コップの中の漣

吉岡梅

コップの中の漣

 2月前から、「同じタイトルで自由に話を書く」という形式の自主企画である「同題異話」へと参加させていただいている。沢山の作品に出合い、楽しい限りだ。主催者の夢月七海さんには本当に頭が下がる。この場を借りて、あらためてお礼を申し上げたい。


 さて、7月のお題である「コップの中の漣」。このタイトルを見て、ひとつの事件を思い出した。静岡にゆかりのある方であれば、「あれか」と思い当たる方もおられるかもしれない。10年ほど前に起きた、浜松市連続偽札事件だ。下手な作り話よりもこちらの方が面白いかと思い、今回は、かの事件の顛末をご紹介しようと思う。


 事件が起きたのは2008年の事だった。リーマンショックが世間を騒がせ、北島康介選手が北京オリンピックで2つの金メダルを獲得した頃、2人組の詐欺師がふらりと浜松へと現れた。


 彼らの手口はこうだ。まず、若い女性が店を訪れ、店主に水の販売を持ちかける。ペットボトルに詰められたそれは、富士山の雪解け水由来という触れ込みだった。


 ほとんどの店主は、うさんくさい話だと思いながら聞いていたが、女性が「この水には、毎日スタッフが良い言葉を話しかけています。そのため、結晶が鮮やかで体によい影響を与える水なんですよ」とスピリチュアルな説明を始めたあたりで態度を改める。どうやらあまり関わり合いたくない手合いのようだ。


 女性の容姿は見目麗しく、何かを盲信している者特有の底の無い真っ黒な瞳であったという。下手に刺激するよりも、黙って最後まで話を聞こうと相づちを打っていると、やがて、小さな紙コップを取り出し、そこに並々と水を注ぎ出す。


「今からこの水のパワーを証明します。この花びらをコップに浮かべると、水の力を得て、くるくると回転します」


 女性はそう言うと、1枚の花びらや、時には葉っぱを取り出し、コップの中へそっと浮かべる。すると、花びらは水面にわずかな漣を立て、くるくると回転を始める。驚く店主もいたようだが、何のことはない。花びらの1カ所に家庭用の食器洗い洗剤を塗りつけ、それにより生じる表面張力の差により回転運動をしているに過ぎない。理科の実験のようなお粗末なトリックだった。


 店主の反応に関わらず、このタイミングで、女性は手のひらからぽろりと洗剤を含ませたコットンを落とす。察しの悪い店主もそれを見ると、なんらかのトリックを使ったのだろうと気付く。女性は大慌てでそれを拾うと、恥じ入る素振りを見せ、突然こんなお願い厚かましいですよね、すみません等と言いながら、そそくさと片づけを始めるそうだ。店主達は、いや、まあ、等といいつつその様子を眺めていた者が大半だったが、中には、こんな商売辞めなさいよ、だの、誰にやらされてるか知らないけど逃げ出した方がいいんじゃないの、といったアドバイスをする者もいたそうだ。


 女性はなおもぺこぺこしながら片付けを済ますと、きまりが悪そうに店内の商品を適当に手に取り、新品の1万円札で支払いをする。お騒がせしたお詫びに商品を購入します、というわけだ。店主の中には、水の件うさんくささもあり、手渡された紙幣を疑ってかかる者もいたが、どうみても本物のようだったと言う。そして、釣り銭を貰うと、やはりぺこぺこしながら出て行くのだ。


 さて、この1万円札が偽札だったのかというと、実は違う。これは正真正銘の日本銀行券。つまりは偽札ではなく真札だ。注意しても見破れるはずもない。なにせ本物なのだ。


 ここで登場するのが、もう一人の詐欺師だ。厳つい中年男性といった風貌を持つ彼は、愛知県警の者だと名乗り、バッジ(もちろん偽造)をちらりと見せるとすぐに、実は名古屋方面で発生した偽札事件の犯人を追っていると切り出し、一人の女性の写真を見せる。そこに写っているのはもちろん、先ほどの黒目の女性だ。


 店主がその事を告げると、刑事は勢い込んで、1万円札で支払いをしなかったか、番号はxxxxxxなんだが、と尋ねる。レジから先ほどの新札を取り出して番号を確認すると、確かにその番号だ。刑事は捜査に必要であるからと入って偽札を受け取り、証拠物の借用書を書き、レシートの控えを受け取ると、嬉しそうに礼を告げて店を飛び出していくという。


 店主たちは、最初から怪しいと思ってたんだよなあ、などと、自身の先見の明をにやにやと反芻しながら待っているが、当然の事ながらその後の連絡はまったくない。詐欺師は、まんまと商品と釣り銭を手に入れ、餌の1万円も奪還して姿を消すというわけだ。


 この2人組の詐欺師は、浜松駅南口の砂山銀座、通称「サザンクロス商店街」の店舗を中心に、20件近くで詐欺を働いた。その後、お隣の豊橋市で同じような詐欺を行おうとしたところを現行犯逮捕された。皮肉なことに、逮捕したのは彼らが名乗っていた愛知県警所属の刑事だったという。


 まんまと騙された店主たちは口々に、怪しいとは思っていたんですけどね、最初の嘘を見破った事でなにか油断してしまったんですかね、などと言っていたそうだ。案外、人というのはそういう面があるのかもしれない。ひとつの嘘のトリックを知ってしまうと、その後の大きな嘘に気が付かないというような面が。


 皆様もくれぐれもご注意を。少しでも詐欺被害の注意喚起になれば、この真っ赤なホラ話も報われるというものなのだから。

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