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有澤いつき

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 病院の屋上。築三十年を越える病棟はとっくにガタが来はじめていて、剥き出しのコンクリートにコケが生えている。それを削り取るだけの余裕もゆとりも、そして意味もない。屋上の隅っこのコケなんて、誰が躍起になって取るだろう。

 俺は気になる。足場が滑って危ないのだ。


 寂れた物悲しいここは、あまり人が来たがらない。ビル風が吹き込んで冷たいし、洗濯物を干すにも無情だ。全自動洗濯乾燥機とかいうオンボロ建屋にはそぐわないマシーンが購入されてから、ますます誰も来なくなった。物干し竿を引っ張り出して屋上で洗濯物を干す必要は、最早ない。


 だからここに来るやつは、大抵明確な目的を持ってやってくる。俺もそうだ。

 そして、先客もきっと。


「どうした少年、端っこに立つのは危ないぞ」


 フェンスもすっかり錆び付いて、簡単に乗り越えられることも知っていた。この少年もそうだろう。

 ああ、なんてことだ。薄っぺらい入院服を着た少年は、細い腕っぷしでフェンスの向こうによじ登ったらしい。


「先生?」


 少年は俺の姿を見るやいなや、焦ったようにそう問い返した。まさか大人が寂れた屋上に来るなんて予想外だったのだろう。俺もここに来る看護師や医師は見たことがない。

 しかし、焦って足を滑らせることがあってはならない。患者は多いからと、こっそり日課にしている屋上通いがこんな形で実を結ぶとは。医師としては結実してほしくないが。


「待て待て、お前を今すぐどうこうするつもりはない。看護師のお姉さんも呼ばない。とりあえず話をしないか。な?」

「先生、なんで、ここに」

「こっそりタバコを吸いに来るんだ。ここ禁煙だろ? バレたら院長先生に怒られるから、二人だけの内緒な」

「……へんなの」


 喫煙はしない。けれど白衣のポケットにこっそり忍ばせた、空っぽのマルボロが役に立つ。肺を患っている爺さんから没収したものだ。

 少年はまだ警戒の色を解いてはいないが、フェンスにかけた指先にわずかに力が込められた。まだ後ろを振り返って、その身をまっ逆さまにするつもりはないらしい。


「先生、タバコっておいしいの?」

「いや、不味いぞ。苦いしな」

「じゃあなんで吸うの」

「さあな。口が寂しくてな、つい咥えたくなるんだ。依存症、ってやつかもな」

「いぞんしょう?」

「それがないと死んじゃう! ってことさ」


 死、という言葉を選んだのはわざとだ。普段だったら看護師に怒鳴られている。患者さんに死を連想させる言葉を安易に言ってはなりませんと。普段の俺ならそれも大賛成だが、何せ今は状況が状況だ。

 カウンセリングの真似事じゃないが、少年の喉に張り付いているつっかえを出してやらなきゃならん。先に進むには必要な手順だ。俺の場合はそれがちょっと、そう、ちょっとだけ荒っぽいだけで。


「……タバコ吸ったら、おれも死ねる?」


 ほらきた。

 沈痛な面持ちの少年は余程追い詰められているようだ。ポケットから取り出した赤い箱を食い入るように見つめている。毒薬ならまだしも、たった一箱吸った程度ですぐ死ねるわけもなかろうに。

 フェンスを握る指先が白く変色する。


「少年は死にたいのか?」

「うん」


 死にたい、と少年は迷うことなく言い切った。嘘だ。指先に力がこもりすぎている。フェンスの向こう側に行く勇気がないから別の方法を探しているだけだ。

 裸足の指もきゅっと丸まっている。足がすくんで動けないのを誤魔化しているんだ。


「どうして?」

「おれの足、もうサッカーできなくなるって言われた」


 そんなことか、と言おうとする口を必死で押し止める。他人の大切なものを踏みにじるのは禁則行為だ。それがいかに命より安いガラクタでも、彼らにとっては大切な宝物なのだ。


