ロロとサバンナの魔女

藤光

ロロとサバンナの魔女

 総合病院の救急救命室であの子が死んだと告げられたあの日――。


 交差点には雪が舞っていた。






 砕けて飛び散ったフロントガラス。

 止まって動かない自動車とねじ曲がった電柱。

 雲の切れ間からのぞく青い空と差し込む淡い光。

 冷たい風に舞う白い雪片と放り出された赤いランドセル。


 あの子のランドセルは何メートルも飛ばされていて、真新しいペンケースやかきかたえんぴつ、もらったばかりの教科書が路上に散らばっていた。


 その中にはあの子のお気に入りで、ずっと持ち歩いていた絵本も。



 絵本の名は――『ロロとサバンナの魔女』


 ◇


 サバンナの空と大地は広い。


 地平線の彼方にたなびく雲の向こうから、赤い太陽が顔をのぞかせた。どこまでも続く草原に木々や動物たちの影が長く伸びて、サバンナの一日は始まる。


 朝陽に照らされるとロロのたてがみが金色に輝く。群れのライオンたちの中でもひときわ大きな体、たくましい前脚。ゆっくりと立ち上がると、大地を確かめるように歩き始めた。


 朝、キリンの親子が仲良く朝食を済ませたところに、ロロがやってきて、自分のことを愛しているのかと訊いた。


「もちろんよ、ロロ。あなたはサバンナの王さまじゃないの」


 キリンは、不思議そうに長い首をひねった。


「おれが王でなくとも、そうなのか。ただのライオンだとしても、愛せるのか」


 ロロが重ねて訊くと、キリンは困った顔をして口をつぐんだ。ライオンは、子供のキリンを襲って食べてしまう、恐ろしい動物だから。

 ロロは、キリンの元を立ち去った。


 昼、ゾウの群れが川で水浴びをしているところに、ロロがやってきて、自分のことを愛しているのかと訊いた。


「もちろんだ。お前はサバンナの王ではないか」


 ゾウは、長い鼻を高く掲げて息巻いた。


「おれが王でなくとも。そうなのか。ただのライオンだとしても、愛せるのか」


 ロロが重ねて訊くと、ゾウは怪訝な顔をしていった。


「なぜそんなことを訊く。お前は現に王であり、我らは王を愛している。お前はロロであろう。我らが愛しているのは。ロロ、お前だ」


 ロロは、ゾウの元を立ち去った。


 夜、焚き火のそばでうたた寝をしている老いた魔女のところに、ロロがやってきて自分のことを愛しているのかと訊いた。


 魔女は、じっとロロを見つめてからいった。


「サバンナであんたを愛していないものはいないよ。なぜなら、あんたがサバンナの王なんだからね」


 炎に照らされた魔女の顔は、夜が肩の上で固まったかのように黒く、半ばふさがったまぶたの向こうから、目ばかりが炎を映してきらきらと光っていた。


「どいつもこいつも同じことをいう」


 ロロは、大きく口を開けてのどを鳴らした。暗闇の中、鋭い牙が炎の色に光ったが、魔女はそれを恐る風もなくちらっと横目に見ただけだった。


「愛されたいのかい、あんたは。このサバンナでもっとも偉大なライオンなのに」


 気の弱い動物ならそのひと声で気を失ってしまいそうな咆哮をあげ、ロロは、そうじゃないと吐き捨てるようにいった。


「王ではないただのロロとして愛されたいのだ」


 魔女は、小さな体を揺すり、乾いた木を打ち合わせるような声を出して笑った。そして、ひとしきり笑い続けたあとで静かにいった。


「空に太陽があるのを昼と呼び、月のあるのを夜と呼ぶ。空に太陽のあるのは、すでに夜ではない」

「どういうことだ」


 ロロは、たてがみを逆立てて、魔女ににじり寄り、牙をむく。でも、老いた小さな女は眉ひとつ動かすことなくこういって枯れ枝のような指をライオンに突きつけた。


「王でないロロは、すでにあんたではないということさ。それと――あんたが欲しがっているものはこれかい」


 すると、焚き火の炎がひときわ大きくなって、ロロと魔女の影が踊るように揺れた。見るうちに炎は、どんどん、どんどん大きくなってふたり包み、そのまぶしさにロロは目がくらんだ。


 見てごらんという魔女の声にうながされてロロが炎の中に目をこらすと、ひとりの男が浮かび上がるように現れた。サバンナでは見慣れない服装の男は、小さな黄色い旗を手に立っていた。


「遠い異国の男だよ」


 男は、下町の路地が大きな道路と交わる小さな交差点の脇に立っていた。通行人とあいさつを交わし、道路を渡ろうする者がやってくると、手にした小旗を掲げて、道路を行く自動車を止めている。


 なぜ男がそんなことをしているのかと、ロロが訊くと魔女は答えた。


「信号のないこの交差点で、男の娘が自動車にはねられて死んだ。それ以来、この道路を渡ろうとする者を自動車から守るために、毎日、男はここに立つことにしたのさ」


 小さな子供が交差点にやってくると、決まって男は腰を落とし、噛んで含めるように何か言って聞かせる。すると、どの子供も神妙な面持ちで聞いている。


「晴れた日があれば、雨の日もある。暑い日も、寒い日もあるが、男は毎日交差点に立ち続けた。何年も何年も」


 炎の中には、サバンナでは見ることができない雪が舞っていた。歩道や車道が、雪で白くなっても男は小旗を手に、交差点に立っていた。

 どうしてこんなことするのだと訊くロロの声が震えた。


「道を行く者の安全を守ることで、男は亡くした幼い娘と関わり続けているのさ。この交差点で関わる人たちの内に、自分の娘を感じているのだよ」


 炎の中の男は、今しも小さな傘を差した女の子の手をとって、雪で真っ白になった道路を渡るところだった。


「だから、こうしていることは、男にとって幸福なことなのさ」


 手を振って女の子を見送る男の表情は、穏やかで優しげだ。


「ロロ。愛とは『与えることそのもの』のことだ。それは欲しいといって、手に入れられるものではないのだよ」


 そのあとも、男は自動車も通行人も通らない真っ白な交差点に立ち続け、ロロも黙ってその光景を眺め続けた。

 

 どのくらいの時間が過ぎたのか、炎は小さくなって、異国の男も見えなくなってしまった。ロロと魔女は、元のとおり元の場所で、焚き火にあたっていた。


「どこへ行けばあの男に会えるんだ」


 長い間、黙って炎を見ていたロロは、喉につかえた塊を吐き出すように言った。炎に照らされてロロのたてがみが輝いた。


「もういないよ」


 魔女の表情は、陰に沈んで暗く分からなかった。


「体を壊していたんだ。長い間嘆願をあげていた信号機が交差点に設置された次の日、男は死んだよ。

 だから、自分が死ぬというその瞬間まで、男は幸せだったはずさ」


 それきりロロと魔女は一言も口をきかなかった。夜明け前、ロロはひとりうなだれて魔女の元を立ち去った。


 どこまでも高く果てしなく広がる紺碧の空と、地平線の彼方まで続く草原。金色に縁取られた雲の向こうから、赤い太陽がその光を大地に投げかける。――サバンナに朝がきた。


 ロロの姿は、まだない。

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ロロとサバンナの魔女 藤光 @gigan_280614

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