第36話 そして海部隆一郎と

「そうですか。寂しいですがそれが亜莉沙さんのためなら仕方ありませんね。」


 海部隆一郎は、いつものような穏やかな表情で言った。

 亜莉沙は海部に別れを告げるのは、直接会ってからにしょうと思っていた。メールだけで別れたり、着信拒否にする相手ではない。海部は亜莉沙にとって、それほどの存在になっていたのだ。

 いつものように海部から会いたいとメールが来て、その週の終わりに亜莉沙は海部とラブホテルに入ることになったのである。

 海部は今ではラブホテルのなかでぐずぐずしたりしない。すぐに上着を脱ぎ、亜里沙のブラウスに手をかけた。


 その手を亜莉沙は止めたのだった。


「…ちょっと待って。その前に海部さん。お話したいことがあるんです。」


「何ですか。」


 海部はいつもと違う亜莉沙の様子に、亜莉沙が何か話をしたがっていることを察したようで、そのままベットの端に腰を下ろした。


「どう言ったらいいのか…。」


 亜莉沙はそう切り出した。そういう言葉しか思いつかなかった。

どうしたらいつも優しい海部を傷つけないで別れを切り出せるかと考えて、いい言葉を思いつかなかった。

 私は頭が悪い。

 亜莉沙はその時そう考えていた。


「もう、その彼氏さんの所へ行きたいのですか。」


 海部は頭が良かったようだ。亜莉沙の考えていることを察して、そう答えてくれたのだ。


「ごめんなさい。」


「どうして謝るんですか。謝るようなことではないですよ。」


 海部は笑顔を見せた。


「いつかこうなると思ってましたからね。とうとうその日が来てしまった。そういうことですよ。」


 海部は相変わらずの笑顔だった。


「湿っぽいのはやめましょう。

 私は僧侶です。別れはいつも見ています。死という別れをね。人は死ぬときでも悲しい別ればかりではない。笑顔に送られてあの世に旅立つ人もいる。

 だから笑顔になりましょう。」


 いつも解りにくい海部の話も、この言葉だけは亜莉沙の心に響いた。

 亜莉沙は「うん」とうなずいた。


「ありがとうございます。

 海部さんを傷つけるんじゃないかと、そう思ってましたから。」


 海部は首を振った。


「昌之さんが、…あっ、昌之さんっていうのが私の彼なんですが、死んだかもしれないって思ったとき、すごくショックで、それが生きて帰ってきた時、…どう言うのかな、私の中で何かが変わったんです。」


自分の考えをうまく言葉に言い表すことが出来ない。


「いえ、わかります。亜莉沙さんは大人になったのですよ。その昌之さんの今回の事を通じてね。」


 海部は亜莉沙の言いたいと思っていることを、言葉にしてくれた。


「もう昌之さんのところに行くべきですよ。

 人には行くべきところ、帰るべきところがある。そこに行く時がきたのですよ。」


 そう言いながら海部は言葉を詰まらせた。見ると海部は少し涙ぐんでいた。


「私、海部さんのこと愛してましたよ。」


 亜莉沙は自分でも驚いてしまうような言葉を口にした。

 海部は微笑んだ。


「それは嬉しいですね。私はもう70歳を超えてますよ。それで愛してると言われるのは、リップサービスでも嬉しいですね。」


「リップサービスじゃないです。」


 亜莉沙があわててそう言うと、海部はまた優しくうなずいた。


「まさに亜莉沙さんの言葉は、阿弥陀如来様の言葉ですね。70年の人生の中で聞いた、いちばん心が沸き立つ言葉の一つです。」


 海部は心底嬉しそうな顔をした。

 そしてそこで、少し言葉が途切れてしまった。


「じゃあ、今日はもう外に出ましょうか。」


 海部はそう言って立ち上がった。亜莉沙は慌ててそれを止めた。別れ話をしただけでホテルを出ることは、亜莉沙も考えていなかった。


 立ち上がった海部の手を取って、亜莉沙は自分の側に座らせた。その亜莉沙の意図を悟って海部は座りなおした。

 相変わらず亜莉沙は、自分は本当に頭が悪いと思っている。言葉で今の気持ちを上手く伝えられない。

昌之のところへ行く。これからは昌之と歩んで行くと決めた。しかし海部を嫌いになったわけではないのだ。むしろ感謝していた。それは愛ではないのかもしれない。しかし亜莉沙は海部が好きだった。

