「記憶」にちなんだ小説ということで、個人的な記憶からレビューを書き起こさせていただきます。それは、ある映画の冒頭で提示される、次の文章にまつわるものです。
「物語の舞台は、何らかの危機的な災害が起き、水・食糧不足に陥ったヨーロッパである。しかしこの物語において、どんな災害が起きたのかは語られることはない。描かれるのは、この世界における人々の姿であり、それ以外は重要ではないのだ」
このような言葉に、自分が大きくゆさぶられた経験を、書きながら思い起こしています。
「危機的な災害」において「人々の姿」が「描かれる」のは当然のこととしても、なぜ、「それ以外は重要ではない」のでしょうか? 私見では、「どんな災害が起きたのか」が「描かれる」だけでは、災害における「人々の姿」を捉えることはできないからです。事象にまつわる論理的・構造的分析は、事象の渦中にある「人々」に対して、むしろ根底的に無力なのではないか?
この小説を読んでいく際は、「どんなことが起きているのか」に気を取られすぎるべきではないと思います。「それ以外は重要ではない」とまでは言いませんが、重要なものは他にもあります。それはおそらく、「人々の姿」ならぬ「細部の姿」ではないでしょうか? つまり、置かれた描写そのものに気を配ること。置石としてのそれらにいちいち躓くこと。
「旧街道は、ほとんど整備の手が入らないため、土の道には、轍が深く刻まれ、そこに先日降った雨が溜まっていた。」(第十八話 追跡者)
「雨に濡れた草は重く、急ぐ足を滞らせた。」(第十九話 荒れ地の邂逅)
轍の雨水。濡れた草の重さ。おそらく作中でどのような有機的な役割も与えられていない静物たちが、主人公あるいは物語の行く手を、むしろ絶えず照らしているかのようです。
ひとつずつの物言わぬ石が、物語にある大きな事々(主人公の寡黙な心理、陰鬱な冒険譚、復讐劇の気配など)を鏡のように映し出す事態に驚嘆します。「どんなことが起きているか」ということ、総体としての物語が、説明ではなく描写という陰影に綴じ込まれています。伏線という言葉に閉じ込めることができない、根底的な「描写(細部)」と「物語(総体)」の黙契が、作品にこだましています。
タイトルにおける「音色の影」というのは、額面通りに受け取れば、きわめて抽象度の高い字句です(音にはないはずの色の、影)。だからこそ、作中に積もる描写と物語が導く結末の結節点として、最後に姿をあらわすのかもしれません。
はっきり言って、電気代その他だけでこれを読めるという事態は、半ば犯罪的な気がします。作者の方に心から感謝したいです。