry/2018/04/07/235754


タイトルにもある通り、アニメ映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観てきたので(二回)、感想をつらつらと書いていきたいと思います。


 まず最初に言っておかなくてはならないことが……




 この映画、本当に感動します。泣けます。というか、感動しました。泣きました。




 感動。涙。正直これ以上に安っぽい言葉が存在するでしょうか。本屋に行ってもレンタルショップに行っても、「感動の超大作」とか「このラスト、涙なしには見られない」とか「全米が泣いた(大嘘)」とか、目につくのは何ともまあ使い古されたフレーズばかり。作品に触れる前から「感動の~」とか「涙の~」とか言っちゃったら、感動できるものも感動できず、泣けるものも泣けなくなっちゃうのでは? とか、そのような作品が濫造されていたら、いつか飽きられて感動系のジャンルの衰退を招くだけなのでは? とか、思っていたわけです。


 


 でも、だからこそ、徒に感動や涙を謳う作品が巷に溢れているからこそ、『さよならの朝に約束の花をかざろう』はちゃんと感動する、感動できる作品だと声を大にして言いたい。


 話を戻します。


 ご多分に漏れず『さよならの朝に約束の花をかざろう』、通称『さよ朝』(長いので次からこの略称を用います)も、こう銘打たれていたわけです。


「『あの花』『ここさけ』の岡田磨里が贈る一大感動巨編!」 と。


 タイトルの傍らには「愛して、よかった。」というキャッチフレーズと恋人らしき一組の男女のイラスト。ああなるほど。恋愛の、感動系の、話ね。と粗筋も見ず早合点して(本当は恋愛ものではない)その感動とやらに対し「構えて」観に行ったんです。




 そんなわけで、今でこそ手放しで絶賛しているものの、観に行く前は正直言ってあまり期待していませんでした。理由は大きく二つあります。 




 一つ。僕は岡田磨里監督(本作が初監督らしい)の作品はこれ以前に『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』、通称『あの花』を観ていたんです。周りの人間もメディアも何もかもが、感動する泣けると口を揃えて言っていたので、それはもう期待に胸を膨らませて観たわけです……が、あまり感動しませんでした。




 何故か。本記事はあくまで『さよ朝』の記事なので詳しい粗筋は割愛しますが、『あの花』は、引きこもりの主人公が昔事故で死んでしまった女の子の幽霊と出逢ったのを切っ掛けに昔の仲間たちと再会し、段々と周りと心を通わせていく、みたいな内容なんですが(超適当です、ファンの人ごめんなさい)、僕としては人間関係が煩雑過ぎて話が散漫としているような印象を受けたんです。 


 試しに書いてみるなら、主人公を好きな女の子がいて、さらにその女の子を好きな男がいて、そのまたさらにその男を好きな女の子がいて、恋愛以外でも他に色々と揉めてて、主人公は昔死んだ女の子が好き、みたいな感じ。あと何かもう一人くらいいた気がするけど忘れた。


 最終話の感動シーンに辿り着く頃には色々と起こり過ぎて何が何だか解らなくなっていて、正直あまり感動できませんでした。




 岡田磨里さんのこれまでの作品を観てもあまり感動しなかったこと。これが一つ目。




 二つ目は、正直書くのが憚られるのだけれど、「感動系」の作品にかなりの苦手意識があったこと。感動と一口に言うのもあれですけど、割と””パターン””があるじゃないですか。代表的な要素としては学園、青春、恋愛、そして大切な人の死。青春や恋愛なんてキラキラワードとは無縁の灰色の学園生活を送ってきた身としては、感動も何もない。あるのは自分の人生に対する後悔、煩悶、そして登場人物への嫉妬と怨嗟。観ていて暗澹たる気持ちにさせられるというか、辛い。(確か一番最初のブログ記事でマイナスなことは書かないようにします、とか書いた気がするんですけどすみません)




 死に関しては、創作物の中で死を感動の誘発剤としての””道具””として使っているのが気に食わないというか、「善い話風にしてる感」が嫌なんだと思います。多分。(そのくせ人がバタバタ死ぬサスペンスとかミステリーが好きなのは何故なんでしょう? まあここでは感動系の作品内における”死”ということです)