「サッカーができないと死ぬのか? なんで」

「だって、おれ、サッカーしかできないから」

「サッカー以外にも楽しいことはいっぱいあるぞ。少年が知らないだけじゃないか?」

「おれはプロのサッカー選手になるって、約束したんだ!」


 叫ぶ少年。ビル風にさらわれて、言葉が虚しく消えていく。切実な彼の悲鳴はきっとどこにも届かず、風にのって霧散していくのだろう。夢のように。


「みんな、言ってたんだ。おれはプロのサッカー選手になれるって、それくらいの実力があるって。おれがプロになったら、母さんも楽させてあげられるし……」

「少年の家は貧乏なのか」


 明け透けな言い方も看護師から大顰蹙を買うのだが、あいにくと屋上にはいない。


「うん。りこん、したから」


 離婚という言葉の意味をよくわかってなさそうな発音だった。お父さんとお母さんが離ればなれになること、くらいにしか思っていないのかもしれない。でもお母さんと二人になって生活の質が落ちたことだけは感じていて、手っ取り早く金を稼ぎたい。概ねこんなところか。

 サッカーはきっと少年の輝かしい未来だったのだろう。親子の希望だったのだろう。しかし震える足を押さえつけて立つ少年はあまりに痩せ細っていた。サッカー選手なんて夢物語は大概にしなさいと言いたくなるほど恵まれていない体躯だった。


「少年、どうしてもサッカーしたいか」

「うん。でないとお金、かせげない」

「サッカーでお金を稼ぎたいのか?」

「だっておれ、ほかにできることないし」


 論破するのは容易だが、そんな手段は取りたくなかった。目の前の少年の笑顔を見たい。そしてこのフェンスをよじ登る姿を見たい。もう一度、希望を抱かせるのが医者の役目とは思わないが。何より柄じゃないんだが、ここにいるのは俺だけだ。


「じゃあ少年。サッカーを教える人になるのはどうだ?」

「教える人?」

「ああ。サッカーが上手いってことは、どうすれば勝てるかも教えられるんじゃないか? 大好きなサッカーも出来る」


 いいか。物事は捉えようなんだ。同じ面で物を見ようと思うな。見方を変えれば別の面が見えてくる。正面突破できないなら、回り込んでみればいいんだ――

 俺の言葉の後半を、きっと少年は理解していない。頭に疑問符を浮かべているのが俺にもよくわかった。でも、よくわからないけれど、俺が少年を励ましているのは伝わったらしい。ついでにサッカーができることも納得したらしい。

 俺が予想していたよりもあっさりと、少年は凍りついた心を溶かして見せた。


「……ありがと、先生。もうちょっと、考えてみる」


 チョロすぎかよ、と言ってやりたかったが口が裂けても言えない。今までの努力が水の泡だ。俺はつられる形で不格好な笑みを浮かべ、少年を安堵させる。


「そうか。じゃあ病室に戻ろうな。その腕じゃ上るのも大変だったろう。ちょっと待ってろ」


 少年に歩み寄る。フェンスを画してわずかな距離。細いとはいえ四十キロはありそうな体躯。安堵して俺に身を預ける少年。


 その背中を押した。


「――え」


 口がぽかんと開いて、溢れたのは意味のない音がひとつ。ゴム手袋を装着した手を振り払い、少年は徐々に加速して滑降していく。

 悲鳴。少年の悲鳴はますます甲高く変質する。だというのに俺には遠くなっていく。五階建ての病院の屋上からまっ逆さま。少年の行きたかった世界への片道切符だ。


「はぁ……」


 嘆息。ひとつだけ。

 落ちていった少年にはもう興味を失っていた。大切なのは次の来客。すっかり寂れてほとんど人の来なくなった病院の屋上。そこに来るのは大抵自殺志願者ばかりだ。

 そこで喫煙者のふりをする俺にたぶらかされて、変に希望を持ってしまう。そこから落ちていく瞬間が、最高だ。


 さあ。次は誰の背中を押そうか。

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