茜空に夢を送る。

水二七 市松

茜空に夢を送る。

 もう何度目だろうか。

 手に汗握りながら、俺は携帯電話の画面を見つめていた。

 何度も何度もこんな瞬間を経験してきたが、笑っても泣いても、これが最後だ。

 だから、頼む。そう願いながら、俺は携帯を握り締めていた。


 ようやく鳴り響いた着信音の一音目を待たずして、俺は瞬時に通話ボタンを押す。

「佐川ですっ」

『あ、お世話になります。遊文社の渡部です』

「渡部さん、今回は……」

『佐川先生、今回の連載会議ですが……また見送りという事で……」

「……そ、そうですか……。ありがとうございました」

『佐川先生……、やはり考え直してくれませんか?』

「いえ、もう決めていたことですので……」

『そうですか……。しかしまた機会があれば連絡してください』

 俺は生返事をしてお礼だけ言うと、通話を切った。


 夢見る少年少女へ。俺の夢なんてもんは、こんなもんだった。

 散々金と時間と努力を費やしたところで、なりたいもんになれるわけじゃない。

 大金持ちになりたいとか、人気者になりたいとか、そんな大それたことなんて願っちゃいなかったのに、それでも俺の夢は二十六歳にして敗れた。

 もうここいらが潮時か、なんて。散々夢見て自分の首を絞めて、ふんどし締めてかかった夢に敗れた俺は、散々あれだけ嫌がったネクタイを締める羽目になった。

 二十六歳の俺は、サラリーマンになった。









 春。

 駅のホームには、学生やスーツ姿の就活生が混じって電車を待っている。

 出社の時間には少し早すぎるので、構内の喫煙室からそれを眺めていた。

 俺にもあの頃は、まだ人に語れる夢と熱い気持ちを持っていた。

 今では、社会の群衆に紛れてただ日常を消化するだけの一般人でしかない。

 自分のことを特別な人間だと思っていた、あの輝かしい日々達は、つらつらと過去に変わっていた。

(不満はないが、退屈な日常たちだ)

 そんなことを思いながら、深く煙を吸った。


 漫画家の夢をあきらめてからもう、二年が経つ。

 二十三歳から付き合っていた彼女ともその後、入社してからすぐ籍を入れた。

 ペンを放り投げ、破り捨てた物語を踏んづけて、その上にビシッと立ってネクタイを締めた俺を、両親も兄弟も、隣で支えてくれた彼女ですら、拍手をしながら称賛した。

 そんな中で、苦虫をかみつぶした気持ちだったのは多分、俺一人だけだったのだろう。

 まるでおかしな話だ。くそみたいな社会だ。


 こんな感じで、電車に揺られながら、結局現代社会の八割はやりたくもない仕事をこなしながら生きていくのだろう。

 そんな仕事に対して、仕方がないからやりがいを探している。

 夢を見ることは素晴らしいことだ、なんて言いながらも結局、大人になったら夢を見ることは悪いことになるのだ。

 大人になっても俺はそれに気づくのが多分遅かった。手遅れになる前だっただけましなんだろうが。



 定時まで仕事を終えると、精一杯の伸びをしてから退社の準備を始める。

「佐川、もう上がるのか」

「えぇ、明日外回りなんで、今日はこれで」

「そうか、おつかれ」

 中途採用で入った割には、この会社は特に残業を強要しない。

 月給は決して高くはないが、まぁそんな贅沢は言わない。

 これこそ、夢にうつつを抜かしていた俺へ、社会が設けた代償なんだろう。

 受けて立ってやる。


 会社を出ると、空は茜色に染まっていた。

 いやに綺麗な茜空だった。

 何かのインスピレーションが降って沸いて来そうなほどの。

「クソッタレめ」

 この期に及んで、何者かにまだなりたがっている自分に嫌気がさしながらも、ちょっとだけ俺は笑った。


 家に帰ると、嫁が飯の支度をして待っていた。どこにでもある光景で、どこにでもある当たり前の日常だ。

「おかえりなさい」

「あぁただいま。ちょっと用事があって出てくるが、すぐ戻ってくる」

「どうしたのよ、戻ってくるなり」

「大した用事じゃない」

 俺は家に帰るなり、自分の部屋の引き出しを開けると、その中身をもって急いで外に出た。

 後ろからは慌てた様子の嫁が後ろ髪を引いたが、とにかく気にしないことにした。


 夕焼けが沈んで夜になる前に、俺は河川敷にたどり着いた。

 これから沈んで夜になる夕陽を見上げながら俺は、右手に握り締めたそれに火をつける。

 空に昇っていく煙を見上げながら想い耽る。

 まだ何者かでありたいと願う気持ちがある内に、俺はこれを片付けておかなければいけなかった。

 俺の夢はもう、日が落ちかかっている。

 こんなくだらないものを、過去の栄光になんてしないように、俺は燃え上がっていく煙と灰を見送りながら、そっと煙草に火をつけた。


 夢を諦める人間に拍手をして喜ぶような、くそくだらねぇ世界で、今尚夢見るガキどもへ。

 お前たちの周りには、十代超えれば敵しかいない。

 足を引っ張る大人しかいない。心砕かれて退場していく仲間しかいない。

 少年漫画のようにはいかねえか、それでも手応えあるぜ。

 だから、頑張れ。


 そんなまだ見ない若者たちに向けて、誰にも聞こえないエールを送った。

 夕日は沈むが、夜を超えれば明日が来る、なんて比喩は俺はひとまず置いておくことにする。

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茜空に夢を送る。 水二七 市松 @mizunaichimatu

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