 なんか自分で書いた文章を見返しても、コイツ捻くれてるなあ(笑)とか思うんですけど、感動系の作品にはどうしても抵抗意識があったというか、最近なら『君の〇〇』にしても『君の〇〇を〇〇〇〇』にしても、過大評価感が否めないというか、あまり好きにはなれなかったんです。




感動系の作品を今まで忌避してきたこと。これが二つ目。






 さて、漸く肝心の『さよ朝』の内容に踏み込んでいきたいと思います。適宜ストーリーに触れつつ、なぜ自分は本作で深く感動できたのかを分析していきたいと思います。ネタバレを多分に含んでしまうと思うので、未視聴の人は気を付けてください。(詳細なところまでのネタバレはなるべく避けますが、なぜ心を打たれたかを書く以上、ラストシーンを含み重要なところはネタバレ全開なのでご容赦を。ごめんなさい、ネタバレ無しで書けるだけの技量は僕にはありません)




 それでは。




 物語は、ヒビオルという布を織りながら暮らす民、イオルフの里から始まります。

十代後半で見た目の成長が止まり、数百年の時を生きるイオルフは"別れの一族"と呼ばれ、人里離れて暮らしていました。




 主人公のマキアは、同い年の友達のレイリアやクリムと穏やかな暮らしを送りながらも、二人と違い家族のいない自分を「ひとりぼっち」だとどこかで感じていました。



そんな彼女にイオルフの長老は語ります。ヒビオルには織った人の願いが込められている、だからここにいる限りお前は一人じゃない、と。そしてこうも言います。「外の世界で誰かと会ったとしても、決して愛してはいけない。愛すれば本当の一人になってしまうから」マキアは「出会ったのに一人になってしまうの?」と疑問に思いながらも、その言葉を心に刻みます。


 


 そしてその夜、イオルフの長寿の血を王室に取り込むため侵攻してきたメザーテ国により、穏やかな暮らしは唐突に終わりを告げます。混乱の中、一族と離れ離れになり森の中を一人彷徨うマキア。そして彼女は、盗賊により潰滅した集落で一人生き残った赤ん坊と出逢い、自分と同じ「ひとりぼっち」の彼を育てていくことに決めるのです。


 


 と、ここまでが物語のプロローグ。




 ここまでなら割と何処かにありそうな話ですよね。(失礼) ちょっと『おおかみこどもの雨と雪』に似てるかな、と観ながら思っていました。




 続き。




 マキアは赤ん坊をエリアルと名付け、小さな農場に身を寄せて暖かな日々を送ります。初めての家族、初めての外の世界、初めての”母親”。初めてだらけの日常に戸惑いながらも、彼女は段々とエリアルや農場家族との暮らしに慣れ親しんでいきます。




 一方、メザーテ王宮に囚われたレイリアは無理やりに王子の妃とさせられ、苦渋の日々を送っていました。かつて恋仲だったクリムは仲間たちと共に救出に向かいますが、王子の子を身籠っていたレイリアは自由を諦め、王室で暮らすことを選びます。




 ある日、マキアは農場で飼っていた老犬の死に立ち会い、「エリアルの方が自分より先に死んでしまう」という事実に気付いてしまいます。「皆は私よりずっと先に"その日"が来ちゃうんだって」彼女はそう言い、泣いてしまいます。そんな彼女に農場の子供、ラングは言います。「泣くな、うちの母ちゃんは泣かないぞ。きっと母ちゃんって言うのは泣かないもんなんだ」この出来事は、「母親は強い、だから泣かない」という母親の理想像をマキアの中に形作りました。




 エリアルとの暮らしに思い悩んだ時、マキアはエリアルの”母親”として約束をします。「母さんはもう泣かない」。エリアルも「大きくなったら母さんを守る」と互いに”約束”をするのです。本編中でも屈指の名シーンで、とても印象に残っていますね。タイトルにもある通り、この約束は物語上とても重要な意味合いを帯びてきます。




