コップの中の漣

アルキメイトツカサ

コップの中の漣

 ヴィクトリア女王が統治する島国――イギリス。


 乳白色の霧に包まれた街――ロンドン。


 道脇に兵隊のように等間隔に立つガス灯は、白の世界を拒絶するかのように朧に輝いていた。幻想的でありながら、どこか死後の世界のような不安さも抱かせる光景である。


 そして、ロンドンのブルームズベリー区に酒場兼宿屋――イン〈アステリズム〉があった。かつての中流階級の邸宅を改装した豪奢なレンガ造りのインだ。若者たちがたった四人で経営し、そのサービス精神が評価されタイムズの記事で取り上げられたこともある。


 そのインに足繁く通う男が一人。

 ドアベルを豪快に鳴らしながら入店する。


「うらッ! 今日も来たでぇッ!」


 テーブルひしめくタップルームを裂くように、轟雷のような野太い声で青年が叫ぶ。

 中肉中背の体格に、坊主頭が特徴的な青年だ。黄ばんだフロックコートのボタンを外しながら、編み上げ靴で歩くと、テーブル席の他の客たちの視線をものともせずカウンター席にどっかりと座った。


「いらっしゃいませ、ミナカタ様。今日もご機嫌ですね」


 まだ十代という若き亭主が、にこりと口角を上げて常連客の名を呼ぶ。青年――ミナカタは歯を剥き出しにして笑った。


「おうよ、編集部から、次のネイチャーに小生の投稿が載るっつう連絡が来てな。今日はその祝い酒や」


 ミナカタ。彼は科学雑誌ネイチャー誌上で博覧強記を披露し、この〈アステリズム〉の亭主であるカイトにも影響を少なからず与えた東洋人である。日本の紀州で生まれたミナカタはロンドンに至り、住居を転々とした後、ケンジントン・ブライスフィールドストリート十五番地に定住を果たした。特に職はないものの、美術館や博物館を渡り歩いては、その超人的な記憶力と頭脳で書籍を写筆。そして、熱心に行っているのがネイチャーへの投稿だったのだ。

 ジョゼフ・ノーマン・ロッキャーが編集長を務める科学雑誌には学術論文と読者投稿欄が同時に存在し、高名な研究者もミナカタのような無名な学者「もどき」も同様に扱うという画期的な週刊誌である。一八九三年の夏に、他の読者の投稿の呼びかけに応じ、ミナカタは「極東の星座」なる論文を投稿。編集会議を経て採用が決まり、ネイチャーに掲載されたのは十月五日号のことだった。英語の論文を書くために、下宿先の大家からボロボロの辞書を借りた甲斐があったとミナカタは掲載を喜んだものだった。

 昼は博物館を巡るミナカタではあるが、では夜は何をするかというと、インやパブを巡って酒の海に飲まれるということだ。


「じゃじゃじゃー! 掲載おめでとうなのです、ミナカタ様!」


 ぱちぱちと拍手しながら喜ぶのは、この〈アステリズム〉の看板娘。五フィートの背丈で腰にまで届く濡鴉色の髪が示すように、彼女はイギリス人ではない。桃色の着物と、さらに羽織った赤色のチャンチャンコを見れば一目瞭然。彼女はミナカタと同じ日本の遠野出身の少女であり、名前はチョチョと言った。彼女は縁あって昨年からこの〈アステリズム〉の従業員となり、若き亭主カイトを支えているのである。


「おうっ、ザシキワラシ! 今日も別嬪やなあ!」

「じゃじゃじゃー。そんな言葉上手なミナカタ様には、サービスしないといけませんね、カイトさん!」


 ほんのり頬を染めるチョチョ。彼女はザシキワラシと呼ばれているように、この店に訪れた客たちを幸せにする象徴となっているのだ。その献身的なサービス精神は、彼女が遠野の宿で習得した経営術や接客術の賜物なのである。ギャルソンと間違えられることも多いが、彼女の役割はあくまで仲居だ。


「よし、ミナカタ様を盛大におもてなしするぞっ」


 ぐっと拳を握り締めて、若き亭主は営業スマイルを見せた。


「ほな、注文や。ローストチキンとヒラメのフライ。それに、ギネスビールをありったけ頼むでっ!」

「かしこまりましたっ!」


 にっと笑ってミナカタが注文すると、それを聞いてカイトは厨房へと駆け込み、この〈アステリズム〉唯一のコックへと注文を伝えた。

 料理が運ばれてくるよりも早く、カイトはコップへギネスビールを注ぐ。琥珀色が波打ち、独特のポップな香りが鼻腔を突くと、次に現れるのは実にクリーミーな雲のような泡立ち。「おう、これやこれや」とミナカタはアイルランド生まれの黒ビールを前にしてにやけた。


