家族人形

三津凛

第1話

埃っぽい夏の午後のことだった。あれはまだ戦後の香りの残る頃だった。

わたしは付き合っていた彼女と、あるホテルのラウンジで遅めの昼食を取った。そこはビフテキが美味しいところで、わたしたちが席に通された頃は一番客足の激しい時を過ぎたとみえて少し寂しい騒めきが微かにしてるのみだった。

彼女はよく研いだ刃のように聡明な人だった。だが少し自意識の過剰なところがあって、席につくなり落ち着かなげに周りを見渡してこっそりと呟いた。

「私たちって、どんな風に見えてるのかしら」

わたしは思わず鼻で嗤った。彼女は少し心外そうな目つきをして、暇そうにしていた給仕に向かって手を挙げた。

「ビフテキふたつ」

彼女はわたしに聞くことも、メニューを開くこともせずに告げた。給仕はのっそり頷いて、水を置いた。

「どうって、どこにでもいるようなカップルだろう」

わたしが上目遣いに言うと、彼女はひと言「そうかしら」とだけ言って、もう興味のなさそうな横顔をした。視線の先には上品そうな老夫婦が白髪を輝かせて入ってくるところだった。

なんとなく、わたしも彼女もその老夫婦を眺めた。彼らは慣れた様子である席に座って、子どもほどの大きさの人形を取り出して空いたもう一つの席に座らせた。

そこでわたしと彼女は思わず顔を見合わせた。そこに割って入るように給仕の真っ白な袖が視界を切って、スープを置いた。

給仕は老夫婦に気がつくと、針金を飲んだように背筋を伸ばして彼らに寄っていく。わたしたちはスプーンを取ることも忘れて成り行きを見守った。

「じゃあ、いつものをもらおうかな。輝次もお腹が空いたようだから…」

老紳士の方が子どもの人形を振り返って言う。老婦人の方も頷いて、薄汚れた人形の口元をナプキンで丁寧に吹いた。給仕の顔は見えない。ただ張り詰めた背中だけがわたしたちの前に広がっていた。

オーダーを済ませると、老夫婦は穏やかに会話を始めた。わたしと彼女は知らず知らずのうちに聞き耳を立て、2人の間に置かれた不気味な人形を交互に眺めた。

おしゃべりな彼女は黙ってスープを啜った。わたしもそれにならって黙ってスープを飲んだ。

やがてメインのビフテキが運ばれて、隣の老夫婦の元にも3人分のスープとビフテキがやって来た。わたしと彼女は一体どうするのだろうとその異様なテーブルを見た。

「輝次、お腹すいたろう」

老婦人の方がスープを一口、一口人形の口元に運んでいく。人形の口元が汚れて、数滴スープが溢れる。

なんとなく、老婦人の方に合わせているのではないか。

わたしと彼女は同じことを思ったのか、少しの間視線を合わせた。給仕が水をわたしと老夫婦のテーブルに運んで来る。

誰も何も言わなかった。

わたしと彼女はいつもと変わらない速さでビフテキを食べて、席を立った。その後あの異様なテーブルがどうなったかは知らない。

まだ戦後のことだ。戦争中に息子を亡くしたのかもしれない。その悲劇を受け止めきれずに、母であった老婦人は狂ったのだろうか。

あの時、誰か1人でもその異様さを暴露していたならどうなっていただろう。

今はもうないあのホテルの更地を眺めるたびに、わたしは異様な昼食を思い出す。

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家族人形 三津凛 @mitsurin12

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