 ここで一つ、本作の大きな特徴を挙げたいと思います。


 それは「流れる時間の速さ」。『さよ朝』は作中での時間の経過が非常に速いです。パッと場面が切り替わったと思ったら五年、十年の月日もさっと過ぎ去ります。場面の転換も結構さらっとしていて、人の想いとは関係なく「時は流れ行くもの」ということを強く認識させられました。




 そしてマキアとエリアルの”母子”の関係も、時が経つにつれ次第に変化していきます。いくつになっても見た目が殆ど変化しないマキアと、大人へと成長していくエリアル。マキアはこれまでと変わらず"母親"としてエリアルと接していきますが、エリアルはいつまでも自分を"子ども"扱いするマキアに困惑を強めていきます。そしてエリアルはある夜マキアにこう言ってしまいます。「あなたのことを母親だとは思ってないから」、と。昔は実の母子のように仲の良かった二人の間にも亀裂が生じていきます。





 変化していくのはマキアとエリアルの関係だけではありません。レイリアは一人城で孤独な日々を送るうちに、次第に娘メドメルへの思慕を強めていくものの、会うことは叶わず苦悩します。クリムはレイリアを助け出すためマキアをも利用しようとし、次第に自分たちを引き離したメザーテ王国への復讐の念に駆られていきます。かつて栄華を誇っていた王国は主戦力の幻獣が死にゆく中で衰退の一途を辿っていきます。




 流れゆく月日と共に変化していく人間や国の模様が次々と描かれる中、マキアのエリアルに対する思いだけは変わりません。マキアはある夜、かつて農場で共に暮らしたラングから告白されるのですが、「無理だと思う」と断ります。




 それは、マキアが「何よりもエリアルの母親でありたい」と願っているから。「私は頭が良くないからエリアルのことしか考えられない。エリアルのことだけ考えていたい」、と告白に対して返し、彼女の母親としての覚悟にラングも納得します。




 多分、僕が『さよ朝』を観ていてこれは『あの花』とは”違う”と確信したのはこの場面からだと思います。あの花の主人公が、恋愛やらなにやらで揉めに揉めていたのに対し、『さよ朝』の主人公、マキアはあくまで「エリアルの母親であること」に徹します。


 余計な私情は挟まず、自分の成すべきこと、エリアルの母親という立場を貫くマキアの真摯な態度にとても心を打たれました。他にも、例えば物語冒頭でマキアはクリムを好いているような描写があるのですが、それを巡ってのレイリアとのいざこざとかは特に描かれません。


 そう、あくまで『さよ朝』は「母と子の関係」を主軸に物語を紡いでいるのです。




 物語に一本筋が通ることで、『あの花』で感じたような話の散漫さはなく、ストーリーにもマキアの主人公像にも最初から最後までの一貫性があるように感じました。




 しかしそんなマキアの一途な想いとは別に、エリアルは「どうしてあの人がこんなにも俺に優しくしてくれるのかわからない」、「今の俺ではあの人を傷つけるだけなんだ」と思い悩み、母親に対して辛く当たってしまう未熟な自分を恥じます。そうして王国の軍に所属するラングに入隊の口利きを頼み、エリアルはマキアの元から去ります。エリアルに”約束”を破られたように感じ、マキアは「母さんを守ってくれるって言ったのに」、と一人泣いてしまいます。マキアの母親としての揺るがない優しさがあるからこそ、ここでの「優しさが苦しい」というエリアルの気持ちとのすれ違いが切なく、二人の葛藤が痛いほど伝わってきました。




 また時が流れ、エリアルは城の兵士として生活し、家庭を持って父親になろうとしていました。一方マキアはクリムによりメザーテの敵国、バイエラへと幽閉されます。マキアはそのような暮らしの中でもエリアルとの日々を思い出し、エリアルが織ったヒビオルを大切に隠し持っていました。そんなマキアにクリムは「僕とレイリアとマキア、三人の過去が違っていては駄目なんだ」と告げ、イオルフから離れエリアルと共に幸せな生活を送っていたであろうマキアを強く非難します。そうして、バイエラは近隣国を束ねメザーテへと攻め込み、クリムはレイリアを連れ戻すべくマキアと共にメザーテへと向かいます。




