第5話 鞍の上の夢


 熹平四年、西暦一七五年の正月。


 中華の国は太古よりたいいんたいようれきを使っていた。従って、正月は立春と共にやって来る。

 例年ならば文字通り春を迎えるはずが、その年はいつになく寒さが厳しかった。

 りゆうげんとくりゆうりようとくぜんは、辻の日陰に名残雪を見ながら、州都の裏通りを歩いていた。


「ここが筆屋、あちらが墨屋。うん、写本請負などとは、さすがに老師のお膝元と言えような」


 徳然はやたらと辺りを見回している。あまりに「お上りさん」然とした彼の様子に、玄徳はため息を吐く。


「書写に勝る勉学は無しと聞く。それを他人に任すなど、きよくがくせいもよいところさ」


 こと学問に関しては又従弟よりは己の方が上だと確信していた徳然は、彼の理にかなった言葉に驚き、少々腹を立てた。


「お前は写本をしたことがないから、その大変さを知らんのだ」


と、言い捨てる。

 そして大人げないとは思いつつ、プイと横を向いた。

 その横目に、が映った。

 雪、と、一瞬思いもしたが、残雪ならば土埃を吸って茶に染まっている筈である。

 純白は静かに佇み、わずかに動いている。


 真っ白な馬だった。


 引き締まった筋肉の付いた、大柄な、美しい馬だ。

 飯屋の門扉にづなで縛り付けてある。

 馬主の姿は見えない。


「良い馬だなぁ」


 徳然は照れ隠しもあって、おおなくらいにきようたんしてみせた。


は無類の馬好きだ。馬の話をすれば、都合の悪いことを忘れてくれる』


 そう踏んだのだが、玄徳は一言も発してくれなかった。


 彼は、じっと見つめていた……馬ではなく、その背のくらを。

 徳然も、鞍に目を転じた。

 粗末な革の鞍は無数の傷に覆われていた。相当に使い込まれていることは、彼にもすぐに判った。


『ありきたりの安鞍に見えるが、何が面白いというのだろう?』


 首を傾げ、玄徳の顔をのぞき込んだ。

 彼は、鞍にぶら下がっていた金具に目を注いでいる。

 それは半円形をしており、鞍の両脇に一つずつ付けられている。大きさは四寸(漢代の一寸は、およそ二.三cmから二.四cm)程度である。


「何に使うのか……」


 ぼそ、と、玄徳がつぶやいた。


「車でもつなぐんだろう?」


 徳然が言うと、彼は首を横に振った。


「この馬は荷なんか引いたことがないさ。大体、力仕事をするヤツは、肩に肉が付いて関節が太くなるんだ。騎馬にして速く走らせると、こういう締まった肉が付く」


「じゃ、ただの飾りだ。彫金がしてあるし」


 確かに金具には素朴な模様が彫りつけられている。

 しかし、模様と同じくらいの密度で、小さな傷も負っている。

 それに、全体的に薄汚れていて、泥土にまみれている。

 玄徳は右の耳たぶを摘んだ。


 ほんの僅かの後、彼は微かにと笑った。

 白馬の背に手を掛け、ポンと大地を蹴った。

 大柄な体躯がひらりと舞ったかと思うと、彼は鞍の上に座っていた。

 膝を軽く曲げると、件の金具は足を掛けるに調度いい場所に付いている。

 彼は悠然と手綱をほどき、馬腹を蹴った。

 白馬は一声いななくと、十年の主人が操っているかのごとく、軽やかに駆け出した。


「叔郎! お前、ヒトサマの馬をっ!」


 又従兄の怒声など玄徳の耳に届かない。彼に聞こえるのは、ただ風の音ばかりだ。

 ふっと、右手を手綱から離す。

 金具を踏み締めていると、右腕が思う以上に自由に動かせる。


「よし」


 左手も離した。

 上体がぐらついたが、それは一瞬のことだった。

 馬の背を抱える腿に力を入れれば、体の揺れはぴたりと止まる。

 玄徳は確信した。


『やはり、これは足を掛ける器具だ』


 再び手綱を取ると、馬首を返した。


『それだけ解れば、充分』


で、あった。

 元いた場所に取って返すと、蒼白い顔で震えている徳然の横に、見知らぬ大柄な青年が立っているのが見えた。

 身の丈は八尺(約一八五cm)に近いだろう。派手なしよくきんの上着を無造作にっている。


 現在の四川省近辺をかつては蜀と呼んだ。

 太古よりようさん刺繍ししゅうが盛んで、蜀錦は最高級織物の代名詞でもあった。

 その煌びやかさが、嫌味に見えない。

 彼の、彫り深く鋭い目は、馬上の玄徳を見据えている。

 玄徳はにっこりと笑った。


タークー、良い鞍ですね」


 まるで昔から見知った、親しく尊敬する年上の知り合いにでも会ったかの様な口ぶりだった。

 青年は目を見開いた。口もぽかんと開けている。

 馬泥棒にいっかつ加えようと待ちかまえていたものを、当の盗人ぬすっとにこれほど堂々と振る舞われては、気勢も削がれようものである。


 彼は玄徳が元通りに馬を門扉につなぐさまを、呆れ、感心し、じっと見ていた。

 馬をつなぎ終えると、玄徳は彼に正対した。

 小柄な徳然はもとより、故郷近隣では一番の巨躯を誇っていた玄徳ですら、わずかに見上げねば彼の顔を見ることができなかった。


「お主、面白いことをぬかしたな?」


 彼は大きく通る声で言った。


