第37話 空が教えてくれた

 亜莉沙は昌之から自分の開く個展に誘われていた。

 個展と言っても、昌之だけの個展ではないらしく、昌之のようなプロの卵のようなカメラマンたちが、何人か共同で写真を展示するイベントを開催するということらしかった。

 昌之はアメリカで撮った写真をそこに出展することにした。身に来てもらいたいと亜莉沙に言った。


「もちろん行くわ。お客さんじゃなくて、スタッフとして手伝いに行きますよ。」

 昌之は亜莉沙の申し出を断らなかった。


 個展の開催日前日に行ってみると、その理由もよくわかった。すべての準備を自分たちでやる個展なので、とにかく人手が必要だったのだ。

 場所は東京都内にあるイベントスペースで、地下鉄の駅からほど近い。道を歩いている人も入って来てくれるかもしれないので、それなりに人出は期待できるかもしれなかったが、今回の個展の目的は一般客ではなく、招待したメディア関係者に自分たちを売り込むことが目的であった。


 亜莉沙はその日は朝から出向いて、肉体労働に精を出した。

 写真を飾るパーティションの設置すらまだ出来ていなかったので、肉体労働の作業量はかなりのものとなった。女性は亜莉沙以外は、昌之と同じくカメラマンだという女性ただ一人で、亜莉沙は男性と同じ重さの物を持ち、手を汚しても洗うことすら出来ない作業に追われた。

 やはりキャバクラや援助交際のほうが楽だと、内心思わずにはいられなかった。

 それでも夜の8時までには作業が終わり、会場を設営していた者たちは、「お疲れ。それじゃ明日。」と口々に言って帰っていった。

 会場には昌之と亜莉沙、それからもう1人のカメラマンが残っていた。

 そのもう1人は、大事な電話をしなければならないからと言って、どこかへ行ってしまった。


 残った亜莉沙に昌之は


「写真見てみるかい。アメリカで撮ったやつ。」


 と声をかけた。

 会場には、主催するカメラマンたちごとに写真のコーナーが割り当てられていて、昌之のスペースには10枚ほどの写真が飾られている。

 亜莉沙は昌之と並んで歩きながら、その写真を見ていた。


「これが墜落した時に撮っていた写真。」


「カメラは無事だったの。」


「いや、カメラは木端微塵だよ。中のメモリだけが助かったんだ。」


 墜落直前に投棄したカメラは、地面に激突して粉々になってしまっていた。

 後で土地の所有者が拾って昌之に届けてくれた。

 壊れたカメラを調べていると、部品のうち画像を保存しているメモリホルダーが壊れていないことがわかった。苦労してそれを外してメモリを再生すると、写真は問題無く再生できる事がわかった。


 そうしてここで写真を展示することが可能になったのである。


「きれい…。」


 亜莉沙は写真に見入った。


「自分の作品の中でも、これはかなりいい出来の写真だと思ってるんだ。空と雲の美しさを上手く捉えることが出来てる。」


 そのまま2人は黙って並んで写真を見ていてた。

 昌之は亜莉沙の方を向いて言った。


「これからも僕と一緒にいてくれるかい。」


 亜莉沙は「うん」とだけ答えた。


「こんな時、他の男はもっといい言い方が出来るのかもしれない。僕はストレートにこんな言い方しか出来ない。

 亜莉沙のほうが恋愛経験が豊富そうだし、世の中の男たちはもっと上手い言い方するんだろうな。」


「ごめんなさい。」


「何を謝る。」


 亜莉沙は自分が恋愛経験が豊富だと言われて、なぜか謝ってしまったのだ。


「あのホテルの時も、亜莉沙がリードしてくれなかったら、僕はどうしたらいいのか解らなかった。亜莉沙には助かってるよ。」


「私、告白したほうがいいのかな。これまでの恋愛経験とか。」


「亜莉沙が話したいのなら聞く。話したくないのなら聞かない。亜莉沙が話したく無い事は、僕も聞きたくないよ。」


 ジェントルマンなのね、昌之さんは。亜莉沙はただそう思う。

 そのまま2人は黙っていたが、昌之が口を開いた。


「僕の一家のことは、亜莉沙も聞いてるだろう。」


「何を?」


「つまり、僕は母が父と結婚した時には、すでに生まれていたってこと。」


「それは…」


 聞いてます、という言葉を亜莉沙は飲み込んだ。


「それ以上は、僕も言いたくない。だから亜莉沙も聞きたくないんだと信じている。」


「聞きたくないわ。」


 亜莉沙は打ち返すようにそう答えた。

 その時、昌之は亜莉沙と並んで立って話をしていたが、突然亜莉沙のほうを向いた。そのまま一瞬だけ亜莉沙を見つめて、乱暴に抱きしめてキスをした。

 そのまま昌之は亜莉沙の口の中に舌を入れてきた。

ほとんど本能のままにそうしている。亜莉沙にはそれがよく判った。こんな激しく感情的になっている昌之を、今まで知らなかった。


 しばらくそうしていたが、昌之は亜莉沙から顔だけ話してじっと見た。

 亜莉沙は「うふふ」と笑いを返して、昌之もそれに笑顔を見せた。

 亜莉沙の恋愛経験でも、これまでの男たちはもっとクールだった。

 男たちは欲望のままに亜莉沙を求めたが、そのどこかにためらいや羞恥心があったものだ。男たちは理性を完全に捨て切らなかった。完全に欲望のままに行動する男はいなかった。あの海部隆一郎でもそうだったのだ。


 それは亜莉沙のこれまでの「恋愛」が、実は全て援助交際だったからかもしれない。

亜莉沙と過去の男たちとの間に愛が無かったかといえば、違うと思っている。しかし全ての男たちとのセックスには、たとえば海部隆一郎であったとしても、その間には「金」が介在していたのも事実だったのだ。

 そのことが、男たちに最後の理性を捨てさせなかったのかもしれない。

だが、今の昌之はそうではなかった。理性を捨てていた。


 2人は抱き合ったまま、また昌之の写真に顔を向けた。

「うまく言えないけど…。


 世の中には知らなくてもいいことがある。言わなくてもいいこともある。知らなければ、言わなければ、それは存在しないも同じだって。

 何も無いことになるんだってね。」


 昌之は続けた。


「空の写真を撮りながら、そんな気持ちになった。

 空は何も言わないし、何も聞こうとしない。だから空を見ていると誰もが安心した気持ちになれる。」


 一瞬言葉を切った。


「空がそう教えてくれたんだ。」


 そう言ってから、昌之は照れ草そうに少し笑った。


「何言ってんだか。僕もおかしなこと言うようになったな。」


「でも、そうだと思う。」


 亜莉沙は自分を取り巻いている、いろいろなことを思い浮かべながら、そう答えた。

 昌之はあの海部隆一郎とちょっと似たところがある。哲学的というか、どこか悟ったようなことを言う。これからもそんな言葉を昌之からたくさん聞くことになるのだろう。


 2人は並んで空の写真を見ていた。

 写真の中の空は昌之の言う通り、何も言わず、何も問いかけたりしなかった。



                完

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空の写真とブリリアントガール くりはらまさき @kurihara-kurihara

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