 ここでもまた、悲しい「すれ違い」が起こっています。マキアのエリアルとの暮らしは、クリムが言うように安穏なものでは決してなかったように思います。エリアルを養うために懸命に働き、彼を(母親として)愛したにも関わらず、結局は彼とは離れ離れになってしまったのですから。






そしてかつてのように三人で暮らすことを願うあまり、メザーテへの報復を誓うクリムと、仲間の死を嘆きその救いを自らの娘メドメルへと求めたレイリアとの間にも、大きな断絶が起こっていたのでした。クリムは戦争の混乱の最中レイリアを連れ出そうとしますが、彼女は自分の娘に会いたいと懇願します。説得が不可能なことを悟ったクリムはレイリアと心中しようとしますが、兵士に撃たれてしまい、「どうして時は進むんだ」と言い残し息絶えます。


 


 このセリフに本編全体に流れる時間の「切なさ、儚さ」が正に凝縮されているように思います。「本作は時間の経過がとても速い」と先ほども述べた通り、時の流れが人々の暮らしや心情、交流を変えていくことで、どこか物悲しい雰囲気が本編全体に漂っているように感じられました。それは決してクリムの叶わなかった願いを際立たせるといった側面を持つだけでなく、マキアがエリアルに対し母親であり続けようと懸命だったように、あるいはレイリアが仲間を喪った孤独を娘への愛で埋めようとしたように、「変化する時の中でも“変わらずにいる”ことの強さ」や「変化する時の中で“変わる”ことの強さ」をも強調していると思いました。抗いようのない時の流れの中でも懸命に生きようとする、登場人物たちの生き様に魅せられます。




城の兵士として敵国の兵士たちと戦うエリアル。一方、クリムとはぐれたマキアはエリアルの子を身ごもっている女性、ディタと偶然に出会います。急に産気づいた彼女のお産の手伝いをして、マキアはかつてエリアルと出逢った時のことを思い出します。息絶えてもなお、我が子を守ろうとエリアルを強く抱きしめていた彼の本当の母親の強さを。マキアは「本当の母親の強さ」にはっとなります。この場面では、戦場で命がけで戦うエリアルの様子と出産に苦しむディタ、マキアの様子が交互に差しはさまれることで死の冷たさ、残酷さと生の温かさ、優しさが見事に対比され、臨場感が満ち溢れていました。スクリーンに目が釘付けでしたね。本当に面白かった。


 


 そうして戦争が終わったのち、マキアとエリアルは真の再会を果たします。


 かつてエリアルに自分の許を去られ、約束を破られたように感じていたマキアは彼に謝ります。「ごめんね、エリアルは約束守ってくれてたんだね」。城に幽閉され、孤独な暮らしを送っていても、「エリアルのことを考えていれば、私になれたの」。例え離れて会えなくなっていたとしても、あなたと過ごした日々のおかげで、一人じゃなかった、とマキアは優しく語ります。エリアルはかつてのように「もういいから」と優しさをはねのけようとしますが、「エリアルが私を呼んでくれるなら、それが母さんじゃなくてもいい」、「今の私を織りあげてくれたのはエリアルなんだよ」という彼女の言葉を聞き、涙します。そうして、自分が父親になったことを聞かされた彼は、「あなたが優しさ、強さ、必死さ、人を愛することの温かさを教えてくれた」と返します。マキアは笑って、今度は自分から彼の許を去ります。彼と一緒にいることで、彼自身の家庭の幸せを邪魔しないように。何よりもエリアルの幸せを願っているからこそ、彼女は去ります。そんなマキアに、エリアルは「行かないで、母さん」、と呼びかけます。


 



 もうこの辺りで涙腺が限界でしたね。本末転倒な話ですが、なぜ感動したか、どうして泣けたのかを説明し、人に伝えることは正直困難を極めるし、どれだけ微に入り細を穿ち言葉を尽くしても表現しきれるものではないと思います。