「……馬を褒めずに、鞍を褒めた」


「思うたままを、思うた通りに言ったまで」


 玄徳は落ち着いた声で応えた。

 青年は四角い下顎の、ようやくく生えそろったばかりのやわらかいあごひげをなで、からからと笑った。


あぶみという。烏丸うがん鮮卑せんぴどもは、我ら漢族より劣るのに、度々我らに戦を吹っ掛け、しかも決して大敗をしない。その理由が、それだ」


 烏丸・鮮卑とは、北方の騎馬民族である。ほかの少数民族も一まとめにされて、「胡族こぞく」とも呼ばれる。

 普段は「万里の長城」よりも北で遊牧生活をしているが、時折「漢の領土」に侵入し、紛争する。

 戦の原因は領界争いが主だが、その奥には、漢族のきょうまんが棲み付いていた。

 家を建てず、畑を持たず、文字を使わぬ彼らを、漢族たちは蔑んでいる。彼らを「北狄ほくてき」……北の山犬……などと呼ぶのは、そのせいである。

 漢族は自身の『文化』を最高のものと信じており、それ以外を認めようとしない。

 騎馬民族達も自身に誇りを持っており、それを見下されるを快しとしない。

 意地のぶつかり合いで戦は起こり、意地の張り合いで争いは止まない。


 戦争は延々と、続く。


 青年は、玄徳の鼻先に己の顔を寄せた。


「使い勝手はどうであった?」


 彼は鐙を指している。

 小意地の悪い笑顔を、玄徳はじっと見据えて、答えた。


「これに足を掛けると、手綱から手を離しても、上体の安定を保てました。馬に戦車や御者などという厄介な荷物を引かせることなく長柄物や弓で戦うことができる分、早く、長く走ることができる。我ら漢族が彼らに勝てぬのも当然」


「勝てぬ、か?」


 青年は玄徳の胸を軽く小突いた。

 悪意のない仕草だ。

 玄徳は小さく頷いた。


「漢人は馬を力と考えています。だから戦の時も、馬に直接またがらず、車を引かせる。ところが胡の民は、馬をくつと見ているらしい。かような馬具を考え付くのは、馬上でも地を踏み締めんと望む為でしょう。……目に見えぬ力を操るのは容易ではありません。ですが、己の履く沓ならば、意識することなく操れる。……違いますか?」


「はははっ」


 青年は鷹揚おうように笑った。


 一頻ひとしきりり笑うと、青年は表情を引き締めた。


「貴公ら、廬老師せんせいの塾に入る予定だな?」


 徳然が怪訝けげん顔をした。


「はあ。よくお察しで」


「老師が言っておられた。近々オレに弟分が二人増えるとな」


 彼は、左の掌に右の手を添えた。きょうしゅという、一種の敬礼である。


遼西郡せんりょうぐん令支れいしの産にて、姓は公孫こうそん、名はさんあざなして伯珪はくけい


「れっ、令支の、公孫家っ」


 徳然は弾けるように玄徳にすがり付き、その背の後ろに半分隠れる様にして、大慌てで手をんだ。


しょっかく百人と噂される、あの公孫家の、ご令息であられる?」


「はははっ。話半分どころではない。話五分、いや、一分といったところと思うてくれ。さて……」


 公孫瓚伯珪は、焦り過ぎの徳然から、落ち着き過ぎな玄徳に視線を転じた。


、君の名を教えてくれまいか?」


 玄徳が出会うなり伯珪をとして敬ったのと同様に、伯珪もたった今出会ったばかりの玄徳をすっかりにしてしまった。

 玄徳は右の掌に左の拳を打ち付けた。


「涿郡涿県の生まれ。劉備、字は玄徳」


 沈黙があった。

 伯珪は暫し押し黙った後に、


「名付け親は……どういうつもりで賢弟の名を定めたものか」


 と、うなった。


「父は早くに身罷みまかりましたので、この名は己で付けたようなものです」


 事もなげな返答が、玄徳の口から発せられた。

 再度、伯珪の目が見開かれた。 

 その大穴を、玄徳のかすかな炎の宿る瞳が、見据えた。

 蒼く、柔らかい炎だった。

 奇妙な安堵を感じる。


「大しただな」


 己の口を吐いて出たのは、たんそくかんたんか。


『両方だ』


 伯珪は、微かに笑んだ。


「あ、あの……」


 徳然が、恐る恐る訊ねる。

「玄徳の名は、それほどに珍妙なものでしょうか? 私には、普通の、良い名に思えるのですが」


 伯珪は質問者ではなく、玄徳の目をじっと見据え、答えた。


「『玄』とは、世の全ての色を合わせた色のことだが、世の全てを統べる天をも意味する。そちらの意として、名の『備』と併せると、『天の徳を備える』となる。さらに、苗字の……帝室と同姓の『劉』を接げると……」


「『劉の天の徳を備える』……? 帝室の天……。……天子……の徳を備え……る!?」


 徳然は、又従弟を顧みた。

 彼は笑っていた。

 はにかみと寂しさと力強さが融合する、なんとも不思議な微笑を浮かべていた。


【終】

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桑の樹の枝の天蓋の内 神光寺かをり @syufutosousaku

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