「ネイチャー掲載おめでとうございます、ミナカタ様」


 改まって、カイトが乾杯の音頭を取ると、ミナカタは電光石火の速さで豪快にギネスビールを呷った。


「かあ~っ。この口当たりとずっしりした麦の味がたまらんのうっ!」


 口からローストされた麦の香りを吐き出し、顔を赤くするミナカタ。ぐびぐびと飲み、あっという間にコップは空になった。二の間を置かずカイトはさらにコップへギネスビールを注いでいく。


「それにしても、雑誌への投稿なんてすごいですね。さらに、何度も掲載されるなんて!」

「おれなんか、手紙を書くことすら面倒ですからね」


 飲みっぷりを間近で見ながら、チョチョとカイトはミナカタを讃える。


「相当の覚悟や信念がないと、きっと投稿なんてできないと思うのです。ミナカタ様は、なぜ投稿を続けるのですか?」


 チョチョの質問を聞いたとたん、ミナカタはむっと不快を露に眉間に皺を刻む。


「下らんこと聞く仲居やなァ。小生の目からしたら、お前さんのやっとることと変わらんやろうに」


 つんつんっとチョチョの着物を突っつきながらにやけるミナカタ。


「これは日本の意地なんや。この世界の中心となっとるイギリスにも負けんくらいの科学が、日本にもあることを知らしめるためのな。ネイチャーは小生みたいなアマチュアも歓迎してくれるから、東洋の気を吐くには持ってこいや」

「おれも日本の凄さはよーくわかっていますから、応援しますよ」


 チョチョを一瞥するカイト。看板娘は切り揃えられた前髪を揺らして頷く。


「チョチョも、日本の心――おもてなしを広めるために、遠野の旅籠から飛び出してロンドンまで来たのです。ミナカタ様とチョチョは同志!」


 ぴくっとミナカタの耳が魚の引っ掛かった釣竿のように揺れた。


「おお。お前は遠野の出か。まさにザシキワラシやな。あそこもいろんな伝承があるからな。小生にも聞かせい。妖怪はもちろん出るやろ?」

「ええ。そりゃあもう。チョチョも妖怪の知り合いはたくさんいるのです……」

「…………」


 おどろおどろしい幽霊のようなポーズで、からかうような笑みを見せるチョチョ。カイトは何か言いたげで、呆れたような視線を送った。


「例えば……水の妖怪河童がいるのです。全身緑色で、頭には皿があり……尻子玉を抜くのですっ」


「さらには相撲が好きなのです」と少女という姿を忘れたかのように四股を踏むチョチョ。

 ミナカタはふっと鼻から息を抜いた。


「紀州にも河童はおるが、遠野の河童とはまた違う。ゴウライボーシなどと呼ばれ猿に似た姿をしておる。中には、頭には簪を付ける者もおるんや。それとな、一般的にはキュウリが好物だと言われておるが、キュウリを嫌う河童もおる。冬になると川から出て山に登り、カシャンボと言う名の別の妖怪に変化すると言われておる」


 ぐびぐびとビールを飲みながら、ミナカタはその知識を披露した。カイトは「へえ~」と感嘆の息を吐き、遠野出身の少女も「じゃじゃじゃー」と紀州の妖怪話の渦に飲まれる。


「うっし、話も弾んできたところでもっと酒や!」


 ローストチキンとヒラメのフライが運ばれてくると、さらにミナカタの酒は進んだ。料理を食べ終わったあともビールの注文は続き、ミナカタの顔はすっかり真っ赤となってしまう。


「ミナカタ様。さすがに飲み過ぎでは……」

「拝火教の開祖ツールスツツラーも牛の乳で作った酒を飲んで教理を考えとったんや……」


 胡乱な目つきで反論するミナカタだ。聖人も学者も酒という恵の水で育った大樹と信じてるのだ。


「カイトさん」


 妖怪談義に付き合っていたチョチョも、さすがに心配になって来たのか、カイトに何やら耳打ちする。


「なンや。酒のサービスでもしてくれるんか?」


 べろべろのまさに妖怪のような表情になったミナカタがカイトに尋ねた。若き亭主は頬を緩め、


「ええ。〈アステリズム〉のサービスで特製のビールをご用意しましょう」


 カイトが深くお辞儀すると同時に、チョチョは厨房へと向かっていく。そして、ほんの数十秒後。チョチョはビールの注がれたコップを盆に載せ、時計のような滑らかな動きでタップルームに再臨。