 それでも、拙い言葉でも表現させてもらうならば、




 「人と人との心の繋がり」、それは時間や場所が移り変わるにつれて、途切れたり薄れていったりしてしまいます。その中でも、ほんの“一瞬”でも「心が通じ合った」と感じる時があれば、きっとそれは“永遠”だと思うのです。そんな奇跡の“一瞬”を、エリアルの成長を離れて見守る、“永遠”とも言える時を生きるマキアが観るところに、この物語の切なさ、愛おしさ、優しさが詰まっていると感じました。


 




 そしてその後数十年が経ち、子供の頃マキアが怖れていた”その日”がやってきます。床に臥せるエリアルの最期に立ち会ったマキアは「泣かないよ、約束だからね」と言ってエリアルの家を去ります。最後の時まで「母親は強いから泣かない」という信念を貫くマキア。彼女は帰り道でエリアルの孫娘に花束を手渡され、彼女に笑いかけられます。そうしてエリアルと過ごした日々が一気に回想され、マキアは遂に”約束”を破って泣いてしまいます。




マキアにとって「別れ」は悲しいものだとされていました。それでも、エリアルと出会えたこと、エリアルの母親であれたことを感謝し、「さよなら」を告げるのです。




このラストシーンは「別れは悲しいだけではなく、新たな出会いとの始まりである」ことを教えてくれます。そうしてマキアは長老の「誰も愛してはいけない」というかつての忠告にこう返します。「私はエリアルを愛して良かったと思っています」、と。そうしてまた新たな「別れ」と出会うべく彼女は旅に出る、という所で物語は幕を閉じます。




 記事の冒頭辺りで「感動系作品は死を感動の道具みたく扱っているから気に食わない」、みたいな超暴論を吐きましたが(笑)、本作が感動したのは決してラストでエリアルの死が描かれたからではないと思っています。マキアとエリアル、二人の生き様、出会いと別れを長い時をかけて紡いだからこそ、ラストでの「別れ」にカタルシスがあるのだと感じました。だから、あくまで重要なのは彼の死よりも「生」なのです。マキアは最後にこうも言います。「私がエリアルを覚えている限り、エリアルのヒビオルは続いているから」。死を描くための話ではなく、その後ずっと続いていく人の営みを描くための物語だと感じました。




 今気づいたのですが、先ほど挙げた感動系作品の要素として足りないものがありました。それは「家族」です。家族というのは言ってみれば替えの利かない本当に唯一の存在です。エリアルとマキア、本当の家族ではないけれど「本当」になろうとした二人の人生にこそ、深く感動させられたのかもしれません。




 個人的な話をするなら、僕はあまり母親と仲が良くないので、その分より感動が深まったのかもしれません。作中でエリアルがマキアを「ねえ」とか「ちょっと」としか呼ばなくなる描写があるのですが、これなんか完全に当て嵌まるし、母親の話を「もういいから」と遮るのなんて、これ、完全に僕じゃん(笑)と思って観ていました。この映画を観てもう少しは母親と話をしてみようと感じましたね。




 最後に、タイトルにあるように“物語”というものについて少しだけ考えてみたいと思います。畢竟、物語に没入するということは現実からの逃避に過ぎないのかもしれません。それでも、物語に触れることで泣いたり笑ったり、時には絶望したり希望を見出したりすることで何らかのものが得られ、そしてそれらが現実で活きるのならば、物語に触れることには十二分に価値があると思うのです。


 


 実は最近色々と立て込んでいてストレスが貯まっていて、色々と思い悩んだりもしていたのですが、少なからず僕はこの作品に救われました。本当に観て良かったと思います。円盤は確実に購入する。




 それでは長文になりましたが(8400字くらいあるみたいです)、読んでくださった方ありがとうございました。『さよならの朝に約束の花をかざろう』、本当に良い作品でした。こういった素晴らしい作品に「出会え」るから、オタク趣味は辞められませんね。それではまた。




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