 この自分でもよくわからない海部への好意を、うまく言葉で伝えられなかった。

海部に亜莉沙はキスをしようとした。


 海部はそれを「ちょっと待ってください。」と止めて、いつものように入歯を外した。

 いつもは水を入れたコップにその入歯を入れるのだが、この日は海部はテーブルの上にそのまま入歯を置いた。

 その海部の唇を亜莉沙は吸った。70歳で歯の無い海部特有の感触が、亜莉沙の唇に伝わる。

 亜莉沙は次第に自分が興奮してくるのを感じていてた。


「ちょっと待って。」


 そう言って亜莉沙は海部から離れて、着ているものを脱ぎ始めた。

 言葉で上手く気持ちを伝えられないから、セックスで男性に心を伝える。だが、それが一番うまく相手の男性に心を伝えることが出来る手段なのだ。

 亜莉沙はいつもそう思う。


 亜莉沙は裸になり、海部もそれに応じて服を脱ぐ。

 二人は抱き合って、いつものように海部は亜莉沙の体を舐めまわしていた。乳首を吸われると亜莉沙は、あえぎ声を上げた。そうしながら海部のおちんちんを触ってみる。

 やはりこれもいつもの通りだが、海部のそれはまったくしだれたままだった。あれほど硬くなり元気いっぱいなのが昌之のおちんちんに比べて、海部の挿入できないほどしだれたそれも、もう触れないのかと思うと、少し寂しさを感じてしまう。


「仰向けになってください。」


「こうですか。」


 海部は亜莉沙に促されて仰向けになった。

 その海部の股間に顔を埋めて、亜莉沙は海部のおちんちんを吸った。

 頬ずりをしてから、舌でソフトクリームを舐める要領で舐めまわし、その後で口に含んでみる。


 実はこのテクニックはあの錦織玲子から教わったものだ。

 玲子はこのテクニックで、かなりの高齢の客のものを勃起させることが出来ると言っていた。中には70歳を超えている客も勃起させることが出来たと、自慢げに話していたものだ。

 海部のおちんちんを丁寧にしゃぶりながら、亜莉沙は海部への感謝の気持ちを伝えているつもりだった。


 海部は亜莉沙に祈ることを教えてくれた。

 神社や寺で手を合わせることは亜莉沙もこれまでもやっていたことだ。

 しかし、昌之のことがあってから、海部は亜莉沙のために祈ってくれた。さらに自分でも祈るように教えてくれた。

祈ったからどうなるものではない。それで昌之が助かったという訳でもなかった。ただ、亜莉沙の心に何かの力を与えてくれた。それは強靭な力で、間違いなく亜莉沙の魂を支えてくれたものだったのだ。


無心に海部のおちんちんを吸っている亜莉沙。海部のものは少し硬さが増していたが、勃起と呼べるほどにはならなかった。

それでも海部は気持ちがいいらしく、「うーん。うーん。」と快感のうめき声を上げていた。

海部が勃起しないので行為はそこまでだった。

2人はそれからシャワーを浴びて、ふたたび服を着た。


「あっと、お金をお渡ししないといけませんね。」


「いえ、今日はいいです。今日は私の純粋な気持ちです。」


 純粋という言葉を久しぶりに口にした気がした。

 あの白石舞美が、愛する男から金を受け取ろうとしない気持ちが、亜莉沙にも解る気がした。亜莉沙の倫理観はこれからも変わらないだろうが、舞美の「純愛」を少しは理解できるようになるのかもしれない。


 これも海部のお蔭かもしれないと、亜莉沙は思っていた。

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