「スペシャルビール、お待ちしましたなのですっ」


 静かにカウンターにコップを置くチョチョ。ミナカタは目を剥いて驚愕した。


「なンやこれ。無色透明やないか。これがビールなんか?」

「ええ、クリアビールです」

「聞いたことないな」


 かなり酔っているからか、首を左右に振ってからビールを凝視する。


「サービスなのでお代はいりません。ささっ、飲んでみてください」


 カイトに促され、ミナカタはクリアビールを一口含んだ。


 瞬間。その穢れた体に清流が溢れ、とろんとしていた目つきは消え失せた。


「なんやこのビールは! 五臓六腑に涼しく染み渡り……ドロドロとした異物を全て洗い流してくれるような感覚! 最後に残るのは紀州の川のような穏やかな優しさ。うまい! クリアビール、うまいぞ!」


 コップの中で漣を立たせながら、クリアビールを呷り、ミナカタは一気に飲み干した。


「ふう、こんなうまいビールがこの店にあったなんてな。驚いたわ……」


 クリアビールを体の中に流し込み、すっとミナカタの体から熱が奪われ、酒好きの青年に冷静さが戻る。



「って水やないか!」



 ミナカタはばんっとカウンター席を叩く。チョチョは怯まずに、盆を胸にあてると桃色の唇を開いた。


「でも、おいしかったのは間違いではないのです」

「あン?」

「ネイチャーにエキゾチックな投稿を繰り返すミナカタ様。お酒に溺れるのも結構です。ですが、熱くなり過ぎると、体を壊していつかは燃え尽きてしまうのです。チョチョにはそれが心配でした。なので、冷静さを取り戻してもらうべく、一杯の水をサービスしたのです」

「ミナカタ様、あまりお金もないんでしょう。故郷からの仕送りもわずかな中、酒に集中するのは思わしくありません。どうか、ご自身のためにも、日本のためにも、お酒はほどほどに……」

「…………」


 ミナカタは瞼を閉じると、ふっと酒気を孕んだ息を吐く。


「まさか、小生の体にまで気を遣ってくれるとはな。ええ精神や。さすがはザシキワラシやな。今日はこの辺にしとくで」


 すっと席を立ち、ミナカタはカイトたちに背を向ける。


「おおきに。次に来たときは、またさっきのクリアビールを頼むで」


 そのまま振り返ることもなく、ミナカタはタップルームをしっかりとした足で歩き、ドアベルをからんと鳴らして夜の霧の街へとその身を溶かして行った。



 涼しい夜の空気を吸いながら、ミナカタは下宿先へ向かう。


「面白いインやったなァ。たった四人で切り盛りする〈アステリズム〉……。あのチョチョって看板娘から刺激も受けたし、次の論文にも集中するかァ」


 機嫌よく夜道を往くミナカタ。ビールをたらふく飲んだにも関わらず吐き気はまったくなく実に清々しい。


 一八九四年の冬のことであった。この後もミナカタはネイチャーに投稿を繰り返し、六年後に帰国するまでにその掲載数は五十を超えた。その記録は百年が経っても塗り替えられておらず、彼の研究と投稿に対する熱意を後世にまで伝えている。


「しかし、亭主に仲居に、コックに……あと一人の店員は誰なんやろなァ……」


 ふと疑問に思ったミナカタが空を見上げた。

 霧濃いロンドンの空で、月が淡く輝き、一人の青年を照らしている。




 客がいなくなり、静かになった〈アステリズム〉のタップルームでカイトたちは清掃作業に励んでいた。


「カイトさん」


 チョチョが呼びかける。カイトは彼女が何を言いたいのかすぐに察することができた。ブラシを体の支えにして、カイトは大きく嘆息する。


「ああ。あの空気で言い辛くなっていたが……堂々とした食い逃げだった……」

「ですが、きっとミナカタ様はビッグになって、今日のツケを払ってくれるのです」

「だといいけどな」


「いいえ、あの人はずっとお金に困ることになるわ!」


 二人の会話に割り込むぴしりとした声。見れば、厨房の入り口で腕を組んで立っている赤髪の少女の姿があった。


「シャーロット」


 カイトが従業員の名を呼ぶ。彼女こそ、この〈アステリズム〉唯一のコック、シャーロットであった。カイトの幼馴染でもあり、ドイルの小説をこよなく愛する彼女は自称探偵。優れた洞察力で客の癖を見抜いては、客の性質に合った料理のサービスを施すおもてなしをしており、初恋のように忘れられない味を与えるのが得意だ。


「その根拠は何なのです、シャーロットさん」

「体をひっくり返してもビスケットの欠片すら落ちそうにないあの姿。あたしにそっくりなのよ!」


 有体に言ってシャーロットは貧乏だった。ドイルの小説も買えず鉄道文庫で立ち読みしているくらいであり、探偵稼業を立ち上げようとして失敗したので仕方なくカイトに雇ってもらっているのである。


「探偵を目指していたくせにフィーリングで解決させやがった」 

「それだけミナカタ様のオーラは、シャーロットさんに通じるところがあったのかもしれないのです」

「はあ、今日の分の売り上げも激減だし、これからどうするのよ、カイト」

「……ならいっそ、クリアビールをメニューに加えるか?」


 カイトが厨房の奥へと目を向ける。その先にあるのは洗い場スカラリーだ。深いシンクの上には皿棚。洗い場の中央にはボイラーがあり、壁際の棚には真っ白なシーツやカーテンが重ねられて置かれているインの心臓部と呼べる場所だ。

 そしてカイトは、洗い場の担当――スカラリーメイドの名を呼んだ。


「なあ、


「くっくっく、我を呼んだか、カイト亭主!」


 現れたのは、四・五フィートほどの小柄な背丈の少女。絹とレースをあしらったグレーのドレスに、ピナフォアを着用した姿はまさにメイドで、くしゃくしゃにもつれたプラチナブロンドの髪が腰まで届き、その天外めいた姿は人形が巨大化したと言ったほうが適切だ。

 彼女の名はセィル・ケネディ。この〈アステリズム〉四人目の従業員である。セィルの手には空になったコップが四個載せられた盆。セィルは赤い瞳を光らせ、コップに向けて、意識を集中させる。


「では、我の力をご照覧あれ! うおおっ! 大女神モリガンよ、妖精の丘よりこのセィル・ケネディに清らかなる流れを与えたまえ。たゆたい、きらめけ、全てを呑み込め! アウエイキング・ウェイブ!」


 そんな妙に気取った台詞を吐くと――セィルの手から蛇口を軽くひねったかのように水が生まれ、コップを満たしていく。


「いつも見ても水道代が節約できてありがたいとしか思えない」とカイト。

 まるで奇術師J・M・ボーソンのような奇跡を起こしたこの少女は、人間ではない。

 アイルランドの魔女ウィッチセアラ・ケネディに育てられた妖精――バンシーなのだった。

 スカラリーメイド募集の際に『洗い場担当募集! 人種、宗教問いません、誰でも歓迎!』と店先にポスターを貼ったところ現れたのがこのセィル。水を生み出す力は浅瀬の洗濯女の異名を持つバンシーの特技なのである。

 コップの中の漣を見つめてから、チョチョは感心する。


「じゃじゃじゃー。皿洗いもこなし、水も出せるセィルさんは、まさに河童なのです」

「カッパがどんな妖精なのかは我も知らんが、きっと我に似て高貴な存在に違いないのだ! ああ、そうだといいなぁ……ね、チョチョ。たぶんそうだよね? ねっ? なんで笑ってるだけで答えないの……? 教えてよぅ……」


 とバンシーが猫のようにじゃれ合うのを見つめて、カイトはクリアビールを飲んだ。水道が汚いと言われるロンドンでは味わうことのできない、最上級の水の味は彼女を生んだアイルランドの自然を連想させる。

 

 ロンドンのブルームズベリー区に位置するイン〈アステリズム〉。

 小さな店では数々の騒動が起き、大きな奇跡がいくつも生み出され――

 そこでは「愛すべき客達」が幸せな心地に包まれ――

 絆が星座のように紡がれるのだが――


 それはまた別の話――




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コップの中の漣 アルキメイトツカサ @misakishizuno

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